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租唖
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==黎明== 時は恰も20世紀初頭、岡山県加茂町の山、<ruby>角ヶ仙<rt>つのがせん</rt></ruby>の中腹に、ダイク・ニコルセンという男が住んでおった。彼はいわゆるお雇い外国人として1890年に来日した米国人じゃった。 官立岡山医科大学の英語教師として日本に渡り、四半世紀以上勤め上げた。その時にはニコルセンは齢五十六。じゃが彼は故国には帰らず、日本に残る決断をした。彼は岡山の自然を愛しておった。立ち並ぶ山々、季節によって色が移ろう木々、夕日に輝く瀬戸内の海……。そういったものをニコルセンはこよなく愛したのじゃ。幸い彼は所帯を持っておらんかったし、体力には自信があった。大学の教職を降りると、ニコルセンは角ヶ仙を終の栖とし、隠棲を始めたのじゃ。 周囲の者は止めたが、彼の決意は固かった。山間に茅葺きの小屋を建て、狩猟と採集の腕を磨いた。初めの頃こそ木樵や狩人に助けてもらうことがほとんどじゃったが、3年が経つ頃にはもう彼は単独で生活を送れるまでになっていた。古い銃で鹿を狩り、森の中で山菜を摘み、家の脇を流れる川の水を汲んで生活しておった。じゃが勿論、完全に独りで生きていた訳じゃあない。定期的に薬売りが、薬だけでなく米や塩、本なんかを、肉や山菜と交換しに来ておった。さて、そんなニコルセンの隠遁生活も19年目となった1934年の夏、その日が訪れる。 ダイク・ニコルセンの小屋に度々出入りしていた薬売り、名を茂助という。この頃ニコルセンに関わりがあったのは茂助の他におらんかった。茂助は最後にこの小屋に来た十日前のことを思い出しておった。その時ニコルセンは、どうも痩せ衰え、苦しそうじゃった。立つのも一苦労といった様子であり、今迄老いを全く見せなかった異人の老爺の弱々しい姿に、かなり驚いたのじゃった。尤もニコルセンは流暢な日本語で心配ないとしきりに言っとったが。じゃから、普段は一月に一度訪れる程度じゃが、茂助は居ても立っても居られず又この小屋を訪ねたのじゃった。 茂助が戸を開けると、直ぐにニコルセンは見つかった。囲炉裏の横の煎餅布団にくるまっていたんじゃ。しかし息が荒く、いつもなら陽気に出迎えてくれるがそれもない。茂助が慌てて近づくと、窶れたニコルセンは苦しげに眠っていた。布団を捲って見ると、寝巻きから覗く腕や足には、赤黒く腫れている箇所が多かった。額に触れてみると、とんでもなく熱い。茂助は声をかけたが、ニコルセンが起きる気配はない。布団の周りには食べ物が乾いてこびり付いた膳や、空になった湯呑み、前に茂助が置いていった征露丸などが散乱しておった。 その時、ニコルセンが寝返りを打とうとした。しかし半身を起こしたところで、彼は苦しそうに叫んだ。痛みに上げる叫びじゃった。ニコルセンは目を開けたがそれは濁っており、意識は朦朧としておった。布団の上で体を硬直させたまま、痛みに呻き続けておった。すると、茂助はニコルセンが何か言葉を発していることに気づいた。目は焦点が合っておらず、茂助がいることに気づいているかも定かでなかった。茂助はニコルセンの声に必死に耳を傾けた。何か声にならぬ音、そして恐らくは彼の母語である英語であろう音に。茂助が聞き取れたのはたった一語、「そあ」じゃった。それを最後に、ダイク・ニコルセンは息を引き取った。決して穏やかとは言えぬ最期じゃった。 川下の村、<ruby>行重<rt>ゆきしげ</rt></ruby>の医師がニコルセンの死亡を確認し、彼の遺体は倉見川を舟で運ばれ、寺で無縁仏として土葬された。ニコルセンは自然死として、簡単に処理された。死亡診断書の死因としては、「肺病」と書かれた。管理体制が杜撰じゃった当時、碌に調べずに処理してしまうことはよくあることじゃった。 しかし、茂助の見たニコルセンの死に様は、村の一部に、決してセンセーショナルじゃあないが、確実に広まった。ニコルセンは奇病で死んだんじゃあないか、と。茂助は、ニコルセンが今際の際に発した言葉、「そあ」が病名じゃろう、と言った。亜米利加人だけが罹る病なんじゃろう、と。茂助を初めとする村人達には、英語には"sore"という言葉があるという知識は無かったんじゃ。更にこの病名には、恐ろしげな漢字がつけられ村人を怖がらせたが、噂の定め、七十五日も持たず、変人外国人の死は村人の話題から消えていった。 この奇病、租唖が再び行重の村人達の前に姿を現すのは、それから四年後のことじゃ。
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