メインメニューを開く
ホーム
おまかせ表示
ログイン
設定
WikiWikiについて
免責事項
WikiWiki
検索
「
ギニア
」を編集中 (節単位)
警告:
ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。
ログイン
または
アカウントを作成
すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。
スパム攻撃防止用のチェックです。 けっして、ここには、値の入力は
しない
でください!
===大インド帝国の成立と幾連印戦争=== 西暦1018年ごろ、インドは'''東インド地方及びその諸島'''、'''西インド諸島'''、'''南亜インド地方'''を併合し、'''大インド帝国'''となった。ただでさえ緊張関係が続いていたギニア連合王国とインドであったが、大インド帝国の成立によって、東南アジア・オセアニアにおいて両国間での国境の接触が生じてしまい、両国はさらなる緊張状態に陥った。 西暦1022年、大インド帝国はギニア連合王国の'''パプアニュー・ギニア州'''における'''パプア自治区'''に、キュアギニギニ信者が少ない<ref>現在でも、パプア自治区には'''「ティンクル☆ギュニキュア」'''の中でも'''キュアパプパプ'''推しが多い傾向にある。</ref>ことを理由として、同地方の大インド帝国への割譲を4回に渡って要求。 しかしギニア連合王国はこの全てを黙殺した<ref>なお、大インド帝国の要求に反応しなかったのは、先述した「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」において、キュアギニギニが「<u>積極的に話す人は嫌い</u>」と発言したことがあるからである。</ref>ため、ついにギニア連合王国と大インド帝国との間で'''幾連印戦争(ギニア連合=大インド戦争)'''が開始した。 {|class="wikitable" style="background-color:white;" |style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争1.png|代替文=|フレームなし]] |style="border:1px solid white;"| {| class="wikitable" |'''ギニア連合王国''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |} |} ====戦争初期==== =====アフリカ戦線===== 戦争初期のアフリカ戦線では、'''大インド帝国の本土'''である中央インド州が、'''ギニア連合王国の本土'''であるコナクリ・ギニア州、そしてビサウ・ギニア州に向けて侵攻を開始。 ギニア連合はエクエイター・ギニア州を中央インド州に進軍させ、<u>敵軍の背後をつく形で攻撃</u>を仕掛けた。この作戦は初頭こそ成功していたものの、西インド州を出発した'''大インド帝国海軍'''が<u>大西洋を横断して西アフリカ戦線に到着</u>。そのうえビサウ・ギニア州での<u>強襲揚陸を成功させた</u>ことで、陸からの攻撃に対する防衛に手いっぱいだったコナクリ・ギニア州、そしてビサウ・ギニア州の戦況は急激に悪化し、ギニア連合は攻勢を中断し、しばらくの間は防御に専念することになる。 =====東南アジア・オセアニア戦線===== 戦争初期の東南アジア・オセアニア戦線では、戦争が開始して僅か6時間後、ギニア連合王国のパプアニュー・ギニア州、そのパプア自治区が、東インド州から進軍してきた大インド帝国によって占領されてしまい、戦況は絶望的な状況に陥っていた。 また、<u>南亜インド州の圧倒的な人的資源による人海戦術</u>によって戦線はほとんど崩壊し、さらにパプアニュー・ギニア州での<u>ギニア連合王国軍の徴兵は限界に達した</u>ことで、もはやパプアニュー・ギニア州での組織的防衛、とりわけ陸軍は目立って機能していなかった。 {| class="wikitable" {|class="wikitable" style="background-color:white;" |style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争2.png|代替文=|フレームなし]] |style="border:1px solid white;"| {| class="wikitable" |'''ギニア連合王国''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |} |} ====戦争中期==== =====アフリカ戦線===== 戦争中期のアフリカ戦線では、東南アジア・オセアニア戦線でのパプア・ニューギニア州の劣勢によって士気を上げた大インド帝国軍の攻撃はさらに激しくなり、さらに<u>東南アジア・オセアニア戦線の大インド帝国軍がアフリカ戦線に引き抜かれた</u>ことで、ギニア連合王国軍のアフリカ戦線はますます苦しい状態になっていった。 この戦況を打破するために、エクエイター・ギニア州は隙をついて[[有無ジェリア]]近辺に進軍。<ref>なおこのとき、戦火の影響で'''有ジェリア地方'''には'''有事'''が起こった。しかしながら、'''無ジェリア地方'''は'''無事'''だった。</ref><u>大インド帝国軍は全軍を西に向けていた</u>ためエクエイター・ギニア州からのギニア連合王国軍の進撃に反応できず、ギニア連合王国軍は中規模ながら<u>大インド帝国軍の包囲殲滅に成功</u>した。これによって大インド帝国軍の戦力は分散され、この隙をついてビサウ・ギニア州は<u>大インド帝国海軍による[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E9%A0%AD%E5%A0%A1 橋頭堡]を破壊</u>、こうしてギニア連合王国軍と大インド帝国軍の勢力は再び均衡した。 =====東南アジア・オセアニア戦線===== 戦争中期の東南アジア・オセアニア戦線では、ついに<u>ニューギニア島全土が大インド帝国軍によって掌握</u>され、もはやパプアニュー・ギニア州は'''ビスマーク諸島のみ'''であった。しかしギニア連合王国海軍は、一縷の望みとして<u>西インド州への逆侵攻</u>を計画し、それを実行。なんとか太平洋を横断した同海軍は、この計画を成功させた。西インド州はこの急襲に対応できず、西暦1026年、瞬く間に中核都市である'''ハバナ'''を失って降伏した。 <u>大インド帝国海軍の本拠地であった西インド州</u>を失ったことで、同海軍は大幅に弱体化した。このため大インド帝国軍は、南亜インド州の人的資源をさらにアフリカ戦線に割かなくてはならなくなり、東南アジア・オセアニア戦線が手薄になった結果、戦線は再び構築され直され、翌年にはギニア連合王国軍はパプア自治区も含めた<u>パプアニュー・ギニア州の全土の奪還に成功</u>する。 =====ナントカスタン中亜同盟の参戦と南アジア戦線===== 西暦1026年、中央アジアの国々によって構成される'''ナントカスタン中亜同盟'''が、大インド帝国軍の南亜インド州から、'''パキスタン地方'''を併合するため、幾連印戦争にギニア連合王国側で参戦。これによって南亜インド州はナントカスタンからの領土の防衛を余儀なくされ、大インド帝国陸軍の強みであった人海戦術がし辛くなった。 南アジア戦線では、'''ナントカスタン騎兵師団'''の圧倒的な素早さと強さによって大インド帝国軍は悉く敗走・後退を続け、ナントカスタンの参戦からたった2週間程度でパキスタン地方を失った。二つの戦線において反撃され、さらに海軍、そして陸軍の強みを奪われてしまった大インド帝国は、これから徐々に追い詰められていくことになる。 {|class="wikitable" style="background-color:white;" |style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争3.png|代替文=|フレームなし]] |style="border:1px solid white;"| {| class="wikitable" |'''ギニア連合王国'''、<br>'''ナントカスタン中亜同盟''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |} |} ====戦争後期==== =====アフリカ戦線===== 戦争後期のアフリカ戦線では、ギニア連合王国がコナクリ・ギニア州、ビサウ・ギニア州、そしてエクエイター・ギニア州から同時に進軍したことで、大インド帝国軍は'''多正面作戦'''を余儀なくされた。これまで劣勢に立たされてきたギニア連合王国軍の優勢は、ついに確実なものとなったのである。 西暦1027年には、ギニア連合王国軍は中央インド州の挟撃を開始した。このとき既に大インド帝国の首都の陥落は確実だと思われていたが、同帝国は'''カレーパワー'''によって二年以上も粘り強く戦った。結果として、最終的には大インド帝国は降伏したものの、帝都の'''ニアメ'''が陥落することはなかった。 =====東南アジア・オセアニア戦線===== 戦争後期の東南アジア・オセアニア戦線では、ギニア連合王国軍は快進撃を続け、ニューギニア島全土を掌握した。 しかしギニア連合王国軍の進軍は止まらず、瞬く間にマルク諸島、スラ諸島、スラウェシ島、ボルネオ島、ジャワ島、などと進軍と攻略を繰り返し、最終的には中核都市である'''ジャカルタ'''を失って、西暦1028年に東インド州は降伏した。 =====南アジア戦線===== ナントカスタン騎兵師団の進撃はとどまることを知らず、<u>ヒマラヤ山脈すら踏破</u>した。これに衝撃を受けた大インド帝国軍は、"'''インドの最大の宝石'''"とも呼ばれた南亜インド州を防衛するため、「'''カレー・ビースト'''」などと称えられていた<u>大インド帝国陸軍最強の5つの機甲師団のうち1つ</u>を応援に向かわせた。しかしナントカスタン騎兵師団には全く歯が立たず、瞬く間もなく撃滅された。 その2日後の西暦1029年、中核都市である'''ニューデリー'''を失って中央インド州は降伏した。 {|class="wikitable" style="background-color:white;" |style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争4.png|代替文=|フレームなし]] |style="border:1px solid white;"| {| class="wikitable" |'''ギニア連合王国'''、<br>'''ナントカスタン中亜同盟''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |} |} ====終戦==== 首都のニアメこそ陥落しなかったものの、<u>東インド州、西インド州、南亜インド州を失った</u>大インド帝国にもはや戦争継続能力は存在せず、西暦1029年、大インド帝国の無条件降伏という形で幾連印戦争は終結した。 '''コナクリ講和会議'''の結果、東インド諸島では、ニューギニア島の全土がパプアニュー・ギニア州に併合された。また、その他の東インド地域には<u>ギニア連合王国の傀儡国家</u>である「'''ギニドネシア'''」が建設され、西インド州はそれぞれが国家として独立した。さらに、南アジアでは、パキスタン地方はナントカスタン中亜同盟に併合され、他の地方ではまとめて<u>ナントカスタン中亜同盟の傀儡国家</u>である「'''ヒンドゥスタン'''」が建設された。これによって<u>大インド帝国は解体</u>され、中央インド地方はもとの「'''インド'''」に戻った。 {|class="wikitable" style="background-color:white;" |style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争5.png|代替文=|フレームなし]] |style="border:1px solid white;"| {| class="wikitable" |'''ギニア連合王国の勢力圏 ''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''ナントカスタン中亜同盟の勢力圏''':<span style="background-color:#009966 ; color:#009966 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |- |'''インドの勢力圏 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> |} |}
編集内容の要約:
WikiWikiへの投稿はすべて、クリエイティブ・コモンズ・ゼロ(パブリックドメイン) (詳細は
WikiWiki:著作権
を参照)のもとで公開したと見なされることにご注意ください。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください。
著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!
編集を中止
編集の仕方
(新しいウィンドウで開きます)