「
古民家カフェの惨劇
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==獲物== 細い吊り橋を、遥か下方を流れる川のせせらぎを聞きながら渡る。木製の板が、微かに軋んでいる。細いといえど、人が余裕を持ってすれ違える程度の幅はある。さすがに車は通れないから、橋の袂の駐車場に駐めないといけないが。新しいもののようで、吊り橋につきものなスリルは味わわずに済みそうだ。 <br> 対岸に着くと、目の前に小洒落た建物が姿を現す。年季の入った茅葺きの屋根と木の壁。開放された玄関の前には幟が二本翻っており、「古民家カフェ 道明庵」「新規オープン」の文字が見てとれる。 <br> 僕の実家のご近所さん、野崎さん夫妻がこのたび古民家カフェをオープンした。不動産業でこつこつ蓄えた彼らは、遂に夫婦で店を経営するという積年の夢を叶えたのだ。これからはここの経営に専念するらしい。四十路を越えた野崎夫婦にとって、かなり大きな決断だが、そのぶん夢が叶った充実感も大きいだろう。 <br> 田舎だけあって近所付き合いも密接だから、僕の一家にも今日の開店祝いへの招待が来た。母は既に他界していて、父は土日が関係のない仕事だ。というわけで、僕が帰省がてらこうしてここを訪れている。 <br> 正直なことを言えば、夫妻が店を開くと聞いて、不安に思わなかった訳ではない。閑古鳥の鳴く店内で二人が暗鬱な表情で帳簿を見ている光景を想像しなかったと言えば、噓になる。しかし、そんな心配は杞憂だと今は思っている。 <br> 何せ、立地が良い。このカフェは少々特殊な場所に建っている。峻険な断崖の中途に、ぽつんと張り出した平地があるのだ。丁度、まっすぐな壁に低い円柱を半分まで埋め込んだような形だ。壁と円柱の側面が崖で、円柱の天面がここだ。天面に移るには、崖と反対側から、渓谷を渡らねばならない。それが、先ほどの吊り橋だ。 <br> 驚くべきことは、こんな不思議な地形が、駅のある中心街からさほど離れていないということだ。歩いて30分だったから、車なら10分で着けるだろう。そのくせ、ごみごみした空気や人の気配は全く感じられず、山奥といった風情がある。交通の便がいいのに、田舎の雰囲気を十分に味わえる。こんな穴場スポット、どこで知ったんだか。 <br> おまけに、秋には橋の向こうに見える紅葉が美しいという。4月の今は新緑が映えるが、ぜひ秋にも訪ねたいものだ。野崎夫妻の経営センスは、素人の僕なんかが心配する必要ないようで、安心した。 風にゆらめく暖簾をくぐると、沓脱ぎがあった。下駄箱に靴を入れ、板張りの廊下に靴下であがる。目の前にまっすぐ伸びる廊下と、左右にそれぞれ少し行ってから平行に伸びる廊下があるようだ。鳥瞰すれば、さしずめフォークの歯のようだろう。しかし、まっすぐな廊下は思っていたより長い。この古民家の広さの認識をアップデートする。何やら人の声が聞こえる奥の方へ向かおうとしたところで、お茶の乗った盆を持って出てきた野崎綾子さんと目が合った。 <br>「あら和希くん、よく来たわねえ。さあさ、おいでおいで」 <br>「綾子さん、お久しぶりです」 <br> 夫妻の妻の方、綾子さんは割烹着に足袋という出で立ちだった。会うのは二年ぶりのはずだが、この衣裳が似合いすぎて、むしろ既視感すら覚えるほどだ。 <br> 軽く挨拶を交わしながら、綾子さんに先導されてまっすぐな廊下を奥へと向かう。並んだ襖は松の意匠が施されたもので、和の雰囲気を感じさせる。しかし天井には長い蛍光灯がはまっていて、現代設備はアンバランスさを感じさせた。まあ行灯を使うことなぞできようもないから、仕方のないことだ。概して、家屋は古民家を改装したとは思えないほど綺麗だった。 廊下を突き当たると、建物の横幅いっぱいを占める大部屋があった。襖を開けて、畳のへりを跨ぐ。そこでは、大勢の人たちが寛いでいた。大量の会話が奔流となって押し寄せる。 <br>「おお工藤さん、ご無沙汰してます」 <br>「いやいやこちらこそ」 <br>「あら拓くん、大きくなったねえ〜」 <br>「こら拓、ご挨拶しなさい」 <br>「……こんにちは」 <br>「この団子美味いなあ、餡子がたまらん」 <br>「ほんとねえ。これは繁盛するわ」 <br>「あれ、紀子ちゃんじゃないの! 来れないんじゃなかったの?」 <br>「今村ちゃん、久しぶりねえ。それが直前で都合がついたのよ」 <br>「和希くんじゃねえか。東京からよく来たなあ」 <br>「園田先生。帰省も兼ねて、と思いまして」 <br> 横に長い大部屋の中央には、やはり横に長い木の大机がある。人々はそれを囲んで、陽気に語らいあったり何かをつまんだりしていた。一角には、店主である徹さんが何人かに囲まれて座っている。机の上には、和菓子や小料理、ちょっとした酒類も並んでいるようだ。時刻は午後五時前だが、ちょっと早い酒宴を開いているのだろう。向かいの長辺は縁側になっており、庭に降りることができる。見晴らしがとても良く、谷川がどんどん太くなって地平線の果てまで伸びているのが見えた。 <br> 僕はよく見知った顔が手招きしているのを見つけ、部屋の右隅に向かった。 <br>「和希、久しぶりね」 <br>「やあ、千佳。久しぶり」 <br>「二年ぶりかしら?」 <br>「そうだね。隣、失礼するよ」 <br>「どうぞどうぞ」 <br> 寄ってくれた千佳の横の座布団に腰を下ろす。彼女、高島千佳は同級生だ。小中高と揃って進学し、家も近かったから自然と仲が良くなった。しかし僕が都内の大学に進学してから、親交はぱったりと途絶えていた。 <br>「和希は、銀行員になったんだっけ」 <br>「うん。そっちは市役所に就職したんだって?」 <br>「そうそう。お互い固い仕事だね。それはそうと、はるばる東京から来たの?」 <br>「まあね。さほど道が混んでなくてよかったよ。それでもちょっと遅くなったけど」 <br> この会は昼から催されているのだが、僕はそういう理由でこの時間からしか参加できなかった。でも、翌日は日曜だし、遅れたぶん遅くまで居て取り返そうと思っている。どうせ酒宴になって夜遅くまで続くのだ。今夜は実家に泊まるつもりだ。 <br> 従業員の方なのか、若い女の人が僕の前にお茶を持ってきた。会釈をして受け取りながら、この場にいる人数を数える。自分や従業員も含めて、19人。過疎化が進む田舎なもので、客はほとんどが顔見知りだった。様子を観察して、あの子は西尾さんの息子さんだな、などと当たりをつける。銀行員になってからついた癖だった。 <br> 僕と千佳は、近況報告も兼ねて他愛もない話をした。 <br>「こんなところに古民家があるなんてね。一体誰が建てたんだか」 <br>「結構広いし、物好きなお金持ちの邸宅なんじゃない?」 <br>「あ、ありそう」 <br> そんなことを話し、お茶を飲む。会話が途切れた隙間を縫って、綾子さんと従業員の一人の話が聞こえてきた。 <br>「和希くんが来たから、あとは種岡さんとこだけね」 <br>「充さんは来られないそうですから、あとは光さんだけです」 <br>「あら、そうなの」 <br>「全員お揃いになったら、料理を運べばいいんですね?」 <br>「あ、その前に主人がちょっと話すから、合図があるまで部屋の外で待っていて頂戴」 <br>「わかりました」 <br> 二人はまた厨房へと戻っていった。種岡さんといえば、裏山に住んでいた猟師のお爺さんだ。しかし、来るのは息子の方らしい。今は30くらいだろうか、張り付くような笑みが不気味で、あまりいい印象は持っていない。確か、自衛隊に入ったんじゃなかったか……。 <br> 太陽は、中天から下りていた。
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