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Sisters:WikiWikiリファレンス/『海と夕焼』に関する探究
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==三 パラダイムの移行と二つの不思議の差異== ===⑴ 「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」の実態=== 「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」の大まかな実態を掴もう。 「安里は自分がいつ信仰を失ったか、思い出すことができない。ただ、今もありありと思い出すのは、いくら祈っても分れなかった夕映えの海の不思議である」という描写から、安里が信仰を捨てたのは〈海〉と対面したその時であることが推測できる。つまり、この分かれない海を目の前にしたこの時、安里はキリスト教パラダイムから禅宗的パラダイムに移行したのだということが分かる。 このとき、前章の結論をもとに考えると、このパラダイム移行に際して、「奇蹟」という軸が安里の思考の枠組みから外されたといえる。ただし明確に、寺男となった安里は、「奇蹟」の存在を知らないわけではない。失われたのは「奇蹟」という概念ではなく、むしろ「奇蹟」への信心、「奇蹟」を待望する態度である。マルセイユにおいて何日待っても分れない海を前にして、安里は奇蹟に不信を抱いただろう。これが「奇蹟」という軸を崩壊させたのだ。それにより安里は「キリスト教的パラダイム」を失い、新たな「禅宗的パラダイム」を獲得するのである。つまり安里は、「決して分れなかった夕映えの海の不思議」に直面し信仰を捨てる、すなわちパラダイムを移行させるのである。安里の奇蹟に対する立場は、一転「不信」となる。これが「禅宗的パラダイム」による「キリスト教的パラダイム」の無慈悲な破壊の概要である。 ===⑵ 「奇蹟」によるキリスト教的パラダイムの変化=== ここで、「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」をパラダイムの移行と捉えるならば、矢印①、「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」についてはどうなるのだろう。「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」において、パラダイム移行はあったのだろうか。 安里はセヴェンヌに生まれて羊飼いをしている幼少期、キリスト教的社会において生きてきた。故に「奇蹟」との接触がなかったにも関わらず、「奇蹟」の存在を刷り込まれてきたのだ。つまり幼少期の安里は「奇蹟」を経験していないが「奇蹟」を信じている状態にあるのである。そこに軸となる「奇蹟」の概念は存在するため、そこはキリスト教的パラダイムであると言える。しかしそれは奇蹟の存在を確信したものではない。基督の奇蹟の伝説などを伝聞しただけの、「弱いキリスト教的パラダイム」であったはずだ。 その後、安里は基督の幻や老人の訪問を経て、「奇蹟」――弱くともキリストパラダイムを持つゆえに、彼は聖俗の区別を持ち、奇蹟の概念を保有する――を実際に受け入れることで、彼の奇蹟への態度は確信・確たる待望へと変化し、「強いキリスト教的パラダイム」に変じる。 つまり、「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」においては、「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」とは違ってパラダイムの移行はなく、パラダイムの性質の変化があったのである。奇蹟の発生は、安里のキリスト教的パラダイムに、「奇蹟」という軸を追認・再確認させるものだったのだ。 ===⑶ この章の総括=== ここまでの考察より、「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」は同じパラダイムにおける「弱いキリスト教的パラダイム」から「強いキリスト教的パラダイム」への性質の変化であることがわかった。 また、それと趣を異として、「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」は「禅宗的パラダイム」による「キリスト教的パラダイム」の解体。つまり「パラダイムの移動」であることが明らかになった。 このことから、この探究の主題である、「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」について、その性質はもう一つの不思議――キリスト教的パラダイムを逸脱しなかった「安里をマルセイユに向かわせた不思議」――とは異なって、「奇蹟」という軸、そしてキリスト教的パラダイムそのものを捨てるパラダイムの移動を本質とすると、私達は結論づけた。安里の「奇蹟」に対する態度は、「信じる」から「確信」を通して「不信」へと移り変わり、そこから「奇蹟」を否定する禅宗的パラダイムに達したのだ。 ===⑷ 補足=== なお、ここで補足しておきたい点がある。それは、「キリスト教的パラダイム」における「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」の扱いについてである。 「キリスト教的パラダイム」において「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」は決して「不思議」ではない。キリスト教的パラダイムの「聖」は、外から見て「不思議」なのであり、内から見ては「何のふしぎもない」とされる状態なのである。これは「何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心」といった描写――これは⑵の結論を補強する根拠ともなる――から見て取れる。作中で「安里をマルセイユへ向かわせた不思議」を「不思議」と見做しているのは「禅宗的パラダイム」に身を委ねた後の老いた安里のみである。これは私達の結論――老いた安里の視点から見る「不思議」についての考察の結論――に何ら影響を及ぼすものでもないが、実際に読者に混乱を与えうる要素であるために、補足という形でここに記した。 [[ファイル:図1 小埜による「海と夕焼」の構造.png|サムネイル|none|600px|図ⅰ 小埜による「海と夕焼」の構造]] [[ファイル:図2 「海と夕焼」の構造.png|サムネイル|none|300px|図ⅱ 「海と夕焼」の構造]] [https://www.weblio.jp/content/探究 探究] [https://kguopac.kanto-gakuin.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=NI10000741&elmid=Body&fname=04takano.pdf&loginflg=on&block_id=_323&once=true#:~:text=「エルサレム」の名前は、,複合語%20とされる%E3%80%82 エルサレム 語源]
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