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惨闢
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==8月13日20時40分 瑞慶覧雅登== 息を弾ませ、雅登は道を走っていた。後方からは、ビルが打たれる轟音が響いてくる。血でぬらつく両の手のひらを握り、車道をとにかく遠くへと駆ける。 振り返ると、黒々とした巨体が200メートルほど離れたところに、十分大きく見えた。地上では、大量の人が一方向に逃げていく。雅登もその中の一人だ。車道には、乗り捨てられた車がそこかしこに転がっている。それらを縫って走る群衆に、周りの家屋から出てきた人々が次々と加わっていく。祭りかと見紛うほどの人数が、そこにはいた。彼らの表情に、尋常でない恐怖と混乱が浮かんでいなければ。無秩序な悲鳴と遠い衝撃音が聞こえてこなければ。暴虐の化身の襲来に、群衆はパニックに陥っていた。 通勤鞄を持ったままのサラリーマン、ハイヒールを脱いで素足で走る女性、小さな子供をおぶっている母親……さまざまな人が、雅登と並んで走っている。モノレールの駅から脱した雅登は、大通りをそのまま走って逃げた。しかし、不運なことに、巨人の移動方向と逃げる方向が一致してしまった。追いつかれこそしていないものの、5分弱走り続けた割に、距離を稼げていない。 上空から、ヘリコプターの飛行音が響いてくる。自衛隊の軍用ヘリだろうか、ひょっとすると米軍のものかもしれない。まるで特撮映画みたいだ、なんて呑気とも言えることを雅登は思った。その時、ぎゃっという叫びが前方から聞こえた。目を向けると、転んだのか若い女の人が道路に倒れ込んだところだった。次の瞬間、後続の集団の無数の足が、彼女を踏み越えていき、くぐもった悲鳴が響いた。反射的に雅登は目を逸らした。前方に視線を固定し、女性が横たわっているであろう場所の脇を走り抜けていく。雅登は、振り返らなかった。体がこわばり、息が苦しくなる。でも、足を止めることはできなかった。乾いた目で、地面を凝視する。足に神経を集中させる。間違っても、躓いてしまわぬように。 耳をつんざくような轟音が後ろからしたのは、その時だった。はっと振り返ると、巨人の横のビルが、だるま落としのようにふっと下へ落ちるところだった。ドドドという音がし、火砕流のような粉塵が地上を高速で舐めてくるのが見えた。咄嗟に、雅登はリュックを捨て、群衆の列と垂直方向に走った。後続の人と次々に体がぶつかるが、どうにかバランスを保って走る。雅登が列から脱し、ビルの合間の路地に飛び込んだのと同時に、大通りを土煙が襲った。灰色の雲が一気に群衆を覆い、全く見えなくなる。いくつもの悲鳴が、煙の中から迸った。路地にも粉塵と細かい礫が舞い入ってくる。目に沁み、呼吸がしづらくなる。ハンカチで口を覆い、立ち上がった。必死に路地の向こうへと走る。 路地を抜けて一本向こうの道に出ると、目と喉の痛みはだいぶましになった。道幅は狭く、人影はない。さっきと同じ、巨人から離れる方へと駆け出した。息が切れ、なかなか足が動かない。こんなことなら、もっと体力をつけておくんだった。足が遅いから死ぬんだろうか。涙が出てきた。 ふと、そこらを満たす悲鳴の喧騒の奥に、バリバリという異質な音が聞こえるのに気づいた。これは、と走りながら巨人の方を振り仰ぐと、家並みの上に、軍用ヘリが見えた。機体の下に閃光が見える。巨人を撃っているのだ。いいぞ、そのまま引きつけていてくれ。そう切に祈った。 ヘリは巨人と少し離れたところにホバリングしている。軍が倒してくれるという安堵と、軍が相手しているということはただ事でないんだという恐怖が、同時に雅登の心に押し寄せる。その時、巨人が大きな右腕をヘリへと伸ばした。あのモノレールの車両を、さらに瓦礫が覆った、鉄とコンクリートの腕。しかし、ヘリに届く長さでは到底ない。 次の瞬間、ヘリがぎゅんと急発進した、ように見えた。機体のバランスが崩れ、錐揉み状態になる。だが、まっすぐ、巨人の掌に向かってすっ飛んでいく。あっという間もなく、ヘリは巨人の掌に激突、爆発した。わずかに遅れて、衝撃波が雅登の周りの空気を揺らす。ヘリの破片が散っていくのを、雅登は呆然と見ていた。いや、散っていない。一瞬舞い散るが、すぐに巨人の掌に吸い寄せられている。はっと気づいた。{{傍点|文章=引き寄せているのだ}}。巨人はヘリを、引き寄せたのだ。 いつの間にか、雅登の足は止まっていた。もう、体が限界だった。足がガクガクと震え、たまらずその場にへたりこむ。ぜえぜえと荒い息しかできない。でも、目は巨人の手から離せなかった。少し前に身を持って味わったあの重力。巨人は、それを自由に使えるのだ。まるっきり未知の能力に、既存の軍隊は太刀打ちできるのか? 急に背筋が寒くなった。 突然、シュウウッという空気を切り裂く音が、頭上から聞こえた。微かな航跡を残して何かが、巨人の胴にぶつかり、ドンと爆ぜた。一瞬、巨人が明るく照らされ、その体からいくつかの破片が落ちていくのが見えた。いつの間にか雅登の上方に来ていたヘリコプターから、ミサイルが発射されたのだった。 すぐにもう一発のミサイルが撃ち込まれる。それは正確に標的の方へ飛んでいき、今度は巨人の肩に着弾した。巨人は顕著に反応した。姿は見えないが虫の羽音が聞こえたときのように、盲滅法に腕を振り回す。みたびミサイルが巨人の鉄の皮膚を穿ち、巨人の恐慌はヒートアップした。 攻撃が効いている。そう喜ぶ余裕は、雅登には全く無かった。雅登の心中は、ヘリのパイロットへの怨嗟で満ちていた。なんだって俺の真上に陣取ったんだ、これじゃあ俺が巻き添えを食いかねないじゃないか。嫌な予感につき動かされ、雅登は立ち上がり、再び一目散に走り出した。巨人のいない方へ、道をまっすぐ逃げる。 ヘリは猛攻を加えていた。友機が撃墜された恨みも籠めてか、空対地ミサイルを絶え間なく発射し続ける。何せ的が大きい。巨人から300メートル離れていても、外れる攻撃は無かった。一発一発の威力は小さくとも、少しずつ少しずつ巨人の装甲を削ることができている。 それは、7発目のミサイルを発射したときだった。巨人の動きが止まった。ダメージを受けて動けなくなったのではない。巨人に顔はないのに、パイロットは視線に射すくめられるように感じた。ゆっくりと、巨人の左腕が上がっていく。 見つかった、と雅登は確信した。巨人は遂に、うるさい虫の姿を捉えたのだ。雅登は全力疾走しながら、首をねじ曲げて後ろを見ていた。巨人がヘリを見つけた。巨人の左腕が上がっていく。これは、まずい。ヘリもそれを察知したのだろう、ヘリが機首を上げ、後退しようとするが、それより早く巨人の掌がヘリを向いた。泣きそうになりながら、雅登は思った。だから言ったじゃないか。 グンッという音が聞こえた気がした。気がしただけで無音だったのだが、間違いなく、巨人が重力を発動したのだ。ヘリが、巨人の方にぐっと動く。しかし、ヘリは落ちていかなかった。機体を大きく傾け、機底を巨人に向け、平衡を保っていた。{{傍点|文章=下}}という方向の変化に、推力の方向を巧みに合わせたのだ。ヘリはほとんど真横になりながら、ホバリングしている。出力を上げたローターの轟音が、耳に刺さる。 雅登は心の中で、ヘリに向かって快哉を叫んだ。よくやった、頑張れ! ヘリからは100メートルほど離れたが、道がまっすぐだから、ヘリも巨人もよく見えた。もしかしたら、逃げ切れるかもしれない。 その瞬間、ヘリが巨人と反対方向に吹っ飛んだ。いや違う、巨人の重力がなくなったんだ、と雅登は瞬時に思い直した。引力を相殺するための推力が不要になり、放り出されたのだ。あたかも綱引きの最中に、相手が突然綱を離したかのように。ヘリは激しく回転して高度を下げてくる。ちょうど雅登の方へと。雅登の顔から血の気が引いた。だから、こっちに来るなって……。走るスピードを上げようとした途端、何かに激突し、胸をしたたかに打った。吐きそうになり、思わずアスファルトに倒れ込む。 後ろばかり見ていたのが仇となり、乗り捨てられた車にぶつかってしまったのだ。一瞬ののち雅登は空を見上げた。ヘリは体勢を整えていた。だいぶ高度は落ち、橇がしっかり見えるほどだったが。よかった、なんとか凌げた、と思った直後、雅登は巨人の動きに気づいた。 巨人の右腕の動きが、スローモーションのように見えた。後方からぐわあっと上がってきた右腕は、頭上にまっすぐ伸びていた。そのまま前方に振り下ろされてくる。これは、投球フォームだ。腕に遅れることコンマ数秒、右の掌に引かれた大量の瓦礫が猛スピードで射出された。こちら目がけて、まっすぐ。 「うわあぁぁああ」 <br>高速の瓦礫は、散弾のようにヘリを襲った。散弾の範囲は、動けない雅登の少しだけ上に広がっていた。唸りを上げて飛んできた無数のコンクリート片は、ヘリコプターと周りのビルや道路を砕いた。 ドガガガガと死の散弾が相次いで着弾し、雅登の後ろで石の煙が上がる。腰が抜けて、立つことができない。直後、上で爆発音がした。ヘリが胴から黒煙をあげ、激しく回転しながら落ちてくる。ヘリは最後の最後にバランスを崩し、50メートルほど先で、横倒しになって墜落した。その瞬間大きな爆発が起こり、外れたプロペラが火焔を切り裂いて道路を駆ける。巨大な回転刃は、猛スピードで雅登を襲った。雅登が横に飛び退いた瞬間、プロペラは一瞬前まで雅登が空間を裂き、車に深々と突き刺さった。プロペラに衝突された車は横転し、そして爆炎を上げた。雅登は爆風に吹っ飛ばされ、路面に転がった。炎の熱は頬を炙り、光は辺りを明るく照らしていた。 しばし雅登は呆然としていた。アスファルトにへたりこんだまま、どれほど放心していたかわからない。地面が大きく揺れ、雅登は我に返った。地響きの正体は、巨人の足音だった。こちらに向かって歩いてきている。黒い体に火をまとった巨体が、炎をあげるヘリの残骸の向こうに聳え立っているのが見えた。それが、ゆっくりと、しかし一歩ずつ、近づいてきている。 <br>「……もう許してくれよ」 <br>目から涙がこぼれた。 <br>「なんで、なんでこっちにくるんだよ。あっちいけよ。なんで……」 <br>逃げなくては。ふと、思い出した。ここから、あの巨人から、逃げなくては。雅登は震える足で、また立ち上がり、よたよたと走った。巨人が歩むたびに地面が揺れ、転びそうになる。道にはコンクリート片が散らばり、何度もそれに躓きそうになる。 嗚咽で息ができず、また倒れ込んだ。手の平が痛み、安里駅で負った傷を思い出した。ほんの数十分前の出来事のはずなのに、遥か昔のことのように思える。巨人の足音が、地獄の鐘の音に聞こえた。あれは、俺の死刑判決を知らせているんだ。逃げられないぞと、そう知らせてるんだ……。 絶望の中、雅登はゆっくりと振り返った。ほんの数十メートル先に、巨人はいた。また一歩、巨人は歩を進める。震動に体が跳ねる。あと数歩。もう少しで、俺はあいつに踏み潰される……。ふと、家族の姿が脳裏をよぎった。ホントなら今頃、俺は家に帰って晩飯を食べているはずなのに。母さんがご飯をよそってくれて、父さんはテレビのスポーツ中継を見ていて、妹は隅でスマホをいじっているはずなのに。なんで、なんでこんな目に遭ってるんだ? なんでだ? なんで……? そのとき、思いも寄らぬことが起こった。巨人が、ぐらりと揺れたのだ。そのまま巨人は前に倒れていく。それだけではない。巨人を形作る瓦礫が、崩れ落ちていく。腕が外れ、派手な音を立てて落下する。倒れて接地した部分から、ガラガラと瓦礫が崩れていく。巨体を繋ぎ留めていた引力が、解除されたのだろうか。轟音を立てて巨人が倒れていく。 巨人は雅登に覆いかぶさるように、倒れてくる。雅登は飛び起き、逃げ出した。ここで、死んでたまるか。雅登は全力で走り、横に伸びている路地に飛び込んだ瞬間、巨人が地面に激突する大音響が響き渡った。 地面が激しく揺れ、土煙がもうもうと舞い上がり、雅登を包み込んだ。雅登は頭を抱えて地面に伏せ、じっとしていた。たっぷり5分は経っただろうか。土煙が晴れ、呼吸もしやすくなってから、雅登はおそるおそる身を起こした。体に積もった粉塵を払い、振り返った。巨人が倒れた道には、うずたかく瓦礫が堆積していた。とりあえず、急に動き出したりする気配はない。 すると、道の方から、若い女の声が聞こえた。それに続いて、男の声、それから赤ちゃんのぐずる声も。雅登は道の瓦礫の上に登り、周りを見回した。左、堆積した瓦礫の突端。その上で、一組の家族が固く抱き合っていた。泣きじゃくる赤ん坊を、母親と父親が両側から固く抱き締めている。巨人の崩落に巻き込まれるのを、辛くも免れたのだろうか。雅登は心が温まるのを感じ、そっと背を向けた。後ろでその母親が、「よかった、帰ってきてくれて」と涙まじりに言うのが聞こえた、ような気がする。 俺は助かったのだろうか? 路地を歩きながら、ぼんやりと雅登は考えた。虎口を脱したのだという実感が湧かない。今になって、体の各所が痛み始めた。ずっと逃げ続けたから、体も心もふらふらだ。路地を歩きながら、雅登は公衆電話を探そうと決意した。携帯は失くしてしまった。まずは、家族に無事を伝えよう。雅登は、瓦礫の少ない方へ、ゆっくりと歩いていった。 雅登が、あの家族が瓦礫の{{傍点|文章=上}}にいたことに疑問を持つのは、まだ先のことである。 {{誓いのスタブ|署名=[[利用者:Notorious|Notorious]] ([[利用者・トーク:Notorious|トーク]]) 3年1月23日 (黃) 10:24 (JST)}}
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