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アンモク共和国
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===エドワードによる侵略=== 時代は移って1313年、アンモク共和国は、エドワード(Oedvort、ファミリーネームなし、1288年8月12日 - 1352年12月31日)という外国人に侵略を受けた。 ====侵略の詳細==== エドワードは旅人だった。服装や持ち物、あるいは生への執念やフットワークの軽さなどは他の旅人と何ら変わりはなかったのだが、唯一決定的な違いがあった。思想である。彼は「アンモク共和国の存在は本来的に邪悪である。征服できるものなら征服して、正義に導いてやりたい」というようなことを普段から平気で考えていた。その思想に自ら危険意識を持っていた彼は、アンモク共和国のあるピートロヘトには足を踏み入れないよう、厳重に注意していた。 普通の旅人生活を送っていたエドワードだが、彼の25歳の誕生日、すなわち1313年8月12日、友人のサプライズで目隠しをされ、ピートロヘトに作られたパーティー会場<ref group="†">現在と違い、当時は外国人が勝手に領内に入って自由に経済活動をすることが許された。</ref>に連れてこられてしまう。目隠しは会場に着いてから室内で外されたため、しばらくはその地がピートロヘトであることは意識されなかった。しかし、会話の流れでエドワードにそれが明かされると、不意に立ち上がり<ref group="†">このとき、あまり勢いよく立ち上がったため、座っていた椅子は後方に吹き飛んで大破した。</ref>、会場を飛び出して、アンモク共和国の議事堂まで突っ走り、議事堂の庭から木の枝をせっせとかき集め、持っていた3つの百円ライターで火をつけ、建物にそれを投げ込んで放火した。議事堂は59日かけて全焼し、そのときの気温マイナス8度は、アンモク中を震え上がらせた。 [[ファイル:アンモク共和国現議事堂.jpeg|146px|thumb|right|エドワードが建てた、現在も使用されるアンモク共和国議事堂。]] ほどなくしてエドワードは議事堂の跡地にもう一度議事堂を作り、議員を自分のみにしてほぼ思い通りの議決を出したり<ref group="†">「ほぼ」としたのは、国民に円周率314桁の暗記を強制させる旨の法案を1314年1月5日午前9時に可決するという洒落たことをやりたかったのに、当日に風邪をひいて議会を欠席してしまうなどの出来事があったためである。</ref>、人々を集めて何度か演説をしたりした。この独裁は、1352年に彼が死ぬまで続いた。 ====41アパーラ令とその影響==== 39年間にも及んだこの独裁体制下での出来事のうち最も印象的なのは、恐らく1329年の'''41アパーラ令'''発布・施行である。41の「アパーラ」(エドワードの国の言語で「してはならないこと」の意)を定めた法令で、この体制においては強力な拘束力を持つものとされた。違反者は死刑が原則だった。ただ、アンモク共和国で正義を実現するためとも、あるいは独裁者として堂々と私欲を満たすためとも思えない、いわば「中途半端な」規則が目立つ。具体的には、以下の事項が禁止された。 {| class="mw-collapsible mw-collapsed" |+'''41アパーラ令に定められた禁止事項''' | #公共の場で酒やたばこをやってはならない。 #いついかなるときも乱暴な発言をしてはならない。<ref group="†">この規則によって人々の発話頻度は20分の1に減少した。</ref> #目上の者との和を乱してはならない。 #親の愛を侮ってはならない。 #老人を酷使してはならない。 #老人及び妊婦を殴ってはならない。 #てんかんを発病した者を5人以上の健常者をもって差別してはならない。 #宗教的な表現を用いてはならない。<ref group="†">エドワードはこの規則を字義以上に厳しく施行し、「兄弟」という言葉さえ使用禁止にした。</ref> #エドワード<ref group="†" name="名前呼び">彼は自分のことを名前で呼んでいたようである。</ref>とすれ違ったときは挨拶を忘れてはならない。 #エドワード<ref group="†" name="名前呼び"></ref>に対する挨拶は土下座または国歌<ref group="†">この「国歌」が古来からのアンモク共和国国歌を指さない可能性は高いが、エドワードが独自の国歌を作った痕跡は見つかっていない。</ref>の奉唱でなければならない。 #エドワード<ref group="†" name="名前呼び"></ref>の陰口を言ってはならない。 #永遠を求めてはならない。 #スモモの下で冠を直してはならない。<ref group="†">この規則は理不尽な規則の代表格として知られた。人々はこれを皮肉って、「たとえ何一つ間違いのない行為でも、それが面倒を招くのなら慎みなさい」の意味で「スモモの下で冠を直すな」と言ったりした。これが「李下に冠を正さず」ということわざの由来である。</ref> #公共の場で[[影踏み|じゃんけん]]をするときはグーを出してはならない。<ref group="†">暴力を助長する恐れがあるためであったと考えられる。</ref> #きらきら星のメロディーに乗せてドイツ語アルファベットを歌ってはならない。<ref group="†">「アーベーツェーデーエーエフゲー ハーイーヨットカーエレメノペー クーエルエスウントテーウーファオ ヴェーイクスユプシロンツェットエスツェット」となり、英語版には存在する脚韻が損なわれるためであったと考えられる。</ref> #羽を休めているトンボを注視してはならない。<ref group="†">どうやらトンボのプライバシーを守るためらしい。</ref> #身長が2メートルを超えてはならない。 #一国について説明する文章に299日も掛けてはならない。 #画像リプを送っただけで何か主張した気になってはならない。 #ふと突き落としてはならない #無心に刺してはならない。 #うっかり撃ってはならない。 #気軽に熱してはならない。 #思慮なく潰してはならない。 #何とはなしに絞めてはならない。 #怒りで震えて涙が止まらない。 #老人を殺してはならない。 #ペーパーレス化のマッキンリー山では、12枚の高層ビルは電卓を必要としてはならない。 #私が見つけた真に驚くべき証明を書けるほどの余白を用意してはならない。 #机の引き出しに枕を3つ以上入れてはならない。 #テーブルにアイロン台を置いてその上に飛び乗り、サーフィンみたいにしてはならない。 #日没以降、部屋の窓を開けてサッシに肘をつき、「物思いする自分」に陶酔してはならない。 #リモコンの電池ホルダーを何往復かスライドさせて、DJみたいにしてはならない。 #メントスのごみを落とした者が男子である可能性が高いことを、男子全員が罪悪であることの根拠にしてはならない。 #18時30分までに犯人を見つけ出して職員室に報告しに来るように自分の方から言い付けたのに、18時10分頃に帰ってはならない。 #「偽善」という言葉が気に食わなかったからと言って、残りの授業時間を全部自分が喋りたいことに消費してはならない。 #しょうもないことしか言えないのに、作業中の生徒を集合させて説教っぽいことをしてはならない。 #授業のスライド資料の文字に読みづらいポップ体を使用してはならない。 #生徒から「既往歴」の意味を尋ねられたのに無視してはならない。 #必要性皆無なのに「ポルノ税」なる税を紹介し、教室の空気を凍りつかせてはならない。 #以上40の規則を破ってはならない。 |} この法令の施行直後、エドワードは行政に法務部を設置し、自ら長官となった。<ref group="†">それ以前から住民自治会議の管轄として同名の機関があったが、この法務部とは全く異なる。</ref> 部下が一人も居なかったのにもかかわらず、業務は甚だ楽であった。アンモク共和国が当時から人口の少なかったこともあってか、41アパーラ令違反は2年か3年に一度くらいしか発生しなかったからである。 41アパーラ令の第3、4、27条は'''「老人三法」'''と総称されていたが、幸か不幸か、人々は老人に危害を加えてばかりいたので、法務部の仕事はほとんど老人三法に関するものに限定されていた<ref group="†">このことから、当時の法務部は「老人法務」と呼ばれていた。</ref>。エドワードは幼いころから目の前の人間が老人に危害を加えたかどうかを判別する能力に長けていたようだが、さらに法務部長官として経験を積むことでその技量は上達し、業務はより迅速に、より容易になっていった。 41アパーラ令施行からおよそ23年後の1352年12月30日、エドワードは、机の引き出しに枕を7つ入れていた529歳の女性を第30条を根拠に逮捕・処刑した。その日の晩、眠りにつく直前に彼が気づいたこととは、自分が老人を殺してしまったということである。律儀で愚鈍なエドワードは翌日の正午ごろ、第27条を根拠に自らを逮捕し、絞首刑の代わりとして服毒自殺した。 彼が自殺したことはその日のうちに国民全員に知れ渡り、人々は前議長の[[ミトシ・ハヤカワ]]を議長に再任させ、これがエドワード独裁体制の事実上の崩壊となった。 ====独裁体制のその後==== エドワード独裁体制崩壊の翌月13日、議長をミトシ・ハヤカワとする住民自治会議は、侵略の再発防止のための'''特別決'''を出した。その骨子は以下の通りである。 <blockquote> *現時点においてアンモク共和国国籍を持たない国内滞在者及びその国内不動産は、1352年2月15日をもって退去及び撤去させる。退去または撤去しないものは、事由を問わず、同年同月20日をもって処分するものとする。 *原則として、アンモク共和国国籍を持たないいかなる個人及び法人も、1352年1月14日より本国領内に入ってはならない。 **アンモク共和国国籍を持たない個人または法人は、住民自治会議から特別の入国許可を受ける場合においてのみ、本国領内に入ることができるものとする。 </blockquote>
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