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租唖
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==隆盛== 1938年の正月、初めに異変に気づいたのは、多山清子という女じゃった。彼女は加茂町行重の貝尾集落に住む米農家で、夫と共に、老父と息子二人を養っていた。体の丈夫さには自信があり、三十路を過ぎても病気知らずじゃった。その時までは。 その日、清子は田の様子を見ようと、薄く雪の積もった道を歩いておった。しかし家を出て少しした所で、慣れない雪に重心を崩して左肩から転けてしもうた。その瞬間、激しい痛みが走り、思わず清子は悲鳴を上げた。肩の骨が、折れたのである。慌てて清子は肩を庇いながら家へと取って返し、応急処置を受けた。 清子は腑に落ちなかった。いくらなんでも骨がこんなに容易く折れるだろうか。体調の異変は少し前から感じていた。膝が痛むのだ。今日転んだのはその所為でもある。何かおかしい。何かが私の体を蝕んでいる気がする。そんな怯えが渦巻いておった。 その後、清子の体調は悪化の一途を辿った。手足の痛みはますますひどくなり、体を動かすと痛むから寝床に臥しがちになっていった。清子の異変はすぐに村中に広まった。そんな中、二人目の患者が現れる。これも貝尾集落に住む老婆で、関節痛から始まり、囲炉裏に躓いて足を折ったという。同居する孫が懸命に面倒を見たが、病状は悪化するばかりじゃった。 三人目からは勢いがぐんと増した。あれよあれよという間に、同じような症状が出て寝込む者が相次いだ。その殆どが、三十を過ぎた女たちじゃった。皆、四肢の痛みから始まり、骨が有り得ぬほど脆くなってゆく。二月に入る頃には、病人は十名ほどになっておった。清子を始めとする幾人かの患者たちの病状は更に悪化し、貧血、皮膚の褐変、手足の痺れといった症状も見られるようになった。 麓の町から医者が呼ばれたが、どうにも処置のしようが無い。見たことのない奇病に、できることは痛み止めを処方するくらいじゃった。そうしているうちに患者は少しずつ、じゃが確実に増えてゆく。そして三月下旬には、貝尾の隣の集落にも初の罹患者が出た。この病は、加茂町行重全体に勢力を広げ出したのじゃ。 医師は天手古舞じゃが、如何せん田舎の診療所、できることは少ない。そんな中、遂に清子が死んだ。小さい息子が巫山戯て蒲団の上から清子に飛び乗り、胸郭が潰れたのじゃ。恐怖は貝尾集落だけでなく、行重全体に充満した。様々な噂が飛び交った。曰く、栄養素の不足。曰く、火の神の祟り。曰く、支那国の兵器。曰く、…。 その中でも最も有力じゃったのが、流行り病という説じゃ。まあ、常識的に考えれば当然帰着するところじゃろう。患者が同じ村に集中しているしの。じゃから、親戚の伝手を辿って行重を離れる者すら出て来た。しかし、ほとんどの者は家族に病人がいるなどして、脱出は叶わなかった。 五月には、患者は三十人を超え、既に三人が命を落とした。行重を襲っている病の噂は徐々に広まり、新聞の記者さえ度々訪れるほどにまでなった。そして、記者はこの災禍を、貝尾の人が使った呼称を全国に広めた。曰く、'''租唖'''。
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