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Sisters:WikiWikiリファレンス/『海と夕焼』に関する探究
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===⑶ 〈海〉と〈夕焼〉の象徴性=== ここで、作中における最も重要な象徴性、〈海〉と〈夕焼〉についての考察を導入する。 安里が目指したエルサレムの「サレム」は夕暮の神の意であり、エルサレムの山から見える夕焼の美しさを神の御姿と人々は信じたが、そうしたエルサレムを目指して行くことはその地で〈夕焼〉を見ることに憧れをいだく意味をもつ。「基督の幻を見る奇蹟」が起きたのが「ある夕暮」であることや「老人の登場」が「薄暮」であったことからも〈夕焼〉が安里に奇蹟待望を抱かせる象徴として機能していたことが読み取れる。また安里がかつて信じたキリスト教世界には、終末と復活の考え方がある。〈夕焼〉は終末という〈有限性〉のなかで最後の輝き(復活の後の永遠)を示すキリスト教的世界観の象徴として理解できる。つまり〈夕焼〉とは「キリスト教的パラダイム」における「奇蹟」の象徴なのである。 このことからそれと対立関係にある〈海〉という概念が、「禅宗的パラダイム」の象徴であることが自然と理解できる。禅宗の根本が「空」であると言われるが、禅宗のような一元的で普遍的な世界観の象徴として、別れない〈海〉はとても機能的なメタファーと言える。先に引用した白隠禅師の「湛然」という表現からも、別れえない〈海〉の全体を想起していることがうかがえる。注意すべきなのは、〈海〉が全体として「禅宗的パラダイム」を象徴するのに対して、〈夕焼〉が「キリスト教的パラダイム」の「奇蹟」という一要素だけを象徴することである。
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