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利用者:Mapilaplap/SandboxforNovels
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ゲームセンター 僕は失くした物を探しにここにやってきた。訪れるのは七年振りだろうか。そこは寂れたショッピングモールだった。七年前はこの建造物も幾らか賑わいがあり、丁度こんな日曜日の夜となると多くの人の笑顔が見られる場所だった。しかし、度重なる不況のせいかそれともただの経年劣化か、二十年前に建てられた建物は、隠しきれない古臭さが、まるで死んだ魚から漏出する濃厚な出汁のようにゆっくりと、しかし確実に滲み出ていた。 十分な広さが確保された駐車場には収容可能台数の一割にも満たない数の車がぽつりぽつりと停車している。中のテナントは半分以上がシャッターを下ろしている。さらに奥へ進むと伽藍とした円状のホールのような空間がある。その空間の中心にある、プラスチックの鎖とポールで囲われた安っぽい人工の芝生の上には、「感染対策。遊具利用禁止」と書かれた看板がある。遊具はそこにはない。だが、七年前は確かに在ったのだ。僕はその看板の文字を見ても、その意味がしばらく理解できなかった。そして、七年前より格段に彩度の落ちた屋根を見上げた。しばらくして僕は途轍もない寂寥に襲われた。それはそこに留まり続ける間、僕の心を確実に蝕み続けた。 その中でたったひとつだけ、周りとは一線を画して一際光を放つ場所があった。階段を上がった二階の奥にあるゲームセンターだ。僕は無為に光に絡めとられてゆく羽虫のように、吸い寄せられるようにしてそこへ向かった。 ゲームセンターは無機質な光で満ち溢れていた。主張の激しいさまざまな色がぶつかり合い、物の輪郭がとても掴みにくくなっている。白、青、赤、黄、緑、紫。そこはひとつの混沌だった。僕はゲームセンターの前に立ち、数回長い瞬きをしてその世界に目を慣らした。その時、僕は目を開くたびに何かが少しずつずれていくような錯覚を覚えた。目を閉じる前にあった物がなくなり、全く新しい物が出現し、さらにその色が変わった。そんな気がした。しかし、目が慣れるとそこは、これといった特徴のない普通のゲームセンターであった。モール全体が陰鬱な黒い空気で充されていたために、より明るく見えたのだろう。普通と違うところと言えば、奥が見えないくらい広い、ということぐらいだった。空間的には広いが、そこはまるで幼い子供が自分の好きなものだけでいっぱいにした玩具箱のように、クレーンゲームやメタルゲームの台やカラフルなポップ、アニメのポスターが雑多に並べられていて、ゲームセンター特有の手狭な雰囲気を醸し出していた。 僕はその深淵に呑み込まれていくように進んでいった。三歩進めば聞こえる電子音楽が変わる。ひとつひとつの台が自分を主張する様に大音量で音を鳴らし、ライトを光らせ、景品を高く掲げている。しかし、主張する相手は居ないようだ。人工物で埋め尽くされた世界で、僕はひとりも人間を見かけなかった。虚無に向かって主張し続ける彼らの間を、僕は足速に進んでいった。 しばらく歩いて、随分奥まで来た。そして、まだ奥が見えないことに僕は違和感を覚えた。先のほうを見ても明るい台が整列しているだけで、曲がり角もなければ途切れ目も見当たらない。その先は、暗くて全く見えない。このゲームセンターがこんなに広い筈はない。このショッピングモール自体、そこまで大きくはないだろう。そんなことを思い始めた矢先、その疑問に覆いかぶさるように突然、背後から黒い影が飛び出して来た。その影は僕を追い越してどんどん先へ走っていく。驚いた僕は刹那の間硬直したが、直ぐにそれを追いはじめた。僕はこの奇妙な世界への違和感を確信に変え、黒い影を何かの解決の糸口になる存在だと、直感的に判断したのだった。結構なスピードで走った。足は速い方だ。しかし、追いかけても追いかけてもその尾っぽは、すんでのところで手を掠め、ひらりひらりと先へ行ってしまう。それはよく見ると黒猫の様で、しなる筋肉でごうごうと、そしてすいすいと奥へ駆けて行く。トップスピードを維持した僕は目まぐるしく変化する左右の色彩にくらりとした。その瞬間、世界の上下がぐるりと回転するような感覚を覚え、思わず目を閉じた。僕は大袈裟に転倒した。先刻まで走っていた安っぽいリノリウムのタイルは、いつの間にか柔らかな真紅のカーペットに変わっていて、痛くはなかった。しかし僕が地面に留まっている間に、黒猫はもう先の闇の方へ消えてしまって、見えなくなってしまった。急に恐ろしくなり後ろを振り向くと、視界に入るゲームの台のさらに奥には、黒猫が消えていったのと同じ無機質な闇が、まるで僕を等間隔を空けて追尾し舌舐めずりする蝮のようにそこにあった。僕はこうして、闇に包囲されてしまったのだった。 僕は一瞬引き返そうかと思った。しかし頭を振ってその考えを捨てた。あの闇に突っ込んでいったところで何かが変わるとは思えなかった。それよりあの黒猫を追おう。きっとあの黒猫は僕が探している物の在処を知っているに違いない。そう、僕は失くしたものを探しに来たのだから。 僕は一歩一歩を確かめるように歩いた。あの黒猫には走っても追い付けないだろうし、のんびり歩いていたとしても然るべき時に必ず会えるだろうから、走るのは得策ではない。僕はこの不思議な世界を少しずつ理解し、順応し始めていた。そして僕は重厚な赤と黒、そして安っぽい白を基調とした色とりどりの無限の通路に、どこか懐かしさを感じていた。 気の遠くなるような時間だった気もするし、少ししか経っていないような気もする。左右に聳えるクレーンゲームの台は変わり映えしなかったが、途中から少しずつ古そうな台が増えていた。T字路のような曲がり角も発見した時には、通路を囲むほとんどの台がレトロなものになっていた。どうやら左側にぽっかりと一台分の穴が空いていて、そこから横に同じような道が続いているようだった。思わず足を早めてそこへ向かうとその短い道の先もT字路のようになっていた。上から見ると片仮名のエのような形で二本の道が一本の道で結ばれていた。僕はこの世界の綻びを見つけたことに興奮を覚え、すぐにその道へ入った。その興奮も束の間、背後に目をやると、今の今まで歩いてきた道が闇の中に沈んで、二度と触れ合えないように隔てられてしまっていた。もう戻ることは出来ないという事実に普段なら恐怖を感じるはずが、何故だかその時の僕はそれ以上に、細やかな達成感と幸福を感じていた。そして今目の前にある道に向かい合おうと覚悟を決めた僕は、その先を見てはっと気づいた。そこには三十代半ばくらいの、疲れ切った顔をした女性がひとり、先ほどまで誰もいなかった空間でクレーンゲームの台に向き合っていたのだった。僕は自然と息を殺し、見つからないように努めようとした。しかしその行為はあまり意味が無いようだった。彼女は僕など眼中にない様子で、爛々とした目で景品だけを見つめ、痩せた手で無造作にボタンを叩いていた。僕は警戒しながらも、彼女に近づいていった。そして恐る恐る声を掛けた。 「すみません。僕が失くした物が何処にあるか知っていますか?」 彼女は僕には全く反応を示さずに、無我夢中でその景品を凝視していた。この人と僕はきっと存在する世界が違うのだ。僕はそう納得して、黙って彼女のプレイングを見守る事にした。彼女は楽しむためではなく、あくまで景品を得ることを目標にして慎重にプレイし続けていた。しかし、無情にもアームは景品を掴んではくれない。毎回持ち上げはするもののあと少しのところで、ゴトッと地面に落ちてしまうのだ。段々と彼女の財布の百円玉は減って行き、それに連れて彼女の正気も無くなっていくようだった。 彼女は血走った目で最後の百円玉を掲げた。その百円玉は、カラフルな光を反射してピカピカと輝いていた。とても新しそうな昭和四十四年の百円玉だ。彼女はそれに向かって目を瞑り、短く祈りの言葉を呟いた。僕にはわからない言語だ。彼女は恭しく硬貨を投入し、レバーを手に取った。その操作に合わせて、ウィーンという音を立て、アームがするすると滑る。 その時だった。僕の遥か背後から、今目の前で動くアームと同じ種類の音――それも轟音――が鳴り響いてきたのだ。僕がサッと後ろを振り向くと、そこには遥か遠くから、道に沿って滑るように此方へやってくる途轍もなく巨大なクレーンゲームのアームが見えた。あまりに高いため、繋がれているであろう根本の部分は見えない。僕は身動きも出来ずにそれを見ていた。これは決して恐怖から来る行動では無くて、寧ろ僕はその時安心していた。それは、僕に危害を加えるものでは無い事が僕には分かりきっていたからだった。彼女が景品の上にアームを動かし終えると、巨大なアームの方も僕らの台の真上で、ガチンッと音を立てて止まった。そして彼女が下降のボタンを押した。それと時を同じくして巨大なアームも機械音と共に下降し始め、そしてまるで蟻を摘むかのように彼女の上半身を掴んだ。ゴキゴキと、骨の折れる音がした。彼女はそれまでアームに気づく素振りを見せていなかったが、掴まれた瞬間から僕とそのアームを認識し始めたようで、刹那の間に自分の置かれた状況を理解すると、恐怖の表情で僕を見てこう叫んだ。 「ねえ君! 景品が取れてたら私に渡して。必ずね! 絶対だから!」 非常に哀れな声でそう叫んだ彼女は、瞬きの間に口から血を吐き、大粒の涙を流し始めた。金属の大きな指が腹と背中に、有り得ないくらい食い込んでいる。クレーンゲームのアームというものは、非常に弱いものだと相場が決まっているけれど、これは違うようだった。口から垂れた彼女の血は、白く細い首を伝って同じ色をしたカーペットへ落ちた。そして目の前の台の中のアームが景品を掴み上昇していくと同じ様に、彼女を掴んだままのアームも上昇し遙か上まで行ってしまう。返事をする隙も無かった。仕方がないので僕は景品が穴に運ばれていくかどうかを真剣に見守った。景品を掴んだアームは最大まで上昇すると、ガクンッと少しの間止まる。殆どはここで落ちてしまうのだが、今回は耐えている。それからアームはゆっくりと、受け取り口に続く穴へと向かう。頭上の彼女を捉えた巨大なアームも、何処かへ行く音が聞こえる。目の前のアームを動かすチェーンには所々に引っ掛かりがあるらしく、時々ガチッと揺れる。僕は息を飲んでそれを見詰める。アームが横移動を始めて三回目の引っ掛かりの時だった。もうあと少しで穴に落とせそうなところに、それはあった。アーム全体がガチッと揺れた。景品の掴み方が少し変化した。そのまま景品は三本の指の間からすり抜け、地面へと落下した。ゴトッと音が鳴ると同時に、何処からかグシャッという厭な響きの音が聞こえた。僕は少し悲しい気持ちになって暫く落ちた景品を見詰めていたが、探していた物がそれではない事に気づくとその場を離れて、再び先へと進みはじめた。 彼女と出会った道を抜けると、それもやはり闇に呑まれ消えてしまい、再び先刻まで歩いてきたような一本道となった。僕はそこから前進し始める。やっぱり、あの黒猫を探そう。そう思った時だった。道の先――闇の中――から、真白な物体がゆっくりとこちらに近づいて来るではないか。それは遠くて明瞭ではないがどうやらそこまで大きくはないようで、不思議な歩き方をしていた。その理由も見える位置に来るとよくわかった。それは、僕の膝下にさえ届かないくらいの小さなアヒルだったのだ。僕が立ち止まって近づいているのを待っている内に、左手前のピンクに彩られた1つの台の上にあの黒猫が居るのにも気がついた。黒猫は興味なさげに欠伸をし伸びをすると真っ黄色に光る大きな両眼を見開いて僕を見た。そしてアヒルが僕の目の前で立ち止まると、黒猫も上からジャンプして、その真横に並んだ。 「君たちは誰?」 僕は普通に人と話すようにごく自然に尋ねた。アヒルは翼を手のように使って、掛けていた片眼鏡を押し上げた。 「いやはや[#「いやはや」に傍点]、初対面の年上に向かって敬語も使えないとは……。なんとも無礼甚だしい。これだから最近の人間の若者は、教育がなっておらん。……いやはや[#「いやはや」に傍点]」 彼はどうやら年上のようだった。僕は改まって再び声を掛けてみた。 「すみません。あなたが年上だとは知らなくて。そもそも話せるとも思っていませんでした。ところでここはどのような場所なのでしょうか? あなたの名前はなんですか?」 僕の態度にやや不機嫌アヒルであったが、可愛らしいスーツのネクタイを弄ると、諦めたように答えた。 「私の名前はニジュウゴ。年も二十五歳だ。年を取るたびに私は名前が変わる。あと半年もすれば私はニジュウロクだ。……いやはや[#「いやはや」に傍点]、四半世紀も世界を見てきた。君たちからすれば短いと思われるかもしれないが、人間に換算すると百二十歳を超えておる。長い、あまりに長い時間だった……。ここでは時間などあまり関係ないが……。それでも長い時間だ。隣の生意気な黒猫は だ。よろしく」 「」 そこはまるで、何か特別な世界へ繋がる扉を隠すように、混沌と煌めいていた。僕は足早にそこを離れた。 嫌な夢 夜風は湿っていた。じっとりと脊髄にまとわりつくようなその水分は、全身に覚えていた不快感を丁寧に保存し続けた。 夜は車道でのんびり出来るからいい。と僕は彼に言った。彼は暗がりの歩道に立ち、暗がりは暗がりのままで、彼はそれを以て僕を責めていた。故にそれに紛れた彼の顔は見えない。 その不気味さとは裏腹に、僕は最初、清々しい心待ちで側のマンションを見上げた。ベランダは反対側で、ここからは廊下が見える。明かりが点いている。二棟の棺桶。木々が揺れた。 電灯がぽつんと立っていて、真新しいアスファルトを照らしていた。一度も犯されたことのない真っ白な中央線が視界の限りまで続いている。 電灯には蛾が一匹止まっていて、その羽ばたきの音を連想した僕は、感じていた清々しさを呆気なく見失った。手前の棟の電気が消えた。 全方位から虫の声が聞こえる。湿気が増す。寝汗のような空気と団結して、虫は更に声を荒げる。虫は電源が壊れたラジオのように思想を垂れ流す。草を食む。息を吸う。反発する。同調する。その声はいつの間にか押しては返す波と重なり、坂を下った先に海が見えた。深い暗い海。波は月明かりを捻じ曲げる。月明かりを照らし返す。空に月は見えない。 電灯が月だったのだと気が付いたのは奥の棟の電気が消えた後で、彼は一度たりとも動かなかった。僕を見続けるつもりなのか。復讐は何も生まないと、こんなに虫が力説しているじゃないか。そう言おうと思ったが彼が纏う暗闇があんまりに暗いのと、虫の声を言い訳に使うのも違うような気がしたということもあって、僕は何も言わなかった。これも復讐なのかもしれない。光は暴力なのかもしれない。暗闇が彼で彼の体は虫で海は電灯かもしれない。列車は駅に来ないかもしれない。月はどこに隠れた? 彼は知らない。虫も波の音も、あのマンションに住む全ての人も、知らない。 僕を照らす電灯が消えた。ガードレールの先の海も、心なしか先刻より薄暗くなったようだ。もう虫は居ない。轟のような波の音が。岩を削るその嘶きが、わずかに地面を揺らすばかり。 精神を揺らがせる。奥に潜る。螺旋を降る。前のめりに倒れる。傾く。落ちる。撹拌する。 本能。人間の行き先。精神が帰依するところ。 彼はそれでも動かない。とガードレールと道に区切られた長方形の小さな海がそう言った。 白の階段が現れる。降る。 目が覚めると寮の部屋で、カーテンの隙間から刺す光は休日の香りがした。ちょうど、洗濯物を乾かすのに適した日だ。 外から人の声がして僕は立ち上がった。掛け布団が体からずり落ちる音がした。昨日の洗濯物が入った籠から据えた臭いがした。 窓を開けると門から入ってきた水色のスクーターが手前の駐車場に停まった。人は乗っていなかったが、別にこれといった問題ではないので、僕は女子寮と鉄塔の醸し出す陰鬱を静かに見ていた。空は青に薄いペーパーフィルターをセットしたような色をしていて、テニスコートでボールを打つ小気味いい音が遠くに聞こえていた。 廊下に置かれた時計は七時十七分を指していて、その隣の青い棒には黒い傘が掛けられている。僕はその様をしばらく想像した。雲は印象派の作品のようで、風は少女のため息のようだった。太陽が渦を撒き始めた頃に、扉の外の人の声が、随分とうるさくなった。僕は落胆して、これまでのことを全て上の棚に置いて、もう直ぐ来る夏のじわりとした記憶を反芻しながら、石垣の穴に手を突っ込むような心持ちで扉を開いた。 そこには蛇は居なくて、代わりに誰か認識できない人が居て、その右隣、少し行ったところに母がいた。私は裸足のまま部屋を出ると彼女に向かって歩いて、会いたかった、と言った。私の言葉は彼女の抱擁に絆され、辺りはオレンジの色と匂いと温度がして、やけに小さい人が周りにたくさんいた。騒がしかったのはこのせいか、と私は妙に納得して、次に母が母でないことを認識して、小さい人には顔が無いことを認識して、私はどこにいるのかを認識して、僕は時計が止まっていないことを認識して、どこにいるかわからないことも認識して、あなたの温かみを認識して、ただ彼らの目は僕に向いていた。全員の目。 白い階段。降る。暗闇。 顔を上げると見知った友人の部屋で、僕は夢から目覚めたことを知った。 僕は九時に寝て、十一時に彼に起こされ、彼の部屋を訪れ、その椅子の上でまた眠りに落ちたのだ。時計は一時を回っている。 彼は音の出ないアコースティックギターを弾いていて、その隣には見慣れない、他の友人がいた。ヘッドフォンを付け、コンピューターを弄っている。顔がいつもと少し違う。パーツがずれ、小さくなり、均衡を破り、正気を保てず、失う理性。弾む唇。静かにしなさいと書かれた張り紙が僕の顔に貼られて、それを僕は引きちぎったつもりだったが、僕はそこには何もなくて、彼らは部屋の隅で固まって実に静か。塩が大さじ二杯くらい入った小さな、輪ゴムで括られたビニール袋がドアの上に付いていて、その上の時計の秒針の音が気持ち悪い。 雨が窓を打っていて、雨音は聞こえないけど僕にはそうわかったんだ。時間が近づく。近づくのは嫌だ。近づくのは良いことだ。遠ざかるより難しい。いや簡単。いや駄目なこと。楽しい時がある。春。春は素敵。生き物がたくさん生まれる。辛い冬を乗り越えできたから、暖かくなって気が抜けると、ころっと体調崩したりしちゃうんだ。春先にはさ。 ヘッドフォンをずらして気持ちの悪いやつが喋らないでくれとうるさい。 鳴っていない雨音が止んだ。もうその時だったのかと僕は納得。じっと待つ。秒針の音がして気持ち悪いやつも仕舞いには秒針の音を立て始めて友人はこっちを見ない。母さんあなたはどこにいますか。本当にいるのか。俺の存在。記憶。思想。思考。行動。理性。衝動。情動。今作られましたあなたは。 扉をノックする音がして、僕は白い階段を降りて。 窓の外は深い海で、全てをもう飲み込んでしまったような奢りを僕はその波間に見つけた。僕はいつでも 高さ十メートルはあろうかツリーハウスで目が覚めた。 下に集う祭事風の身なりをした人々。 恐ろしい悪魔との命の取り合い。 五号館を出ると、きつい日差しがアスファルトを焼いていた。遠くで、雑木林の影に入った柳が、涼しそうに揺れていた。私は腕時計を確認して、食堂へと向かった。 混雑のピークを過ぎた食堂は、広い空間に並べられた机に、ちらほらと人がいるだけであった。いつもは席の検討を予めつけておくのだが、空きコマ三限、ランチタイム終了間近の学生食堂は随分と空いていたから、私は食券を購入し、チキン南蛮のプレートを受け取ってから席を探した。 窓際の席を取ろうと近づくと、窓の外に、真夏の炎天下に一人、カウンター席でスケートお姉さんが食事をしているのに気がついた。スケートお姉さんとは、ピンクのヘルメットを被り、キャンパス内をローラースケートで移動する、この大学のちょっとした有名人だ。私が入学する前からいるらしいから、三年生か四年生だろうと踏んでいる。窓際に座った彼女はヘルメットを脱ぎ、いつもは見えない茶色のポニーテールを、風に靡かせていた。すでに半分腰掛けたような格好になったが、興味が湧いたので、再び立ち上がり、自動ドアを出て彼女に話しかけた。 「こんにちは! お隣いいですか?」 彼女は驚いた様子で顔をあげた。そして私を認めると、本当に柔らかに顔を綻ばせて、「ええ、もちろん!」と言った。考えていたいくつかよりも、ずっと好意的な反応だったから、私も思わず笑顔になって、「良かったです。断られたらどうしようかと思いました」と言いながら隣に座った。 「私は木嶋菜月です。経済の一年生です」 「私は佐藤妃実と言います。」 よろしくお願いします、そう言って彼女は上品に会釈をした。 では、あの、いただきます、と手を合わせ、私はチキン南蛮を口に運び始めた。 「妃実さんはどうしてローラースケート履いてるんですか?」
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