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「ただいま」 団地の狭い一部屋に、疲れた声が虚しく響いた。真澄は後ろ手にドアを閉めると溜息をついて、汗に濡れた運動靴を脱いだ。 床にはビールの空き缶やタバコの吸い殻、どこから来たかわからないゴミが落ちている。副流煙と腐った果物が入り混じったような匂いに真澄は顔を顰めた。毎日嗅いでいても吐き気を催す。どれだけ嗅いでも慣れることはないだろう。そんな匂いだ。 シンクに溜まった、いつ使われたのかも分からない汚れた食器たちを横目に、ゴミを避けながら自分の部屋へと向かう。すっかり傾いた太陽が発する血のように赤い西日は、タールで茶色く汚れた壁を不気味に染め上げていた。 真澄は手垢のついたパンフレットが散乱した机の上に、千円札が置かれているのを認めた。 今日も母ちゃんは帰ってこんのじゃろう。……いつもんことや。最近は不景気で売り上げも相当おっちゃけとーそうやけん、当たり前や。真澄はそんなことを思いながら、千円札を乱暴にポケットに詰めると机を離れた。 部屋に入ると素早く扉を閉め、鞄から取り出した消臭剤を部屋の隅々まで丹念に吹きかけた。その作業が終わると、深呼吸をして確かめるように部屋を見渡した。 薄かピンクんベッドに、カーペット。本棚に学習机、クローゼットに白んカーテン。統一感があって、整理されとって、清潔で、そして何よりよか匂いや。うちだけんピンクん世界。うちは、こん中でだけ生ききる。 満足した真澄は、自分のセーラー服の匂いを嗅いだ。夏の学校生活を一日耐えきった身体は、盲目な情熱のような不快な香りがした。眉間に皺を寄せた真澄はクローゼットからいい匂いのする服を取り出し風呂道具を用意すると、息を止めて部屋の扉を開け、素早く外へと駆け出た。 鍵を閉め振り向くと、生気を感じさせない団地がめいっぱいの茜色に染められていた。真澄はその茜色に、逆にじっと見つめられているような気がして、走って銭湯へ向かった。 チケットを購入して番台に渡し脱衣所で服を脱いだ。同い年くらいの少女の四人組が低いロッカーを挟んだ向こう側で楽しそうに喋りながら服を脱いでいるのが見え、真澄は咄嗟に顔を背けた。クラスメイトだ。秋山さん山川さん蓮見さん熊野さん。いつも教室の中心で騒いでる、キラキラした女子たち。……真澄には縁のない、苦手なタイプだ。 見つかったら嫌ばい。 真澄はバスタオルの影に隠れて、彼女たちが浴場に入っていくのを待った。それから暫くの間時間を潰して、彼女たちがもう体を洗い終えて、湯船に浸かっているだろう頃合いを見計らうと、真澄はやっと浴場へ向かった。 ガラガラと重いガラス戸を開けると、青く大きい富士山が目に入った。賑やかな声がそこかしこから聞こえた。見えるところに彼女らは居ない。賑やかな熱気が裸の全身を覆い、真澄は少し安心した。広か銭湯や。入り口で見つからんばもう大丈夫じゃろう。 真澄は隅っこの方のシャワーに座って、時間をかけて体を洗った。真澄は特に、髪を洗うのに時間を割いた。胸にかかるくらいの長さの、艶々として健康的な美しい黒髪だ。真澄はそれを、一束ずつ、シャンプーが染み込むように丁寧に洗った。真澄は髪を、確かな心の拠り所の一つとしていた。 真澄には、シャンプーを流すために目を閉じている時に、必ず思い出す記憶がある。母の記憶だ。今よりずっと若くて、好景気で、優しかった母……。 幼い私をお風呂に入れる度に、母は言った。 「真澄は髪がきれかね。淑やかーで伸びやかーで、うちのと交換したかくらいやわ」 そう言う鏡越しのまだ若い母の笑顔に、真澄はいつも誇らしい気分になった。その声を聴きながら、真澄は今日も髪を濯いだ。 誰もいない湯船に、真澄はゆっくりと腰を下ろした。熱いお湯に肩まで浸かると、体温が上昇していくのを感じる。真澄は身体中をめぐる血液が加速し、胸にぽっかり空いた穴を埋めてくれるような気がした。部屋にいる時を除いて真澄が安心できるのは、湯船にいるこの瞬間だけだった。 周りば見渡してんあん四人組はおらんじゃったけん、夢中で体ば洗うとーうちにもう上がってしもうたんじゃろう……。 真澄は耳まで湯船に沈むと、ぶくぶくと空気を吹き出した。たくさんの水泡が目の前で生まれ、弾けた。すぐに飽きた真澄は、やはり隅に行き、ひたすらじっと体を温めた。 見上げた天井は防水の白いペンキが塗られ、少し空いた天窓から、すっかり日の落ちた外が見えた。そうするうちに真澄は、雲にか透けてかろうじてといった具合の月を見つけた。静かな銭湯で一人、真澄はため息を吐いた。 ふと自分の胸に手をやった。水に浮いた乳房は揺れ動き、水面に波紋を作り出す。 真澄は先程見た四人組の胸を思い出した。彼女たちの控えめなラインの膨らみと、目の前に鎮座する二双の隆起とを比べて、真澄は静かな優越感を覚えた。実際、真澄の胸元は同い年の間では頗る大きい方だった。 乳房を手で包み込み、優しく揉んだ。 確かに柔らこうて気持ちよか。それに、自分の器官なはずなんに、どっか妖艶や。こん妖艶さはふとかればふとかほど増すじゃろう。ばってん……。 真澄は近頃の母の様子を思い出して、重たい気持ちになった。 ……ばってん、あがんふうになるんはおかしか。どうやったら元に戻ってくるるとかなあ……。 真澄に父は居ない。物心ついた時には母と二人暮らしで、母は父の話を一切することはなかった。 シングルマザーの生活は苦しく、母は昼も夜も働き詰めになり、必然的に真澄は鍵っ子になった。給食費が払えないこともざらにあった。上履きやランドセルも、中古のものを使った。もちろん部活など簡単には入れないし、友達と遊ぶこともできなかった。だから真澄はクラスで孤立した。いじめられるというわけではない、というか、皆優しく接してくれる。だがそこにそれ以上がないのだ。そういう人種のことを「あまりもん」と真澄は呼んでいる。「あまりもん」は「あまりもん」としか一緒に居られない。それも他のみんなが一緒にいるのとは訳が違う。味噌汁を飲み終えた時に底に残るちょびっとの中にいるような感じだ。そうして真澄は、ずっと「あまりもん」として生きていた。しかし、改善しない生活のままでも、二人は楽しく生活していた。母には可愛い盛りの娘がいて、娘には若くて美しい母がいたからだ。 その幸せな生活の歯車が狂ったのは、真澄が中学校に上がった頃からだ。すでに三十五を超えていた母の肌は、急激に張りを失った。髪の潤いは消えた。化粧が濃くなり、粉っぽくなった。仕事が減ったからか夜に家にいることが多くなり、家で飲むようになった。真澄が母の職業を察するようになったのもその頃だ。男の人が何人も家に来た。 母が歪んだ最初は、広告だった。豊胸手術の怪しげな広告が部屋のポストに入っていた。真澄が水道の請求書と一緒に部屋に持ち帰ってそれを机に置いたとき、母はあまり関心を示さなかったのを今でも覚えている。一週間経ち、真澄がその広告を忘れたくらいに、一つのパンフレットが机に置かれた。豊胸手術についての、近くの医院のものだ。それからお札だけ置いて夜の仕事に出かける回数が少しずつ増えていった。パンフレットは着実に増え、それとともにゴミも増えていった。最初は片付けていた真澄も、ペースが間に合わなくなると諦めた。母の様子もみるみる変わっていった。真澄は母とほとんど顔を合わせなくなった。週に三日会えたら多い方といった感じだ。その上会う時は決まって酔っていて、躁状態で興奮しているか、でなければ鬱状態で、喋りかけても応答さえしないかの二択だった。躁状態の時は決まって豊胸手術の話ばかりした。「豊胸手術は五十万から、高かところでは百万くらいするとばってん、やっぱり高かところは違うんばい。うちも高か方がよかねぇ。安全なんやあ。安全やし形もよかし長持ちもする。……そうなんよずっとふとかままではおらられんとよ。……ばってんたっかれば長持ちするし、うちもそうするわ。体へん負担も少なかし……麻酔もしっかりしとーけん痛うもなかし。……そうそう豊胸手術って言うてんね何個も種類があるんばい。ほらここ、こん福岡んT医院やったのこん方法やったら入院までせんでもそん日で帰るる……ヒアルロン酸ってんば入るるんよ、ほら注射みたいやけんね、チューって。ばってん長持ちせんけん、うちゃこれで行こうと思うと、そうそう、シリコンバッグ……自然に仕上がるし。こん大阪んS美容外科に、K先生っていう先生がおってね、ハンサムで腕も良うてすっごか評判がよかと……。ここでやろうか迷うとう……」ずっとこんな具合だ。真澄は変わっていく母を不気味に感じて、距離を置いていった。パンフレットはどんどん増え、福岡や、熊本のパンフレットも増えた。中には東京のもあった。段々と鬱状態の時が増え、母は見るからに憔悴していくようだった。反対にふくよかに成長していく真澄の身体に棘のある視線を送りながら、母は口癖のように「金ん足らん」と嘆いた。ゴミは、床を埋め尽くさんばかりに増えていった。真澄はそんな母を見るのが辛くて、部屋へと篭った。 ……もう二ヶ月くらい顔ば合わせとらん気がする。 真澄は胸から手を離し、いつか見た母の乳房を思い浮かべた。 主張の乏しい、慎ましい胸だ。乳首はみっともなく肥大し、茶色に燻んでいる。今思うと、血が繋がっているのかも疑わしいくらいに真澄のものと違う。 授業で聞いた。燻んで大きゅうなった乳首は赤ちゃん産んで育てったっていう立派な仕事ん勲章なんや。誇りに思うてんよかはずやろ? ……違う、母ちゃんは女ば職業にしとーけん、そがんもんはつまらんのや。コンプレックスにしかならんとや。 そこまで考えた真澄は悲しい気持ちになって、ざぶりとお湯から出た。 つまらん。のぼせたんや。水風呂入って頭冷やそ。 水風呂に入った真澄はまた元の湯船に浸かって温まると、体を念入りに流して浴場を後にした。 「やっほ、真澄ちゃん。真澄ちゃんのおっぱいってばりふとかね!」 急に声をかけられて、体を拭いていた真澄は素早く後ろを振り向いた。するとそこには唇の上に白い髭を作って満面の笑みの蓮見さんが立っている。驚いて口が聞けない真澄を尻目に、蓮見さんは元気に続けた。 「よかねー。うちもそんくらい欲しかね」 そう言いながら胸の前で大きな円を描く蓮見さんに、真澄は少し緊張がほぐれて、噛みつつも声を出した。 「蓮見さん? こ、こんばんわ。……ありがとう」 「そがん蓮見さんなんてやめんね。花那ちゃんって呼んで」 そう言った蓮見さんは牛乳瓶を煽ると袖で口を拭った。 「さっきおったみんなは帰っちゃたんだ。真澄ちゃん、ちらっと見よったやろ? うち、長風呂やけん大体置いてかれてしまうんっさね。ほら、みんなはこれから塾あるしさ。うち貧乏やけん塾なんか通えんっさ」 気づかれていたことに少々ショックを受け黙っている真澄などお構いなしに、蓮見さんは大きく実った真澄の乳房を繁々と眺めた。 「ところで……。それ触ってんよか?」 「まあ……。減るもんやなかし」 その言葉を聞いた途端、素早く後ろに回り込んだ蓮見さんは真澄の胸をがっしりと掴んだ。先ほどまでキンキンに冷えた牛乳瓶を持っていたせいで蓮見さんの手は冷たく、それに予想外の速さの動きにも驚いて、真澄は「あっ」と声を上げた。 胸を弄る手がぴたりと止まり、蓮見さんはニヤリと笑って小さな声で言った。 「……感じたと?」 「感じてん感じてんそがんわけなかろ! びっくりして、ちょっと声が出てしもうただけばい!」 慌てる真澄をよそにひと通り笑ったあと、蓮見さんは再びニヤリとして言った。 「十分堪能しさせて貰うたし、早う服きな。そがん素敵なんおおっ広げに晒しとったらここらん淑女もどがんかなってしまうばい」 「いたらんお世話ばい!」 真澄は耳まで真っ赤に染めて大きな声で叫んだ。 ピー、ピー、ピー、ピー……。 真澄は聞き慣れた電子音で目を覚ました。 目を開けると壁一面のドラム洗濯機。まだ一台、どこかでガウンガウンと動いている。静謐な夜のコインランドリーに真澄は一人で居た。 どうやら洗濯の待ち時間に、ベンチで眠りこけてしまったようだった。洗濯が終わった音で真澄は起きたのだった。 いつものように洗濯物をバッグに詰めながら、真澄は花那ちゃんとの会話を思い出していた。 あん後花那ちゃんは自分ば、髪ば乾かし終えるまで待っとってくれて、そん間、ようけん話ばした。喋った内容は緊張したけんかぼんやりとしか覚えとらんばってん、ばりくだらんことばっかりで楽しかったことだけは、ちゃんとこけー記憶されと。 真澄は胸に手を当てた。 そがん嫌な人じゃなかったな。ちゅうか、ばり面白か人やった。食わず好かんしとったんやろうか。どうしよう、嬉しか。一生懸命なら「あまりもん」にもこがん事があるんばい。 「花那ちゃん」 真澄は声に出して名前を呼んだ。「花那ちゃんって呼んで」そう言った彼女の顔を思い出す。 名前呼びもよかもんや。 帰り道、すっかり日の落ちた閑静な住宅地。真澄は型遅れのスマホを取り出し連絡先を確認した。そこには母と、学校と、そして花那ちゃんがいる。 初夏とは言え夜風に薄着は肌寒い。それでも真澄は温かい気持ちでいっぱいだった。 久しぶりのコミュニケーションだったから、真澄はどっと疲れた。コインランドリーで眠ってしまったのがその証左だ。しかしその疲れは優しく心地よい疲れだった。 帰りがけにコンビニに寄って、サラダとツナマヨおにぎりを買った。真澄はお金の精算をしながら、家路を辿った。 銭湯ん中学生料金で二百二十円。コインランドリーで三百円。サラダとおにぎりで二百五十二円。残りは二百二十八円や。 いつも変わらない数字だが、真澄は毎回計算するようにしていた。計算は非常に得意だったし、そうするとことで、自分がお金を持っていると実感できるからだ。 今日は、お金ば貯め始め二百九十三日目や。二百二十八かくる二百九十三で六万六千八百四。二週間に一度消臭剤とスプレー、あと風呂周りん道具買うけん、そこから千三百四十四かくる二十ん二万六千八百八十円ば引いて残りは三万九千九百二十四円。よし、明日で四万円が貯まる。 使い道について考えたことはなかった。ただお金が溜まっていると言うだけで、真澄はなぜだか安心した。 団地は、大きな棺桶のようだった。 雲の切れ間から垂れた月光の雫があたりを斑に照らしていた。 静寂に、階段を上る真澄の足が加速する。動悸が早くなる。 ドアの前に立った。ノブを捻る。鍵が、開いている。 ……母ちゃんが帰ってきとー。 真澄は静かにドアを開いた。 ムッとする匂いに顔を顰めた。真っ暗な部屋に、酒をグラスに注ぐ音がした。 さーっと空気の温度が下がったように感じる。真澄はそこで初めて、この夜が寒いことに気がついた。震える二の腕を抱えつつ、真澄は唇を濡らして言った。 「母ちゃん……?」 返事はない。不愉快な匂いが支配する空間に、針のような沈黙が降りかかる。 ……やっぱり、今日も機嫌悪か。 「久しぶりやなあ。お疲れ様」 一刻も早く部屋に戻りたいのを我慢して、真澄は労わるように言った。 やはり返事はない。待っていると、月が薄く照らす白い闇の中から、グラスを煽る音が聞こえた。 ゴミを掻き分け中に入ると、うっすらと母の輪郭が見えた。思い出の中より幾分も弱々しい母の背中に、真澄は泣きそうになった。 いつから母はこがん小そうなってしもうたんじゃろう。 ゆっくりと母に近づいて行く。すると、何やら小さな声で呟いているのが聞こえた。 「……臭かねぇ……ここは臭か」 真澄は沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。 こん人は何ば言いよっとじゃろう。ただふとか胸んために死に物狂いで働いて。家ば汚して、帰ってん来んで……。 「……だったら、母ちゃんが汚さなかったらよかったばい」 母がガタリとグラスを置いた。中の安酒が飛び散って、その水滴は真澄のほおまで飛んできた。真澄は反射的に身を翻し、部屋に向かおうとしたがそれより早く動いた母が真澄の腕を掴む。骨ばった細い腕から信じられないくらいの力を感じる。 い、痛か……! そう思って声をあげそうになった真澄は、母の顔を見て息を呑んだ。 怒っているのか、悲しんでいるのか、全くわからない顔で母は泣いていた。濃すぎる化粧がつらりと垂れる涙の筋を、不気味に際立たせていた。甘すぎる香水の匂いが部屋の匂いと混ざって、真澄は胃の中のものを全部吐き出してしまいたい衝動に駆られた。 「こがんお母さん頑張っとっとになんて事言うん、真澄あんたにはわからんとよ。うちがどれだけ辛か思いしとーかってんは……」 母は突然口を噤んで、焦点の合わなかった瞳がはっきりと真澄を見つめた。真澄はその瞳の中に、どす黒い醜悪さを感じた。急に腕を掴む力が弱まり、真澄は手をばさりと振り払った。 「……何ばい」 真澄は母に強気に言った。こんなふうに言うのは初めてだった。いつの間にか、倒れたグラスから流れたお酒が、パンフレット達を濡らし床にぽとぽと流れている。 「真澄、おっぱいばりふとかばいなあ……」 母はナイフを研ぐような女の目で真澄を射抜いた。 真澄は寒気がして、急いでリビングを離れ部屋に入った。 母は、部屋の中にまでは入ってこないようだった。 部屋に入ると、真澄はカーペットの上にへなへなと座り込んだ。我慢していた涙が、とめどなく溢れた。 あの人も、「あまりもん」や。ここは、「あまりもん」と「あまりもん」の家。うちらは「あまりもん」ん家族なんや。 その事実が何よりも真澄を悲しませた。 真澄は、母との幸せだった思い出が踏み荒らされ蹂躙されてゆくのを止められなかった。それと対照的にさっきの母の言葉、ゾッとするような母の目が真澄の中で存在感を強めていくのを肌で感じた。 呼吸が速くなり、目の前が霞む。咳が出、涎がだらだらと垂れた。 つまらん、落ち着いて。しっかり呼吸ばすると。落ち着いて。そう、つまらん。泣いてはいけんとや。 真澄は震える手を伸ばして、引き出しの中からナイフを取り出した。毎晩研いでいるナイフだから、切れ味は抜群だ。真澄はナイフを目の前に掲げた。刀身が月明かりにぎらりと光った。 ザクッ はらりと、切り捨てられた髪が一房、カーペットに落ちた。 無理やり深呼吸をし息を整えると、真澄は涙を止めた。 落ち着きを取り戻した真澄は、立ち上がって電気をつけると消臭剤を撒いた。その頃にはもう、吐き気はだいぶ薄れていた。 机の下から半分くらいが硬貨で埋まった大きな瓶を取り出し、そこに今日残った二百二十八円を放り込んだ。 これがうちん、三万九千九百二十四円や。 真澄は瓶を両手で抱いた。 これが全部、うちんもんなんや。……何に使おう? こんだけあればなんでんでくる。旅行に行ってんよか。福岡……行ってみたかねえ。ばってん、今度ん修学旅行、行き先は大阪京都やったっけ。楽しみばい。 真澄は小学校の頃の修学旅行を思い出した。確か、阿蘇山の麓での自然体験が主な催しだった。 あん頃は母ちゃんもまともで、うちも「あまりもん」であることなんか微塵も気にせんで、ようけ友達と駆け回れて楽しかったなあ。今回は……どがんなるかわからんばってん、なんか、うち、ばり楽しめる気がするったい。 真澄はベッドに寝転んで、取り出したスマホの連絡先から花那ちゃんとのトーク欄を開いた。 『花那ちゃんこんばんは。よろしくお願いします』 送信の表示をタップする。 お土産でも買おうかな。もちろん、自分のために。 真澄はスマホを置いて、電気を消した。 もう散々ばい。今日は寝ろう……。 疲れていたせいか、真澄はすぐに眠りに落ちた。 真澄の感じていた安らかな、諦めのような気だるさと裏腹に、寝静まった無垢な十四の少女の目元は静かに濡れた。その涙に気付いた者は、もちろん真澄も含めて、誰一人としていなかった。 夜。誰もが寝静まった団地。こぢんまりとした一室のこぢんまりとした世界。 そこで真澄は、闇の中に浮かぶ四角い画面を凝視している。 その先には真っ白な世界が広がっている。 通知音が鳴り、新たなメッセージが届く。真澄は無表情で返事を打ち込む。 他人から見たら当たり障りのない、非常につまらない会話だ。しかし真澄には、心が通じ合っている気がした。 真澄はその世界で息ができた。 あれから一週間が経った朝。真澄はアラームの音で目を覚ました。元はアラームなど掛けなくとも起きれたのだが、夜更かしが続いたせいか、最近は必須の道具となっていた。 朝起きるとまず、スマホを確認する。花那ちゃんとの会話はまだ順調に続いていた。それどころか順調すぎるくらいだ。真澄は現実であっても、人とこんなに会話をした事がなかった。 セーラー服に袖を通しリュックを背負ってすぐに準備を済ませると、団地を素早く後にした。 真澄はいつも誰よりも早く登校する。別に学校が好きなわけではない。他にやることもないから早めに学校に向かうだけの事だ。それに、真澄は団地の周りが大嫌いだった。 鍵を開けると、誰もいない教室は心なしかいつもより広く感じる。真澄はその感覚が気に入っていた。真澄は隅っこの自分の席に座り、本を取り出し活字を追い始めた。本が特別好きなわけではない。没入してしまえるものがあればそれで十分だった。勉強だってお絵描きだって、なんでも良かった。自分が「あまりもん」だと知った時、真澄は最初、必死に暗算をした。ただ思いついた数字を掛けて、足して、割って、引く。真澄は昼も夜も暗算をし続けた。そんなことが一ヶ月も続いたある日暇さえあれば数字を呟き続ける真澄に向かって、クラスの誰かが「キモい」と言った。真澄はそれから本を読み始めた。他の誰かが居る前で暗算をする事は、もう二度と無かった。 授業は淡々と過ぎていった。日常の全ては、まるで色褪せた早送りの映画のように真澄の目前を通過した。 ふと目を開けた。お昼休みだ。 真澄は隅っこの席で一人給食を食べていた。外から蝉の声と、一瞬でご飯を平らげ遊んでいる陽気な男子学生たちの声が聞こえた。真澄の周りには、見事に人が居なかった。 お手洗い、行きたか。 残っていたご飯をかき込んで席を立つと、食器を片付けてトイレへ向かった。 廊下を歩くと、うんざりするような夏の湿気に真澄は不快感を覚えた。無駄に水分を含んだ風が体を愛撫するように流れる。使い古した上履きのゴム底とリノリウムとが擦れる音が嫌によく聞こえた。 真澄が階段の前を横切ろうとした時、少し離れた踊り場にあの四人組がいるのが見えた。真澄は反射的に壁に隠れる。花那ちゃんとは多少の関係を持ったとはいえ、まだ彼女らのことは好きになれない。 汗がじわりと滲んだ。呼吸が、どうしてだか早くなった。周りの喧騒がさっと止み、四人の笑い声がクリアに聞こえる。真澄はごくりと唾を飲み込んだ。 「てかさ、最近花那、クマできとらん? 寝不足?」 「いや、それが……」 隠れている真澄には花那ちゃんの姿は見えない。だから真澄は、花那ちゃんの声だけしか認識していない。口ごもる花那ちゃんに、他の三人が口々に疑問を投げかける。 「それがさぁ、別に悩みとかやなかけどさ……。最近夜遅うまでメールしてしもうてて」 心臓が飛び跳ねた。空気から酸素が、失われていくように真澄は感じた。 「誰と?」 「カレシか?」 「真澄ちゃん……」 「えー真澄ちゃん! ちんちょかのわいな」 「花那、あがんのと仲良かばい」 「臭うなかと?」 「電話越しで臭か訳あるか」 「ばってん……よか子ばい」 「授業とか眠んなかと?」 「花那はよか子ばい」 姦しい笑い声が起きた。 昼休みの喧騒がゆっくりと戻ってくる。真澄は立っている事ができなくて、その場に崩れ落ちた。平衡感覚は失われ、強烈な吐き気がした。しかし彼女らと鉢合わせるのはもっとずっと嫌だったから、壁を使って無理やりに立ち上がった。真偽はわからない、だが廊下まで響いたその笑い声の中に、真澄は確かに、花那ちゃんの声を聞いた。 足早に教室に戻った真澄は本を広げた。羅列された文字の意味は全く入ってこない。真澄の目はその上を意味もなく滑り続けた。 なしてじゃろう? なしてこがん傷ついとーと? そがん落ち込むことなかじょん。いつも通りや。今までもずっとそうやったやろ? ほら大丈夫ばい。うちゃ大丈夫。いっちょん落ち込むことなかばい。そもそもそがん仲良うなかったし……。 そもそもそがん仲良うなかった? ……はあ。ああ、部屋に戻りたか。うちんピンクん素敵な部屋。よか匂いがするうちだけん世界。そこで研いだ包丁で、髪ば切るったい。髪ば切りたか。髪ば。髪ば。髪ば。髪ば……。 目の前に誰か立って、真澄は顔を上げた。いつの間にか教室が賑やかになっている。どうやら何かの班決めが行われているようだ。ずっと本を見ていた真澄には、何が何やらわからない。 「真澄さん、うちと組まん?」 偽りん笑顔ばした「あまりもん」の人が恐る恐る聞いてくる。誰かに傷つけられることだけを恐れた「あまりもん」の笑顔。またや。「あまりもん」の人に手ば差し伸べらるる時ほど自分も「あまりもん」やと実感させらるることは無か。 まあよか。もう…… 「よかばい」 真澄は今までずっと生業にしてきた「あまりもん」の笑顔で答えた。 学校が終わると、真澄はすぐに学校を出た。ひとしきり住宅街を走ってみたあと、気が済んだ真澄は携帯の電源を付けた。 ここじゃもう、息、出来んな。 『迷惑かけてごめんなさい。もうメールはしません。ありがとね』 送信ボタンを押し、真澄は笑った。 見上げた空はからりと晴れている。 真澄はどうでもいいような気がして、旧型の壊れてしまいそうな携帯を、泡が浮き酷い匂いのする用水路に投げ入れた。 ボチャン、と濁った音がした。 真澄の心は、なんの音も立てなかった。 ドアノブを回すと、鍵が開いていた。 真澄は不意をつかれたが驚きはしない。きっと今日も潰れているであろう母など気にせず、部屋に戻ろうと思った。もう何にも心を動かしたくは無かった。 ドアを開けると濃い夕暮れが部屋を染めていた。むわりと、悲惨な匂いが真澄を覆う。 俯いて玄関に座っていた母は、帰ってきた真澄を認めると言った。 「おかえり……なあ、散歩にでも行かん?」 母は顔を上げずに言った。 それは久しぶりに見る、素面の母だった。 「久しぶりやなあ。こがんふうに二人でさるくなんて。もうずっと、働き詰めやったけんなあ……」 俯きどおしの真澄は肩をすくめただけで、返事はしない。母はそのまま、先を歩く。 「なあ真澄。今日こがん早う帰ってきたんはさ、母ちゃん、真澄に話があるったい」 しばらく黙って近所を歩き続けた二人は、いつの間にか団地の公園に戻ってきていた。 すっかり日も落ちて、辺りは暗くなっていた。母は街灯に照らされた孤独なベンチへ向かった。 「()」 「な? よう考えてごらん? こん豊胸手術は、投資たい。うちん胸が大きゅうなったら、稼ぎはもっとようけ増える。絶対ね。百万くらいきっとすぐ元取るるわ。それにお母ちゃんは自分の胸が好きになれたら、自信も持てるし、嬉しかし、何より生きとってよかんでん思えるはずと。やけん」 母は言葉を切った。そして真澄を正面から見直すと、泣きそうな笑顔で言った。 「やけん、そがん顔しなしゃんな。お母ちゃんが全部悪かった。反省しとーけん、やけん許さんね」 真澄は雨のような沈黙に身を浸した。 「わかった。……許すばい」 以前のような母の姿を見て、真澄は心から嬉しく感じた。無垢な真澄は母の言葉を信じたのだ。 「話さんばいかんことがあると。修学旅行んお金ん話なんやけど……」 目の前の世界が、ガラガラと崩れていく感覚がした。 家に帰ると、急いで部屋に戻った。鼻を刺す不快な匂いと足先に当たる幾つものゴミに、真澄は再びナイーブな気分になった。 消臭剤をばら撒いて、椅子に座った。 ふと目に入った鏡に、真澄は自分の顔が映ったのを認めた。 ……慣れんなあ。 真澄は髪の毛先をパラパラと弄った。毎晩少しずつ切ってしまった髪は、以前の長髪とは似ても似つかない乱雑なショートヘアになっていた。 臭か。 何かがうちん世界ば侵しとる。 なんが。誰が。許せん。つまらん。来んで。来なしゃんな。 真澄ははっと目を見開いた。すると喉に痛いくらいの圧迫感を感じ、途端に咳き込む。 く、苦しか! cv 白砂沙帆
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