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Sisters:WikiWikiオンラインノベル/それいけ!ルサンチマン
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<big>'''第Ⅰ章 霜焼け'''</big> 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの緊迫感に襲われ、早まる心音の刻みを抑えようと、万年床の上に跪き、震えながら深呼吸した。彼の下宿部屋の扉をノックしたのは、覗き窓越しにもわかる特徴的な白い制服を纏った国の治安部隊、通称「<ruby>恐怖の男<rt>ホラーマン</rt>」だった。 彼はすぐさま、「{{傍点|文章=罪状}}」を思い出した。大学に入ってすぐに、あの革新派雑誌に寄稿したエッセイだ。まさか今になって嗅ぎつけられることになるとは思わなかったこの青年は、ひどく狼狽している。 訪問者はしきりに扉を叩き、青年はだんまりを決め込む。 実のところ、現在、青年はもはや活動家と形容されうるような人間ではなくなっていた。彼もまた、ほんの数年前までは社会の変革を望む若い希望に満ち溢れていたのだが、第二クーデターの失敗、そしてそれを通して殊更強化された言論統制による学友たちの立て続けの逮捕は、大学内の活動家のコミュニティを壊滅させ、青年の居場所をなくした。 そして、それに最愛の弟の死が重なった。青年は完全に生存の活力を失い、大学構内の清掃で日銭を稼ぎながら惰眠と酒を貪る日々を送るようになっていった。だから今の彼には、政府への反逆などという思想は微塵もない。だが無情にも、この国で一度でも政府へ反抗したが最後、恐怖の男からは逃れられないのだ。 ――ほんの数十年ほど前まで、この国では皇帝による専制政治が執られていた。長きにわたって虐げられてきた民衆は、その一生を、「一日に二かけらのパン」とも揶揄されるような殆ど奴隷に変わりない立場に甘んじて過ごしていくはずだった。 しかし、先の世界的大戦の長期化が進むと、国家経済は大きな痛手を負うことになる。これによって権力基盤を崩したのが、皇帝であった。この好機を逃すまいと団結した農奴たちは、生活の改善を要求して「パン革命」を引き起こし、ついには宮殿を占拠。私腹を肥やしていた貴族たちと皇帝を虐殺し、ここに民主主義国家の建設を宣言したのだった。 これによって民衆は自由と平等を手に入れた。誰もに新しく輝かしい生活が開かれゆく、そう思われていた。しかし、農奴から労働者へと転じた彼らは、実際には更なる塗炭を強いられることとなる。広く開かれた自由経済活動によって巨額の富を得たある資産家の男、通称「<ruby>黴金卿<rt>ばいきんきょう</rt></ruby>」の台頭のせいだ。 {{傍点|文章=卿}}はその莫大な財産を以て、すべて政治を自身の言いなりに変え、強引に、苛烈なまでに経済活動を推し進めた。その結果、特に都会の労働者たちは、帝国時代と変わらない、むしろ「一日に一かけらのパン」という当時よりも劣悪な環境で、それも過酷な重労働をしなければ、到底生活できないなどという状態に陥った。「最下層の労働者」として、社会の歯車に組み込まれてしまったのである。 これに対して、労働者たちは再び団結し、この重大な危機を乗り越えようとした。しかしながら、黴菌卿に買収されたスパイである「<ruby>奴金<rt>どきん</rt></ruby>」たちの暗躍や、言論弾圧組織たる恐怖の男の結成によって、二度のクーデターは立て続けに失敗してしまう。さらに強まった統制によって、労働者たちの士気は著しく低下。留まるところを知らないペシミズムは全土を席巻し、前述の通りこの青年もまたその悲観に飲み込まれた一人となった。 青年はとっくに人生への期待を放棄していた。この社会を変えることは不可能だし、愛する弟も喪った。このまま田舎で飲んだくれて、何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に生涯を終えよう、と思っていた。 ――しかしこの恐怖を前にして、青年は自らが{{傍点|文章=必死になっている}}ことに気づいた。命を達観しているようで、それでいて虐待される小さなうさぎのようにノックの音に怯えている。全ての感情的な人間を軽蔑しながら、今にも泣きだしそうなほど目と喉の奥に意識を突き刺している。 こうして、数分間のドア越しの膠着の後、地方の古臭いアパートに銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。愚鈍ながら、青年はこのとき初めて、重く、生々しく、命を失う恐怖を、そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをして感じ取った。青年は飛び上がるように逃亡を決断した。 白い制服の男たちが放つ怒号には耳もくれず、窓を開けながら、肺にのしかかるような寒さを覚えた。この国の冬季には、気温は零下数十度を軽く下回る。その場しのぎのコートにくるまると、氷のように冷たいベランダの柵をよじ登り、そのままこの無力なうさぎは、三階から地面に向かって飛び降りた。 青年は足を挫いたが、幸いにも折れてはいないようだった。この国の理不尽さに怯えながら、しかし憤る気力も湧かず、ただがむしゃらに、おぼつかない足取りで、青年はどこへともなく進んでいった。 <big>'''第Ⅱ章 氷漬け'''</big> 青年はいつしか、浮浪者たちの蔓延る通りに辿りついていた。ここには、彼と同様に未来への展望の一切を抱かない人々が、意志を持たずとも強情に小動物の死骸に集る羽虫たちのごとく、生存本能のみを命綱に、あるいは足枷にして暮らしている。しかし彼らには、決定的に青年と違うところがあった。その{{傍点|文章=生きるためのふてぶてしさ}}である。彼らはその日食べるもののためなら、盗みも、詐欺も、暴力も厭わないような人間だ。というのも、実際のところ、そのような犯罪的行為ができない体質の人間はすぐに餓死してさっさと天国に行ってしまうため、結果的にそういう地獄行きの人間だけが生き残ってしまっている、というだけなのだが。 一方、青年は小心者だった。しかも人を騙す才能もなく、特段力が強いわけでもない。だから、この悪臭漂うスラムにやってきたのもつかの間、数週間にして彼は早くも飢え死にの危機に瀕していた。主な食料といえば、ゴミ袋の中にごくまれに入っている残飯。水分補給は地面の雪からだ。彼は、自身が日に日に衰弱していっていることを誰よりもよく理解していた。 そんな中で、とある夜、青年は寝ている間にコートを盗まれた。ここら一帯ではそんな程度の盗みなど日常茶飯事であるのだが、これが引き金となって、青年の中で何かが切れた。低く大きな音を立てて切り崩されたのだ。自身を辛うじて生に執着させ、そして縛り付けていた、錆びて黒ずんだ鎖は、僅かに小さく入った傷のところから、誰も気づきえないほど些細なひびのところから、ほどけるように、こぼれるように、崩れ落ちてしまったのだ。 青年は、浅薄な気持ちのままに、しかし確固として、自殺を決意した。青年は、彼が愛してやまなかった、もう二度と会えない弟と同じ死に様を決意したのだ。 決断を下すや否や、彼はすぐさまゴミ捨て場を漁り、まだ使えそうな麻縄を手に入れた。らしくもなく陽気に、遠足前日の小学生のように浮足立って、知っている有名曲をごちゃまぜにしたような訳も分からぬ鼻歌を口ずさみながら、適当な樫の木を見つけた。無理に明るくあろうとしたわけでもないのに、彼の心には一片の恐怖もなかった。むしろ、敢えて形容するならば、その感情は希望とさえいえる代物だった。 木の枝に麻縄を括り付け、頭が通るくらいの穴ができるように結び目をつけた。それから彼は、まるで表彰式のように、地面に転がっていたコンクリートブロックの上に静かに登り、まるで戴冠式のように、ロープの輪を頭上に持ち、目を閉じ、ゆっくりと首に通した。 足元を蹴り飛ばすと、青年は、宙吊りになった。異常に大きく響く心臓の音は、彼の呼吸を荒くした。脳は頭の中で膨張と収縮を繰り返し、そこに反響するじいんという音は、肺を痙攣させ、押し潰した。青年は、自分が喉から何か音を漏らしていることに気づいた。何の意味もない、言葉にならない、動物の鳴き声と同じような音だった。喘ぎのような、唸りのような、それでいて嘆きのような、そんな音だった。青年は、何も考えないことにした。何も考えず、ただ、ただこの息の詰まる感じが終わるまで待つことにした。 すると、眠気のような、脱力感のような、{{傍点|文章=のび}}をした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識には{{傍点|文章=ふた}}がなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。 ――彼は背中に強い衝撃を受けた後、ひんやりとした感触を覚えた。目を開けると、頭上には千切れた縄が申し訳なさそうに垂れていた。この麻縄はもともと捨てられていたものなのだから、質が悪いのは当然のことなのだが、青年は釈然としないものを感じた。 その直後、青年は近くで誰かが笑うのを耳にした。声の主を探すまでもなく、その男は青年の目の前に現れ、へらへらした口調で言った。 「おいお前、自殺失敗とかクソダサいな!」 青年はこの{{傍点|文章=きちがい}}に対してどのような対応をすればいいのか見当もつかなかったので、取り敢えず愛想笑いをすることにした。これが{{傍点|文章=つぼ}}に入ってしまったようで、気が触れているに違いないこの男は小一時間笑い続けた。青年は、何故だか、肩の力が抜けるのを感じた。 その日から、青年はしばしば、男と行動を共にするようになった。その中で、青年は男の素性のピースを少しづつ埋めていった。男は工場寮から脱走してきた都会の労働者だったらしく、廃材やがらくたの間のまるで犬小屋のような小さく狭いスペースで毎晩の休眠をとっていてなお、都の工場地帯に比べたらこのスラムの睡眠環境はまさに天国のようなものだと断言した。同時に、男は活動家でもあった。病的なまでに楽観的な性格を持ち、本気か冗談か、革命によってこの国を変えるとさえ躊躇なく言い放つ。すぐに他人のことで笑うくせに、自分のその主張を笑われたときには、癇癪を起こした子供のように激怒する。そんな男だった。 男は、まったく典型的な、青年が毛嫌いする類の人間だった。世界を変える気に満ち溢れ、感情的で、自己評価は現実と不釣り合い。 しかし何の因果か、男は青年の親友になった。 同時に青年は、いつしか自分の中に封じ込め、固く閉ざしたある思いを、強く意識し始めた。それは輪郭をベルのように揺らし、今にも孵化しようとしていた。 最初は、この男にこじ開けられようとしているのかとも考えた。しかし、ふと青年は、それを解き放つのは彼自身なのだということを、自ずから、何の根拠もなく、しかし確かに、理解した。気がつけば、既にそれは熱を帯びていた。それはあらゆる生命を照らし出す太陽のようでもあり、あらゆる罪を炙り出す地獄の溶岩のようでもあった。青年は、{{傍点|文章=このこと}}が何を意味するのか知っていた。もはや浅薄で怠惰な人生を送ることなどできない、そんなこともとうに知っていた。 しかし青年は、再び{{傍点|文章=それ}}を抱いた。かすかで、拠り所のない、ささやかな、それでいて傲慢ともいえる、漠然とした望みを握りしめた。 やがて、社会の変革を望む若い希望に満ち溢れるこの青年は、その楽観主義者の男との親交をより深めていった。 ――奇しくもその頃、全国の労働者たちをたちまち熱狂の渦に引き込んだ存在がいた。奴隷のような彼らでさえも束の間の夢の中にいる深夜遅く、{{傍点|文章=それ}}は悪趣味な高級住宅街にやって来て、<ruby>資本家<rt>ブルジョワジー</rt></ruby>どもの屋敷に侵入し、たちまち奴らを叩きのめす。民衆が起きたときには、もはや豪邸はもぬけの殻だ。 いつしか労働者たちは、その意味を知ってか知らずか、人知れず悪を撃滅する{{傍点|文章=それ}}をこう呼び始めた――「ルサンチマン」と。 <big>'''第Ⅲ章 雪解け'''</big> そのころには、スラム一帯は革新派の巣となっていた。そして、やはりというべきか、希望をしかと胸に抱く浮浪者たちはいつも、ルサンチマンの話題で持ちきりだった。他のいくつかの活動家ともパイプを持っているというかの男によれば、ルサンチマンの活躍への熱狂は、至る地方でいくつもの反政府コミュニティを興隆させてきているという。ルサンチマンはいつしか、労働者にとってのヒーローとなっていたのだ。 青年は、この国に高鳴り響き渡る機運を感じ取っていた。それは一見すると、漠然としていて、統一性のない、霧のようなものに思えた。しかし、それが人々を取り巻いているという状況こそが、新たな社会への道を照らし、それを包むベールを焼き払いつつある、そう思うと、青年の感情を司るところには、明るく誇らしげな表情が浮かび上がった。 しかしあの男は、奇妙にも、ルサンチマンに疑念を抱いていた。 確かに、ルサンチマンの正体は、その一切が謎に包まれている。いったいどうやって資本家どもを跡形もなく国から追い出しているのか、いったいどうやって恐怖の男から逃れおおせ続けられているのか、いったいどうやって誰にもその姿を悟らせないのか、疑問が尽きることはない。しかし青年は、どうしてもそれと不信を結びつけることなどできなかった。実際、ルサンチマンが彼ら民衆に危害を加えたことなど一度たりともない。それなのになぜ、男がルサンチマンを頑なに詮索しようとするのか、理解できなかった。 あの日、ルサンチマンの正体を探るという目的の下、男はスラムから飛び出していった。青年は驚きながらも、毎日のように男から届く便箋に慣れるのには、そう多くの時間を必要としなかった。そこには、{{傍点|文章=彼が労働者だった街}}にまで足を運んだと綴られていた。男は、その話をするだけで反吐を催すほどまでに嫌悪してやまない街に、ルサンチマンの姿を探し回るためだけに向かったのだ。青年はそれが甚だ理解できなかった。苦渋をかき分けて中に入り、纏わりついてくるそれを振りほどいてまで、人知れず戦う英雄を白日の下に曝し出そうとするなどというきちがいじみた行動を、青年は未だ知らなかった。 それから二週間ほど経って、男から手紙が届くことはなくなった。何かやむを得ない事情に見舞われたのだろうとして、初めの内はこれを納得しようとしていた青年だったが、しかし、彼は非情な現実を突きつけられることになる。それは、近年のムーヴメントによって秘密裏に復活を遂げ、こうしたコミュニティ間において流通していた{{傍点|文章=あの革新派雑誌}}を読んでいたときのことだった。 ページをめくる青年の手は、ふと止まった。実によく見知った顔が掲載されていたからだ。だがその表情は、いつものあのへらへらしたものではなく、まるで別人のように見えた。 ――青年は、その噂を聞いたことがあった。奴金の立場にありながら、革命を望むひねくれ者の男がいると。表向きには政府の犬として振る舞い、しかしその裏、あらゆる情報を革命の中枢に横流しだ。先の第二クーデターにおいても、この二重スパイの活躍は、黴金卿の喉元に銃口を突きつけるまでに至ったという。とはいえ、数々の裏切りが政府に露見してからここ数年は、まるで姿を見せないようになったらしく、やがて彼に入れ替わるようにルサンチマンが現れた。黴金卿の{{傍点|文章=飼い犬}}にして、{{傍点|文章=かび}}の生えた革命協力者。あまのじゃくで怒りっぽく、幼稚でへそ曲がり。誰が呼んだか、彼は労働者の中で「名犬『<ruby>青臭い黴<rt>ブルーチーズ</rt></ruby>』」として定着していた。 しかし、青年は紙面に躍る言葉の意味を上手く飲み込めなかった。{{傍点|文章=名犬}}の死亡記事に、なぜ親友の顔写真が堂々と刷られているのか、嚥下できなかった。否、実際のところ、青年はとっくにそれに気づいていた。それなのに彼は、必死に理解を拒んだのだ。それを支えたのは、あの男の死を認めようとしない気持ちというよりもむしろ、秘密でつけていた日記が公衆に閲覧されるのを黙って見ることしかない少年のような、お気に入りのクレヨンが他人に使われて塞ぐ幼児のような、たった一人の年来の親友に裏切られた老人のような、この理不尽を声高に主張しようとする、独占的でわがままな気持ちだった。 青年はあの男がよく過ごしていた場所へと向かった。その錆びたトタンやら朽ちた板材やらの{{傍点|文章=すきま}}にある空間の奥にまで入ったことはなかったが、意を決して、というよりその反面ほとんど何も考えることなく、しゃがんでずけずけと進んでいった。すると彼は、思いがけないものを見つけた。床に打ち捨てられている、寒い冬を乗り切るには薄くて硬すぎる{{傍点|文章=それ}}は、紛れもなくあの盗まれたコートだった。だが、青年はもはや、何も感じられなかった。 青年は、自分が{{傍点|文章=あの希望}}を失っていくのを感じた。雲がかかった太陽のように、罪人のいない地獄のように、こもっていた熱は次第に薄れ、感じられなくなってゆき、やがて肺には冷ややかな空気がなだれ込んできた。この浅薄で怠惰な青年は、自己の変わり身の早さを自嘲し、しばらくの間、すべてを放棄してぼうっとしていた。 ――ふとコートのポケットの中に手を突っ込むと、青年は、折り畳まれて縒れた古紙が入っているのを見つけた。その表面に横たわるみみず文字を、眠い目をこすりながら解読すると、どうやらこのように書いてあるらしかった。 「俺は政府の犬でもなければ、ルサンチマンの味方でもない」 「ただ一つ言えるのは、俺を殺したのは他ならぬ『革命』だっていうことだ」 「だからお前に託す」 「あの街に行け。『俺が昔そこで労働者だった』っていう嘘をついた街だ」 「あの街は、革命勢力の本拠地だ」 「俺は考えるのをお前に託す」 「この革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか」 「結局俺にはわからずじまいだった」 「俺は一足先に行く。頼るとしたら『ジャムおじさん』を頼れ」 「ああ、ついでに、墓にはジャーキーでも供えといてくれ」 {{傍点|文章=最後の手紙}}を再び折り畳み、元の場所に戻してから、青年は勢いよくコートを羽織った。久々の肌触りは、相も変わらずの安っぽさであったが、しかし何故だか、どこか暖かさを感じるようでもあり、青年は弟の肌の温もりを思い出した。暫しの回顧の後、この暖かさを気のせいだと切り捨てた彼は、はっきりした足取りで、その街へと向かっていった。 青年はまたも、自己の変わり身の早さを自嘲した。 ――ルサンチマンの活躍は衰えるところを知らず、この頃には、既に資本家どもの十人に一人が国外に{{傍点|文章=追放}}されてしまうというありさまだった。労働者たちの団結はますます強まり、{{傍点|文章=その機運}}の現実性もまた強まっていった。国中にまたがる漠然とした雰囲気は、遠足前日の小学生のように浮足立つ雰囲気は、徐々に一つの形として収束し、はっきりとした輪郭を描いてきていた。今までおとぎ話のものだった新たな社会は、今やショーウィンドウの中にまでやって来て、民衆の熱狂を助長した。 国に溢れる{{傍点|文章=その機運}}――「{{傍点|文章=革命の機運}}」は――どこの誰が見ようと明らかなものになっていた。それに呼応したのだろうか。革命勢力の中枢において、第三クーデターの計画が、ついに活性化しつつあった。 <big>'''第Ⅳ章 夜更け'''</big> 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの葛藤に悩まされていた。果たしてこの革命の動きは止めるべきなのか、推し進めるべきなのか―― この街には、革命勢力の中心となっている二人の人物がいた。「ジャムおじさん」と「<ruby>旗子<rt>ハタコ</rt></ruby>さん」だ。ジャムおじさんは穏健派で、「血の流れない革命」を信条にしている。一方、旗子さんは過激極まりなく、暴力によって黴金卿をこの国から追い払うという「血に祝われる革命」を掲げている。彼らはこの国の革新を求めているという点では一致しているが、性格はまるで正反対なのだ。 手紙に書いてあった通り、青年は街に来てすぐにジャムおじさんを尋ねた。郊外の山麓にひっそりと佇む、褪せた赤の三角屋根を構えた、大きな煙突のある家。彼はここで一人、執筆作業をしているところだった。何か集中したいことがあるときには、この別荘で過ごすことにしているという。 チャイムを鳴らし、{{傍点|文章=あの名犬}}のことを話すと、彼は快く青年を招き入れた。青年の目には、彼は至って普通の壮年男性として映った。全土を席巻している激しい革命の動きの先頭に立っている人物と、この青い髭を蓄えた、ふくよかで気の良さそうな凡夫とが、同一人物である。青年にとってこれは、例えるなら歯のない人食い鮫のような、穏やかに握手を求めてくる拷問者のような、鋭利な箇所のないナイフのような、矛盾した、奇妙なものに感じられた。 ジャムおじさんは、椅子にゆったりと腰を下ろし、珈琲を飲みながら、この革命勢力についての様々なことを青年に話した。資本家に怒り狂う民衆の大部分は、過激な思想を擁し、「革命の旗手」と呼ばれる旗子を支持しており、自分のこの地位は最早形骸的なものでしかないこと。旗子は街の中心部にある豪邸で、まるで貴族のような生活を送りながら、黴金卿の貴族のような生活を激しく非難していること。先のパン革命で処刑された「私腹を肥やしていた貴族たち」のほとんどは、実際には農奴解放のために尽力していたこと。あの革命を先導していたのは、他でもない黴金卿であったこと。 そして、今、第三クーデターが始まろうとしていること。 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの葛藤に悩まされていた。確かに、労働者たち、特に都の労働者たちは、言葉にするに伝わらない壮絶な苦役を強いられている。青年は、彼らを解放することは明らかに自身たち民衆の責務だと考えていた。人間は統べて、自らの意思によって自らの在り方を決定する権利を、神にさえも踏みにじられないべきである{{傍点|文章=自由の権利}}を固く有しており、それを侵そうとする人間を、社会を、国を、徹底して打ち破らねばならないと考えていた。そしてこのことは、全ての人間にとって自明なものであるとも考えていた。 しかし、その一方で青年は、この革命が成されたところで、同じ轍が再びこの国に、殊更に深く彫られるだけなのではないかとも考えていた。皇帝を民衆に殺させた黴金卿が{{傍点|文章=皇帝}}となったのと同じく、黴金卿を民衆に殺させようとしている旗子が、民衆を生き地獄に縛りつけ続ける{{傍点|文章=次の皇帝}}になるのではないかと考えていた。{{傍点|文章=自明な正義}}の名のもとに為される巨大な犯罪が、倫理を誑かして民衆の目から法を消し去ろうとする煽動者の腹中にある犯罪が、あらゆる人間の社会性をあざ笑うような犯罪が、今ここに始まろうとしているのではないかと考えていた。 正義とは。暴力とは。欲望とは。自由とは。様々な思いが青年を逡巡する。 ――チャイムが鳴り響き、青年の思索は中断された。ジャムおじさんは徐に立ち上がって玄関へと向かった。気づけば、ジャムおじさんのグラスには氷しか残っていない一方、青年の珈琲はほとんど減っていなかった。 暫くして、彼はその訪問者と共に居室に戻って来た。訪問者は若い女性だった。青年は直感的に、何の根拠もなく、しかし確かに、彼女こそが旗子なのだと勘づいた。彼女は、座っている青年を眼中に捉えた。 「この人は?」 ジャムおじさんは青年を一瞥して、こう言った。 「旅人だよ。道に迷ってしまったらしく、今晩は泊めてやることにしたんだ」 旗子が十分に警戒すべき人物であるということを、青年は静かに察した。 「へー」 「で、こんな深夜に訪ねてくるなんて、要件は何だい?」 旗子は懐から拳銃を取り出して言い放った。 「単刀直入に言う――死んで」 「…………私が邪魔になったのか?」 「もっと怯えてくれてもいいのに。勿論銃は本物よ」 山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。訪問者は威嚇射撃を行ったのだ。青年はあの夜のことを思い出し、心音の刻みを早めた。彼らの会話は、青年を置き去りに白熱していった。 「あなたはね……穏和すぎるのさ。過ぎた人徳は革命を希求する者として害になる。その証拠に、あなたの影響力はここ数年で地に堕ちたわ。今更『血の流れない革命』を標榜してる人なんてほとんどいない」 「それは君が私の支持者を{{傍点|文章=消してまわった}}からじゃないか。気づいていないとでも思っているのかい?」 「ふふ……確かにそんなこともしたわね。だけど、直接的な原因はそうじゃない。本当は自分でも分かってるんでしょ?」 「…………」 「第二クーデターの時……私たち革命軍は遂に、あの豪邸に乗り込むことに成功した。そして、黴金卿の下にたどり着いたのはあなたが指揮した第三分隊。あそこであなたが発砲を許可していれば今頃労働者たちは自由を謳歌していたはずなのに……あなたはそうしなかった。一体なぜ? 笑える話よ! {{傍点|文章=黴金卿の娘が泣きながらやつに抱き着いていたから撃てなかった}}んですって!」 ――それを知ってなお、青年は彼を責める気になど今更なれなかった。しかし、彼の行動をほめたたえる気もさらさら無かった。青年は、矛盾に塗れた自分を俯瞰し、誰にも聞こえないような声で小さく毒づいた。 続く旗子の追及に、この優しい顔をした男は、悲しそうに下を向いて応えた。 「……無辜の小さな子供を巻き込むわけにはいかなかった。それだけだよ」 「まだそんなこと言ってるのね。近づいて黴野郎だけ狙い撃ちすればそれでよかったじゃない。ま、とにかく……あなたはあの時から民衆の信頼を失ったの。もうあなたは革命の先導者なんかじゃない。自分が何て呼ばれてるか知ってるでしょ? 『<ruby>弾詰まりの老翁<rt>ジャムおじさん</rt></ruby>』よ!」 「……私は気に入っているよ、その呼び名も」 「はあ。まったく呆れたわ。でも…………そんなあなたにも、革命に貢献できるチャンスはまだ残されてる――そう、死ぬことさ」 「……私のような老いぼれが一人死んでどうなるというのかね」 「消費期限切れのケーキでも、捨てるときには勿体なく感じるでしょ? それと同じよ。{{傍点|文章=犯人不明のあなたの他殺体}}は、さらなる労働者の団結をもたらす」 「……君はこの革命の後……一体何をするつもりなんだい?」 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。 「地獄の底から見てたらいいんじゃないかしら」 ――山麓の静かな一軒家に銃声が鳴り響いた。空っぽのグラスは、淋しげな音を立てて揺れた。 <big>'''最終章 それいけ'''</big> 青年は、これまでの人生で経験したことがないほどの緊迫感に襲われ、早まる心音の刻みを抑えようと、椅子に座ったまま、震えながら深呼吸した。旗子は青年の方を振り向いた。 「君さ、{{傍点|文章=あの犬}}のお友達でしょ。おおかた奴にここに来るように言われたのかしら。ジャム野郎にかくまってもらえるとでも思ったんでしょうね。でも残念。私は{{傍点|文章=反逆の芽}}を見過ごさない。とっくにあなたのことは何から何まで調査済みよ」 青年は銃口を向けられて、肌を粟立てながら、ここが人生の最終章であることを悟った。 「あらあら、怖がってる? 胆力が無いわね。まるでうさぎみたいに縮こまって。……ふふ、我ながら言い得て妙ね。知ってる? うさぎって性欲が強い動物なのよ。実の弟に性的虐待を繰り返して、ついには自殺させた君にぴったり」 青年は黙って旗子を睨みつけた。しかし、彼女は心底愉快そうに口の端を歪めているだけだ。 「ああ、そういえば、{{傍点|文章=チーズ}}のルサンチマンへの推理は見事に的中だったわ。きみも聞かされたでしょ?」 青年は口を閉じたまま、目線を銃口から逸らないように、首を横に振った。 「あら、そうだったの。じゃあせっかくだし教えてあげる。ルサンチマンの正体は……」 「――ルサンチマンは、君さ」 青年は困惑した。自分は資本家の家に押し入って奴らを追い出したことなんてないからだ。それに気づいているのかいないのか、旗子は犯人の仕掛けたトリックを看破する探偵のように、饒舌に喋り始めた。 「社会には沢山の人間がいる。穏和な人もいれば、過激な人も。彼らの内面はそれぞれ大きく異なっていて、共通点なんかないように思えるわ。けどね、一つだけ、ほとんどの人に当てはまる傾向がある。自身を矮小化することよ。自分の考えが、思いが、この社会に影響を与えるわけがない、なーんて……いわば高を括っているの。『塵も積もれば山となる』。シンプルな常套句ほど、物事の本質を表しているものね。それに人間は社会性の高い動物だから、周りが自身をどう思っているのかなんてすぐに分かる……」 旗子は大げさに手のひらを上げる。 「……いいえ、単刀直入に行きましょう。まず、ルサンチマンは実在の個人ではない。というかそもそも、資本家を襲撃した存在なんて、端からいないのよ」 青年の困惑は増しにも増した。{{傍点|文章=資本家を襲撃した存在はいない}}? 「じゃあルサンチマンはいったい何なの、って顔ね。ふふ、とっても笑える話よ。答えはこう……{{傍点|文章=資本家のお引っ越し}}!」 青年は唖然とする。 「最初に『ルサンチマン』の手柄だとされていた、度重なる資本家の失踪。その真相は、本当にただ単に、彼らが別の家に引っ越したってだけよ。でも、それをあたかも何かしらの存在によって行われた『{{傍点|文章=追放}}』のようにしてさまざまなコミュニティで喧伝し、都合いいヒーローの存在を流布しさえしてしまえば、十分な教育を受けていない馬鹿な労働者どもや活動家どもはすぐにそれを信じ込んでしまうわ。取り沙汰されてる資本家がわざわざ事実を訂正しに来るなんてこともないしね。でも、『ルサンチマン』というただの集団妄想は、口伝によって十倍にも百倍にも膨れ上がり、積もり積もっていつしか労働者たちの間に革命の機運を巻き起こしたわ。全てが私の狙い通りよ。用済みの『名犬』に代わる新たな{{傍点|文章=労働者たちの英雄}}『ルサンチマン』! それは資本家への敵意によって労働者を団結させ、この国を生まれ変わらせる‼」 旗子は、まるでオーケストラの指揮者のように、腕と目線を踊らせる。 「こんな風にして資本家への攻撃的な雰囲気ができ上がってしまってからは、それを察して危機感を覚えた資本家が点々と、本当に国外逃亡をし始めたわ。あの資本家は国外逃亡、この資本家も国外逃亡、こうなってしまえば、後はドミノ倒しね。資本家たちは周りに倣ってどんどん国外に出ていってしまう。奇しくも、最早この国から{{傍点|文章=追放}}されていない資本家は皆無に等しいわ!」 青年は、何も考えられなかった。あらゆる人間の愚かさを嫌と言うほど眼前に突きつけられ、得意の自嘲さえできず、ただ茫然とするしかなかった。 「黴金卿も馬鹿な奴ね。これを止める方法ならいくらでもあったわ。少しでも腰を入れてこの{{傍点|文章=反逆の芽}}を潰していれば良かったのにさ、{{傍点|文章=皇帝}}の座に胡坐をかいて何もしなかった。私ならそんな{{傍点|文章=へま}}はしないわ。……そうだ、君は『アンパンマン』という作品を知ってるかな? まあ、知らないだろうけどね。遠い東の島国で有名な物語なの。あれで例えるなら、黴金卿は『かびるんるん』といったところね。あらゆる食品――財産のメタファーかしら? それを蝕み、壊し、貪る……それに、無限に湧いて出てくるところなんかもうそっくりさ!」 青年は、すべてを諦めて、すべてを放棄して、ぼうっとしていた。窓の外に横たわる、美しい山々の、その奥の奥の方を眺めていた。この話が終われば、自分は邪悪な扇動者――{{傍点|文章=次の皇帝}}――の弾丸を受けて死ぬ、そのことが分かりきっていたからだ。青年の感情を司るところは、急速に、氷のように冷たくなっていった。 「あれ……おーい! 聞いてる? もう飽きちゃったの? はあ。つまんないなあ。{{傍点|文章=あの犬}}も最期はこんなだったよ」 青年は、旗子が引き金に指をかけていることに気づいた。しかし、不思議と恐怖は無かった。それどころか、愚鈍にも、いかなる感情さえもが湧いてこなかった。そのあらゆる毛先から骨の髄に至るまで、自身の全てをしてもなお、何も感じ取ることができなかったのである。何にも感動することなく、極めて浅薄に、怠惰の内に、青年は自身の生涯を終えようとしていた。 旗子が何かを言ったような気がしたが、「きいん」という、近くのどこかで反響しているのであろう、か細い、しかし強く轟く音に邪魔されて、青年はそれをうまく聞き取れなかった。 青年は、ルサンチマンとは何だったのか、よく分からなくなっていた。あらゆる社会に本能的に潜むこの身勝手な英雄は、時には他愛ない嫉妬として、時には頑強な正義として、時には自由への革命として、いつも顔を挿げ替えて現れ、強情に小動物の死骸に集る羽虫たちのごとく、寄ってたかって人知れず悪を攻撃し、時には撃滅しさえする。 ああ、だがしかし、{{傍点|文章=それ}}は金持ちを豪邸から追い出すだけだ。強者を社会から追放するだけなのだ。決して、決して、我々に一かけらのパンをも与えやしないのだ。どんなに小さい一かけらでさえも………… ――眠気のような、脱力感のような、{{傍点|文章=のび}}をした直後の感覚のような何かが、徐々に青年を撫でつけてきた。こわばった彼の体は、指先の関節の方から徐々に、だらりと融けていった。夏の蝉が少年の掌に捕らえられるように、意識には{{傍点|文章=ふた}}がなされて、やがて見えなくなった。青年は、何かがぷつりと切れるのを感じた。
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