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ポテトサラダがポテサラになるのだから、忌まわしきサラダはいまさらになる。火を見るよりも、思慮深い体育教師が存在しないことよりも、事前に立てた夏休みの勉強計画が破綻することよりも、「やったか⁉︎」と言った直後に粉塵の中から相手が出てくることよりも、明らかなことである。 | ポテトサラダがポテサラになるのだから、忌まわしきサラダはいまさらになる。火を見るよりも、思慮深い体育教師が存在しないことよりも、事前に立てた夏休みの勉強計画が破綻することよりも、「やったか⁉︎」と言った直後に粉塵の中から相手が出てくることよりも、明らかなことである。 | ||
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==歴史== | ==歴史== | ||
===誕生=== | ===誕生=== | ||
いまさらは明治41年、<ruby>'''矢場舌助'''<rt>やばしたすけ</rt></ruby>男爵が考案した。 | |||
矢場舌助は、明治20年、紡績で財を成した名家・矢場一族の長男として生を享けた。二代目当主・杉夫と珠子は、長く子宝に恵まれず、舌助はそれぞれ42歳と37歳のときの子であった。年齢もあって、その後二人の間に子供が授かることはなかった。そのため夫婦は舌助を溺愛した。 | |||
舌助は健やかに成長した。体格は中肉中背で、丸っこい瞳が愛らしかったと伝えられている。九段小学校から東京第二中等学校へ進学・卒業する。当時の成績表によれば、勉学と運動のどちらにも優がつけられているが、特に蹴球の才は学級でも飛び抜けていたという。明治38年には第一帝国大学に入学。法学を専攻し、発布されたばかりの大日本帝国憲法を研究したという。 | |||
しかし、明治40年、矢場杉夫と珠子が自動車事故で亡くなる。舌助が二十歳のときであった。愛する両親の喪失により舌助は深い悲しみと世の不条理への怒りを覚える。その燃え滾る赫怒のあまり、舌助は遅れ気味の反抗期に突入してしまう。 | |||
舌助は裕福な両親に溺愛されて育ったため、幼少期より美味しいものばかり食べて育ってきた。反抗期の舌助は、その親の愛に逆らおうと、不味い料理を食べようとしたのである。舌助は、まずは料理の経験がないのに自炊をしてみた。しかし、舌助の作る料理は食えないわけではなく、それどころか回数を重ねるほどに美味しくなっていく。舌助は自らの調理の才能を嫌った。次に舌助は劣悪な食材を好んで食すようになった。ちょっと泥がついてるままの人参や、なんか生えてきているじゃがいも、賞味期限を三日過ぎている牛乳などを舌助は食べるようになった。しかし、普通にお腹を壊してめちゃくちゃ苦しかったので、すぐにやめた。舌助は玉の汗を浮かべて[[ゲリ|下痢]]しながら自分の胃腸の弱さを呪った。 | |||
そして明治41年、舌助は究極の“愛のない料理”の制作を目指す。自らの誕生日の宴会でそれを食すことを目論み、舌助は使用人に食材を買わせていった。厳選した食材が集まってくると、使用人の制止<ref>「おやめください! そのようなものを食すだなんて! その……その<del>おぞましい実</del><ins>トマト</ins>を召し上がるのですか⁈」</ref>を振り切って舌助は調理を開始した。そして翌日の3月2日、ついに料理は完成し、食卓に並んだ。これが後のいまさらである。 | |||
列席するゲストたちが萎縮する中、舌助は皿に盛られたサラダを嬉々として食べた。皿が空になると同時に、舌助は満面の笑みで「不味い」と言うと、血を吐いて倒れてしまう。懸命な救命活動も報われず、舌助は間もなく息を引き取った。享年21。 | |||
こうして舌助の作ったサラダは、舌助の不可解な死によって、呪われた歴史の最初の1ページを刻んだのである。<ref>なお、「舌助が死んだのは普通にトリカブトが入ってたからじゃね?」という馬鹿もいる。</ref> | |||
===多くの死=== | |||
その後も、いまさらを食べた者に不幸が訪れるという事態が相次いだ。 | |||
{{大喜利|場所=3}} | |||
大正元年、発明家の師田俊勝は、舌助の逸話を聞いて興味を持ち、いまさらを自作して食べてみた。その結果、猛烈な腹痛に苦しみ、四日後に死亡した。遺体を解剖してみると、腸に謎の大量の顆粒が詰まり、腸閉塞を起こしていた。<ref>なお、「普通にサンドバッグが入ってたからじゃね?」という阿呆もいる。</ref> | |||
昭和2年、料理研究家の佐藤一郎は、いまさらのレシピを再現して門弟に振る舞った。その結果、部屋が突如として謎の大爆発を起こし、佐藤を含む全員が死亡した。<ref>なお、「普通に28mm擲弾筒が入ってたからじゃね?」という頓珍漢もいる。</ref> | |||
昭和22年、東京の基地に駐屯していた米兵のジョージ・カーターは、仲間との賭けビリヤードに負け、いまさらを食べさせられた。その結果、ジョージは謎の内臓破裂を起こして死亡した。<ref>なお、「普通に三階フロアが入ってたからじゃね?」という唐変木もいる。</ref> | |||
昭和39年、長崎県在住のある主婦は、晩御飯の献立に困った挙句、いまさらを作って家族五人に食べさせた。その結果、夫婦は大喧嘩の末に離婚して家族は離散した。<ref>なお、「普通にそんな料理を晩御飯に出したからじゃね?」という木偶坊もいる。</ref> | |||
昭和51年、 | |||
平成30年、大学に通う男が幼馴染の女と帰宅する途中、にわか雨に降られてずぶ濡れになり、二人は慌てて男の家に転がり込んだ。このままでは風邪をひきそうだったため、まずは女がシャワーを浴びることになったが、女は「寒いからって入ってきたりすんなよ! 絶対だからな!」と言い残して脱衣所の扉を閉めた。その結果、男は衣擦れの音を極力聞かないようにして、寒さに必死に耐えながら愚直に女の言いつけを守った。<ref>なお、「え⁈ だって入ってくるなって言ってたじゃん⁉︎ なんで怒ってるの⁈ え⁈」という朴念仁もいる。</ref> | |||
==脚注== | |||
<references/> |
3年8月21日 (W) 17:23時点における版
当記事は、「最近全然書いてねえ! 休みを利用してなんか書かないと!」という焦燥の中、ほぼノーアイデアで書き始めている文章です。 |
いまさらとは、忌まわしきサラダのことである。
名称
ポテトサラダがポテサラになるのだから、忌まわしきサラダはいまさらになる。火を見るよりも、思慮深い体育教師が存在しないことよりも、事前に立てた夏休みの勉強計画が破綻することよりも、「やったか⁉︎」と言った直後に粉塵の中から相手が出てくることよりも、明らかなことである。
具材
この節は大喜利である。面白いのを思いついたら追加していきなさい。 |
- レタス
- キャベツ
- 白菜
- 小松菜
- 水菜Long谷とかが野菜記事を量産した影響でことごとくリンクが貼れてびっくりしたけど、ついに記事の存在しない葉野菜を出せてちょっと嬉しい('
- ブロッコリー
悪魔の実トマト[1]- きゅうり
- ハム
- ウインナー
無味すぎる謎の海藻ひじき- トリカブト
- ミミイカの活け作り
- あん肝
- サンドバッグ[2]
- 和傘
- 28mm擲弾筒
- ゴールボール
- 自学帳
- 三階フロア
- YS-11
- ゴマドレッシング
歴史
誕生
いまさらは明治41年、矢場舌助男爵が考案した。
矢場舌助は、明治20年、紡績で財を成した名家・矢場一族の長男として生を享けた。二代目当主・杉夫と珠子は、長く子宝に恵まれず、舌助はそれぞれ42歳と37歳のときの子であった。年齢もあって、その後二人の間に子供が授かることはなかった。そのため夫婦は舌助を溺愛した。
舌助は健やかに成長した。体格は中肉中背で、丸っこい瞳が愛らしかったと伝えられている。九段小学校から東京第二中等学校へ進学・卒業する。当時の成績表によれば、勉学と運動のどちらにも優がつけられているが、特に蹴球の才は学級でも飛び抜けていたという。明治38年には第一帝国大学に入学。法学を専攻し、発布されたばかりの大日本帝国憲法を研究したという。
しかし、明治40年、矢場杉夫と珠子が自動車事故で亡くなる。舌助が二十歳のときであった。愛する両親の喪失により舌助は深い悲しみと世の不条理への怒りを覚える。その燃え滾る赫怒のあまり、舌助は遅れ気味の反抗期に突入してしまう。
舌助は裕福な両親に溺愛されて育ったため、幼少期より美味しいものばかり食べて育ってきた。反抗期の舌助は、その親の愛に逆らおうと、不味い料理を食べようとしたのである。舌助は、まずは料理の経験がないのに自炊をしてみた。しかし、舌助の作る料理は食えないわけではなく、それどころか回数を重ねるほどに美味しくなっていく。舌助は自らの調理の才能を嫌った。次に舌助は劣悪な食材を好んで食すようになった。ちょっと泥がついてるままの人参や、なんか生えてきているじゃがいも、賞味期限を三日過ぎている牛乳などを舌助は食べるようになった。しかし、普通にお腹を壊してめちゃくちゃ苦しかったので、すぐにやめた。舌助は玉の汗を浮かべて下痢しながら自分の胃腸の弱さを呪った。
そして明治41年、舌助は究極の“愛のない料理”の制作を目指す。自らの誕生日の宴会でそれを食すことを目論み、舌助は使用人に食材を買わせていった。厳選した食材が集まってくると、使用人の制止[3]を振り切って舌助は調理を開始した。そして翌日の3月2日、ついに料理は完成し、食卓に並んだ。これが後のいまさらである。
列席するゲストたちが萎縮する中、舌助は皿に盛られたサラダを嬉々として食べた。皿が空になると同時に、舌助は満面の笑みで「不味い」と言うと、血を吐いて倒れてしまう。懸命な救命活動も報われず、舌助は間もなく息を引き取った。享年21。
こうして舌助の作ったサラダは、舌助の不可解な死によって、呪われた歴史の最初の1ページを刻んだのである。[4]
多くの死
その後も、いまさらを食べた者に不幸が訪れるという事態が相次いだ。
この節は大喜利である。面白いのを思いついたら追加していきなさい。 |
大正元年、発明家の師田俊勝は、舌助の逸話を聞いて興味を持ち、いまさらを自作して食べてみた。その結果、猛烈な腹痛に苦しみ、四日後に死亡した。遺体を解剖してみると、腸に謎の大量の顆粒が詰まり、腸閉塞を起こしていた。[5]
昭和2年、料理研究家の佐藤一郎は、いまさらのレシピを再現して門弟に振る舞った。その結果、部屋が突如として謎の大爆発を起こし、佐藤を含む全員が死亡した。[6]
昭和22年、東京の基地に駐屯していた米兵のジョージ・カーターは、仲間との賭けビリヤードに負け、いまさらを食べさせられた。その結果、ジョージは謎の内臓破裂を起こして死亡した。[7]
昭和39年、長崎県在住のある主婦は、晩御飯の献立に困った挙句、いまさらを作って家族五人に食べさせた。その結果、夫婦は大喧嘩の末に離婚して家族は離散した。[8]
昭和51年、
平成30年、大学に通う男が幼馴染の女と帰宅する途中、にわか雨に降られてずぶ濡れになり、二人は慌てて男の家に転がり込んだ。このままでは風邪をひきそうだったため、まずは女がシャワーを浴びることになったが、女は「寒いからって入ってきたりすんなよ! 絶対だからな!」と言い残して脱衣所の扉を閉めた。その結果、男は衣擦れの音を極力聞かないようにして、寒さに必死に耐えながら愚直に女の言いつけを守った。[9]
脚注
- ↑ なぜこんな代物が食材として市民権を得ているのか本当に理解できない。
- ↑ さらさらした口触りに定評がある。
- ↑ 「おやめください! そのようなものを食すだなんて! その……その
おぞましい実トマトを召し上がるのですか⁈」 - ↑ なお、「舌助が死んだのは普通にトリカブトが入ってたからじゃね?」という馬鹿もいる。
- ↑ なお、「普通にサンドバッグが入ってたからじゃね?」という阿呆もいる。
- ↑ なお、「普通に28mm擲弾筒が入ってたからじゃね?」という頓珍漢もいる。
- ↑ なお、「普通に三階フロアが入ってたからじゃね?」という唐変木もいる。
- ↑ なお、「普通にそんな料理を晩御飯に出したからじゃね?」という木偶坊もいる。
- ↑ なお、「え⁈ だって入ってくるなって言ってたじゃん⁉︎ なんで怒ってるの⁈ え⁈」という朴念仁もいる。