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Sisters:WikiWikiリファレンス/『海と夕焼』に関する探究
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===⑵ 『海と夕焼』の聖―俗構造=== 小埜裕二は『海と夕焼』という題名より、作中における〈海〉と〈夕焼〉が異なる概念をそれぞれ表しているのではないかと仮定し、本作は、〈夕焼〉と〈海〉がせめぎ合った際の壮麗な美しさを描くとともに、〈基督の幻を見た不思議〉や〈沈黙の海を見た不思議〉が安里にとって忘れることの出来ないものでありつつも、それらの〈不思議〉はいずれも〈海〉のなかに回収され、静かに受けとめられるものであったことを語る物語だと読んだ。また、ヤコブソンの「音韻の三角形」を応用した宗教学の象徴分類において、言語が持っている示唆的特徴に基づく相互関係は他の領域においても「普通のもの」(標識のないもの)と「変形したもの」(標識のあるもの)の対立、「文化的なもの」と「自然的なもの」等の対立によって示されるという宮家準の知見を参照しつつ、「聖」と「俗」の二つの要素を作中に見出すことによって物語を説明した。小埜の読解を時系列とともに、私たちが独自に整理したのが(図ⅰ)である。 私達が疑問を覚えた点は、この「聖」と「俗」の区別についてである。同じ論文中で小埜は禅宗について「混然たる本元の一気、湛然として目前に充つ」という臨済宗中興の祖・白隠禅師の言葉を引用している。これは禅宗の基本理念を端的に表す言葉であるがこの言葉を額面通りに受け取るとするならば、小埜の「聖」と「俗」の区別に関して矛盾が見えてくるのである。一元的な禅的パラダイムにおいて「聖」と「俗」の区別はあり得ないのである。このことは「決して別れない〈海〉」というもの自体が否定していると言っても良いだろう。禅宗的パラダイムにおいて、区別することは不可能なのである。
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