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Sisters:WikiWikiリファレンス/『海と夕焼』に関する探究
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===⑵ 「奇蹟」によるキリスト教的パラダイムの変化=== ここで、「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」をパラダイムの移行と捉えるならば、矢印①、「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」についてはどうなるのだろう。「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」において、パラダイム移行はあったのだろうか。 安里はセヴェンヌに生まれて羊飼いをしている幼少期、キリスト教的社会において生きてきた。故に「奇蹟」との接触がなかったにも関わらず、「奇蹟」の存在を刷り込まれてきたのだ。つまり幼少期の安里は「奇蹟」を経験していないが「奇蹟」を信じている状態にあるのである。そこに軸となる「奇蹟」の概念は存在するため、そこはキリスト教的パラダイムであると言える。しかしそれは奇蹟の存在を確信したものではない。基督の奇蹟の伝説などを伝聞しただけの、「弱いキリスト教的パラダイム」であったはずだ。 その後、安里は基督の幻や老人の訪問を経て、「奇蹟」――弱くともキリストパラダイムを持つゆえに、彼は聖俗の区別を持ち、奇蹟の概念を保有する――を実際に受け入れることで、彼の奇蹟への態度は確信・確たる待望へと変化し、「強いキリスト教的パラダイム」に変じる。 つまり、「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」においては、「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」とは違ってパラダイムの移行はなく、パラダイムの性質の変化があったのである。奇蹟の発生は、安里のキリスト教的パラダイムに、「奇蹟」という軸を追認・再確認させるものだったのだ。
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