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オーストロェイリア
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====腸詰自衛陣営の創立==== 西暦929年、深刻な物資不足と長引く戦争による経済の疲弊によって行き詰ったオーストロェイリア=ハングリー帝国は、苦肉の策として独自の陣営である'''腸詰自衛陣営'''を創立し、チョリェソ王国などを招待することで腸詰同盟陣営の逆包囲を図った。 {|class="wikitable" style="background-color:white;" |style="border:1px solid white;"|[[ファイル:World_War_2_2.png|代替文=|フレームなし]] |style="border:1px solid white;"| {| class="wikitable" |'''腸詰同盟陣営''':<span style="background-color:red ; color:red ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''腸詰機構陣営''':<span style="background-color:yellow ; color:yellow ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''腸詰自衛陣営''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |} |} この試みは運よく成功をおさめ、腸詰同盟陣営はこれ以上前線を伸張させることが事実上不可能になった。さらに西暦1000年には、'''機構・自衛合同大規模反攻'''が発生。これによって腸詰同盟陣営は、アフリカ、東南アジアにおける領域を完全に失うこととなる。 劣勢から立ち直った腸詰機構陣営は包囲殲滅を繰り返し、1008年、ついに強襲上陸によってファシ・サルァミ王国に占領されていたハゥム帝国本土の奪還に成功。戦力を消費しつくしたファシ・サルァミ王国は降伏した。 これにより、第一次腸詰国間戦争時と同じく今まで中立を維持してきたハンバー合衆国は最早腸詰同盟陣営に勝ち目はないと判断。1010年には、勝ち馬に乗るために腸詰機構陣営に参加した。その後しばらくは腸詰同盟陣営も抵抗を続けるも、終ぞ巻き返すことはできなかった。西暦1019年、フランクファルタ帝国およびカルプヮス帝国が無条件降伏する形で、第二次腸詰国間戦争は幕を下ろした。
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