「Sisters:WikiWiki麻薬草子/海辺のカフカを借りて」を編集中

「もう行ってしまうのかい？」
<br>　僕は声をかける。彼は少しのあいだ動きを止め、それからゆっくりと振り向く。
<br>「うん。電車が来てしまうからね」
<br>　改札の前には、僕らの他に誰の姿もない。砂漠のように乾き切った風が僕らのあいだを吹き抜ける。このひび割れた駅には、もう永遠に電車は来ないように感じられる。けれど、じきに電車が来ることを僕は何よりも明確に知っている。彼の乗る電車が来ることを知っている。
<br>「それじゃあ」
<br>　彼はまた前を向き、改札をくぐろうとする。まるで後ろめたいことがあるみたいな、似つかわしくない性急さを僕は感じる。でも、それは僕の勝手な願望の投影にすぎない。ちっぽけな切符を機械に入れようと一歩踏み出した彼を、僕は思わず呼び止めた。
<br>　彼は今度は怪訝そうに振り向いた。
<br>「ホームまで送るよ。少し待っていてくれ」
<br>　小走りに券売機まで行き、一番安い切符を買う。おつりをポケットに突っ込み、急いで改札まで戻る。
<br>「行こう」
<br>　彼は黙って改札をくぐる。切符が機械の中を滑る音が微かに響く。その背中に僕は後悔を抱く。僕は彼の気分を害してしまったかもしれない。僕は彼に続いて改札を通り抜ける。
<br>　ホームへの階段を僕らは並んで上がる。彼は上を向いて、僕は下を向いて。僕は茶色の点字ブロックを踏みしめながら、一歩一歩階段を登る。そうしないとホームに辿り着けない気がする。
<br>　少しずつ光が覗いてくる。空に近づいている証だ。僕は隣を歩く彼の横顔をそっと盗み見る。その精悍な顔立ちに、わずかな愁いが滲んでいる気がして、僕は驚く。あるいはこれも僕の勝手な勘違いなのかもしれない。しかし、僕は彼の顔から目が離せなくなる。そんなとき、僕らは無人のホームに到着する。
<br>　ホームの両側に、錆びついて無口な線路が横たわっている。柱は長年の存在にくたびれ、プラスチックのベンチは座る者を拒絶しているようにすら感じる。だから僕らは立って電車を待とうとする。僕は左のラインに並ぼうとする。でも、彼は反対側に向かうから、僕は声をかける。
<br>「そっちじゃない。電車が来るのはこっちだ」
<br>　彼は反対側の街並みに目をやっている。そして、目を離さないまま答える。
<br>「わかってる。でも、今はこっちの景色を眺めたい気分なんだ。そっちの景色は電車に乗ればいやでも目に入るからね」
<br>　彼の顔は陰になっていて、表情は窺えない。僕は彼のことを思う。その目に何が映っているのか、想像する。ひょっとしたら、今から取り戻せなくなるものを思っているのかもしれない。僕はそう思う。
<br>　そのとき、電車が近づいてくる。なんのアナウンスもないけど、それでも僕らは電車がまもなく到着することがわかる。別れがまもないことがわかる。
<br>　彼はこちら側に戻ってくる。黄色い線の前に律儀に並ぶ。僕はその半歩後ろに立っている。何か言おうとするけど、言葉は頭の中を逃げ回っていて、うまく捕まえることができない。
<br>　やがて乾き切った風とともに電車が駅に滑り込んでくる。彼はなびいた髪をそっと押さえる。僕はなす術なく立ち尽くしている。僕が何も言えないまま、電車は速度を落とし、そして遂には僕らの前で止まる。気の抜けたような音を立てて扉が開く。僕には、電車の中はこの世界中のどこにも属していない異界のように見える。
<br>　彼は足を踏み出す。いつも通りの落ち着いた仕草で電車に乗ろうとする。いつも通りの動きで、いつも通りの視線で。
<br>　僕の隣には、いつも彼がいた。そんな気がした。実際のところ、彼が僕と一緒にいた期間はそこまで長くない。それでも、どんなときだって僕の隣には彼がいた気がした。僕は硬い切符を握り締め、一歩を踏み出そうとした。そのとき、彼と目が合った。
<br>　振り返った彼の目には、やはり愁いが浮かんでいる気がした。僕はそれを嬉しく思った。
<br>「きみに会えてよかった」
<br>　気づけばそう言っていた。彼は一瞬虚をつかれたような顔をした。そして微笑みを浮かべた。
<br>「別れを悲しまないでくれ。確かに僕はきみのところを去る。けれど、僕はもう、きみの一部になっている」
<br>「きみは僕の一部になっている」
<br>「そう」
<br>　彼は僕の一部になっている。僕は少し安心したような、泣きそうな気持ちになる。僕は彼に問う。
<br>「僕はきみの一部になれたかい？」
<br>　彼は微笑んだまま答えない。僕は今までで一番濃い別れの気配を感じる。
<br>　だから、僕は最後の質問を彼に投げかける。
<br>「また会えるよね」
<br>　彼は僕の目をまっすぐに見つめる。僕も彼の目をまっすぐに見つめる。何も見逃さないように。彼の目には、もう一片の愁いも浮かんでいない。
<br>「もちろん。僕はきみの一部になったから」
<br>　僕はきみに会いたいんだ。僕の一部に会いたいんじゃない。そう叫びたいけれど、こらえる。きっと彼を困らせてしまうから。
<br>　代わりに彼が口を開く。
<br>「次に会うとき、僕は変わっているだろう。ひょっとしたら、前と同じものとは思えないくらいに。だから、きみも変わっていてくれ」
<br>「どうやって？」
<br>「僕が見ることができないものを、たくさん見るんだ。聞いて、触れて、感じるんだ」
<br>「どうして？」
<br>　そのとき、電車の扉が閉じる。僕と彼のあいだは永遠に隔てられる。彼が答える。でも、ガラスに隔てられ、彼の声は僕に届かない。そして、電車はゆっくりと動き出す。微笑んだ彼は、すぐに僕の視界から消えてしまう。電車はどんどん加速していき、僕だけをホームに残して去っていく。
<br>　僕はゆっくりと振り向くと、反対側の街並みを眺める。
<br>　彼の声は聞こえなかったけど、口の動きで僕は彼の言葉を理解した。
<br>　——その方が素敵だろう？
<br>　僕は彼の見られない景色を眺める。しかと目に焼き付けようと思う。空は柔らかい赤に色づき、幾筋かの雲が筆で引かれたように浮かんでいる。乾き切った、でもちっともいやじゃない風が、ホームを吹き抜けていく。