メインメニューを開く
ホーム
おまかせ表示
ログイン
設定
WikiWikiについて
免責事項
WikiWiki
検索
「
Sisters:WikiWikiリファレンス/『海と夕焼』に関する探究
」を編集中 (節単位)
警告:
ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。
ログイン
または
アカウントを作成
すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。
スパム攻撃防止用のチェックです。 けっして、ここには、値の入力は
しない
でください!
===⑷ キリスト教的パラダイムにおける「奇蹟」のはたらき=== さて、ここで話を聖―俗構造に戻す。禅宗的パラダイムは聖俗を区別しないが、ここで問題になるのは、反対に、キリスト教的パラダイムがどのように聖俗を区別し、また、そこにおいて「奇蹟」がどのような役割を果たしているのかである。 キリスト教的パラダイムを考察する足がかりは、それを象徴する〈夕焼〉にある。『海と夕焼』において、〈夕焼〉は「奇蹟」の象徴として機能しているが、対象的に〈夕焼でない〉という状態は全く積極的な意味付けをなされていない。別れない海を前に何日も祈った時、あるいは寺男となった安里が沈む夕焼を前に自身の旅路を振り返った時、最終的に現れる〈夕焼でない〉状態は、「〈夕焼〉が沈みきった後である」ということしか意味していない。つまり、〈夕焼〉はそれ自体で対立概念を持つものではない。 〈夕焼〉は「奇蹟」を象徴するから、この属性は「奇蹟」に対しても当てはまる。つまり、「奇蹟」はそれ自体で対立概念を持つものではない。これが意味するのは、「奇蹟」は「聖」それ自体ではないということである。「奇蹟」が「聖」であるならば、「俗」に対応する「奇蹟でないもの」が積極的に意味づけされているはずだ。 しかし、小埜は「奇蹟」であるキリストの幻を「聖」として定めている。この枠組みに則って「奇蹟」のはたらきを記述するとき、「奇蹟」はキリスト教的パラダイムにおいて、「聖」と「俗」とを区別する軸としてのはたらきを持っているといえる。つまり、「奇蹟である」ならば「聖」であり、「奇蹟でない」ならば「俗」であるのだ。見た目上「奇蹟」は「聖」と同一に見えるが、「奇蹟」はキリスト教的パラダイムを区別する軸であって、「聖」はその軸において積極的定義を受ける属性を意味している。
編集内容の要約:
WikiWikiへの投稿はすべて、クリエイティブ・コモンズ・ゼロ(パブリックドメイン) (詳細は
WikiWiki:著作権
を参照)のもとで公開したと見なされることにご注意ください。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集され、自由に配布されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください。
著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!
編集を中止
編集の仕方
(新しいウィンドウで開きます)