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 は〜あ、定期的にガス抜きしなきゃ、クレーム対応なんてやってらんないわ。
==8月13日22時30分 城島浩司==
<br> <ruby>支倉麗<rt>はせくられい</rt></ruby>は、アパート2階の自室に入るなり、バタリと倒れ込んだ。ヒールのない靴を乱暴脱ぎ、雑多に物が詰まった鞄を放る。日もとうに沈んだ金曜日の夜8時半、勤めているコールセンターからようやく帰宅した。5日間に亘って知らん中年どもの文句を聞かされて、心身共に疲弊し切っている。
この1時間余り、現場はてんてこまいだった。市街地に突如現れた外部存在。暴虐の限りを尽くしたそれは、多くの人的・物的損害を出したが、ほどなくして姿をくらませた。第二十七分隊は、被災地での救助活動にあたった。派遣された自衛隊や現地の消防団などと共に、怪我人を保護したり瓦礫の下に生き埋めにされた人々を助け出したりした。しかし、分隊長である浩司と、第一小隊長の樋口は、救助活動から離脱して会議に出席している。
<br> 冷蔵庫に缶ビールがあったはずだ。何か適当につまんで、さっさと寝てしまおう。麗は重い足を引きずって奥へと向かった。
<br> ヘアゴムをぐいと取り、座布団にどっかと腰を下ろす。うら若き乙女にあるまじき所作だが、独り暮らしの社畜なんて皆こんなものだろう。いや、そうでなきゃ困る。
<br> 麗は、何の気無しにテレビをつけた。別段見たい番組がある訳ではないが、食事の時くらいこの空虚な部屋を音で埋めたかったのだ。
<br> ところが、テレビはつくなり、緊迫した声を響かせた。
<br>『……り返します。K県S市で、連続通り魔事件が発生しました』
<br> ぎょっとした。自然とテロップに目が吸い寄せられる。
<br>《S市で連続通り魔 2名死亡、1名重体》
<br>「えっ⁈」
<br> 2名死亡、1人重体? K県S市、ここだ。え?
<br> 麗の動転をよそに、アナウンサーは淡々と原稿を読み上げる。
<br>『午後8時頃、S市のN駅通りで「人が刺された」と通報がありました。警察によると、2人が死亡、1人が意識不明の重体となっています。また、犯人は逃走中とのことで、付近の住民に注意を呼びかけています』
<br> N駅通りとは、麗の帰宅ルートであり、ついさっきも歩いてきた。時間は確か、8時頃。そう言えば、歩いているとき後ろの駅側がやけに騒がしかったっけ。
<br> ようやく麗は事態を理解した。私のすぐ近くで、通り魔が人を刺したのだ。
<br> 反射的に玄関を振り返る。扉の鍵は、掛かっていた。ホッとすると体の力が抜けた。後ろにパタリと倒れ込む。何だか笑いが込み上げてきた。アハハハという乾いた笑いが部屋に響く。
<br> こんなことが、起こるなんて。
<br>……疲れてるみたいだ。こりゃさっさと寝ないと。
<br> その時、テレビの中のスタジオがざわめき出した。アナウンサーの動揺が声に乗って伝わってくる。
<br>『新しい情報が入ってきました。犯人が写った写真があるそうです』
<br> 慌てて身を起こし、画面を見つめる。そこに写っていたのは、なかなかにショッキングな画像だった。
<br> 中央に、モザイクがかけられた人影。体は右側に向いており、右半身しか見えない。そして、彼もしくは彼女は、ガクリと膝を折って今にも崩れ落ちようとしていた。胸の辺りから、鮮血が迸っている。
<br> 刺された直後なのか。麗は戦慄した。呼吸が浅くなる。
<br> そして、写真の左端。被害者とは反対方向に進んでいる人の左半身。見切れてしまい後頭部と背中くらいしか写っていないが、ニット帽とマスク、黒いジャンパーを着けていることは確認できる。こいつが、通り魔。
<br> アナウンサーは何か説明を加えているが、その声がどんどん遠ざかっていく。反比例して、麗の心の中に一つの思いが膨れ上がっていった。
<br> 写真に写っていた通り魔。あれは、<ruby>燿<rt>よう</rt></ruby>じゃないか?
<br> 頭や耳の形、歩く姿勢、短めの髪。それらはなんだか、弟の燿に似ている。燿は麗の2つ下の弟で、就活中の大学4年生。住まいも、N駅の反対側で現場から遠くはない。それに、燿はサイコサスペンス映画を偏愛している。何回かDVDを借りたこともあるが、通り魔を題材にしたものもあったような……。
<br> いや、馬鹿馬鹿しい。そんな妄想で実の弟を犯罪者扱いしてしまうなんて。あの賢い子が通り魔なんてする訳ない。それに、写真の特徴に合致する人なんて、この町には掃いて捨てるほどいるだろう。
<br> やっぱり、疲れてるんだ。さっさと寝ないと。
<br> 冷蔵庫から缶ビールを出そうと立ち上がりかけた時、ドアをノックする音が聞こえた。
<br>「姉貴、いる?」
<br> 紛れもない、支倉燿その人の声だった。


財団は、各地に民家に見せかけた小基地を持っている。いかなる時、いかなる場所でも、突発事態に対応できるようにだ。そして、現場に近い小基地の中に、二人はいた。予告された時刻通りに、財団の秘密回線が開き、会議が始まった。


「よ、燿? どうしたのよ?」
浩司と樋口は、白い椅子に並んで腰掛け、正面のスクリーンに目を向けていた。22時30分、それまで黒かったスクリーンに、突如としていくつかの人の姿が映し出された。その中には、機動部隊元帥・剣崎剛毅の姿もある。慌ただしく、財団の会議が始まった。
<br> 声が裏返りそうだった。なぜ、燿がここに?
<br>「通り魔が出たって外は騒ぎになってるんだ。姉貴、知ってる?」
<br>「え、ええ」
<br>「恥ずかしながら、怖くなっちゃってさ。犯人は捕まってないっていうし。家に帰るには現場の近くを通らないといけないからさ。悪いけど、今夜だけ泊まらせてくれない?」
<br> ドアの向こうで頭を掻く燿が目に浮かぶ。
<br>「でも、事前に連絡くらいくれたっていいじゃない」
<br>「したさ。でも姉貴は全然LINE見ないじゃん。なら直接行った方が早いかなーって」
<br>「そうなの。まあ仕方ないわね。今開けるわ」
<br>「ありがとう、姉貴」
<br> 麗は玄関へと歩いていき、サムターンに手をかけた。
<br> その時、一つの疑念が首をもたげた。馬鹿馬鹿しいはずなのに、どうしても捨てきれない疑念。
<br> 燿が、通り魔なんじゃないか? 家に上げていいのか? 女の麗が、力で燿に敵う訳がない。部屋に入ったら、いやドアを開けた瞬間、刺されてもおかしくないのではないか?
<br> 体が固まった。嫌な汗が滲み出てくる。
<br>「……姉貴?」
<br> 燿が不審そうに声をかけてきて、麗は我に返った。選択しなければ。
<br>「……やっぱり部屋を片付けさせて。しばらく待ってなさい」
<br>「え〜っ、別に気にしないよ」
<br>「私が気にするの」
<br>「思春期かよお」
<br>「文句言うなら入れないわよ」
<br>「はいはい」
<br> 取り敢えず、考える時間を稼ぐ。
<br> 麗は一旦玄関から離れ、鞄やらを片付け始めた。ああ言った以上、片付けをする音を立てておかないと、怪しまれかねない。このアパートは全く防音できないんだから。
<br> 麗の部屋の間取りは、風呂・トイレ付きの1DK。燿が通り魔なら、家に入れた時点で逃げ場はない。
<br> いや、周りに助けを求めれば……。そこまで考えて麗は頭を抱えた。2階の住人は麗を除いて1人だが、その1人は長期旅行中。更に、下の階の管理人老夫婦は耳が遠い。いくら泣き叫んでも助けは来ないだろう。
<br> 燿を部屋に入れないのが一番安全だが、潔白だったら入れない訳にはいかない。追い返されて家に帰っている間に刺されました、なんてことになるかもしれないのだ。やはり、燿が通り魔か否か、慎重に見極めねばならない。


まず最初に、当該YGTの呼称が決定した。無論、上層部で既に決まっていたことを発表したに過ぎないのだろうが。YGT-362“<ruby>引力者<rt>グラビティア</rt></ruby>”。それが、巨人に与えられた名前だった。


 でも、どうやって? 途方に暮れていると、麗はテレビをつけっ放しにしていたことに気づいた。スタジオでは、現場周辺の略図を描いて事件のあらましを解説している。発生からあまり時間が経っていないのに、大したものだ。
対策研究員がその旨を淡々と伝えると、被害の状況の確認に移った。第二十七分隊はバックアップを務めただけのため、話すことはなかったが、唯一巨人と交戦した第十二分隊の分隊長は、いろいろなことを報告した。部下を亡くしたばかりだというのに、財団も酷なことをさせるものだ、と浩司は思った。同時に、すぐに自分も同じ状況に追い込まれるかもしれないな、とも想像する。
<br> 事件が起こったN駅通りは、N駅から南に真っ直ぐ延びている。夜8時頃、そのN駅から100mほど進んだところで、第一の被害者が出た。夜勤に出ようとしていた女性が胸を刺され、重体となっている。先程の写真も、この時を写したものだ。その数分後、更に500mほど南下したところで、第二、第三の凶行が相次いで為された。会社員の男性と女子大生が今度は右腹を刺され、肝門脈損傷により失血死した。いずれの事件も、犯人は被害者をすれ違いざまにナイフで刺し、周囲が異変に気づいた頃には既に歩き去っていたという。
<br> そうアナウンサーは早口で解説した。第二・第三の事件現場は、ここから300mほどしか離れていない。もし燿が通り魔でも、ここに到着した時間は矛盾しない。
<br> 待ちかねたのか、燿が不満を訴えた。
<br>「まだあ? こう見えても俺、結構怯えてるんだけど」
<br> 聞き慣れているはずの燿の声が、なぜか気味悪く感じる。怯えているのは、こっちの方だ。
<br>「……燿。あんた、何で外にいたの?」
<br>「バイト帰りだよ。N駅通りの居酒屋で働いてるって、前に言わなかったっけ?」
<br> 随分前に言われた気がする。
<br>「酒に弱いあんたが、よく面接通ったわね」
<br>「店員は酒飲まねえからいいんだよ」
<br> 燿は、生粋の下戸だ。少し杯を舐めただけで、ベロベロに酔ってしまう。燿が二十歳になった日、あっという間に酔い潰れた燿を担いで店を出たのはいい思い出だ。
<br> そんな弟が通り魔じゃないかと疑っている、私の頭のネジが数本飛んでいることは間違いない。
<br>「とにかく、もうしばらく待ってなさい」
<br>「判ったよ」
<br> さて、落ち着いて見定めるのだ。選択を誤れば、最悪死ぬ。


被害状況は、甚大と言ってよかった。死者は確認が取れているだけでも52人。多くの犠牲者が瓦礫の奥深くに埋まっているであろうことを考えれば、死者数は300をくだらないだろう、というのが妥当な推測だった。負傷者は言わずもがな、それより多い。さらに、31戸の家屋が全壊、半壊以上の被害を受けたのは200戸を超えた。ゆいレールや国道330号線といった主要な交通基幹も被害に遭い、徒歩で避難を余儀なくされた民衆が那覇の街に溢れている。家を失った人々は周辺の避難場所──公園、小学校など──に身を寄せているが、それらの場所の人口密度はすごいことになっている。


 麗は足音を殺して、玄関に向かった。息を止めて、そっとドアスコープを覗いた。
一方、財団の被害は、第十二分隊航空部隊のA15ヘリコプター2機と、乗組員4名だった。軽微に聞こえるが、交戦した兵力が全滅したと捉えれば、大損害だ。話題は、YGT-362の分析に移った。
<br> 充血した目がこちらを覗き返している……なんていうホラー展開はなく、燿が壁に凭れているだけだった。ちらちらと階段の方を気にしている辺り、本当に誰か来ないか怖がっているらしい。尤も、それが通り魔か警察官かは判らないが。
<br> 目を凝らしてよく観察してみた。燿は黒っぽい英字Tシャツとジーパンを着て、大きめのリュックサックを背負っている。
<br> 暗くてよく見えないが、少なくとも返り血がべったり付いているということはない。だが、写真では血が噴き出る前に犯人は被害者とすれ違っていた。それに、そもそも着替えを用意していれば何の問題も無い。
<br> 燿は、手にスマホだけ持っている。通り魔なら持っていたはずの物がある。例えば、ナイフや黒いジャンパー。しかし、リュックサックに入れてあるのかもしれないし、途中で捨ててきた可能性もある。
<br> 結局、何一つ確言できないままだ。
<br> 唐突に、燿がこちらを向いて話しかけてきた。
<br>「それにしても、連続通り魔なんて物騒だよな」
<br> 忍び足のまま距離を取り、
<br>「本当にね」
<br>と返す。動悸がうるさい。
<br>「被害者も、意識不明だってね。なんとか助かればいいんだけど」
<br> 喋りながら、麗はテレビに目を向けた。画面には一つのフリップがアップで映されている。
<br>『こちらが、独自インタビューから見えてきた犯人像です。犯人は身長160cm程度の男性。灰色のニット帽と黒のジャンパー、青いジーンズを着けています。また、右利きと見られます。では、詳しいインタビューのVTRをどうぞ!』
<br> 燿は、短髪で身長165cmほどの右利きの男だ。服装は着替えがあれば何の手掛かりにもならない。
<br> つまり、プロフィールは全て合致している。しかし、このプロフィールに合致する人間はごまんといるだろう。事態は全く変わっていない。
<br> テレビには、1人の男がマイクを向けられ、興奮気味に話していた。
<br>『すれ違ったと思ったらおっさんが腹を押さえて倒れてよお。通り魔はそのまま俺の横をスタスタ歩いていったよ。顔は帽子の鍔でよく見えなかったが、身長は160くらいだったぜ』
<br> その次は、犯人が写ったあの写真の撮影者の証言らしかった。色黒のギャルが、大仰な身振りを交えて喋っている。
<br>『そこのテラス席で、パフェと自撮りしようとしてたわけ。こう……スマホを構えて撮ろうとしてたんだけど、後ろの歩道に人が通りかかったから、画面見ながら待ってたんよ。そしたら、いきなりブスッと、男が右手で女の人を刺したのがパフェの横に見えたの。もう私びっくりしちゃってえ、思わずシャッター押しちゃったのが、この写真ってわけ』
<br> パフェを持ったギャルの自撮りだが、視線が微妙にずれてしまっている。その左奥には、血を噴き出す被害者と見切れた犯人が。あの写真は、これを拡大したものだったようだ。
<br> その時、外からヘリコプターの飛行音が聞こえてきた。
<br>「テレビの中継でもやってるのかな」
<br> 燿が扉の外から問いかけてきた。
<br> ふと、閃いた。燿はずっと外にいたから、テレビを見る機会などない。鎌をかけてやろう。意を決し、麗は外に向かって話しかけた。
<br>「通り魔なんて怖いわね。刺された女の人は、{{傍点|文章=首をかかれていたってよ}}」
<br>「え? {{傍点|文章=胸を刺された}}んじゃなかったっけ?」
<br> 掛かった。
<br>「燿。あんた、それどこで知ったのよ? テレビを見る機会なんて無かったはずよ」
<br> つまり、燿は現場を見たことのある、通り魔に他ならないのだ。
<br> ところが、あっけらかんとした答えが返ってきた。
<br>「テレビ? 普通にTwitterで見たよ。てか、まだ片付け終わらないの? もう真っ暗だよ」
<br> そうか、情報を得る手段はテレビだけではない。自分がネットを滅多に使わないから、忘れていた。現代っ子め。また振り出しだ。
<br>「姉貴、情報が錯綜してるから、気をつけなよ。ネットは勿論、テレビですら十分な取材ができてないかもしれない。フェイクニュースに騙されないようにね」
<br>「判ってるわよ」
<br> 心配されてしまった。全く、人の気も知らないで。
<br> テレビはネタが尽きたのか、先程と同じ内容を繰り返し始めた。独自インタビューから見えてきた犯人像──。
<br>……ん?
<br> 燿の台詞が脳内でリフレインされる。{{傍点|文章=テレビですら十分な取材ができていない}}──。
<br> ゆっくりと、考えが組み上がっていく。
<br>「……き、姉貴! おーい!」
<br> 気づくと、燿が麗を呼んでいた。生返事をすると、
<br>「どうしたんだよ。片付け終えたんなら、入れてくれないか?」
<br>と心配げに言われた。
<br> 麗はゆっくりと立ち上がると、玄関に行き、扉の前に立った。
<br>「ごめん、燿」
<br> それから、右手を伸ばし、サムターンを捻った。{{傍点|文章=扉を押し開け}}、笑いかける。
<br>「待たせたわね」
<br>「怖くて死ぬかと思ったぜ」
<br> 言葉の割には平気そうな顔で、燿が笑った。


白衣を着た対策研究員が、今回の攻撃でわかったことを列挙していく。
<br>「当該YGTは、高さ約23メートル。出現時には、半径300メートルに及ぶ重力異常を引き起こしました。周りの物を無制限に引き寄せることで、体を形作りました。体の内部に、引力を操る何者かがいるのか、それとも純粋に引力のみが発生しているのかは、現時点では不明です。また、確認された攻撃手段は、対象の吸引と、瓦礫を吸引して投げる投石の二種類。戦闘の様子から、引力者は引力のオン・オフを自在にコントロールできると推察されます」
<br>誰かが手を挙げて質問した。
<br>「出現時の吸引が終わった後も、体を形成する瓦礫が落ちなかったのはなぜだ?」
<br>「おそらくですが、それらの瓦礫は恒常的に引き寄せるよう、力を操作していたのだと考えます。その上で、他の物も引き寄せられるのでしょう」
<br>それからも、細々とした報告は続いた。放射線の反応は無し、現実改変および認識災害の兆候は無し、サーモグラフィーによれば首の辺りに熱反応が見られる、航空機による接近は危険ゆえ陸上部隊で対応すべき……。


その時、新たに一人が会議に参加した。遅れた参加者を見て、浩司は驚愕した。いや、人は見えなかった。見えないことに驚いた。画面には、黒地に三本の白い曲線が描く、人の顔のような図形。それは、W5評議員の印だった。


「実は私ね、燿が通り魔なんじゃないかと疑ってたの」
財団の職員でさえも、その正体を知る者は少ない。常習者最高の地位を占めるW5評議員。管理者に次ぐ権力を保持し、財団の実質的な最高諮問機関の、たった十人の構成員。そのうちの一人が、この会議に参加してきた。
<br> 燿を部屋に上げ、冷蔵庫から缶ビールを2つ取り出しながら、麗は言った。燿は枝豆を口に運びかけた姿勢のまま、固まった。同じ内容を繰り返すテレビ番組が、タイミングよく通り魔の写真を映した。
 
<br>「ほら、燿に似てない?」
浩司は、自らの心拍数が急上昇し、顔が紅潮していくのを感じた。おそらく、会議に参加している全員が同じ心地だろう。緊張、そして少しの高揚。平の職員が、W5評議員に接触する機会など、まず無い。浩司は、興奮を抑えられない。
<br>「ん〜、俺に見えなくもないけど……こんな男なら大量にいるだろ」
 
<br> それから、麗は燿を通り魔か否か見極めようとしたことを話した。燿は笑ったり感心したりしながら話を一通り聞くと、麗にこう尋ねた。
前置きなしに、W5評議員の声が響いた。正確には、声を変換した電子音だが。
<br>「YGT-362は、人間だ」
<br>場は、静まりかえった。
<br>「先刻の事件を受け、米国が接触してきた。彼の国は、引力者の存在を既に関知しており、調査を進めていた。彼らが言うには、こうだ」
<br>浩司は唾を呑み込んだ。
<br>「引力者は、異能を有した人間、平たく言えば超能力者だ。そして、引力者は世界各地に点在している。その能力の原理はわからない。引力者は科学の外にいるわけだから、YGTであることは間違いない。引力者について、一つ確かに言えるのは、彼らが互いに連係してきな臭い動きをしているということだ」
<br>きな臭い動き? まさか……。
<br>「引力者は、{{傍点|文章=戦争}}の準備を進めているらしい。先刻の襲来は、その口火を切るものなのかもしれない。もしこれが正しければ、近々、引力者と人類の全面戦争が始まる可能性があるということだ。つまり、次なる攻撃の可能性は高い」
<br>全面戦争。その言葉の重みが、じんわりと心に沈んでいった。今回の攻撃は、ほんの序章に過ぎないのかもしれない。何せ、引力者は複数いるのだ。あの巨人が何十人も一斉に現れたら……。浩司の不穏な想像をよそに、電子音は続く。
<br>「今回のことは、あまりにも重大事だ。現在各国は、引力者の存在を公表する構えだ」
<br>「えっ……」
<br>場がどよめいた。「偽装」を旨とされるYGTの存在が、公表される……?
<br>「一人の引力者の存在をひた隠しにしたとて、事態は悪化するのみだという判断だ。そこで、W5評議会として、YGT財団に命ずる」
<br>背筋を伸ばし、下命を聞いた。
<br>「引力者による攻撃を防御し、引力者を排除せよ。自衛隊も、武力行使で臨む。こちらも、全兵力をもってして、引力者から無辜の市民を守れ。普段の任務とは趣を異にするが、人々の日常を守るという目的は変わらない。このことを肝に銘じ、全力で任務にあたれ。以上だ」
<br>「はっ!」
<br>全員の声が揃った。そして、W5評議員は会議から退出した。残された財団職員は、静かな興奮に満ちていた。
 
対策研究員と隠蔽作業員は引力者の調査・分析にあたり、機動部隊員が実地対応を受け持つことがすぐに決定した。剣崎元帥の号令で、機動部隊内での役割も割り振られた。現在沖縄本島にいる第十二分隊と第二十七分隊が、避難民の誘導および引力者の捜索、戦闘準備を行う。佐賀にいる第十九分隊と、東シナ海で演習中の第三分隊海上部隊も応援に来る。一方で、沖縄以外での備えも怠れない。次もまた引力者が沖縄に出現するとは限らないからだ。各地の分隊は、日本各地に散らばり、状況に応じて応援派遣させる。
 
狭い沖縄本島に、二つも分隊がいたのは幸運だった。第十二分隊は沖縄に駐屯しているから当然なのだが、遊軍として駆け回っている第二十七分隊がここに居合わせたのは全くの偶然だ。ロックイーターのおかげだな、と浩司は思う。
 
会議は終了した。第二十七分隊は、那覇の南を担当することになった。電話で分隊の皆にその旨を伝え、浩司は樋口と共に立ち上がった。
 
==8月13日23時19分 神代晃平==
寝息を立てる葵を抱いた椿と並んで、晃平は歩いていた。国道58号を国場川沿いに南下し、大きなショッピングモールの横を通過した。少し先で川は本流と合流し、右手の海に注いでいる。周りには、同じ方向に歩く人々が大勢いた。皆うつむき、幽鬼のように黙して行進している。車道は自動車でぎゅうぎゅうに満ち、ほとんど動かない。3時間ほど前に戦場と化した場所。そこからとにかく離れようと、あてもなく彷徨っているのだ。もっとも、晃平たちの事情は少し異なっていたが。
 
那覇の中でも都会といえるこの一帯は、普段ならこの時間でも灯りは少なくないのだろう。コンビニやパチンコ店のネオン、街灯も多い。しかし、今は違う。先の事変で多くの電線が寸断され、那覇市一帯が停電しているのだ。避難民を誘導しようと、警察や自衛隊が各所でサーチライトを焚いている。しかしそれだけで足元をちゃんと照らすことはできず、人々は皆、携帯のライトを地面に向けながら黙って避難を続けるのだった。日常と完全にかけ離れた風景で、ややもすれば、自分は夢を見ているのではないかという心持ちになる。
 
また、パトカーや自衛隊の車両、果ては戦車までもが道路にいて、睨みを利かせているところもあった。そして、そんな場所を通るたびに、晃平はひどく緊張するのだった。今にも、迷彩服を着た男たちに捕まるのではないか、いや問答無用で撃ち殺されるのではないか、と不安になる。もはや、晃平は肉体的によりも精神的にずっと疲れていた。
 
唐突に、晃平の手の中のスマホが震動した。ライトを切って画面を覗く。見覚えのある番号からの着信だった。
<br>「もしもし?」
<br>「やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ」
<br> 5日前、晃平のもとにこの日本語が堪能な若者から連絡が来た。晃平をグラビティ持ちと看破し、自分たちの仲間になるよう要求してきたのだ。彼によれば、世界中の同様の能力者が集まり、組織を作っている。そして、諸国に宣戦布告しようとしているというのだ。これには、腰を抜かした。しかし、『君が敵になるくらいなら、僕たちは君をまず殺す』と脅迫されれば、要求に従わざるを得なかった。連れてきていいのは妻と息子のみ、5日後に沖縄に迎えを寄越す、と一方的に伝えられ、ここまで来たのだ。しかし、こんな事態になってしまうとは。
 
<br>「コーヘイ、やってくれたねえ」
<br>アンドレの声は、しかし弾んでいるように聞こえた。
<br>「正直、こっちは大混乱だよ。謎の戦力が一番槍を取っちゃったし、ストラテジーを最初から練り直さなきゃいけないし、予定を前倒しにして宣戦布告をしちゃうっぽいし、でもでも、何より驚愕と衝撃と尊敬が渦巻いてるよ!」
<br>口を挟む間もなく、アンドレは矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
<br>「何だい、あれは⁈ グラビティを使って巨人の体を作る? 誰も思いつかなかったアイデアだ! それだけじゃない、あれを実現するグラビティの強さは、僕らの中でも持っているやつはそういない。つまり、君のパワーは僕らの組織でも屈指ってことだ! すぐに幹部になれるよ!」
<br>「ちょ、ちょっと待ってくれ。あれは、アクシデントだったんだ。その、攻撃に加担しようとしたわけじゃない。それに、大きな誤解があるよ……」
<br>周りの人に聞こえないよう、声を潜めて反論しようとするが、ハイな声に遮られる。
<br>「いいんだよ、言い訳は。だって、君のしたことは正しいことなんだから。いいかい? 僕らグラビティ使いは、選ばれし存在なんだ。常人の命なんて、気にすることはない。選ばれた存在が、そうでない存在を統べるべきだ。これから僕らがやることは、その偉大なる一歩目なんだ! その本当に最初の栄えある嚆矢を、君が放ったってわけさ」
<br>晃平には、アンドレの主張は理解できないし、危険なものだとも思う。しかし、家族の安全のためには、この男に保護されないといけないのだ。たとえ他の全人類を見放しても。
<br>「そうだそうだ、本題を忘れてた。今、世界中の軍が目を皿のようにして君を探し回っている。そうだろ?」
<br>あちらこちらに見える自衛隊の隊員たちが、全員俺を捕らえようと、いや殺そうとしている。わかっていたことだが、改めて他人からその事実を突きつけられると、やはり恐ろしい。
<br>「僕らとしては、捕まったり殺されたりする前に、君をピックアップしたいわけだ。そこで、僕らは今、急いでそっちに向かっている。約束の時間を、何時間か早める。朝の6時だ。場所は変わらず。いいね?」
<br>「……わかった。6時だな」
<br>「じゃ、頑張って生き延びてね!」
 
電話は切られた。ひどく疲れたような気分になる。椿が物問いたげに見てくるので、耳元に口を寄せ、予定が変わったことをそっと囁いた。もともと曇っていた椿の顔が、さらに沈痛に歪む。仕方のなかったこととはいえ、結果として多くの人の命が奪われてしまった。そのことに、椿は心を痛めているのだ。
 
しかし、当局に出頭したとて、アンドレたちの組織の追跡と攻撃から逃げられる気はしなかった。葵を守るには、こうするしかなかったのだ。それに、今となっては引き返すことができない。トロッコは走り出してしまった。もう、このレールを最後まで走り切るしか、助かる道はないのだ。
 
明らかに憔悴している椿の腕から、葵を抱き上げる。幼子の熱い体温が胸に伝わってきた。朝6時までに、約束の場所へと辿り着かなくてはならない。どこか道路が機能している場所まで歩いて、タクシーを拾わなければ。
 
心に湧き立つ暗雲を閉じ込め、前を向いたとき、橋の上で群衆に目を向けている自衛隊員が見えた。迷彩服に身を包んだ何人かが、こちらの方を見ている。うち一人は、スコープのようなものを目に当てている。
 
ふと、晃平は気づいた。あいつらはこちらに漠然と視線を向けているのではない。{{傍点|文章=俺}}を見ているのだ。{{傍点|文章=気づかれている}}。
 
スコープを取った男と、まともに目が合った。精悍な顔つきで、こちらを見つめている。彼は、目を逸らさぬまま横の隊員に何事か告げた。隊員は奥の方へと走っていく。
 
晃平は立ち止まった。椿が驚いて足を止める。周りの群衆は、一瞬迷惑そうな顔をするが、構わず横をすり抜けていく。
<br>「どうしたの?」
<br>「気づかれた」
<br>手短に答えると、椿は息を呑んだ。数十メートル先の隊員を見つめたまま、抱いていた葵を椿に突き出す。
<br>「今度は、瀬長島で待ち合わせだ。後ろに走って、大きく迂回して向かえ。2時までに俺が来なかったら、先に行っててくれ」
<br>「……でも!」
<br>「葵を頼む」
<br>目を合わせ、微笑んでみせる。何か言いたげだった椿も、覚悟を決めたように頷いた。葵を抱きしめ、人の流れに逆らって走り去っていく。
<br>晃平は前方へと視線を戻した。たくさんの人々の頭越しに、男と目が合う。
 
葵を守る。そのためなら、何にだってなってやろう。……巨人にだって。晃平は走り出す。
 
==8月13日23時22分 城島浩司==
「分隊長! 不審な通話を傍受しました!」
<br>セカンドショップの格好をした財団の小基地の中。一人の通信員が叫んだ。声には隠し切れない興奮が顕れている。
<br>「最初から聞かせろ。手空きの者は話者の特定を急げ」
<br>短く告げると、通信員はヘッドセットを渡してきた。それをつけると、数分前の録音が耳に飛び込んできた。
<br>『もしもし?』『やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ』
<br>アンドレとコーヘイという二人は、それから2分半にわたって話していた。ハイに長広舌をふるうアンドレと、押し殺した声で返答するコーヘイ。彼らの通話内容は、衝撃的だった。コーヘイという男が、先刻現れた引力者であることは間違いないだろう。そして、アンドレはそのバックにいる引力者の組織の人間で、コーヘイと接触を図っている。
<br>何より、通信が傍受できたということは、どちらかがここ付近にいるということだ。おそらくは件の引力者の方が。
<br>「分隊長! 通話していた人物が見つかりました!」
<br>「間違いないか?」
<br>「はい。監視カメラに記録された唇の動きと、傍受した通話内容が、完全に合致しました」
<br>「よし、どこだ?」
<br>通信員は壁に貼られた周辺地図の一点を指した。ここから目と鼻の先だ。
<br>「現在、国道58号線を南下中。ちょうど我々の方へ接近しています」
<br>「肉眼で確認する。ついて来い」
 
浩司は外へと出た。夜気が服越しに肌を刺す。
<br>国場川に架かる明治橋。そこの片方の車線を占有し、第二十七分隊は警戒任務にあたっていた。その先頭へと行き、怯えながら避難する群衆に目を向ける。
<br>「正面に見える、赤ん坊を腕に抱いている男です」
<br>通信員に言われて、浩司はその男に目を留めた。疲れ切ったような顔で、俯きながら歩いてくる。横には、男の妻らしき人物もいる。
<br>あの男が、引力者なのか。浩司は部下からサーモグラフィーを受け取った。ついさっき、米国からの情報として本部から連絡があった。なんでも、引力者は能力を発動すると、体温が上昇するらしい。そういうわけで、隊の設備をひっかき回して、スコープ型のサーモグラフィーを一つだけ見つけてきたのだ。そこら中の物を手当たり次第に引き寄せ巨人となった引力者は、さぞ体温が上がっているだろう。
<br>浩司はサーモグラフィーを目に当て、およそ100メートル先の人影を見遣った。結果は、火を見るより明らかだった。男の体の中心部、心臓の辺りが特に赤くなっている。
<br>サーモグラフィーを外し、肉眼で男を見つめる。向こうもこちらの動きを感じ取ったのか、男は立ち止まってこちらを見据えていた。目を逸らさぬまま、傍らの通信員に手早く指示する。
<br>「対象人物を発見した。本部に連絡しろ」
<br>通信員が走り去り、そのまま浩司は振り返ってハンドサインを送った。橋に待機していた隊員が、一斉に動き出す。浩司はまた男に向き直った。

3年2月22日 (ゐ) 22:04時点における最新版

8月13日22時30分 城島浩司[編集 | ソースを編集]

この1時間余り、現場はてんてこまいだった。市街地に突如現れた外部存在。暴虐の限りを尽くしたそれは、多くの人的・物的損害を出したが、ほどなくして姿をくらませた。第二十七分隊は、被災地での救助活動にあたった。派遣された自衛隊や現地の消防団などと共に、怪我人を保護したり瓦礫の下に生き埋めにされた人々を助け出したりした。しかし、分隊長である浩司と、第一小隊長の樋口は、救助活動から離脱して会議に出席している。

財団は、各地に民家に見せかけた小基地を持っている。いかなる時、いかなる場所でも、突発事態に対応できるようにだ。そして、現場に近い小基地の中に、二人はいた。予告された時刻通りに、財団の秘密回線が開き、会議が始まった。

浩司と樋口は、白い椅子に並んで腰掛け、正面のスクリーンに目を向けていた。22時30分、それまで黒かったスクリーンに、突如としていくつかの人の姿が映し出された。その中には、機動部隊元帥・剣崎剛毅の姿もある。慌ただしく、財団の会議が始まった。

まず最初に、当該YGTの呼称が決定した。無論、上層部で既に決まっていたことを発表したに過ぎないのだろうが。YGT-362“引力者グラビティア”。それが、巨人に与えられた名前だった。

対策研究員がその旨を淡々と伝えると、被害の状況の確認に移った。第二十七分隊はバックアップを務めただけのため、話すことはなかったが、唯一巨人と交戦した第十二分隊の分隊長は、いろいろなことを報告した。部下を亡くしたばかりだというのに、財団も酷なことをさせるものだ、と浩司は思った。同時に、すぐに自分も同じ状況に追い込まれるかもしれないな、とも想像する。

被害状況は、甚大と言ってよかった。死者は確認が取れているだけでも52人。多くの犠牲者が瓦礫の奥深くに埋まっているであろうことを考えれば、死者数は300をくだらないだろう、というのが妥当な推測だった。負傷者は言わずもがな、それより多い。さらに、31戸の家屋が全壊、半壊以上の被害を受けたのは200戸を超えた。ゆいレールや国道330号線といった主要な交通基幹も被害に遭い、徒歩で避難を余儀なくされた民衆が那覇の街に溢れている。家を失った人々は周辺の避難場所──公園、小学校など──に身を寄せているが、それらの場所の人口密度はすごいことになっている。

一方、財団の被害は、第十二分隊航空部隊のA15ヘリコプター2機と、乗組員4名だった。軽微に聞こえるが、交戦した兵力が全滅したと捉えれば、大損害だ。話題は、YGT-362の分析に移った。

白衣を着た対策研究員が、今回の攻撃でわかったことを列挙していく。
「当該YGTは、高さ約23メートル。出現時には、半径300メートルに及ぶ重力異常を引き起こしました。周りの物を無制限に引き寄せることで、体を形作りました。体の内部に、引力を操る何者かがいるのか、それとも純粋に引力のみが発生しているのかは、現時点では不明です。また、確認された攻撃手段は、対象の吸引と、瓦礫を吸引して投げる投石の二種類。戦闘の様子から、引力者は引力のオン・オフを自在にコントロールできると推察されます」
誰かが手を挙げて質問した。
「出現時の吸引が終わった後も、体を形成する瓦礫が落ちなかったのはなぜだ?」
「おそらくですが、それらの瓦礫は恒常的に引き寄せるよう、力を操作していたのだと考えます。その上で、他の物も引き寄せられるのでしょう」
それからも、細々とした報告は続いた。放射線の反応は無し、現実改変および認識災害の兆候は無し、サーモグラフィーによれば首の辺りに熱反応が見られる、航空機による接近は危険ゆえ陸上部隊で対応すべき……。

その時、新たに一人が会議に参加した。遅れた参加者を見て、浩司は驚愕した。いや、人は見えなかった。見えないことに驚いた。画面には、黒地に三本の白い曲線が描く、人の顔のような図形。それは、W5評議員の印だった。

財団の職員でさえも、その正体を知る者は少ない。常習者最高の地位を占めるW5評議員。管理者に次ぐ権力を保持し、財団の実質的な最高諮問機関の、たった十人の構成員。そのうちの一人が、この会議に参加してきた。

浩司は、自らの心拍数が急上昇し、顔が紅潮していくのを感じた。おそらく、会議に参加している全員が同じ心地だろう。緊張、そして少しの高揚。平の職員が、W5評議員に接触する機会など、まず無い。浩司は、興奮を抑えられない。

前置きなしに、W5評議員の声が響いた。正確には、声を変換した電子音だが。
「YGT-362は、人間だ」
場は、静まりかえった。
「先刻の事件を受け、米国が接触してきた。彼の国は、引力者の存在を既に関知しており、調査を進めていた。彼らが言うには、こうだ」
浩司は唾を呑み込んだ。
「引力者は、異能を有した人間、平たく言えば超能力者だ。そして、引力者は世界各地に点在している。その能力の原理はわからない。引力者は科学の外にいるわけだから、YGTであることは間違いない。引力者について、一つ確かに言えるのは、彼らが互いに連係してきな臭い動きをしているということだ」
きな臭い動き? まさか……。
「引力者は、戦争の準備を進めているらしい。先刻の襲来は、その口火を切るものなのかもしれない。もしこれが正しければ、近々、引力者と人類の全面戦争が始まる可能性があるということだ。つまり、次なる攻撃の可能性は高い」
全面戦争。その言葉の重みが、じんわりと心に沈んでいった。今回の攻撃は、ほんの序章に過ぎないのかもしれない。何せ、引力者は複数いるのだ。あの巨人が何十人も一斉に現れたら……。浩司の不穏な想像をよそに、電子音は続く。
「今回のことは、あまりにも重大事だ。現在各国は、引力者の存在を公表する構えだ」
「えっ……」
場がどよめいた。「偽装」を旨とされるYGTの存在が、公表される……?
「一人の引力者の存在をひた隠しにしたとて、事態は悪化するのみだという判断だ。そこで、W5評議会として、YGT財団に命ずる」
背筋を伸ばし、下命を聞いた。
「引力者による攻撃を防御し、引力者を排除せよ。自衛隊も、武力行使で臨む。こちらも、全兵力をもってして、引力者から無辜の市民を守れ。普段の任務とは趣を異にするが、人々の日常を守るという目的は変わらない。このことを肝に銘じ、全力で任務にあたれ。以上だ」
「はっ!」
全員の声が揃った。そして、W5評議員は会議から退出した。残された財団職員は、静かな興奮に満ちていた。

対策研究員と隠蔽作業員は引力者の調査・分析にあたり、機動部隊員が実地対応を受け持つことがすぐに決定した。剣崎元帥の号令で、機動部隊内での役割も割り振られた。現在沖縄本島にいる第十二分隊と第二十七分隊が、避難民の誘導および引力者の捜索、戦闘準備を行う。佐賀にいる第十九分隊と、東シナ海で演習中の第三分隊海上部隊も応援に来る。一方で、沖縄以外での備えも怠れない。次もまた引力者が沖縄に出現するとは限らないからだ。各地の分隊は、日本各地に散らばり、状況に応じて応援派遣させる。

狭い沖縄本島に、二つも分隊がいたのは幸運だった。第十二分隊は沖縄に駐屯しているから当然なのだが、遊軍として駆け回っている第二十七分隊がここに居合わせたのは全くの偶然だ。ロックイーターのおかげだな、と浩司は思う。

会議は終了した。第二十七分隊は、那覇の南を担当することになった。電話で分隊の皆にその旨を伝え、浩司は樋口と共に立ち上がった。

8月13日23時19分 神代晃平[編集 | ソースを編集]

寝息を立てる葵を抱いた椿と並んで、晃平は歩いていた。国道58号を国場川沿いに南下し、大きなショッピングモールの横を通過した。少し先で川は本流と合流し、右手の海に注いでいる。周りには、同じ方向に歩く人々が大勢いた。皆うつむき、幽鬼のように黙して行進している。車道は自動車でぎゅうぎゅうに満ち、ほとんど動かない。3時間ほど前に戦場と化した場所。そこからとにかく離れようと、あてもなく彷徨っているのだ。もっとも、晃平たちの事情は少し異なっていたが。

那覇の中でも都会といえるこの一帯は、普段ならこの時間でも灯りは少なくないのだろう。コンビニやパチンコ店のネオン、街灯も多い。しかし、今は違う。先の事変で多くの電線が寸断され、那覇市一帯が停電しているのだ。避難民を誘導しようと、警察や自衛隊が各所でサーチライトを焚いている。しかしそれだけで足元をちゃんと照らすことはできず、人々は皆、携帯のライトを地面に向けながら黙って避難を続けるのだった。日常と完全にかけ離れた風景で、ややもすれば、自分は夢を見ているのではないかという心持ちになる。

また、パトカーや自衛隊の車両、果ては戦車までもが道路にいて、睨みを利かせているところもあった。そして、そんな場所を通るたびに、晃平はひどく緊張するのだった。今にも、迷彩服を着た男たちに捕まるのではないか、いや問答無用で撃ち殺されるのではないか、と不安になる。もはや、晃平は肉体的によりも精神的にずっと疲れていた。

唐突に、晃平の手の中のスマホが震動した。ライトを切って画面を覗く。見覚えのある番号からの着信だった。
「もしもし?」
「やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ」
 5日前、晃平のもとにこの日本語が堪能な若者から連絡が来た。晃平をグラビティ持ちと看破し、自分たちの仲間になるよう要求してきたのだ。彼によれば、世界中の同様の能力者が集まり、組織を作っている。そして、諸国に宣戦布告しようとしているというのだ。これには、腰を抜かした。しかし、『君が敵になるくらいなら、僕たちは君をまず殺す』と脅迫されれば、要求に従わざるを得なかった。連れてきていいのは妻と息子のみ、5日後に沖縄に迎えを寄越す、と一方的に伝えられ、ここまで来たのだ。しかし、こんな事態になってしまうとは。


「コーヘイ、やってくれたねえ」
アンドレの声は、しかし弾んでいるように聞こえた。
「正直、こっちは大混乱だよ。謎の戦力が一番槍を取っちゃったし、ストラテジーを最初から練り直さなきゃいけないし、予定を前倒しにして宣戦布告をしちゃうっぽいし、でもでも、何より驚愕と衝撃と尊敬が渦巻いてるよ!」
口を挟む間もなく、アンドレは矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「何だい、あれは⁈ グラビティを使って巨人の体を作る? 誰も思いつかなかったアイデアだ! それだけじゃない、あれを実現するグラビティの強さは、僕らの中でも持っているやつはそういない。つまり、君のパワーは僕らの組織でも屈指ってことだ! すぐに幹部になれるよ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あれは、アクシデントだったんだ。その、攻撃に加担しようとしたわけじゃない。それに、大きな誤解があるよ……」
周りの人に聞こえないよう、声を潜めて反論しようとするが、ハイな声に遮られる。
「いいんだよ、言い訳は。だって、君のしたことは正しいことなんだから。いいかい? 僕らグラビティ使いは、選ばれし存在なんだ。常人の命なんて、気にすることはない。選ばれた存在が、そうでない存在を統べるべきだ。これから僕らがやることは、その偉大なる一歩目なんだ! その本当に最初の栄えある嚆矢を、君が放ったってわけさ」
晃平には、アンドレの主張は理解できないし、危険なものだとも思う。しかし、家族の安全のためには、この男に保護されないといけないのだ。たとえ他の全人類を見放しても。
「そうだそうだ、本題を忘れてた。今、世界中の軍が目を皿のようにして君を探し回っている。そうだろ?」
あちらこちらに見える自衛隊の隊員たちが、全員俺を捕らえようと、いや殺そうとしている。わかっていたことだが、改めて他人からその事実を突きつけられると、やはり恐ろしい。
「僕らとしては、捕まったり殺されたりする前に、君をピックアップしたいわけだ。そこで、僕らは今、急いでそっちに向かっている。約束の時間を、何時間か早める。朝の6時だ。場所は変わらず。いいね?」
「……わかった。6時だな」
「じゃ、頑張って生き延びてね!」

電話は切られた。ひどく疲れたような気分になる。椿が物問いたげに見てくるので、耳元に口を寄せ、予定が変わったことをそっと囁いた。もともと曇っていた椿の顔が、さらに沈痛に歪む。仕方のなかったこととはいえ、結果として多くの人の命が奪われてしまった。そのことに、椿は心を痛めているのだ。

しかし、当局に出頭したとて、アンドレたちの組織の追跡と攻撃から逃げられる気はしなかった。葵を守るには、こうするしかなかったのだ。それに、今となっては引き返すことができない。トロッコは走り出してしまった。もう、このレールを最後まで走り切るしか、助かる道はないのだ。

明らかに憔悴している椿の腕から、葵を抱き上げる。幼子の熱い体温が胸に伝わってきた。朝6時までに、約束の場所へと辿り着かなくてはならない。どこか道路が機能している場所まで歩いて、タクシーを拾わなければ。

心に湧き立つ暗雲を閉じ込め、前を向いたとき、橋の上で群衆に目を向けている自衛隊員が見えた。迷彩服に身を包んだ何人かが、こちらの方を見ている。うち一人は、スコープのようなものを目に当てている。

ふと、晃平は気づいた。あいつらはこちらに漠然と視線を向けているのではない。を見ているのだ。気づかれている

スコープを取った男と、まともに目が合った。精悍な顔つきで、こちらを見つめている。彼は、目を逸らさぬまま横の隊員に何事か告げた。隊員は奥の方へと走っていく。

晃平は立ち止まった。椿が驚いて足を止める。周りの群衆は、一瞬迷惑そうな顔をするが、構わず横をすり抜けていく。
「どうしたの?」
「気づかれた」
手短に答えると、椿は息を呑んだ。数十メートル先の隊員を見つめたまま、抱いていた葵を椿に突き出す。
「今度は、瀬長島で待ち合わせだ。後ろに走って、大きく迂回して向かえ。2時までに俺が来なかったら、先に行っててくれ」
「……でも!」
「葵を頼む」
目を合わせ、微笑んでみせる。何か言いたげだった椿も、覚悟を決めたように頷いた。葵を抱きしめ、人の流れに逆らって走り去っていく。
晃平は前方へと視線を戻した。たくさんの人々の頭越しに、男と目が合う。

葵を守る。そのためなら、何にだってなってやろう。……巨人にだって。晃平は走り出す。

8月13日23時22分 城島浩司[編集 | ソースを編集]

「分隊長! 不審な通話を傍受しました!」
セカンドショップの格好をした財団の小基地の中。一人の通信員が叫んだ。声には隠し切れない興奮が顕れている。
「最初から聞かせろ。手空きの者は話者の特定を急げ」
短く告げると、通信員はヘッドセットを渡してきた。それをつけると、数分前の録音が耳に飛び込んできた。
『もしもし?』『やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ』
アンドレとコーヘイという二人は、それから2分半にわたって話していた。ハイに長広舌をふるうアンドレと、押し殺した声で返答するコーヘイ。彼らの通話内容は、衝撃的だった。コーヘイという男が、先刻現れた引力者であることは間違いないだろう。そして、アンドレはそのバックにいる引力者の組織の人間で、コーヘイと接触を図っている。
何より、通信が傍受できたということは、どちらかがここ付近にいるということだ。おそらくは件の引力者の方が。
「分隊長! 通話していた人物が見つかりました!」
「間違いないか?」
「はい。監視カメラに記録された唇の動きと、傍受した通話内容が、完全に合致しました」
「よし、どこだ?」
通信員は壁に貼られた周辺地図の一点を指した。ここから目と鼻の先だ。
「現在、国道58号線を南下中。ちょうど我々の方へ接近しています」
「肉眼で確認する。ついて来い」

浩司は外へと出た。夜気が服越しに肌を刺す。
国場川に架かる明治橋。そこの片方の車線を占有し、第二十七分隊は警戒任務にあたっていた。その先頭へと行き、怯えながら避難する群衆に目を向ける。
「正面に見える、赤ん坊を腕に抱いている男です」
通信員に言われて、浩司はその男に目を留めた。疲れ切ったような顔で、俯きながら歩いてくる。横には、男の妻らしき人物もいる。
あの男が、引力者なのか。浩司は部下からサーモグラフィーを受け取った。ついさっき、米国からの情報として本部から連絡があった。なんでも、引力者は能力を発動すると、体温が上昇するらしい。そういうわけで、隊の設備をひっかき回して、スコープ型のサーモグラフィーを一つだけ見つけてきたのだ。そこら中の物を手当たり次第に引き寄せ巨人となった引力者は、さぞ体温が上がっているだろう。
浩司はサーモグラフィーを目に当て、およそ100メートル先の人影を見遣った。結果は、火を見るより明らかだった。男の体の中心部、心臓の辺りが特に赤くなっている。
サーモグラフィーを外し、肉眼で男を見つめる。向こうもこちらの動きを感じ取ったのか、男は立ち止まってこちらを見据えていた。目を逸らさぬまま、傍らの通信員に手早く指示する。
「対象人物を発見した。本部に連絡しろ」
通信員が走り去り、そのまま浩司は振り返ってハンドサインを送った。橋に待機していた隊員が、一斉に動き出す。浩司はまた男に向き直った。