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Sisters:WikiWikiリファレンス/『海と夕焼』に関する探究
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===⑴ 「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」の実態=== 「奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議」の大まかな実態を掴もう。 「安里は自分がいつ信仰を失ったか、思い出すことができない。ただ、今もありありと思い出すのは、いくら祈っても分れなかった夕映えの海の不思議である」という描写から、安里が信仰を捨てたのは〈海〉と対面したその時であることが推測できる。つまり、この分かれない海を目の前にしたこの時、安里はキリスト教パラダイムから禅宗的パラダイムに移行したのだということが分かる。 このとき、前章の結論をもとに考えると、このパラダイム移行に際して、「奇蹟」という軸が安里の思考の枠組みから外されたといえる。ただし明確に、寺男となった安里は、「奇蹟」の存在を知らないわけではない。失われたのは「奇蹟」という概念ではなく、むしろ「奇蹟」への信心、「奇蹟」を待望する態度である。マルセイユにおいて何日待っても分れない海を前にして、安里は奇蹟に不信を抱いただろう。これが「奇蹟」という軸を崩壊させたのだ。それにより安里は「キリスト教的パラダイム」を失い、新たな「禅宗的パラダイム」を獲得するのである。つまり安里は、「決して分れなかった夕映えの海の不思議」に直面し信仰を捨てる、すなわちパラダイムを移行させるのである。安里の奇蹟に対する立場は、一転「不信」となる。これが「禅宗的パラダイム」による「キリスト教的パラダイム」の無慈悲な破壊の概要である。
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