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利用者:Notorious/サンドボックス/ピカチュウプロジェクト
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声が出なかった。喉に石が詰まったみたいに息ができなくなって、顎が凍りついたように動いてくれなくて、でも汗はどんどん吹き出してきて、冷たく背筋を伝う。足が震える。 <br>「河北さん? 7行目よ?」 <br> 木下先生の気づかわしげな声が聞こえるけど、手に持った教科書を見たままで、目を上げることができない。首から上が固まってしまったように、どんなに動いてほしいと私が願っても硬直したまま。読み上げないといけないのに、教科書の文は意味をなさずにぐるぐると回って読ませてくれなくて、焦りだけが募っていく。止まって、止まってよ。かさついた紙の感触ばかりが脳に届く。 <br>「どうかしましたか? 早く読んで」 <br> クラスのみんなが異常に気づいてざわめきはじめる。待ってください、すぐ読みますから。その一言が喉から出てこない。私は教科書を持ったまま、声を出せずに立ち尽くしている。恥ずかしさとみじめさに顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。読まないと、と思うのに、声の出し方が思い出せない。今まで十五年、どうやって話してきたっけ。 <br> みんなの視線を感じる。みんなが押し黙ってしまった私を見ている。その目を見ることができず、私はますます下を向く。顔は燃えるように熱いのに、背筋は震えるほど冷たくて、おなかがきゅっと痛む。読むんだ。国語の授業の、なんでもない音読だ。今までずっとやってきたように、喋ればいい。軋む音が聞こえそうなほどに力を込めて、ようやく顎が開き、声を出す。 <br>「こっ」 <br> 喉に息が引っかかって変な音が出た。顔から火が出そうなくらい恥ずかしいけれど、なんとか声が出てくれた。ようやく読めるようになってくれた教科書の文を見つめる。 <br>「こ……こうして、祭りは、ぎ、儀式から、人々の生活の一部へと、変わっていったの、です」 <br>「……はい、じゃあ次の一文を吉川くん」 <br> 先生にやっと聞こえるくらいの声だったけど、私はようやく自分の番を終えて席に座った。教室は妙に静かな空気が流れていて、私はみんなが冷ややかにこっちを見ているような気がして、目を上げることができなかった。 <br> 後ろの吉川くんが気の抜けた返事をして、続く一文を難なく読み終えた。みんながやすやすとこなすことを私だけができない。 <br> そのとき、音読の声に紛れて、誰かが「コッ」と喉を鳴らしたのが聞こえた。続いて、数人の忍び笑い。きっと、後ろの方の栗原くんとその周りの男子たち。ずっと下を見ているのに、栗原くんのおどけた顔がまざまざと目に浮かんだ。 <br> 握った拳に巻き込まれ、教科書の端がくしゃりと歪んだ。 {{転換}} 帰りの会が終わって、教室は開け放たれた鳥籠みたい。みんな友達と連れ立って、部活だったり近くのお店だったり、勢いよく飛び出していく。そんな人たちに混ざって独りで靴箱へ行くのはなんとなく気がひけて、私はのろのろと鞄に教科書を詰めていた。 <br>「ミッキー」 <br> 私の名前は幹江だけれど、そんなふうに呼ばれることはめったにないから、自分のことだと気づくのに少しかかった。横を見ると、優しい笑い顔と目が合う。 <br>「小橋川さん」 <br>「和佳って呼んで」 <br> 小橋川さん……和佳さんは、まぶしいほどに明るく言う。目がぱっちりしていて、後ろで結った髪は毎朝時間をかけているのだろう。背がちょっと高すぎる私とは違って、いい意味で女の子らしい。 <br>「……いいの? 部活とか、いかなくて」 <br>「うん。今日はピアノのレッスンがあるから、ダンスはお休み」 <br> 教室には力関係が確かに存在する。和佳さんは間違いなく、そのピラミッドのてっぺんの近くにいる。明るくみんなと付き合って、男子ともよく冗談を言い合っている。たぶん、たくさんの友達と一緒に、噛みそうな名前のドリンクと一緒に自撮りをしているタイプ。 <br> そんな和佳さんが私に話しかけてきたことに、私は驚きと緊張を覚えていた。ピラミッドなら私は最下層の石だ。固くて無骨で孤独。 <br>「ミッキーこそ大丈夫? 急いでない?」 <br>「うん」 <br> きっとそのつもりはないのだけれど、皮肉に聞こえる。部活も習い事もしてない私に、ついでに言うなら友達と遊びに行くようなこともない私に、急ぐ予定なんて歯医者の予約くらいしかない。 <br>「そう。加奈子ちゃんとよく一緒に帰ってるみたいだけど……」 <br> 教室を見回して和佳さんは言う。加奈子ちゃんは、私が和佳さんに話しかけられたのを見て、もう帰ってしまった。確かに私は加奈子ちゃんとよく行動を共にしているけれど、それは仲がいいのとはちょっと違う。クラスのみんながどんどんグループを作っていくなかで、余った二人が自然に集まっただけ。私も加奈子ちゃんも、お互いのことを利用している節がある。友達に見える人がいないと、周りにみじめに思われるから。それだけだから、どちらかの都合が合わなければ、一緒に下校しないことに特に断りもしない。 <br>「ううん、いいの。約束してたわけじゃないし」 <br> 少し言い訳がましく聞こえてしまっただろうか。和佳さんはまだ少し気がかりそうだったが、私も気が気ではない。和佳さんは私に何の用があるのだろう。まさか、かつあげではないと思うんだけど。 <br>「それで、どうしたの?」 <br>「あっ、えっとね……」 <br> 和佳さんはあたりをちょっと見回すと、少し声をひそめた。 <br>「国語の時間。大丈夫だった?」 <br> かあっと顔に血がのぼるのを感じる。やっぱり目立っていたのだろう。今まで、目立たずに生活してきたのに、中学生も終わりに近いところで、こんな失敗をしてしまうなんて。 <br>「うん、ごめん……」 <br>「ああ、別に私が気にしてるとかじゃないんだよ? 全然。誰でもあるよ、ああいうこと。自分の番になると頭が真っ白になっちゃうんだよね」 <br> はきはき発表する和佳さんしか私は見たことがないし、私の失敗の原因も少し違うけれど、反論はしない。 <br>「じゃあ、どうして?」 <br>「あのね、コージたちのこと」 <br> 浩司は、たしか、栗原くんの下の名前。あのときの笑い声が頭をよぎる。和佳さんは苦々しく顔を歪めた。 <br>「聞こえてたでしょ? あいつら、こう言っちゃなんだけど、男子の笑いって程度が低いから、あんまり周りのこと考えられてないのよ。ごめんね?」 <br> まるで自分のせいであるかのように、和佳さんは謝る。 <br>「ううん、全然……」 <br>「ごめんね、あいつらには私から言っておくから。それじゃ!」 <br> 和佳さんはひらひらと手を振ると、自分の鞄を掴み、軽やかに教室から去っていった。私はしばらくぼうっとしていた。自分は何もしていないのに、わざわざ謝りにきた彼女の声が耳から離れなかった。 <br> 加奈子ちゃんも和佳さんも十分離れてしまっただろう時間をおいてから、立ち上がって教室を出た。少しだけ、ほんの少しだけ、救われたような気がした。 {{転換}} けれど、そんな気分も長くは続かなかった。 <br> 制服から着替えて、ベッドに転がる。一日が終わってほっとするから、この時間が一番好きだ。しばらく放心して天井を見つめる。宿題をする気も起きなかったし、ポケットから携帯を取り出す。ロックを解除すると、学校で見ていたページが表示されている。 <br>〈すらすら話せない『吃音』とは〉 <br> 検索履歴は「吃音 治し方」「言葉が出てこない」「どもり 中学生」「発表 話せない」とかで埋まっている。小学生の頃から、人前で話すのが苦手だった。人と差し向かいで話すのはそこまで苦ではないのに、聴衆が増えると途端に言葉が出てこなくなる。話そうと思えば思うほど、声の出し方がわからなくなる。 <br> でも、これまでなんとかやってきた。環境が変わったからか、中学生になってからは発表ができないなんてことはなかった。今日までは。 <br> 今日の失敗を思い起こすと舌を引っこ抜いてしまいたくなる。気分を変えたくて、SNSのアプリを開いた。 <br> フォローしているアイドルの投稿や、お気に入りのイラストレーターの絵にいいねをしていく。このSNSでは、リアルの知り合いとは誰とも繋がっていないから、学校のことを忘れていられる。そう思ってするりするりと画面をなぞっていたら、その投稿が目に入った。 <br> ''15:49 きっしー『今日の国語で鼠が黙ってたの、迷惑すぎない?』'' <br> 初めは、魔が差したのだ。今年の夏、日曜日に授業参観があって、次の月曜日が振替休日になったことがあった。お母さんもお父さんも仕事に行ったのに、自分だけがお休みなのをちょっと奇妙に思ったとき、思いついた。私はSNSで「今日休み」と検索したのだ。大量に溢れる、今日が休みの人たちの投稿。月曜日に仕事が休みな人って結構いるんだなあと思って、「今日学校休み」に切り替えた。それでもまだまだ多かったけれど、やがて一つのアカウントが目に止まった。 <br> 「きのう行ったとはいえ今日学校休みなの特別感あるな〜」と投稿していた「檸檬」というユーザー名のその人は、日常のささいな雑感をよく投稿しているようだった。この人の過去の投稿を遡ると、近くの森林公園に遠足に行ったこと、体育祭のリレーでアンカーがバトンを落として三位になったこと、英語の先生が唐突にロボットダンスを披露し始めたこと……さまざまなことが、日付も含めて私のクラスと合致していた。檸檬さんの正体は今でもわからないけど、間違いなく、私と同じ三年三組のなかの誰かだった。 <br> 檸檬さんの投稿に反応したりフォローし合ったりしているアカウントも、きっと檸檬さんの知り合いだ。同級生の間で十人くらいの小さなコミュニティができているようで、芋づる式に同級生らしきアカウントを見つけられた。当然みんなは実名を書いたりはしていないけれど、同級生とわかれば投稿やユーザー名から見えてくるものがあるものだ。コミュニティの何人かは、私でも誰なのか見当がついた。 <br> そうして私は、名を名乗って彼らをフォローしたのではない。私は、そのまま彼らの投稿を見るだけにとどめた。向こうは知らないけれど、一方的に私はみんなの投稿が見られる。一種の覗き見だ。彼らが日常の事件に反応したり、誰かの噂を書いたりするのを、私は定期的に見続けては楽しんでいた。趣味が悪いことはわかっている。けれど、この行為がもたらす一種の優越感と背徳感が、私の心を離さなかった。 <br> 甘かった。悪趣味な覗き見をしていた報いを受けたのだ。 <br> きっしーは、たぶん岸田くんのアカウント。彼の投稿に、何人も同調するコメントを残していた。 <br> ''15:53 檸檬『それな』'' <br> ''16:02 墾田永年私財法『時間の無駄』'' <br> ''16:04 クリリン『構ってほしいんでしょw』'' <br> 目が離れてくれなかった。画面をなぞる指が止まってくれなかった。やがて右手が震えて、文面を見ることができなくなってようやく、スマホを置くことができた。動悸が激しくなっていた。 <br> 「鼠」という呼び名は、きっと私のあだ名「ミッキー」からの連想だろう。何より、今日の国語で黙ってしまった人なんて私しかいない。彼らは、私への不満を陰で話している。 <br> ごはんよーと呼ぶ母親の声が寒々と響いた。 {{転換}} 怖かった。きのうあの投稿を見てから、学校に行くのが怖くて仕方なかった。投稿したら机に落書きがされてるんじゃないか、みんなが私を無視するようになってるんじゃないか、そんな自意識過剰な悪い妄想ばかり膨らんだ。でも、行かなかったら二度と学校に行けなくなる気がしたし、親になんと言い訳すればいいかもわからなかったから、登校するしかなかった。 <br> 英語の教科書を手に立ち尽くしている今、その判断を心から後悔している。 <br> 登校しても、机は無事だし誰からも罵倒されたりもしなかった。けれど、それが逆に恐ろしかった。教室ではそんな素振りはちらとも見せていないのに、心中では私を疎ましく思っている人が何人もいる。教室に入ったとき加奈子ちゃんと目が合って「おはよう」と言われたが、私は挨拶をうまく返せなかった。加奈子ちゃんも、あのコミュニティの中にいて、実は私に苛立っているのかもしれない。そんな疑いが頭をよぎったからだ。 <br> 私が彼らの投稿を見るようになってから半年ほど経つが、彼らがクラスの誰かを悪く言うことなんて何度もあった。気心の知れた友達しかいない場だからか、遠慮もなく不満や愚痴をぶちまける投稿も少なくはない。私自身、それを垣間見て楽しんでいた節もあった。寺田くんの喋り方ちょっと粘着質だよね、とか、林さんそんなことするんだあ、とか。それが、自分が標的になった途端、こうだ。ためらいなく罵倒される恐ろしさを、私は全然理解していなかった。 <br> 今日は音読なんてさせないでほしいと心から願ったのに、槙原先生はプリントの英文を読むように言った。どうか当たらないでくれと祈ったのに、今日の日付から私は当てられた。だからせめて、もう同じ失敗はするまいと思って立ち上がったのに、後ろから小さく「コッ」と喉を鳴らす音と笑い声が聞こえた瞬間、頭が真っ白になってしまった。 <br> 血の気がさあっと引いて、両手が勝手に震え始める。脇から背中にかけてが凍るかと思うほど冷えて、喉が固まった。声が出せずに私は立ち尽くすしかなかった。英文が見えなくて、口が開かなくて、周りの視線ばかり感じられて、涙が出そうになった。 <br> 迷惑。時間の無駄。構ってほしいんでしょ。 <br> 昨日見た言葉が、私の喉を塞いだ。言葉を奪った。クラスの誰もが私の悪口を言っていた可能性があるという事実ゆえに、クラスの全員がいま心の中で私を罵倒しているように感じた。ますます寒気がした。 <br>「どうした河北?」 <br> 槙原先生の言葉にも反応できなかった。文を読まないといけないのに、息をうまく吸えない。 <br> 教室は静まって、だから誰かが漏らした忍び笑いが聞こえてしまって、悪寒がした。ますます腕が震えて、文章が見えなくなって、とにかく何か言おうとするけれど、掠れた呼吸音しか口からは出てこない。読まないと。読まないと、笑われる。読まないと、怒られる。読まないと……。 <br> 顔がぬっと目の前に現れて、肩が震えた。いつの間にか近くに来ていた槙原先生が、私の顔を覗き込んでいた。 <br>「顔色が悪いな。保健室行くか?」 <br> 私は答えられなかったけれど、相当顔色が良くなかったのか、先生は保健委員を呼んだ。女子の保健委員は和佳さんだった。 {{転換}} 私は保健室の先生におなかが痛いと噓をついた。一人で行けると言ったけど、和佳さんは保健室に着くまで私と並んで歩いてくれた。先生はいくつか問診した後、体育で怪我をしたらしき下級生の治療に向かった。ライトグリーンのカーテンで仕切られたベッドには、端に腰掛けた私とそばに立つ和佳さんだけが残された。みじめに思えるから、一人になりたかった。 <br>「……もう大丈夫だから。戻っていいよ」 <br> ちょっと迷った顔をした和佳さんは、けれど頷いて踵を返した。しかし振り返ると <br>「ねえ、なにか話したいことあったらなんでも言ってね……」 <br> と申し訳なげに言った。 <br>「ううん。大丈夫」 <br> 反射的に断っていた。 <br>「そう。じゃあ、私、もう行くね」 <br>「うん」 <br> 和佳さんはカーテンを丁寧に閉めて、今度こそ帰っていった。上履きを脱いでベッドに横たわると、制服にくしゃりとしわが寄った。授業をしているクラスの気配が感じられなくて、この部屋だけは学校の他の教室と隔絶されているみたいに感じる。目を閉じるとさっき聞いた笑い声が蘇ってくるから、見慣れない天井を眺めて深呼吸を繰り返した。 <br> 養護の先生と下級生の話し声だけが聞こえる。放っておかれたくて、私の存在に気づかれたくないように思えて、ひたすら物音を殺した。下級生が去って、先生も机に向かったらしく保健室に静寂が下りて、時間が過ぎるのをじっと待ち続けた。早退したいけど、鞄を取りに教室に戻る勇気なんてない。でも人に取ってきてもらうのは申し訳ないから、みんなが帰る放課後まで保健室にいるつもりだった。体調は回復しつつあったけど、気分は最悪だった。 <br> またやってしまった。でも、私だって好きで黙っているんじゃない。みんなの前に立つと、みんなの目を感じると、声の出し方が思い出せなくなってしまうのだ。 <br> また、嫌なことを言われる。そう気づいて、消えかけていた悪寒がぶり返してきた。しばらく迷ったけど、結局、スカートのポケットからスマホを取り出した。よせばいいのに、私はSNSのアプリを起動させる。 <br> このままだと、悪い想像が際限なく膨らんで、押しつぶされそうだった。だから、現実を直視して、それを封じようと思った。現実は、少なくとも有限だから。あるいは、期待していたのかもしれない。誰も私を悪く言っていないという一縷の望みに。 <br> 彼らのアカウントを検索して、投稿を表示した。授業中でも、机の下でこっそりスマホを触っている人は多い。少し前にされた投稿がすぐに飛び込んできた。 <br> ''14:22 クリリン『また黙ってる』'' <br> ''14:23 きっしー『だるいって』'' <br> ''14:28 つっぱり棒マスター『2日連続はエグいだろ』'' <br> ''14:33 檸檬『毎日やるつもりかな?』'' <br> たまらず画面を暗くした。スマホをベッドの端に投げ、袖を目の上に当てた。みじめなのか申し訳ないのか、自分でもわからない涙が出てきて、声を我慢するしかなかった。こんなときだけは音が出てくる自分の口が、恨めしくて仕方がなかった。 <br> 和佳さんの「なんでも言ってね」という言葉と、自分のふがいなさを詫びるような表情を思い出した。 <br> 私が陰で言われていることを話そうかな、と思った。話してどうなるものでもないかもしれないけれど、せめて楽になりたかった。実際何か行われたのかはわからないけれど、少なくとも、この二日間で私に手を差し伸べてくれたのは、彼女だけだった。そして私は、その手にすがらないと耐えられそうになかった。 <br> 明日話そう。そう決めた。そのとき、和佳さんにまだ保健室まで付き添ってくれたお礼を言っていないことに気がついた。これも明日伝えよう。体の震えは少しだけ収まっていた。 <br> けれど次の日、他のクラスのみんなは一人残らず来ていたのに、和佳さんは学校を休んだ。担任の先生は、風邪だと言っていた。そして、私の心は折れてしまった。 {{転換}} 「どうしたの。早く読みなさい」 <br> 木下先生は、おとといより明らかに機嫌が悪かった。私はうつむいてスカートを握りしめることしかできなかった。 <br>「黙っていても何も変わらないわよ」 <br> 先生が苛烈な言葉を飛ばすほどに、私の喉は塞がり、声が出せなくなった。頭に血がのぼって熱い。肩が震える。 <br>「もう三年生よ? こんなこともできなくてどうするの。みんなの前で話すのがそんなに恥ずかしいの?」 <br> 一言一言が心を削り、涙が込み上げてくる。違うんです先生。わざとじゃないんです。こんなことが、途方もないくらい難しいんです。どうしても話し方が思い出せないんです。そう心の底から叫びたいのに、声が出てくれない。無音の叫びは、誰も聞いてくれない。 <br> 教室は、私の大嫌いな、先生が怒っているとき特有の張り詰めた空気に満ちていた。生徒全員が息を殺すなか、先生の押し殺した、でも隠しきれない怒りが滲み出た大声が響き渡る。けれど、殺伐とした雰囲気の中に、私は確かに、みんなの呆れを感じた。またかよ、とみんながうんざりしているのを、感じ取ってしまった。 <br>「これから先の人生、人前で話す機会なんて何百回、何千回とあるわ。その度に、押し黙ってみんなを待たせるつもり? ねえ、聞いてるの?」 <br> 先生を直視できない。ひたすら下を向いて、みじめな気持ちに耐えるしかなかった。この先、何千回とこんな気分にならないといけないのだろうか。こんなに頑張っているのに、でもこんなに苦しいのに、他の人から罵倒されつづけるのだろうか。 <br> つらい。限界だった。涙と鼻水が滲み出てきて、しゃくりあげる声は静まり返った教室に響いてしまうから、必死にこらえて袖で顔を拭った。こんな姿を見られたらまたひどいことを言われるけど、でも耐えられなかった。 <br>「泣いても何も解決しないわよ! 今までは泣いたらうやむやにできてたんでしょ。社会はそんなに甘くないわ」 <br> うやむやにしたいなんて思ってない。好きで泣く人なんていない。そう叫びたいのに、喉からはみじめな呼吸音しか出てこない。 <br>「さあ、読みなさい! 読めばいいのよ。その両手に持った教科書を読み上げる、たったそれだけの話じゃない」 <br> 先生の厳しい言葉に、たまらず目を閉じた。吐き気すら感じた。手足の震えが押さえきれなくて、息ができなくなった。喉は完全に塞がって、歯を固く食いしばらないと呼吸音が漏れ出てしまうから、まともな声なんて出せるわけがなかった。頭はとてつもなく熱いのに背中は冬みたいに寒くて、涙と洟が次から次へとあふれてきて、一刻でも早くこの嵐が過ぎ去ればいいのにと祈った。 <br> けれど結局、木下先生の責め苦は授業の終わりのチャイムが鳴るまで続いた。 {{転換}} 次は給食時間だったけれど、私は真っ先にトイレに向かった。家か、せめて保健室に行きたかったけれど、泣き腫らした顔で遠くまで行くことはできなかった。洗面所でまずは顔を洗った。みじめで不細工な顔が鏡に映って、余計苦しくなった。 <br> 複数人の足音が近づいてきた。明るい声で笑い合っている。私は反射的に一番奥の個室に入って鍵を閉めた。 <br> 違うクラスの女子の集団が、弾んだ声で俳優の話をしている。気づかれたくなくて、気配を殺した。やがて彼女らは去っていったけど、クラスから隔絶されたこの空間は居心地がよくて、そのまま個室の中にいた。今は、誰とも顔を合わせたくなかった。もう給食は始まっただろうけど、食欲なんてなかった。 <br> そして、私は携帯を取り出した。彼らの反応を見ずにはいられなかった。これはほとんど義務のように思えた。
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