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===決着=== 買い出しから最初に帰ってきたのは、漁師の息子だった。近くのジム跡からサンドバッグを引き摺ってきた彼は、公民館の机にサンドバッグを放って、愕然とした。重いサンドバッグを持ってきたはずなのに、黒い布が一枚ふわりと机を覆っただけだったからだ。ここにきて、ようやく彼は事態を悟った。サンドバッグを引き摺るうちに、布に穴が開いて砂がこぼれてしまったのだ。彼が辿ってきたあとには、一筋の砂の道がヘンゼルとグレーテルよろしく残っているに違いない。サンドバッグがだんだん軽くなっていくようだったのは、己の筋肉の成長などではなかったのだ。漁師の息子は慌てた。彼は見事におつかいに失敗したのだ。突如現れたピンチに泣きそうになっている時、外から何やら話し声が聞こえてきた。彼は半ば衝動的に次の行動を選択した。開いていた窓から遁走したのである。彼はまっしぐらに家へと走り出した。 キャベツ農家のおじさんは無人の部屋に入り、首を傾げた。誰かがいる気配がしたのだが。室内を見回すと、黒いクロスのかかった長机が目に留まった。なんだか砂をかぶっているようだったから、おじさんはクロスを布巾で拭き、買ってきた肉類を上に置いた。すると、マンション王が帰ってきた。彼はコンビニにYS-11を買いに行ったが、製造終了しているらしいので代わりに後継商品を購入してきた。マンション王が意気揚々と机に置いたペットボトルには、「OS-1」と書かれていた。農家のおじさんも、他人の受け持ちの商品を全て覚えてなどいないため、特に違和感は抱かなかった。おじさんはマンション王とともに、屋根の雨漏りを修繕すべくビニールシートと養生テープを取りに行った。 ついで、飛行機大好き少女が戻ってきた。部屋には誰もいなかったが、少女はおつかい歴戦の勇士であるため、なんとゴマドレをちゃんと冷蔵庫にしまい、家へと向かった。両親にお姉ちゃんの話をするためである。両親はこういう流行しているものが好きなのである。早く教えてあげて喜ばせてあげようと少女は考えていた。その間隙をついて、開いた窓から妖精が舞い降りてきた。ひじきの妖精は、摘んできたトリカブトを抱えてふわりと机に着地した。その時、シートとテープを持ってきた農家のおじさんとマンション王が入ってきて、妖精は慌てて人の姿に変身した。入ってきた二人はいつの間にかいた女性に驚きつつも、屋根の補修作業を始めた。妖精はひじきなので光合成をして生きている。だから、トリカブトを置くと妖精は外に出てひなたぼっこを始めた。 その頃、一人の掏摸が道を歩いていた。掏摸は何食わぬ顔で歩きながらも、ガードの緩い人がいないか虎視眈々と狙っていた。最近は火事場泥棒のような真似もして懐も暖かかったから、掏摸は機嫌が良かった。その時、前方から子供が歩いてきた。目を伏せ、せかせかと歩を進めている。何か口の中で呟いていて、心ここにあらずである。掏摸にとって格好の標的である。すれ違う瞬間、掏摸は全く自然に肩をぶつけた。子供が驚いてこっちを見上げるより先に、掏摸の手は肩掛けバッグに差し込まれ、すでに抜かれていた。軽く声をかけてまた歩き出した掏摸は、手につかんだものを見て、落胆した。財布の類いを期待していたが、抜き取ったものは一冊のノートだった。大方さっきの子供の学習道具だろう。こんなものには一銭の価値もない。その辺に捨てようかと思ったが、人目が増えてきたので、掏摸はノートをしまうと素知らぬ顔で歩き続けた。 公民館には、薔薇を咥えた雪女が帰ってきていた。彼女は忍者の里でまきびしを買ってきた。雪女が選んだのは、昔ながらの菱の実であった。鉄製のまきびしは珍しく、多くの忍者は菱の実を乾かしたものなど、植物由来のまきびしを使っていたという。雪女は雪山でオーガニックな暮らしをしているので、菱の実が気に入ったのだった。雪女は菱の実を机の上に置いた。ちょうど雨漏りの修繕が終わり、農家のおじさんはガスコンロの動作確認を始めた。雪女は親近感が湧くのか、冷蔵庫をペタペタと撫でている。 掏摸は道端の文房具店に入ってみた。掏摸に失敗したから何か目ぼしいものを盗って埋め合わせたいという思いがあった。幸運にも、店主の老夫婦は奥にでも引っ込んでいるようだった。レジでも漁ろうかとカウンターに寄った時、外に人の気配を感じた。入ってきた女が白杖をついているのを見て、掏摸は驚いた。そこで、掏摸は悪戯を思いついた。掏摸は「いらっしゃいませえ」と声をかけてみた。すると女は完全にこちらを店員と思ったようで、ノートを買いたいと言い出した。掏摸はちょうどノートを持っていた。掏摸は女に先ほどの子供のノートを渡し、レジを勝手に拝借して、女の差し出したカードでノートを買わせた。女は丁寧に礼を言うと、全く気づかぬままに店を出ていった。掏摸は思わず笑い声を上げた。使用済みかつ訳ありのノートを買っていくとは。悪戯がものの見事に成功し、掏摸は心底可笑しく思った。すると笑い声が大きすぎたようで、店主の爺が奥から出てきて、掏摸は慌てて退散した。 ゴールボール好きの女性は公民館に到着し、農家のおじさんに収穫物のノートを手渡した。おじさんは、食べ物でないことに一瞬当惑したが、食べ物以外のおつかいもあったなと思い出し、長机の上にそれを置いた。女性は外に出ると、ひなたぼっこをしていた妖精に躓きかけ、妖精と言葉を交わすうちに、女性もまたひなたぼっこを始めた。芝生に寝転がるのなんていつぶりかしらと思いながら、妖精とともに燦々と降り注ぐ暖かみを全身で受け取った。そんな折、毒殺魔が帰ってきた。毒殺魔は寝転んでいる二人の女性に軽く会釈して公民館へと入っていった。そのとき、ゴールボール好きの女性は盲目ゆえの鋭敏な聴覚で、妖精は小動物ゆえの勘の良さで、毒殺魔の後ろをついてきた者の存在に気づいた。それは一匹の黒猫だった。魚の匂いに釣られてか、黒猫は毒殺魔の後についてきたのだ。可愛らしい来客に女性陣は思わず顔を綻ばせた。女性が毒殺魔に頼んでイカの切れ端を投げてもらうと、黒猫は喜んで食べ、人懐っこく毒殺魔に体を擦り付けた。買った物を冷蔵庫にしまうと、彼らは並んで芝生に腰掛け、そろって黒猫を愛でた。 しばらく経ち、用もなくそこらを歩き回ることに限界を感じた公立中学校に通う男子が戻ってきた。彼は室内に入ると、農家のおじさんよりは怖くなさそうだったマンション王に話しかけた。「あの、えっと、三階フロアは用意できませんでした……」床の掃き掃除をしていたマンション王は、気さくに答えた。「そりゃそうだ。去年の隕石で、{{傍点|文章=2mより高いところは全て砕かれた}}からな」 志仁田に衝突した小惑星は、ダイソン球のごとく地球を覆い、その結果、その軌道より上にあったものは全て砕け散ってしまっていた。だから、当然、三階フロアなどもう、残っていない。この公民館も屋根が壊れており、ビニールシートと養生テープで応急に塞いであるだけだった。あれからひと月以上経つが、まだ外には多くの残骸が散らばっている。この辺は、道の上の障害物が脇にどかされ、交通が機能を取り戻したばかりだった。都会のため優先的に復興が進められているにもかかわらず、小惑星衝突の爪痕はまだまだ色濃かった。 マンション王は男子のおつかいの失敗を気にもしていないようだった。男子はほっと息をつくと、早々に退散することにした。その前に預かったカードを返そうと机に置いたところで、彼は自分の名前が書かれた自学帳が置いてあるのに気づいた。彼は驚いたが、バッグの中からノートがなくなっていることを確認すると、ノートを回収した。出発前にでも落として、誰かが拾ってくれていたのだろう。男子は今度こそ、そそくさと公民館を後にした。 彼とすれ違うように戻ってきたのは、ミリオタの男だった。冬の冷涼な空気もなんとやら、運動不足な彼は汗をかきかき公民館に戻ってきた。彼はスポーツ用品店の爺さんに、孫の話を聞かされた。一年ほど前、彼の孫は唐突にゴールボールをしたいと言い始めたそうだ。その頃はパラリンピックを控えた時期で、テレビでゴールボールを知り、やりたいと言い始めたのかもしれない。しかし簡単に道具を集められるスポーツではない。そこで、父親は簡易的な球を作ることにした。空気を入れて膨らませる中くらいのゴムのボール。それに小さな鈴をいくつか入れて膨らませるだけだ。これで、転がすと音が鳴るゴールボールの完成だ。親子は家の中でボールを転がしてそれを止めるだけの手軽な遊びを楽しんだという。ミリオタの男はその話に倣うことにした。店の子供向けグッズコーナーで緑色のボールを買い、ついで百均で極小の鈴をいくつか購入した。ボールの空気を入れる穴から鈴を入れ、付属の空気入れで球を膨らませば、一抱えほどの簡易ゴールボールの完成だ。それを抱えた男は、公民館の前で黒猫の出迎えにあった。鈴の音に惹かれたのか、前脚をくいくいとボールに伸ばす猫の姿に男は思わず破顔した。ボールを渡すと猫はそれに飛びつき、涼やかな音を立ててボールと戯れ始めた。男は芝生の上の一座に加わり、黒猫を愛ではじめた。 続いて戻ってきたのは精肉店のおばさんだった。長話を切り上げて、乾物店で買ったひじきをマイバッグに入れて歩いてきた彼女は、黒猫と遊ぶ一同と会って少し話をしたあと、公民館に入って机にひじきを置き、部屋の整備をしている男性陣と世間話を始めた。噂好きの彼女にマンション王は自らの半生を自信満々に聞かせ、今回も話は長引きそうである。 太陽が傾いて空が薄い橙に染まり出した頃、傘を持ったサンドバッグマイスターと軽機関銃を抱えた伊賀流忍者が公民館前でばったりと出くわした。本業はジムトレーナーであるサンドバッグマイスターは忍者の鍛え抜かれたしなやかな筋肉を賛美し、二人は室内の机に戦利品を置いた。部屋ではマンション王がおばさんの質問攻めに遭っていたため、二人はそそくさと退出した。そこでは、疲れたのかひじきの妖精と黒猫が並んで眠っており、毒殺魔とゴールボール好きの女性とミリオタの男が談笑していた。二人もその輪に加わったところで、忍者は芝生に転がっていた簡易ゴールボールに目を留めた。せっかくだからと、忍者はさすがの俊敏さで室内へ取って返し、サンドバッグマイスターが買ってきた和傘を手に戻ってきた。それを開いた忍者はゴールボールを投げ上げると、器用に傘を回してその上で球を転がし始めた。持ち前の身体能力でバランスを取る忍者の姿に、皆は歓声と拍手を送った。その物珍しい風景に通行人が立ち止まり、人は人を呼び、少しすると公民館前には小規模な人だかりができた。駆けつけたある二人組はスマホで忍者の傘回しを興奮気味に撮影していた。 そこへ一台のタクシーが乗りつけ、中からは舞妓さんが出てきた。運転手も降りて、トランクから液体窒素入りの重いボンベをなんとか下ろした。室内の整備を終えてちょうど外へと出てきた農家のおじさんが、自慢の腕っぷしでボンベを室内に運び込み、数輪の薔薇を持った舞妓さんが後に続いた。中では、おばさんの詮索の矛先が雪女に移っていた。「あなた、どうして薔薇を咥えてるの?」「あ、あの……好きなんです。狩野英孝」「そうなの⁉︎」 そして街が夕焼けに染まった午後五時、志仁田が公民館に戻ってきた。志仁田に気がついた数人は彼女に着いて公民館に入り、そこでいまさらの調理が始まった。この際、農家のおじさんが全ての材料を把握してはいなかったこと、そして志仁田が農家のおじさんの言を鵜呑みにし食材のチェックをあまりしなかったことが、いまさらの危険性を大きく下げることに繋がった。サンドバッグはテーブルクロスとなり、和傘とゴールボールは外で使われており、YS-11とまきびしは<s>ギリギリ</s>食べられるものに変わっており、自学帳と三階フロアに至っては用意すらされていなかった。しかし、それでも用意された材料の種類が膨大であったこと、普通サラダには食べられるものばかりが入っているという偏見が手伝い、志仁田はこれに気づくことなくいまさらの作成に取り掛かったのだ。 十分ほどで作り終え、志仁田が食べ始めたいまさらは、しかし、決して安全なものではなかった。トリカブトとフグの存在である。トリカブトに含まれるアコニチンなどのアルカロイド、フグに含まれるテトロドトキシンは猛毒であり、致死量を優に超えるこれらを含有するいまさらは、志仁田を確実に死に至らしめるはずだった。しかし、アコニチンとテトロドトキシンには{{傍点|文章=拮抗作用}}がある。どちらも強力な神経毒だが、前者はナトリウムイオンチャネルを活性化、後者は不活性化するため、両者の毒性が打ち消し合うのだ。志仁田がいまさらの危険性を増そうと投入したフグだったが、いま志仁田の体内ではトリカブトの量と奇跡的なバランスが取れ、一方が先に吸収されて均衡が崩れるまでの約一時間の間、双方の毒性が無効化された状況にあった。 そして志仁田は最後に残った水菜を飲み下した。箸を置いた志仁田は、いまさらの全く調和の取れていない味に、顔を歪めて「不味い」と言った。今や、いまさらには志仁田を害しうる材料は入っていなかった。志仁田が顔を上げると、部屋には何人かがこちらを見守っていた。カメラを向けている者もいる。彼らは志仁田といまさらの戦いの決着を固唾を呑んで見届けようとしていたのだが、当の志仁田には知る由もない。ご飯を食べた後は片付けである。自殺を試みているのだが、志仁田はいつもの習慣で、皿を洗わねばと立ち上がった。 いや、{{傍点|文章=立ち上がろうとした}}。志仁田は立ち上がることができなかった。足が動かなかった。志仁田はそこで、頭がひどく痛むことに気がついた。それだけではない。心拍が速い。呼吸が苦しく、顔がやたら熱い。視界の周りが黒く狭まり、周りの音が遠ざかって、心臓の早鐘だけがどくんどくんと耳を占めていく。急速に遠のいていく意識の中、志仁田は死を予期した。望み通りいまさらは私を殺してくれる。充足感が心を満たす中、志仁田の体はぐらりと傾き、倒れようとする瞬間、ガラスの割れる音がかすかに耳に届いた。 {{vh|vh=80}} その音を志仁田は知っていた。ここは、そう、近所の農家の爺さんの小屋。農薬の瓶を呷って、めちゃくちゃ苦くて、次の瞬間喉が焼けて、胃の中身を全部ぶちまけた。そのとき、窓が割れる音がして、視界が真っ暗になる中、あいつが私の背中に手を当てて……。その感触が過去の記憶でなく現在のものであることに気がついたとき、志仁田の呼吸は楽になっていた。 <br>「空気の入れ換えが済んだら、皆さん外に出てください。そこのあなた、あのボンベを閉じてくれますか。そう、それです」 <br> 品瀬琢内が左腕で志仁田の体を支え、右手で周囲にてきぱきと指示を出していた。志仁田が気を失っていたのは数十秒のことだったようだ。 <br>「なんで、いるの」 <br>「<ruby>少女風<rt>がーりー</rt></ruby>ちゃん、気がついた?」 <br>「リオにいる、はずじゃ」 <br>「無理に喋っちゃダメ。もう息は苦しくない?」 <br> 不承不承頷く志仁田に品瀬は微笑みかけた。 <br>「少女風ちゃん、僕のこと騙したね?」 <br> 悪びれる風もなく頷く志仁田に、品瀬は苦笑いを浮かべる。 <br>「すっかり騙されてたんだけど、飛行機の中でやきもきしながら写真を見ていたら、気づいたの。そんなモコモコのセーターを着てて、{{傍点|文章=暑くないのかな}}って。ブラジルはいま夏でしょ?」 <br>「そうなの?」 <br>「そうだよ。そうして調べてみたら、写真がネットのフリー素材だとわかって、慌てて引き返したってわけ」 <br>「引き返したって、ダラスから蜻蛉返りしても間に合わないはず……」 <br>「機長に直談判して、羽田に直接引き返してもらったよ。志仁田少女風の危機だって言ったら、喜んで協力してくれた」 <br> なぜ協力してくれるのか、志仁田には皆目見当もつかない。志仁田は上体を起こし、周りを見渡した。窓は割られ、扉は大きく開け放たれ、冬の夜の冷たい風が吹き抜けていた。 <br>「そうだ、私、いまさらを食べて、そしたら頭が痛くなって……」 <br>「ううん。いまさらを食べたからじゃない」 <br> 首を傾げる志仁田に、品瀬は怒った顔をしてみせた。 <br>「少女風ちゃん、液体窒素のボンベを開けた後、蓋を閉めなかったでしょ」 <br> さっきおじさんが閉めていたやつだ。 <br>「窒素がどんどん蒸発して、この部屋の{{傍点|文章=酸素濃度が下がっていた}}んだ。もうちょっとで窒息するところだったんだよ? 閉め切った部屋で液体窒素を扱うのは本当に危ないんだ。もうこんなことしちゃダメだよ?」 <br> ここに来て、ようやく志仁田はまたしても自殺に失敗したことに思い当たった。それに気がつくと体の力が抜けて、心が塞いで、部屋に吹き渡る風が寒々と体を凍らせた。意気消沈した志仁田は、恨みがましく品瀬を睨んだ。 <br>「なんでここがわかったの」 <br> 品瀬はたじたじとしつつも答えた。 <br>「さっきまでこの部屋にいたコイコイってYouTuberが、少女風ちゃんがいまさらを作ってるって中継してたんだ。液体窒素で危険な状況にあるってのも、それを見て気づいた」 <br>「そう……」 <br> 悲しげな志仁田を見て、品瀬は沈痛な表情になるが、立ち上がって手を引く。 <br>「歩けそう? 外に出よう。一応病院で診てもらうよ」 <br> 志仁田は抗うことなく立ち上がり、背に手を添えられながら歩き出す。 <br>「ねえ、少女風ちゃん、聞いてもいい?」 <br>「うん?」 <br>「これも自殺未遂、なんだよね」 <br>「……」 <br>「どうしてなの? 今日こそ聞かせてほしいな。どうして少女風ちゃんはこんなことを……」 <br> 志仁田は背を丸め、細かく震えていた。その額に大粒の汗が浮かび、顔が蒼ざめていることに、品瀬は気づくのが一瞬遅れた。 <br> 膝ががくんと折れ、両手を床についた。背中が大きく波打ち、志仁田は激しく嘔吐した。激痛が腹部を襲い、たまらず床に片肘をつく。嘔気がとめどなく込み上げてきて息が吸えず、涙と酸欠で視界が狭まっていく。誰か救急車を呼んでくれという品瀬の叫び声が聞こえてきて、これが死かと志仁田は思い、待ち望んだそれに何か思う暇もなく、再度の嘔吐とともに志仁田は意識を失った。 {{vh|vh=100}} <span style="font-size:150%">あくる日</span> ---- 「少女風ちゃん。もう起きて大丈夫なの?」 「うん」 「広い病室だね」 「落ち着かないくらい」 「お母さんは?」 「私の着替えを取りに、家に戻った」 「そう。ひとまず安心したよ」 「……」 「食中毒だって。黄色ブドウ球菌。昨日の昼に何食べたの?」 「……自分で握ったおにぎり。次からちゃんと手洗うから、もう許してよ。さっきまでお母さんにこっぴどく叱られてたんだから」 「それは災難だったね」 「ほんとに。今までこんなことなかったのに。あんなひどい痛みと吐き気も初めてで。でも今は元気」 「よかった、本当に。これからは気をつけてよ?」 「……また失敗しちゃった。これで最後って決めてたのに、結局は最後まで失敗続き」 「……ねえ、昨日聞きそびれたことだけど。少女風ちゃんが、その……死のうとするのはどうして?」 「……」 「人間関係の悩みとか? 学校で嫌な目に遭ってるとか? それとも将来を悲観して、みたいな? なんであってもさ、よかったら僕に教えてくれない?」 「忘れた」 「え?」 「なんでだったかな。昔のことだし、忘れちゃったみたい。ほんとに思い出せない」 「そんな……うーん、まあ、覚えてないならいっか……いいのか?」 「それを言うならさ、そっちだって私の自殺を邪魔し続けてきたじゃない。それはどうしてよ」 「決まってるじゃん。僕は少女風ちゃんに生きててほしいからだよ」 「なんで?」 「僕は少女風ちゃんのことが好きだから。ずっと言ってきたことだけど」 「そうなの? ごめん、聞いてなかった」 「そんな…………まあとにかく、僕は少女風ちゃんに生きててほしいの! だから自殺なんてしないでほしい。でも少女風ちゃんにもそれなりの理由があるんだろうから、それを……」 「ああ、それはもういいよ。もう自殺はしない。これで最後って決めてたから」 「そうなの! やった!」 「はあ……自殺って案外難しいんだね」 「そんなことないよ。実際昨日もかなり危なかったんだから。ちゃんと毒を飲んでたわけだし、食中毒による嘔吐がむしろラッキーだった」 「胃洗浄は死ぬかと思った」 「他にも山ほど危ないものがサラダに入りかけてたんだから。たまたまサラダに混入しないで済んだだけで……あれ?」 「どうしたの? 変な顔して。何見てるの?」 「昨日の動画。例のYouTuberが撮ってたやつ。あ、やっぱり」 「なんかあった?」 「僕は昨日これを羽田で拾ったタクシーの中で見てたんだけど……ほら見て、機関銃を皿に入れる少女風ちゃんが写ってる」 「自分の動画ってなんか恥ずかしい」 「いやそんなことより、少女風ちゃん、あのとき銃を食べた?」 「え? うーん、皿にあったものは全部食べたけど……」 「あんなもの食べたら食中毒じゃ済まないよ。そもそも口に入らないでしょ」 「でも私、いまさらを平らげたよ?」 「そう。映像を確認しても取り出されてたりなんかしてない。{{傍点|文章=軽機関銃がいつの間にか消えてる}}んだ」 「うーん……気づかない間に食べちゃったんじゃない?」 「はは、まさか…………待てよ、<ruby>軽機<rt>けいき</rt></ruby>……?」 「どうしたの? また変な顔してる」 「……お母さん、{{傍点|文章=食べてくれたのか}}?」 「なんの話?」 「……母親との、約束があってさ」 「たっくんのお母さんって、四歳の頃に死んじゃったよね」 「……小さい頃の、約束だよ」 「ふーん。私もお父さんとなんか約束しとけばよかったなあ」 「そうだ、少女風ちゃん」 「何? 改まって」 「昨日バタバタしてて言いそびれちゃったけど、誕生日おめでとう。これ、プレゼント兼お見舞いの品。有田みかん」 「え、やった! おいしそう! あ、待って。私、しばらく病院食しか食べちゃいけないって言われてるんだった。うわー!」 「じゃあ僕が預かります」 「ひどい! 鬼! 生殺し!」 「人殺しみたいに言わないの」 「そういや毎年くれてるっけ。お礼しなきゃね。たっくんの誕生日いつだっけ。プレゼントあげる」 「1月19日」 「うわ、過ぎたばっかじゃん」 「来年でいいよ」 「ほんと? どんなみかんがいい?」 「みかんであることは決まりなんだ」 「てかその有田みかん食べないでよ? 私のだからね!」 「じゃあ約束しよう。少女風ちゃんが退院したら、僕はこのみかんをあげる。その代わり、来年の僕の誕生日にプレゼントをちょうだい」 「いいよ」 「ゆびきりげんまんしよう」 「え? まあいいけど」 「ほら、小指出して。ゆびきりげんまん、噓ついたら針千本は呑まさないけどみかんは全部食ーべる!」 「あ、ひどい!」 「ゆびきった!」
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