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==起==
 声が出なかった。喉に石が詰まったみたいに息ができなくなって、顎が凍りついたように動いてくれなくて、でも汗はどんどん吹き出してきて、冷たく背筋を伝う。足が震える。
「ねえ小島さん、'''叙述トリック'''って知ってます?」
<br>「河北さん? 7行目よ?」
<br>「急になんだよタケ。まあ知ってるけどさ」
<br> 木下先生の気づかわしげな声が聞こえるけど、手に持った教科書を見たままで、目を上げることができない。首から上が固まってしまったように、どんなに動いてほしいと私が願っても硬直したまま。読み上げないといけないのに、教科書の文は意味をなさずにぐるぐると回って読ませてくれなくて、焦りだけが募っていく。止まって、止まってよ。かさついた紙の感触ばかりが脳に届く。
<br> 秋の早朝6時15分、僕はいつもより少し早く目覚めてしまい、同じく起きていた小島さんにこの質問をぶつけたのだった。小島さんは30歳くらいで、彫りの深い顔に髭が似合うダンディな人だ。
<br>「どうかしましたか? 早く読んで」
<br>「なんでそんなこと聞くんだ?」
<br> クラスのみんなが異常に気づいてざわめきはじめる。待ってください、すぐ読みますから。その一言が喉から出てこない。私は教科書を持ったまま、声を出せずに立ち尽くしている。恥ずかしさとみじめさに顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。読まないと、と思うのに、声の出し方が思い出せない。今まで十五年、どうやって話してきたっけ。
<br>「こないだ読んだ本にあって。ミステリーあたりはからっきしなんですよ」
<br> みんなの視線を感じる。みんなが押し黙ってしまった私を見ている。その目を見ることができず、私はますます下を向く。顔は燃えるように熱いのに、背筋は震えるほど冷たくて、おなかがきゅっと痛む。読むんだ。国語の授業の、なんでもない音読だ。今までずっとやってきたように、喋ればいい。軋む音が聞こえそうなほどに力を込めて、ようやく顎が開き、声を出す。
<br> 僕はしばらく前にトラブルを起こして大学を退学になり、今は男4人で同居している。ルームシェアだと思えばましだけど…誰が進んで野郎共と一つ屋根の下で住むものか。4人というのは、僕と小島さん、そして京極さんと三津田さん。皆僕より年上だ。あとの2人はまだぐっすり寝こけている。いささか肌寒い。
<br>「こっ」
<br>「はっ、マジかよ」
<br> 喉に息が引っかかって変な音が出た。顔から火が出そうなくらい恥ずかしいけれど、なんとか声が出てくれた。ようやく読めるようになってくれた教科書の文を見つめる。
<br> 小島さんは鼻で笑った。お前がかよ、と顔が語っている。
<br>「こ……こうして、祭りは、ぎ、儀式から、人々の生活の一部へと、変わっていったの、です」
<br>「小島さんはこういうの好きだったでしょう? 教えてくださいよ」
<br>「……はい、じゃあ次の一文を吉川くん」
<br>「わかったよ。丁度叙述トリックについての昔話があってな、聞かせてやるよ。ただし、手を動かしながらだ」
<br> 先生にやっと聞こえるくらいの声だったけど、私はようやく自分の番を終えて席に座った。教室は妙に静かな空気が流れていて、私はみんなが冷ややかにこっちを見ているような気がして、目を上げることができなかった。
<br> 見ると、京極さんと三津田さんがもぞもぞと起き出していた。2人とももう、おじさんというよりおじいさんといった方がしっくりくる歳だ。京極さんは身長が低くて小太り、三津田さんは対照的にのっぽで痩せぎすな体型をしている。話し方も、三津田さんは二回りほど年下の僕にも丁寧語を使うが、京極さんはゴリゴリの関西弁で、対照的だ。いつも同じ時間に起きていると、アラームなぞ無くとも自然と目が覚めてしまうものだ。僕はため息を吐くと、布団を畳むために立ち上がった。
<br> 後ろの吉川くんが気の抜けた返事をして、続く一文を難なく読み終えた。みんながやすやすとこなすことを私だけができない。
<br>「あれは俺が小6になりたての4月の出来事だった。」
<br> そのとき、音読の声に紛れて、誰かが「コッ」と喉を鳴らしたのが聞こえた。続いて、数人の忍び笑い。きっと、後ろの方の栗原くんとその周りの男子たち。ずっと下を見ているのに、栗原くんのおどけた顔がまざまざと目に浮かんだ。
<br> そう言って小島さんは話し始めた。
<br> 握った拳に巻き込まれ、教科書の端がくしゃりと歪んだ。


==序==
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<font face="Tahoma">
「ねえ亮二兄さん、叙述トリックって知ってる?」
<br>「急になんだよケン。まあ知ってるけどさ」
<br> ケンってのは俺、健児のあだ名だ。詳しくは覚えちゃいないが、お前と同様叙述トリックって言葉を何かの本で見たんだろう。亮二兄さんとは年が離れててな、子供心には何でも知ってるすごい人に思えたのさ。
<br>「叙述トリックっていうのはな、'''作者が読者に仕掛けるトリック'''のことだ。そしてそれは必然的に、'''文字媒体であるが故の特性を利用するもの'''になる」
<br>「作者が読者に?」
<br>「そうだ。普通のトリックってのは、'''犯人が被害者やら探偵やらに仕掛けるもの'''だろう? ほら、例えば」
<br> そこで椅子が軋む音が微かに聞こえた。兄さんは立ち上がったみたいだった。俺はベッドに座ったまま黙って話を聞いていた。
<br>「頭で想像しながら聞くんだぞ。ここには俺の部屋のドアがある。部屋の中に死体が転がってると思え。そして俺はこの部屋を密室にしようとする。そこで、俺は長い長い、部屋のドアから向かいの壁くらいの長さの氷の棒を持ってくる。あくまで例だから、『どこから?』とかは考えなくていいぞ」
<br> まさにそう質問しようとしていた俺は慌てて口を噤んだ。兄さんはエアーで簡易トリックを実演し始めたようだ。
<br>「まずドアを左手で人が通れるくらいに開けておく。そうしながら氷の棒の端をドアの向かいの壁につける。すると、もう片方の端はドアにつっかえる。まあドアに氷の棒を立てかけてるイメージだ」
<br>「んん? ちょっと待ってよ兄さん」
<br> 一旦頭を整理しないと。黙って兄さんの言うことをトレースしていると、階下からは母さんの笑い声が聞こえてきた。我が家は一軒家とはいえ、部屋と部屋の間の壁が薄いのだ。
<br>「どうだ?」
<br>「うん、何となくわかったよ」
<br>「じゃあ説明を続けるぞ。とりあえずこのギターを氷の棒と思って立てかけよう。そうしたら…、よっと、部屋の外へ出ると同時に氷の棒を放す!」
<br> ゴトッとギターが倒れる音がした。
<br>「こうすると、氷がつっかえ棒となって、ドアは開かなくなる。密室ができるわけだ。あとは鍵が掛かっているように見せかけて、氷が溶けるのを待ってドアを破り突入した瞬間鍵を閉めれば、密室の完成というわけだ! まあ床が濡れているのをどうにかして誤魔化さないといけないんだけどな」
<br> 正直後半はよく理解できなかったが、兄さんが見事に密室を作り上げたのがすごいと感嘆したよ。今思えば子供騙しの穴だらけなトリックだけどね。
<br>「どうだケン、兄さんが何したかはわかったか?」
<br>「うん!」
<br>「はは、そら良かった。さすが俺の弟だな。よし、あれ、ギターが引っかかって、ギリ通れない…くそ」
<br> そこでバキッと嫌な音がした。
<br>「ああ、俺のギター! 高かったのに!!」
<br> 兄さんはギターを上手くつっかえさせ過ぎたようだった。策士策に溺れるっていうか、兄さんも抜けてたんだな。俺は大笑いして、しまいにゃ兄さんもつられて大笑いしてたよ。
<br> 笑いの波が収まると、兄さんは説明を再開した。
<br>「いまやったトリックは、犯人が警察もしくは探偵に仕掛けるトリックだ。密室にすることで、捜査側を困らせようとしているんだからな。でも、叙述トリックはそうじゃない」
<br>「ならどんなトリックなの?」
<br>「さっきも言ったが、作者が読者に仕掛けるトリックだ。具体例を挙げるなら、こんな感じだ。
<br> 『太郎さんが殺されました。犯行が可能だったのは、太郎の弟と妹、次郎、花子のどっちかです。そして現場には口紅が落ちていました。さて、犯人は誰でしょう?』」
<br>「花子!」
<br> 俺はすぐに答えた。
<br>「ブブー、残念! 実は次郎は女で、花子は男だったんです! というわけで正解は次郎でした!」
<br> 俺は唖然としていた。だって、そんなことないだろ? すると兄さんは少し焦ったような声で付け足した。
<br>「まあ、これは適当に作っただけだから。ちゃんとしたやつは、もっと丁寧に伏線が張られていて納得できるから安心しろ。こんな風に、'''作者が読者を直接騙す'''のが、叙述トリックだ」
<br>「作者が読者を騙す…」
<br>「そしてそれは'''フェアでなくちゃいけない'''。さっきの例で行くと、途中で『花子は三郎の<ruby>妻<rt>、</rt></ruby>だ』と書いてあるのに、最後になって『花子は女なんです!』と言っちゃあダメだ。整合性が取れないだろ? ただし語り手が勘違いしているなどの事情があれば構わないから、'''三人称の地の文で虚偽を書いてはいけない'''とされるのが一般的だな」
<br> 当時の俺は分かったような分からないような感じだったが、疑問は残った。
<br>「なんでそんなことするの?」
<br>「まあ、理由は大きく分けて2つだろうな。
<br> 1つは、'''ミステリの難易度を上げるため'''だ。ミステリには、犯人とかを当てる作者vs読者のバトルっていう一面があるんだ。どうしても勝ちたい作者が、こんなトリックを仕掛けるんだ。お前もさっき正解できなかっただろ? そういうことだ。
<br> 2つ目は、'''読者を驚かせるため'''だ。さっき俺の話を聞いたお前は驚いたろ? 世の中には、驚かされるのが楽しいっていう変な人種がいるんだ。そいつらを喜ばせるために作者は叙述トリックを仕掛けるのさ。
<br> おっと、長く喋り過ぎたな。もう小学生は寝る時間だ。じゃあ、おやすみ」
<br> こうしてその日の会話は終わった。
</font>


==承==
 帰りの会が終わって、教室は開け放たれた鳥籠みたい。みんな友達と連れ立って、部活だったり近くのお店だったり、勢いよく飛び出していく。そんな人たちに混ざって独りで靴箱へ行くのはなんとなく気がひけて、私はのろのろと鞄に教科書を詰めていた。
 小島さんはそこまで話したところで、口を閉じた。いつの間にか京極さんと三津田さんも話に聞き入っている。
<br>「ミッキー」
<br>「いいところだが、時間だ。続きはまた後でな」
<br> 私の名前は幹江だけれど、そんなふうに呼ばれることはめったにないから、自分のことだと気づくのに少しかかった。横を見ると、優しい笑い顔と目が合う。
<br> そう言って小島さんは時計を指した。6時45分。僕は大きく溜め息をつくと、顔を洗いに洗面所へ向かった。
<br>「小橋川さん」
<br>「タケ君は溜め息ばかり吐いてますねえ」
<br>「和佳って呼んで」
<br>「そんなんやと幸運も逃げてまうで」
<br> 小橋川さん……和佳さんは、まぶしいほどに明るく言う。目がぱっちりしていて、後ろで結った髪は毎朝時間をかけているのだろう。背がちょっと高すぎる私とは違って、いい意味で女の子らしい。
<br> そう言って三津田さんは銀縁眼鏡を拭き、京極さんは赤ら顔でカラカラと笑った。
<br>「……いいの? 部活とか、いかなくて」
<br>「そうだぞ。みっちゃん、ゴクさん、もっと言ってやれ!」
<br>「うん。今日はピアノのレッスンがあるから、ダンスはお休み」
<br> 3人のおじさんは揃って僕を子供扱いする。まあ30代の小島さんはともかく、京極さんと三津田さんは還暦が近い。年の差を考えれば当然なのかもしれない。でも、気分のいいことではないからやめてくれと言ってるんだが、本人たちは改善する気がないらしい。僕はまた溜め息を吐こうとして、慌てて口を閉じた。
<br> 教室には力関係が確かに存在する。和佳さんは間違いなく、そのピラミッドのてっぺんの近くにいる。明るくみんなと付き合って、男子ともよく冗談を言い合っている。たぶん、たくさんの友達と一緒に、噛みそうな名前のドリンクと一緒に自撮りをしているタイプ。
<br> そんな和佳さんが私に話しかけてきたことに、私は驚きと緊張を覚えていた。ピラミッドなら私は最下層の石だ。固くて無骨で孤独。
<br>「ミッキーこそ大丈夫? 急いでない?」
<br>「うん」
<br> きっとそのつもりはないのだけれど、皮肉に聞こえる。部活も習い事もしてない私に、ついでに言うなら友達と遊びに行くようなこともない私に、急ぐ予定なんて歯医者の予約くらいしかない。
<br>「そう。加奈子ちゃんとよく一緒に帰ってるみたいだけど……」
<br> 教室を見回して和佳さんは言う。加奈子ちゃんは、私が和佳さんに話しかけられたのを見て、もう帰ってしまった。確かに私は加奈子ちゃんとよく行動を共にしているけれど、それは仲がいいのとはちょっと違う。クラスのみんながどんどんグループを作っていくなかで、余った二人が自然に集まっただけ。私も加奈子ちゃんも、お互いのことを利用している節がある。友達に見える人がいないと、周りにみじめに思われるから。それだけだから、どちらかの都合が合わなければ、一緒に下校しないことに特に断りもしない。
<br>「ううん、いいの。約束してたわけじゃないし」
<br> 少し言い訳がましく聞こえてしまっただろうか。和佳さんはまだ少し気がかりそうだったが、私も気が気ではない。和佳さんは私に何の用があるのだろう。まさか、かつあげではないと思うんだけど。
<br>「それで、どうしたの?」
<br>「あっ、えっとね……」
<br> 和佳さんはあたりをちょっと見回すと、少し声をひそめた。
<br>「国語の時間。大丈夫だった?」
<br> かあっと顔に血がのぼるのを感じる。やっぱり目立っていたのだろう。今まで、目立たずに生活してきたのに、中学生も終わりに近いところで、こんな失敗をしてしまうなんて。
<br>「うん、ごめん……」
<br>「ああ、別に私が気にしてるとかじゃないんだよ? 全然。誰でもあるよ、ああいうこと。自分の番になると頭が真っ白になっちゃうんだよね」
<br> はきはき発表する和佳さんしか私は見たことがないし、私の失敗の原因も少し違うけれど、反論はしない。
<br>「じゃあ、どうして?」
<br>「あのね、コージたちのこと」
<br> 浩司は、たしか、栗原くんの下の名前。あのときの笑い声が頭をよぎる。和佳さんは苦々しく顔を歪めた。
<br>「聞こえてたでしょ? あいつら、こう言っちゃなんだけど、男子の笑いって程度が低いから、あんまり周りのこと考えられてないのよ。ごめんね?」
<br> まるで自分のせいであるかのように、和佳さんは謝る。
<br>「ううん、全然……」
<br>「ごめんね、あいつらには私から言っておくから。それじゃ!」
<br> 和佳さんはひらひらと手を振ると、自分の鞄を掴み、軽やかに教室から去っていった。私はしばらくぼうっとしていた。自分は何もしていないのに、わざわざ謝りにきた彼女の声が耳から離れなかった。
<br> 加奈子ちゃんも和佳さんも十分離れてしまっただろう時間をおいてから、立ち上がって教室を出た。少しだけ、ほんの少しだけ、救われたような気がした。


 それから身支度をして朝飯を食って、勤労奉仕の時間と相なった。僕たち4人は同じ工場で働いている。しかも作業するブースも大抵一緒だ。仕事は楽だし働く時間も短いが、僕は根っからの労働嫌いだ。本音を言えば働きたくないが、それができたら苦労しない。
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<br> 午前10時、僕たちは作られた商品をひたすら箱に詰める作業をしていた。コンベアーに乗った石鹸を片っ端から紙の箱に入れ、蓋を閉じる。ロボットでもできるだろと思うが、嘆いても詮方ない。単純作業ここに極まれりだ。まったく、暇で暇でしょうがない。
<br>「ねえ小島さん、朝の続きを話してくださいよ」
<br> そこで僕は、小島さんに話の続きをするよう催促した。少しでもこの時間を有意義に使いたいという思いが芽生えてしまったのだ。叙述トリックの説明はあらかた終わったと思うんだが、続きとは何だろう? 横の京極さんと三津田さんも、目を輝かせて小島さんを見つめている。この人たちホントに50代か? 目の輝きは小学生だぞ?
<br> 小島さんは「しゃあねえなあ」と言いつつも、どこか楽しげに続きを話し始めた。


==破==
 けれど、そんな気分も長くは続かなかった。
<font face="Tahoma">
<br> 制服から着替えて、ベッドに転がる。一日が終わってほっとするから、この時間が一番好きだ。しばらく放心して天井を見つめる。宿題をする気も起きなかったし、ポケットから携帯を取り出す。ロックを解除すると、学校で見ていたページが表示されている。
 その次の日の晩、夕飯の時間になって、母親に言われて俺は2階の自室にいる兄貴を呼びに行った。兄貴の部屋をノックしようとしたところで、急にドアが開き、俺は鼻をしたたかにぶつけた。兄貴は笑いながら「すまんすまん」と謝ったが、こっちは痛いのなんの。不貞腐れたよ。鼻の頭に絆創膏を貼らないといけなかった。
<br>〈話したくても話せない『場面緘黙』とは〉
<br> ともかく夕飯になった。そのときは俺と兄貴、親父とお袋の4人暮らしだった。はは、今と同じだな。お袋は専業主婦、親父は市議会議員だった。俺は食卓のお誕生席で黙々と白飯を食ってた。兄さんには無邪気に接していたんだが、他の家族、特に親父の前でははしゃげなかった。今思えば、この時既に親に少し苦手意識を持ってたのかもしれないな。
<br> 検索履歴は「緘黙症 治し方」「言葉が出てこない」「吃音 中学生」「発表 話せない」といった言葉で埋まっている。小学生の頃から、人前で話すのが苦手だった。人と差し向かいで話すのはそこまで苦ではないのに、聴衆が増えると途端に言葉が出てこなくなる。話そうと思えば思うほど、声の出し方がわからなくなる。
<br> そんなことは露ほども知らない、何かと心労の絶えない時期を通り抜けた親父は、陽気に「政治は~、政治を~」と理想を語っていた。だから母親が、
<br> でも、これまでなんとかやってきた。環境が変わったからか、中学生になってからは発表ができないなんてことはなかった。今日までは。
<br>「せっかくケンちゃんが賞状貰ってきたのに、お父さんったら政治、政治ってそればっかり。少しは気にかけてやってくださいよ」
<br> 今日の失敗を思い起こすと舌を引っこ抜いてしまいたくなる。気分を変えたくて、SNSのアプリを開いた。
<br>と嗜めた。だが親父は、
<br> フォローしているアイドルの投稿や、お気に入りのイラストレーターの絵にいいねをしていく。このSNSでは、リアルの知り合いとは誰とも繋がっていないから、学校のことを忘れていられる。そう思ってするりするりと画面をなぞっていたら、その投稿が目に入った。
<br>「気にかけてるよ。それに、弟ってのは兄の背を見て育つもんだ。だからトシも優秀に育ってるし、これからもそうだろう。な?」
<br>  ''15:49 きっしー『今日の国語で鼠が黙ってたの、迷惑すぎない?』''
<br> 事実俺はそんなに気にしてなかったから、適当に返事して終わったと思う。親父が言うように、兄は教育通り優秀に育ったんだ。まあ弟がそうじゃないことは、あんたらも知っての通りだ。
<br> 初めは、魔が差したのだ。今年の夏、日曜日に授業参観があって、次の月曜日が振替休日になったことがあった。お母さんもお父さんも仕事に行ったのに、自分だけがお休みなのをちょっと奇妙に思ったとき、思いついた。私はSNSで「今日休み」と検索したのだ。大量にあふれる、今日が休みの人たちの投稿。月曜日に仕事が休みな人って結構いるんだなあと思って、「今日学校休み」に切り替えた。それでもまだまだ多かったけれど、やがて一つのアカウントが目に止まった。
<br> そしてその次の日の午後3時、俺は小遣いで買っといたプリンを食べようと、2階の自室からキッチンへ降りてきた。さあ食べようと冷蔵庫を開け放ったんだが、確かに2段目に入れといたはずのプリンがない。中を隅から隅まで探したが、ない。そこで横のゴミ箱を見ると、なんとプリンの空容器が捨ててあったのさ!
<br> 「きのう行ったとはいえ今日学校休みなの特別感あるな〜」と投稿していた「檸檬」というユーザー名のその人は、日常のささいな雑感をよく投稿しているようだった。この人の過去の投稿を遡ると、近くの森林公園に遠足に行ったこと、体育祭のリレーでアンカーがバトンを落として三位になったこと、英語の先生が唐突にロボットダンスを披露し始めたこと……さまざまなことが、日付も含めて私のクラスと合致していた。檸檬さんの正体は今でもわからないけど、間違いなく、私と同じ三年三組のなかの誰かだった。
<br> それを見て幼き俺は愕然として落涙、この世の不条理を嘆いた…わけじゃあない。正直あんまショックは受けなかった。プリン大好きってわけじゃないし、小遣いは十分貰ってたから惜しくもなかった。たかがプリン1個くらいで家族を詰るような、狭量な男じゃなかったんだ、俺は。
<br> 檸檬さんの投稿に反応したりフォローし合ったりしているアカウントも、きっと檸檬さんの知り合いだ。同じクラスの仲間で十人くらいの小さなコミュニティができているようで、芋づる式に同級生らしきアカウントを見つけられた。当然みんなは実名を書いたりはしていないけれど、同級生とわかれば投稿やユーザー名から見えてくるものがあるものだ。コミュニティの何人かは、私でも誰なのか見当がついた。
<br> だが、ここで一つ疑問が残った。誰がプリンを食べたのだろう? 容器はゴミの上の方にあり、俺が昼飯のときにこぼしたレタスよりも上にある。でも、両親は昼飯の前から買い物に行っていて、まだ帰ってきていない。そして俺がレタスを捨てたとき、プリンのカップなんて無かった。なら、親が食べたのではない。そして、兄さんは珍しいことにプリンがとても苦手なんだ。食べるなんてこと絶対にあり得ない。今日は客も一切来ていない…。
<br> そうして私は、名を名乗って彼らをフォローしたのではない。私は、そのまま彼らの投稿を見るだけにとどめた。向こうは知らないけれど、一方的に私はみんなの投稿が見られる。一種の覗き見だ。彼らが日常の事件に反応したり、誰かの噂を書いたりするのを、私は定期的に見続けては楽しんでいた。趣味が悪いことはわかっている。けれど、この行為がもたらす一種の優越感と背徳感が、私の心を離さなかった。
<br> そこまで考えたところで、自分が無駄な思考をしていたことに気づいた。落ち着いて考えれば、答えは歴然じゃあないか…。
<br> 甘かった。悪趣味な覗き見をしていた報いを受けたのだ。
</font>
<br> きっしーは、たぶん岸田くんのアカウント。彼の投稿に、何人も同調するコメントを残していた。
<br>  ''15:53 檸檬『それな』''
<br>  ''16:02 墾田永年私財法『時間の無駄。』''
<br>  ''16:04 クリリン『構ってほしいんでしょw』''
<br> 目が離れてくれなかった。画面をなぞる指が止まってくれなかった。やがて右手が震えて、文面を見ることができなくなってようやく、スマホを置くことができた。動悸が激しくなっていた。
<br> 「鼠」という呼び名は、きっと私のあだ名「ミッキー」からの連想だろう。何より、今日の国語で黙ってしまった人なんて私しかいない。彼らは、私への不満を陰で話している。
<br> ごはんよーと呼ぶ母親の声が寒々と響いた。


==転==
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「おいそこ、無駄話するんじゃない!」
<br> そこまで小島さんが話したところで、高い椅子に座ったオヤジに注意された。三津田さんと京極さんはそそくさと箱詰め作業をし始める。まったく、いいところだったのに! あいつ、僕たちが働いてるのを見てるだけで給料が入るなんて…。工場勤めを辞められた暁には、あの仕事を目指そうかしら。まあ無理か。
<br> 小島さんが話を再開する気配はない。続きはお預けかあ。
<br> でも、プリンを食べたのは一体誰だろう? 僕はそのことばかりを考え続け、いつの間にか昼休憩の時間になっていた。


 昼飯を食いながらでも話の続きを聞かせてもらおうと思ったが、小島さんは手早くリゾットをかきこむと、どこかに行ってしまった。京極さんはそれを見て、
 怖かった。きのうあの投稿を見てから、学校に行くのが怖くて仕方なかった。投稿したら机に落書きがされてるんじゃないか、みんなが私を無視するようになってるんじゃないか、そんな自意識過剰な悪い妄想ばかり膨らんだ。でも、行かなかったら二度と学校に行けなくなる気がしたし、親になんと言い訳すればいいかもわからなかったから、登校するしかなかった。
<br>「ケンのヤツ、あら女やな。女に逢いに行くんや」
<br> 英語の教科書を手に立ち尽くしている今、その判断を心から後悔している。
<br>と顎をさすりながら言った。三津田さんも小指を立てて笑っている。まさかと思ったが、小島さんならあり得るかもしれない。なんてったって顔がいい。
<br> 登校しても、机は無事だし誰からも罵倒されたりもしなかった。けれど、それが逆に恐ろしかった。教室ではそんな素振りはちらとも見せていないのに、心中では私を疎ましく思っている人が何人もいる。教室に入ったとき加奈子ちゃんと目が合って「おはよう」と言われたが、私は挨拶をうまく返せなかった。加奈子ちゃんも、あのコミュニティの中にいて、実は私に苛立っているのかもしれない。そんな疑いが頭をよぎったからだ。
<br>「もしそうなら、彼女さん、小島さんに相当入れ込んでるんすね」
<br> 私が彼らの投稿を見るようになってから半年ほど経つが、彼らがクラスの誰かを悪く言うことなんて何度もあった。気心の知れた友達しかいない場だからか、遠慮もなく不満や愚痴をぶちまける投稿も少なくはない。私自身、それを垣間見て楽しんでいた節もあった。寺田くんの喋り方ちょっと粘着質だよね、とか、林さんそんなことするんだあ、とか。それが、自分が標的になった途端、こうだ。ためらいなく罵倒される恐ろしさを、私は全然理解していなかった。
<br>と言うと、2人のおじさんは揃って頷いた。この人らホントに中年か? ニヤケ面は中学生そのものだぞ?
<br> 今日は音読なんてさせないでほしいと心から願ったのに、槙原先生はプリントの英文を読むように言った。どうか当たらないでくれと祈ったのに、今日の日付から私は当てられた。だからせめて、もう同じ失敗はするまいと思って立ち上がったのに、後ろから小さく「コッ」と喉を鳴らす音と笑い声が聞こえた瞬間、頭が真っ白になってしまった。
<br> 血の気がさあっと引いて、両手が勝手に震え始める。脇から背中にかけてが凍るかと思うほど冷えて、喉が固まった。声が出せずに私は立ち尽くすしかなかった。英文が見えなくて、口が開かなくて、周りの視線ばかり感じられて、涙が出そうになった。
<br> 迷惑。時間の無駄。構ってほしいんでしょ。
<br> きのう見た言葉が、私の喉を塞いだ。言葉を奪った。クラスの誰もが私の悪口を言っていた可能性があるという事実ゆえに、クラスの全員がいま心の中で私を罵倒しているように感じた。ますます寒気がした。
<br>「どうした河北?」
<br> 槙原先生の言葉にも反応できなかった。文を読まないといけないのに、息をうまく吸えない。
<br> 教室は静まって、だから誰かが漏らした忍び笑いが聞こえてしまって、悪寒がした。ますます腕が震えて、文章が見えなくなって、とにかく何か言おうとするけれど、掠れた呼吸音しか口からは出てこない。読まないと。読まないと、笑われる。読まないと、怒られる。読まないと……。
<br> 顔がぬっと目の前に現れて、肩が震えた。いつの間にか近くに来ていた槙原先生が、私の顔を覗き込んでいた。
<br>「顔色が悪いな。保健室行くか?」
<br> 私は答えられなかったけれど、相当顔色が良くなかったのか、先生は保健委員を呼んだ。女子の保健委員は和佳さんだった。


 小島さんは仕事が再開する直前に戻って来た。よっしゃ話の続きをせがもうと身構えた矢先、残念ながら京極さんと三津田さんは離れた場所に増援に向かわされてしまった。2人のいないところで続きを聞くのは忍びない。だが…。
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<br>「さっき聞いた話なんだが、叙述トリックにもいろいろあるらしいぜ」
<br> 葛藤していると、小島さんが突然口を開いた。
<br>「『'''意味なし叙述'''』ってのと『'''意味あり叙述'''』ってのがあるらしい」
<br>「さっきって、昼休みに?」
<br>「ああ」
<br>「もしかして、恋人?」
<br>「ん、さてはみっちゃんとゴクさんに入れ知恵されたな? あの爺さんたち、勘が鋭いからなぁ。すごいぜあの人らは」
<br> ならなぜこんな底辺の暮らしをしてるんだ。もっとも、僕が言えたことじゃないが。
<br>「まあそれはさておき、叙述トリックの説明だ。小説とかで叙述トリックが仕掛けられているとする。問題は、なぜ仕掛けられたのか、だ。」
<br> 何か小島さんのお兄さんが話の中で言ってた気がするな。
<br>「もし読者を驚かせるためだけに仕掛けられたものなら、それは『意味なし叙述』だ。でも、犯人当てとかの要素として組み込まれたものならば、作品の成立に不可欠だから、『意味あり叙述』となる」
<br>「えーっと、小島さんのお兄さんの話に合わせると…読者を驚かせるためのものが意味なし叙述、ミステリの難易度を上げるためのものが意味あり叙述ってことですか」
<br>「そうだ。よく覚えてるな。まあミステリ的な仕掛けに限らずとも、小説の主題に関わるなら意味あり叙述だとする人もいるらしい。そもそもこれらの概念自体が最近提唱されたもので、定義は人によってまちまちなんだと」
<br> むむむ、要するに驚かせるためだけか否か、ってことか。というか、彼女さんに会う貴重な時間を使ってこんなこと聞いてきてくれたのかよ。もっと別のこと話しなさいよ。
<br>「じゃ、そういうことだ。昔話の続きは、仕事終わってからな」
<br> 小島さんはそう言うと、あとは黙々と箱詰めをするだけだった。


 結局4人が揃ったのは夜8時半、布団を敷いて寝支度をする頃合だった。秋の夜は長いが、僕らは季節に関係なく9時には寝る。他の皆も各々の布団に胡座をかいたのを見ると、僕は早速切り出した。
 私は保健室の先生におなかが痛いと噓をついた。一人で行けると言ったけど、和佳さんは保健室に着くまで私と並んで歩いてくれた。先生はいくつか問診した後、体育で怪我をしたらしき下級生の治療に向かった。ライトグリーンのカーテンで仕切られたベッドには、端に腰掛けた私とそばに立つ和佳さんだけが残された。みじめに思えるから、一人になりたかった。
<br>「それで小島さん、プリンを食べたのは誰なんです?」
<br>「……もう大丈夫だから。戻っていいよ」
<br>「なんだタケ、解らないのか? あれだけヒント出してやったってのに」
<br> ちょっと迷った顔をした和佳さんは、けれど頷いて踵を返した。しかし振り返ると
<br> 小島さんは馬鹿にしたように笑うと、
<br>「ねえ、なにか話したいことあったらなんでも言ってね……」
<br>「ゴクさんとみっちゃんは解ったよな?」
<br> と申し訳なげに言った。
<br>と水を向けた。
<br>「ううん。大丈夫」
<br>「まあ、考える時間がぎょうさんあったさかいなあ」
<br> 反射的に断っていた。
<br>「老体にはなかなかきつかったですよ」
<br>「そう。じゃあ、私、もう行くね」
<br> え? 解ってないの僕だけ?
<br>「うん」
<br>「じゃあ、タケのために続きを話すか」
<br> 和佳さんはカーテンを丁寧に閉めて、今度こそ帰っていった。上履きを脱いでベッドに横たわると、制服にくしゃりとしわが寄った。授業をしているクラスの気配が感じられなくて、この部屋だけは学校の他の教室と隔絶されているみたいに感じる。目を閉じるとさっき聞いた笑い声が蘇ってくるから、見慣れない天井を眺めて深呼吸を繰り返した。
<br> そう言うと小島さんはニヤニヤしながら話の最終章へ入った。
<br> 養護の先生と下級生の話し声だけが聞こえる。放っておかれたくて、私の存在に気づかれたくないように思えて、ひたすら物音を殺した。下級生が去って、先生も机に向かったらしく保健室に静寂が下りて、時間が過ぎるのをじっと待ち続けた。早退したいけど、鞄を取りに教室に戻る勇気なんてない。でも人に取ってきてもらうのは申し訳ないから、みんなが帰る放課後まで保健室にいるつもりだった。体調は回復しつつあったけど、気分は最悪だった。
<br> またやってしまった。でも、私だって好きで黙っているんじゃない。みんなの前に立つと、みんなの目を感じると、声の出し方が思い出せなくなってしまうのだ。
<br> また、嫌なことを言われる。そう気づいて、消えかけていた悪寒がぶり返してきた。しばらく迷ったけど、結局、スカートのポケットからスマホを取り出した。よせばいいのに、私はSNSのアプリを起動させる。
<br> このままだと、悪い想像が際限なく膨らんで、押しつぶされそうだった。だから、現実を直視して、それを封じようと思った。現実は、少なくとも有限だから。あるいは、期待していたのかもしれない。誰も私を悪く言っていないという一縷の望みに。
<br> 彼らのアカウントを検索して、投稿を表示した。授業中でも、机の下でこっそりスマホを触っている人は多い。少し前にされた投稿がすぐに飛び込んできた。
<br>  ''14:22 クリリン『鼠がまた黙ってる』''
<br>  ''14:23 きっしー『だるいって』''
<br>  ''14:28 つっぱり棒マスター『2日連続はエグいだろ』''
<br>  ''14:33 檸檬『明日もまたやるんじゃない?』''
<br> たまらず画面を暗くした。スマホをベッドの端に投げ、袖を目の上に当てた。みじめなのか申し訳ないのか、自分でもわからない涙が出てきて、声を我慢するしかなかった。こんなときだけは音が出てくる自分の口が、恨めしくて仕方がなかった。
<br> 和佳さんの「なんでも言ってね」という言葉と、自分のふがいなさを詫びるような表情を思い出した。
<br> 私が陰で言われていることを話そうかな、と思った。話してどうなるものでもないかもしれないけれど、せめて楽になりたかった。実際何か行われたのかはわからないけれど、少なくとも、この二日間で私に手を差し伸べてくれたのは、彼女だけだった。そして私は、その手にすがらないと耐えられそうになかった。
<br> 明日話そう。そう決めた。そのとき、和佳さんにまだ保健室まで付き添ってくれたお礼を言っていないことに気がついた。これも明日伝えよう。体の震えは少しだけ収まっていた。
<br> けれど次の日、他のクラスのみんなは一人残らず来ていたのに、和佳さんは学校を休んだ。担任の先生は、風邪だと言っていた。そして、私の心は折れてしまった。


==急==
{{転換}}
{{格納|中身=
<font face="Tahoma">
 俺がプリンを諦めて、ダイニングで源氏パイを食っていると、兄貴が2階の自室から降りてきた。そして兄貴は俺の顔を見るなり、笑い出したのさ。俺は少々ムッとして、
<br>「何が可笑しいのさ」
<br>と問うた。すると兄貴は、
<br>「アハハ、鼻の頭に絆創膏付いてるの見ると笑えちゃって」
<br>と言ってなおも笑い続けた。てめえのせいで怪我したってのに、悪びれもせずよく笑えるもんだ。俺はカチンと来て、こう言い返してやった。
<br>「人のプリンを取って食べるような外道め!」
<br>「あ、あれお前のだったの? ごめんごめん、そんなに食いたかったのか。あとでアイスでも奢るから許せよ」
<br> まあそう惜しくもなかったからアイスの約束を取り付けられたのは思わぬ収穫で、小学生の俺はすぐに機嫌を直したよ。


 これで昔話は終わりだ。
「どうしたの。早く読みなさい」
</font>
<br> 木下先生は、おとといより明らかに機嫌が悪かった。私はうつむいてスカートを握りしめることしかできなかった。
<br>「黙っていても何も変わらないわよ」
<br> 先生が苛烈な言葉を飛ばすほどに、私の喉は塞がり、声が出せなくなった。頭に血がのぼって熱い。肩が震える。和佳さん以外の全員が揃った教室に、木下先生の叱責が覆いかぶさる。
<br>「もう三年生よ? こんなこともできなくてどうするの。みんなの前で話すのがそんなに恥ずかしいの?」
<br> 一言一言が心を削り、涙が込み上げてくる。違うんです先生。わざとじゃないんです。こんなことが、途方もないくらい難しいんです。どうしても話し方が思い出せないんです。そう心の底から叫びたいのに、声が出てくれない。無音の叫びは、誰も聞いてくれない。
<br> 教室は、私の大嫌いな、先生が怒っているとき特有の張り詰めた空気に満ちていた。生徒全員が息を殺すなか、先生の押し殺した、でも隠しきれない怒りが滲み出た大声が響き渡る。けれど、殺伐とした雰囲気の中に、私は確かに、みんなの呆れを感じた。またかよ、とみんながうんざりしているのを、感じ取ってしまった。
<br>「これから先の人生、人前で話す機会なんて何百回、何千回とあるわ。その度に、押し黙ってみんなを待たせるつもり? ねえ、聞いてるの?」
<br> 先生を直視できない。ひたすら下を向いて、みじめな気持ちに耐えるしかなかった。この先、何千回とこんな気分にならないといけないのだろうか。こんなに頑張っているのに、でもこんなに苦しいのに、他の人から罵倒されつづけるのだろうか。
<br> つらい。限界だった。涙と鼻水が滲み出てきて、しゃくりあげる声は静まり返った教室に響いてしまうから、必死にこらえて袖で顔を拭った。こんな姿を見られたらまたひどいことを言われるけど、でも耐えられなかった。
<br>「泣いても何も解決しないわよ! 今までは泣いたらうやむやにできてたんでしょ。社会はそんなに甘くないわ」
<br> うやむやにしたいなんて思ってない。好きで泣く人なんていない。そう叫びたいのに、喉からはみじめな呼吸音しか出てこない。
<br>「さあ、読みなさい! 読めばいいのよ。その両手に持った教科書を読み上げる、たったそれだけの話じゃない」
<br> 先生の厳しい言葉に、たまらず目を閉じた。吐き気すら感じた。手足の震えが押さえきれなくて、息ができなくなった。喉は完全に塞がって、歯を固く食いしばらないと呼吸音が漏れ出てしまうから、まともな声なんて出せるわけがなかった。頭はとてつもなく熱いのに背中は冬みたいに寒くて、涙と洟が次から次へとあふれてきて、一刻でも早くこの嵐が過ぎ去ればいいのにと祈った。
<br> けれど結局、木下先生の責め苦は授業の終わりのチャイムが鳴るまで続いた。


==結==
{{転換}}
{{格納|中身=「ちょっ、終わり?」
<br> 思わず大きな声が出てしまった。
<br>「どういうことですか。お兄さんはプリン嫌いなんでしょう? 説明してくださいよ」
<br>「まあまあ落ち着けって。出題者が解説するのもなんかヤだから、ゴクさんとみっちゃんに任せてもいいかい?」
<br> 呼ばれた2人は顔を見合わせると、同時に右の拳を突き出した。
<br>「じゃんけんほい!」
<br> 勝者は三津田さん。頭を抱えて悔しがる京極さんを尻目に、得意そうに話し始めた。
<br>「タケくん、今までのケンくんの話には叙述トリックが仕掛けられていたんですよ」
<br> そのくらいは見当がついている。そうでもないと、急にプリンの話になった理由がわからない。
<br>「では、それは何なのか。叙述トリックというのは、きちんと伏線を辿れば見破れるようになっているんですよ」
<br>「その伏線っていうのは?」
<br>「じゃあタケくん、ギターを使った密室トリックを思い出してください。こら、ゴクさん、じゃんけんに負けた人に解答権はありませんよ」
<br> 得意気に口を開きかけた京極さんを制して、三津田さんは説明を始めた。
<br>「あのトリックは、ドアが内開きだから成立するものです。外開きならつっかえ棒なんてできませんからね。つまりこの事実から解ることは、<ruby>小島さんのお兄さんの部屋の扉は内開き<rt>、、、、、、、、、、、、、、、、、、</rt></ruby>だということです」
<br> 全く予期していなかった方向に話が転がっている。三津田さんは微笑んで説明を続けた。
<br>「でも幼き頃のケンくんが鼻に傷を負ったとき…」
<br> その瞬間、ようやく三津田さんの言わんとしていることが理解できた。
<br>「<ruby>ドアは外開きだった<rt>、、、、、、、、、</rt></ruby>!」
<br> 僕は思わず叫んでしまった。小島さんは相変わらずニコニコしている。すると京極さんが口を挟んできた。
<br>「どっちの場合も、部屋は兄の自室やと明言されとる。部屋に扉が二つもあるっちゅうのは考えづらいやろう」
<br> 三津田さんは京極さんを止めるのを諦めたらしい。
<br>「ということは、導きやすい結論はこれです。<ruby>小島さんに兄は2人いるんです<rt>、、、、、、、、、、、、、、</rt></ruby>」


「兄が、2人…?」
 次は給食時間だったけれど、私は真っ先にトイレに向かった。家か、せめて保健室に行きたかったけれど、泣き腫らした顔で遠くまで行くことはできなかった。洗面所でまずは顔を洗った。みじめで不細工な顔が鏡に映って、余計苦しくなった。
<br> 一瞬思考が止まる。そんなことあり得るのか? 戸惑う僕を尻目に、2人は解説を続けた。
<br> 複数人の足音が近づいてきた。明るい声で笑い合っている。私は反射的に一番奥の個室に入って鍵を閉めた。洋式便器と私だけが残された。
<br>「始めに出てきた兄とその後の兄は別人なんです。厳密に言うと、『<ruby>幼いケンくんに叙述トリックの解説をした兄<rt>、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、</rt></ruby><ruby><rt></rt></ruby><ruby>ケンくんに怪我をさせ<rt>、、、、、、、、、、</rt></ruby><ruby>笑った兄<rt>、、、、</rt></ruby><ruby>は別人<rt>、、、</rt></ruby>ということですね。そして<ruby>プリンを好かないのは前者<rt>、、、、、、、、、、、、</rt></ruby><ruby>プリンを食べたのは後者<rt>、、、、、、、、、、、</rt></ruby>というわけです」
<br> 違うクラスの女子の集団が、弾んだ声で俳優の話をしている。気づかれたくなくて、気配を殺した。やがて彼女らは去っていったけど、クラスから隔絶されたこの空間は居心地がよくて、そのまま個室の中にいた。今は、誰とも顔を合わせたくなかった。もう給食は始まっただろうけど、食欲なんてなかった。
<br>「気いつけて聞いとると、『兄さん』と『兄貴』ちゅうて呼び分けとったで。ケンは3兄弟だっちゅうことやないかな」
<br> そして、私は携帯を取り出した。彼らの反応を見ずにはいられなかった。今日はきのうまでとは明らかに違う。先生が怒ったのも初めてのことだったし、クラスのみんなの不満はピークに達しているように感じられた。
<br> 話の展開が急過ぎて理解が追いつかない。僕の頭には当然の疑問が生まれた。
<br> 彼らの投稿を見ることは、私の義務のようにすら感じた。悪趣味な覗き見を始め、みんなに迷惑をかけた私の、受けるべき罰だ。
<br>「でも、小島さんちは4人家族だって言ってたじゃないですか」
<br> けれど、またも私は甘かった。
<br> 兄が2人いるなら家族は5人いないとおかしくなる。すると三津田さんは足し算に見事正解した孫を見るような顔をした。
<br>  ''11:34 きっしー『【悲報】今日もお黙り女のせいで授業がストップ』''
<br>「その通りですが、正確には『その時は』『4人暮らし』と言っただけです。<ruby>上の兄<rt>、、、</rt></ruby><ruby>つまりプリンが嫌いな兄は<rt>、、、、、、、、、、、、</rt></ruby><ruby>もう一人暮らしを始めた頃だった<rt>、、、、、、、、、、、、、、、</rt></ruby>のではないですかね。そう、その年の4月から」
<br>  ''11:40 クリリン『もう10分経ったんだが』''
<br>「『何かと心労の絶えない時期』っちゅうのは長兄の大学受験とかやろな。それに、ダイニングにお誕生席があったのも、5人暮らしの名残やろう」
<br>  ''11:46 墾田永年私財法『受験も近いのに、純粋に迷惑。先生に言ってなんとかしてもらおうよ。』''
<br> なんでこの爺さんたちはそんなに細かいところまで覚えてるんだ。
<br>  ''11:59 檸檬『だから言ったじゃん笑 鼠は明日もやるって笑』''
<br>「ふむ、それは気づきませんでした。ですが、私は次男の名前が分かりますよ。多分『<ruby>政治<rt>せいじ</rt></ruby>』というんでしょう、どうです、ケンくん?」
<br> 読んだ瞬間、くらりと眩暈がした。立っていられなくなってしゃがみ込んだ。そして、猛烈な吐き気が襲ってきた。たまらず体を折って、便座に片手をついてもどした。胃からは酸っぱい胃液しか出てこなかったけれど、私は何度もえずいた。胃液と涙が滴り落ちる水音がやけによく聞こえた。喉が焼けて、視界が霞んで、手が震えた。鼻水が垂れてきて、でも吐き気のせいで拭うことも何もできなかった。
<br>「ああ、その通りだ。ちなみに漢字も、ちゃんとまつりごとだよ」
<br> みじめだった。ひたすらみじめで、もう耐えられなかった。声が漏れた。一度泣きはじめたら、止められなかった。誰もいないトイレの個室で、汚い床に膝をついて、顔の穴という穴からばっちい液を垂らしたひどい顔で、泣きじゃくった。誰も聞いてくれない声を上げた。どうして私がこんな目に遭わないといけないの。確かに迷惑はかけたけど、でも、わざとじゃないよ。人の陰口を言ってるみんなより、私の方がひどかったの? こんなに傷つかないといけないくらい、悪いことだったの?
<br> 小島さんも2人の洞察力に苦笑いしている。一方、僕は釈然としない。
<br> 床にはいつの間にか手から滑り落ちたスマホが転がっていた。黒ずんだタイルの上に落ちたそれは、どこまでも汚らわしいものに見えた。こんなものさえなければ、私はこんなに苦しまなくてよかった。すべて、私が悪いのだ。聞こえないはずの声を聞いてしまった。耳にしてはいけない叫びを、聞いてしまった。
<br>「じゃあ、最初の場面で小島さんとお兄さんが話してたのはどういうことです? 亮二お兄さんの部屋に2人ともいたじゃないですか」
<br> トイレットペーパーを一巻き切り取って、口を拭いた。次の一巻きで鼻を噛んで、最後に目を拭った。紙をトイレに放って、水を流す。後始末はすべてしたけれど、立ち上がることができなかった。
<br>「ありゃあ<ruby>電話<rt>、、</rt></ruby>やろ」
<br>「もう嫌だな」
<br> 京極さんは事も無げに言う。
<br> あれだけ出し方がわからなかった声は、一人の個室ですんなりこぼれ落ちた。
<br>「<ruby>同じ部屋にいるという記述は<rt>、、、、、、、、、、、、、</rt></ruby>、<ruby>実はない<rt>、、、、</rt></ruby>んですよ」
 
<br>「でも電話って…ええ? 言われてみればあり得なくもないのか…?」
{{転換}}
<br> 確かにその時代には携帯電話は普及し始めていただろうけれども。
 
<br>「ガキん頃のケンは、プリンを平らげた犯人は両親やないとわかった時点で、政治兄しか選択肢があらへんかったんや。『無駄な思考』っちゅうのは、もう巣立った亮二兄を考えの範疇に入れとったことやな」
「それでミッキー、話したいことってなあに?」
<br>「というわけで、プリンを食べた犯人は、政治お兄さんだとわかるんです」
<br> 和佳さんは、翌日は登校していた。風邪は軽いものだったようだ。朝、まるで数年ぶりかのように再会を大袈裟に祝する人たちの中に割り込んで、私は声をかけた。話したいことがあるから、今から来てくれないか、と。
<br> 三津田さんと京極さんはこうして説明を締めくくった。
<br> 急なことに和佳さんは戸惑っていたし、周りの友達は嫌悪感を露骨に顔に出していたけど、それも少しのことで和佳さんは気さくに頷いた。同行を申し出る大村さんと栗原くんを押しとどめて、理科室まで着いてきてくれた。朝の会が始まる前の理科室には、誰も来ない。実験をするための大きな机に、私たちは向かい合って座った。
<br>「さすがだな、みっちゃん、ゴクさん。まあタケ、叙述トリックってのはこんな風に、気をつければ見抜けるようになってるものなんだ」
<br> 陰気な顔をした私に、けれど明るく和佳さんは問いかける。保健室に連れていってもらったとき、「なんでも言って」と言ったことを覚えているのだろう。私の唐突なお願いに文句一つ言わず笑顔を向けてくれる。
<br> 僕は2人の注意深さと推理力に感嘆した。もちろん話を組み立て、叙述トリックをこれ以上ないくらい分かりやすく説明してくれた小島さんにも。どうやら僕はこの人たちを見くびっていたらしい。
<br>「急にごめんね。話したいことって、これのこと」
<br>「皆さんすごいです! 感動しました!」
<br> 私はスマホを机の上に置いた。和佳さんが画面を覗き込んで、顔を歪めた。画面には、きのう投稿されたあのメッセージが並んでいる。
<br> 3人は照れたような顔をして笑った。その時、武骨な声が割って入った。
<br>「私、人前で喋るのが苦手なの。それで、授業の発表で黙っちゃうことがあった。そして、それについてSNSでみんながいろいろ言ってるのを、私知ってたの」
<br>「おい1813番、もう就寝時刻だぞ!」
<br> 和佳さんは黙って画面を見ていた。青ざめた表情で、食い入るように文面を見つめている。
<br> いつの間にか時計の針は9時を指していた。電灯が消え、僕らは慌てて布団に潜り込んだ。足音が遠ざかってから、僕は
<br>「たくさん迷惑かけた。授業をストップさせちゃったし、不愉快な思いもさせた。本当に申し訳ないと思ってる」
<br>「まったく、[[Sisters:WikiWikiオンラインニュース#法学部生、詐欺罪で逮捕|山田たけし]]って名前で呼んでほしいものだよ」
<br> 和佳さんと二人きりなら、言葉はすらすら出てきた。みんなの前でもそうならよかったのにと思うけど、でも、何もかも、もう遅い。
<br>と呟き、溜め息を吐いた。
<br>「けどね、私、{{傍点|文章=きのうはそんなことしてない}}」
<br> 府中刑務所の夜が更けていく。
<br> 和佳さんがゆっくりと視線を上げた。私と目が合う。
}}}}
<br>「きのう黙っちゃったのは、加奈子ちゃん。私が悪いお手本を見せちゃったのかな。きっとあの子も私と同じで、影響されやすい人だから。私も恥ずかしかった。共感性羞恥って言うのかな。まるで自分のことみたいにみじめだったし、苦しかったし、怖かった。けどね、それでも、私じゃない。私じゃないの」
[[カテゴリ:文学]][[カテゴリ:自己言及]]{{DEFAULTSORT:しよしゆつつとりつく}}
<br> 私はスマホをなぞって一つの投稿を表示する。和佳さんはもう一度目を落とす。
<br>「あの場にいた人で、黙っているのが私だなんて思う人いない。いるわけない。{{傍点|文章=きのう学校に来てた人なら}}」
<br>  ''11:59 檸檬『だから言ったじゃん笑 鼠は明日もやるって笑』''
<br>「この『檸檬』って人、和佳さんでしょ?」
<br> 朝の会の始まりを告げるチャイムが鳴った。顔を伏せた和佳さんの髪が一房、はらりと落ちた。
 
{{転換}}
 
 顔を上げた和佳さんは、別人のようにとげとげしい目で私を見た。
<br>「なんで、これを知ってるの」
<br>「……たまたま、流れてきて。遠足の話とかから、同じクラスの誰かだなって」
<br>「ずっと前のことじゃない! まさかずっと、監視してたってこと?」
<br>「……ごめん」
<br>「はあ? そんなのストーカーじゃん。最悪。ほんと嫌なんだけど」
<br> 責め立てられて、けれど私はきのうまでのようにみじめな気持ちはせず、ただただ悲しいだけだった。
<br>「ねえ、教えてほしいの」
<br>「嫌よ。私、帰る」
<br> 乱暴に席を立った和佳さんの背中に、叫んだ。
<br>「噓だったの? 謝ってくれたのも、心配してくれたのも、なんでも話してって言ってくれたのも、全部噓だったの? 心の中では、私のこと笑ってたの?」
<br> 和佳さんが立ち止まった。言いながら、涙が滲んで、声が震えた。和佳さんは振り返って、苦しそうに顔を歪めた。
<br>「何、逆ギレ? 元はといえば、あんたが悪いんじゃないの。みんなの時間を奪って、受験も近いのに授業の邪魔して、全部あんたが悪いのよ!」
<br> そう言う彼女は本当に苦しそうで、いっそう心が痛んだ。気持ちの整理はつけてきたつもりだったけれど、叫んでいるうちに、感情が大きくなっていって、制御できなくなった。想いがあふれて、喉が詰まった。いくつもの言葉が胸を塞いだ。涙が止まらなくなって、心が痛みを訴えてきて、唇が震えた。
<br> どうして、そんなこと言ったの? そんなに、迷惑だったの? どうして、止めてくれなかったの? どうして、優しくしてくれたの? どうして、どうして……。
<br>「どうして、面と向かって言ってくれなかったの……?」
<br> ぽつりとこぼれた言葉だけが宙に浮かんで、静寂が下りた。
<br> 涙を袖で拭って、私は言った。
<br>「私、転校するの」
<br> はっと和佳さんが顔を上げた。私は笑顔を作ってみせる。きっと、とても痛々しい。
<br>「親には話をつけておいた。来週には、違う県の中学校に行くの。ここに登校するのも、今日で最後。引っ越しの準備とかで忙しいから、あなたと話して、もう帰るつもり」
<br> 打ちひしがれたように、和佳さんは立ち尽くしていた。何か言葉を探そうとするけれど、見つからないみたい。私は立ち上がる。
<br>「もう、帰るね。最後に話せてよかった」
<br> 私はスマホをポケットにしまって、理科室の扉を開けた。和佳さんを残して、誰もいない廊下を歩き出す。教室から隔絶された空間は、こんなにも息がしやすかった。
<br>「待って!」
<br> 靴箱で靴を履いて、玄関から出ていこうとしたとき、呼び止められた。廊下の向こうに、膝に手をついた和佳さんが立っていた。
<br>「ごめん」
<br> 和佳さんはうつむいた。
<br>「ほんとに、ごめん」
<br> 短い言葉だけれど、私には、それだけで十分だった。そこで、思い出した。
<br>「ねえ、和佳さん、ありがとう。おととい、保健室に連れていってくれて」
<br> 和佳さんは、虚をつかれたようだった。そして、唇を曲げた。
<br>「まだ、お礼言ってなかったから」
<br>「そんなの……どうでもいい……」
<br>「私、和佳さんが優しくなかったとは思ってないよ。私を心配してくれたのも、和佳さんだから」
<br> なぜか悲しくなって、涙が流れてきた。和佳さんもくしゃりと顔を歪めた。
<br>「ミッキー、優しすぎるよ……」
<br> 私は笑って手を振った。これ以上いると、和佳さんにみっともない顔を見せてしまいそうだったから。
<br>「じゃあね」
<br> そして私は校舎の外へと足を進めた。真っ青な空がまぶしすぎて、また涙があふれた。

4年7月21日 (W) 23:58時点における最新版

 声が出なかった。喉に石が詰まったみたいに息ができなくなって、顎が凍りついたように動いてくれなくて、でも汗はどんどん吹き出してきて、冷たく背筋を伝う。足が震える。
「河北さん? 7行目よ?」
 木下先生の気づかわしげな声が聞こえるけど、手に持った教科書を見たままで、目を上げることができない。首から上が固まってしまったように、どんなに動いてほしいと私が願っても硬直したまま。読み上げないといけないのに、教科書の文は意味をなさずにぐるぐると回って読ませてくれなくて、焦りだけが募っていく。止まって、止まってよ。かさついた紙の感触ばかりが脳に届く。
「どうかしましたか? 早く読んで」
 クラスのみんなが異常に気づいてざわめきはじめる。待ってください、すぐ読みますから。その一言が喉から出てこない。私は教科書を持ったまま、声を出せずに立ち尽くしている。恥ずかしさとみじめさに顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。読まないと、と思うのに、声の出し方が思い出せない。今まで十五年、どうやって話してきたっけ。
 みんなの視線を感じる。みんなが押し黙ってしまった私を見ている。その目を見ることができず、私はますます下を向く。顔は燃えるように熱いのに、背筋は震えるほど冷たくて、おなかがきゅっと痛む。読むんだ。国語の授業の、なんでもない音読だ。今までずっとやってきたように、喋ればいい。軋む音が聞こえそうなほどに力を込めて、ようやく顎が開き、声を出す。
「こっ」
 喉に息が引っかかって変な音が出た。顔から火が出そうなくらい恥ずかしいけれど、なんとか声が出てくれた。ようやく読めるようになってくれた教科書の文を見つめる。
「こ……こうして、祭りは、ぎ、儀式から、人々の生活の一部へと、変わっていったの、です」
「……はい、じゃあ次の一文を吉川くん」
 先生にやっと聞こえるくらいの声だったけど、私はようやく自分の番を終えて席に座った。教室は妙に静かな空気が流れていて、私はみんなが冷ややかにこっちを見ているような気がして、目を上げることができなかった。
 後ろの吉川くんが気の抜けた返事をして、続く一文を難なく読み終えた。みんながやすやすとこなすことを私だけができない。
 そのとき、音読の声に紛れて、誰かが「コッ」と喉を鳴らしたのが聞こえた。続いて、数人の忍び笑い。きっと、後ろの方の栗原くんとその周りの男子たち。ずっと下を見ているのに、栗原くんのおどけた顔がまざまざと目に浮かんだ。
 握った拳に巻き込まれ、教科書の端がくしゃりと歪んだ。


*        *        *


 帰りの会が終わって、教室は開け放たれた鳥籠みたい。みんな友達と連れ立って、部活だったり近くのお店だったり、勢いよく飛び出していく。そんな人たちに混ざって独りで靴箱へ行くのはなんとなく気がひけて、私はのろのろと鞄に教科書を詰めていた。
「ミッキー」
 私の名前は幹江だけれど、そんなふうに呼ばれることはめったにないから、自分のことだと気づくのに少しかかった。横を見ると、優しい笑い顔と目が合う。
「小橋川さん」
「和佳って呼んで」
 小橋川さん……和佳さんは、まぶしいほどに明るく言う。目がぱっちりしていて、後ろで結った髪は毎朝時間をかけているのだろう。背がちょっと高すぎる私とは違って、いい意味で女の子らしい。
「……いいの? 部活とか、いかなくて」
「うん。今日はピアノのレッスンがあるから、ダンスはお休み」
 教室には力関係が確かに存在する。和佳さんは間違いなく、そのピラミッドのてっぺんの近くにいる。明るくみんなと付き合って、男子ともよく冗談を言い合っている。たぶん、たくさんの友達と一緒に、噛みそうな名前のドリンクと一緒に自撮りをしているタイプ。
 そんな和佳さんが私に話しかけてきたことに、私は驚きと緊張を覚えていた。ピラミッドなら私は最下層の石だ。固くて無骨で孤独。
「ミッキーこそ大丈夫? 急いでない?」
「うん」
 きっとそのつもりはないのだけれど、皮肉に聞こえる。部活も習い事もしてない私に、ついでに言うなら友達と遊びに行くようなこともない私に、急ぐ予定なんて歯医者の予約くらいしかない。
「そう。加奈子ちゃんとよく一緒に帰ってるみたいだけど……」
 教室を見回して和佳さんは言う。加奈子ちゃんは、私が和佳さんに話しかけられたのを見て、もう帰ってしまった。確かに私は加奈子ちゃんとよく行動を共にしているけれど、それは仲がいいのとはちょっと違う。クラスのみんながどんどんグループを作っていくなかで、余った二人が自然に集まっただけ。私も加奈子ちゃんも、お互いのことを利用している節がある。友達に見える人がいないと、周りにみじめに思われるから。それだけだから、どちらかの都合が合わなければ、一緒に下校しないことに特に断りもしない。
「ううん、いいの。約束してたわけじゃないし」
 少し言い訳がましく聞こえてしまっただろうか。和佳さんはまだ少し気がかりそうだったが、私も気が気ではない。和佳さんは私に何の用があるのだろう。まさか、かつあげではないと思うんだけど。
「それで、どうしたの?」
「あっ、えっとね……」
 和佳さんはあたりをちょっと見回すと、少し声をひそめた。
「国語の時間。大丈夫だった?」
 かあっと顔に血がのぼるのを感じる。やっぱり目立っていたのだろう。今まで、目立たずに生活してきたのに、中学生も終わりに近いところで、こんな失敗をしてしまうなんて。
「うん、ごめん……」
「ああ、別に私が気にしてるとかじゃないんだよ? 全然。誰でもあるよ、ああいうこと。自分の番になると頭が真っ白になっちゃうんだよね」
 はきはき発表する和佳さんしか私は見たことがないし、私の失敗の原因も少し違うけれど、反論はしない。
「じゃあ、どうして?」
「あのね、コージたちのこと」
 浩司は、たしか、栗原くんの下の名前。あのときの笑い声が頭をよぎる。和佳さんは苦々しく顔を歪めた。
「聞こえてたでしょ? あいつら、こう言っちゃなんだけど、男子の笑いって程度が低いから、あんまり周りのこと考えられてないのよ。ごめんね?」
 まるで自分のせいであるかのように、和佳さんは謝る。
「ううん、全然……」
「ごめんね、あいつらには私から言っておくから。それじゃ!」
 和佳さんはひらひらと手を振ると、自分の鞄を掴み、軽やかに教室から去っていった。私はしばらくぼうっとしていた。自分は何もしていないのに、わざわざ謝りにきた彼女の声が耳から離れなかった。
 加奈子ちゃんも和佳さんも十分離れてしまっただろう時間をおいてから、立ち上がって教室を出た。少しだけ、ほんの少しだけ、救われたような気がした。


*        *        *


 けれど、そんな気分も長くは続かなかった。
 制服から着替えて、ベッドに転がる。一日が終わってほっとするから、この時間が一番好きだ。しばらく放心して天井を見つめる。宿題をする気も起きなかったし、ポケットから携帯を取り出す。ロックを解除すると、学校で見ていたページが表示されている。
〈話したくても話せない『場面緘黙』とは〉
 検索履歴は「緘黙症 治し方」「言葉が出てこない」「吃音 中学生」「発表 話せない」といった言葉で埋まっている。小学生の頃から、人前で話すのが苦手だった。人と差し向かいで話すのはそこまで苦ではないのに、聴衆が増えると途端に言葉が出てこなくなる。話そうと思えば思うほど、声の出し方がわからなくなる。
 でも、これまでなんとかやってきた。環境が変わったからか、中学生になってからは発表ができないなんてことはなかった。今日までは。
 今日の失敗を思い起こすと舌を引っこ抜いてしまいたくなる。気分を変えたくて、SNSのアプリを開いた。
 フォローしているアイドルの投稿や、お気に入りのイラストレーターの絵にいいねをしていく。このSNSでは、リアルの知り合いとは誰とも繋がっていないから、学校のことを忘れていられる。そう思ってするりするりと画面をなぞっていたら、その投稿が目に入った。
  15:49 きっしー『今日の国語で鼠が黙ってたの、迷惑すぎない?』
 初めは、魔が差したのだ。今年の夏、日曜日に授業参観があって、次の月曜日が振替休日になったことがあった。お母さんもお父さんも仕事に行ったのに、自分だけがお休みなのをちょっと奇妙に思ったとき、思いついた。私はSNSで「今日休み」と検索したのだ。大量にあふれる、今日が休みの人たちの投稿。月曜日に仕事が休みな人って結構いるんだなあと思って、「今日学校休み」に切り替えた。それでもまだまだ多かったけれど、やがて一つのアカウントが目に止まった。
 「きのう行ったとはいえ今日学校休みなの特別感あるな〜」と投稿していた「檸檬」というユーザー名のその人は、日常のささいな雑感をよく投稿しているようだった。この人の過去の投稿を遡ると、近くの森林公園に遠足に行ったこと、体育祭のリレーでアンカーがバトンを落として三位になったこと、英語の先生が唐突にロボットダンスを披露し始めたこと……さまざまなことが、日付も含めて私のクラスと合致していた。檸檬さんの正体は今でもわからないけど、間違いなく、私と同じ三年三組のなかの誰かだった。
 檸檬さんの投稿に反応したりフォローし合ったりしているアカウントも、きっと檸檬さんの知り合いだ。同じクラスの仲間で十人くらいの小さなコミュニティができているようで、芋づる式に同級生らしきアカウントを見つけられた。当然みんなは実名を書いたりはしていないけれど、同級生とわかれば投稿やユーザー名から見えてくるものがあるものだ。コミュニティの何人かは、私でも誰なのか見当がついた。
 そうして私は、名を名乗って彼らをフォローしたのではない。私は、そのまま彼らの投稿を見るだけにとどめた。向こうは知らないけれど、一方的に私はみんなの投稿が見られる。一種の覗き見だ。彼らが日常の事件に反応したり、誰かの噂を書いたりするのを、私は定期的に見続けては楽しんでいた。趣味が悪いことはわかっている。けれど、この行為がもたらす一種の優越感と背徳感が、私の心を離さなかった。
 甘かった。悪趣味な覗き見をしていた報いを受けたのだ。
 きっしーは、たぶん岸田くんのアカウント。彼の投稿に、何人も同調するコメントを残していた。
  15:53 檸檬『それな』
  16:02 墾田永年私財法『時間の無駄。』
  16:04 クリリン『構ってほしいんでしょw』
 目が離れてくれなかった。画面をなぞる指が止まってくれなかった。やがて右手が震えて、文面を見ることができなくなってようやく、スマホを置くことができた。動悸が激しくなっていた。
 「鼠」という呼び名は、きっと私のあだ名「ミッキー」からの連想だろう。何より、今日の国語で黙ってしまった人なんて私しかいない。彼らは、私への不満を陰で話している。
 ごはんよーと呼ぶ母親の声が寒々と響いた。


*        *        *


 怖かった。きのうあの投稿を見てから、学校に行くのが怖くて仕方なかった。投稿したら机に落書きがされてるんじゃないか、みんなが私を無視するようになってるんじゃないか、そんな自意識過剰な悪い妄想ばかり膨らんだ。でも、行かなかったら二度と学校に行けなくなる気がしたし、親になんと言い訳すればいいかもわからなかったから、登校するしかなかった。
 英語の教科書を手に立ち尽くしている今、その判断を心から後悔している。
 登校しても、机は無事だし誰からも罵倒されたりもしなかった。けれど、それが逆に恐ろしかった。教室ではそんな素振りはちらとも見せていないのに、心中では私を疎ましく思っている人が何人もいる。教室に入ったとき加奈子ちゃんと目が合って「おはよう」と言われたが、私は挨拶をうまく返せなかった。加奈子ちゃんも、あのコミュニティの中にいて、実は私に苛立っているのかもしれない。そんな疑いが頭をよぎったからだ。
 私が彼らの投稿を見るようになってから半年ほど経つが、彼らがクラスの誰かを悪く言うことなんて何度もあった。気心の知れた友達しかいない場だからか、遠慮もなく不満や愚痴をぶちまける投稿も少なくはない。私自身、それを垣間見て楽しんでいた節もあった。寺田くんの喋り方ちょっと粘着質だよね、とか、林さんそんなことするんだあ、とか。それが、自分が標的になった途端、こうだ。ためらいなく罵倒される恐ろしさを、私は全然理解していなかった。
 今日は音読なんてさせないでほしいと心から願ったのに、槙原先生はプリントの英文を読むように言った。どうか当たらないでくれと祈ったのに、今日の日付から私は当てられた。だからせめて、もう同じ失敗はするまいと思って立ち上がったのに、後ろから小さく「コッ」と喉を鳴らす音と笑い声が聞こえた瞬間、頭が真っ白になってしまった。
 血の気がさあっと引いて、両手が勝手に震え始める。脇から背中にかけてが凍るかと思うほど冷えて、喉が固まった。声が出せずに私は立ち尽くすしかなかった。英文が見えなくて、口が開かなくて、周りの視線ばかり感じられて、涙が出そうになった。
 迷惑。時間の無駄。構ってほしいんでしょ。
 きのう見た言葉が、私の喉を塞いだ。言葉を奪った。クラスの誰もが私の悪口を言っていた可能性があるという事実ゆえに、クラスの全員がいま心の中で私を罵倒しているように感じた。ますます寒気がした。
「どうした河北?」
 槙原先生の言葉にも反応できなかった。文を読まないといけないのに、息をうまく吸えない。
 教室は静まって、だから誰かが漏らした忍び笑いが聞こえてしまって、悪寒がした。ますます腕が震えて、文章が見えなくなって、とにかく何か言おうとするけれど、掠れた呼吸音しか口からは出てこない。読まないと。読まないと、笑われる。読まないと、怒られる。読まないと……。
 顔がぬっと目の前に現れて、肩が震えた。いつの間にか近くに来ていた槙原先生が、私の顔を覗き込んでいた。
「顔色が悪いな。保健室行くか?」
 私は答えられなかったけれど、相当顔色が良くなかったのか、先生は保健委員を呼んだ。女子の保健委員は和佳さんだった。


*        *        *


 私は保健室の先生におなかが痛いと噓をついた。一人で行けると言ったけど、和佳さんは保健室に着くまで私と並んで歩いてくれた。先生はいくつか問診した後、体育で怪我をしたらしき下級生の治療に向かった。ライトグリーンのカーテンで仕切られたベッドには、端に腰掛けた私とそばに立つ和佳さんだけが残された。みじめに思えるから、一人になりたかった。
「……もう大丈夫だから。戻っていいよ」
 ちょっと迷った顔をした和佳さんは、けれど頷いて踵を返した。しかし振り返ると
「ねえ、なにか話したいことあったらなんでも言ってね……」
 と申し訳なげに言った。
「ううん。大丈夫」
 反射的に断っていた。
「そう。じゃあ、私、もう行くね」
「うん」
 和佳さんはカーテンを丁寧に閉めて、今度こそ帰っていった。上履きを脱いでベッドに横たわると、制服にくしゃりとしわが寄った。授業をしているクラスの気配が感じられなくて、この部屋だけは学校の他の教室と隔絶されているみたいに感じる。目を閉じるとさっき聞いた笑い声が蘇ってくるから、見慣れない天井を眺めて深呼吸を繰り返した。
 養護の先生と下級生の話し声だけが聞こえる。放っておかれたくて、私の存在に気づかれたくないように思えて、ひたすら物音を殺した。下級生が去って、先生も机に向かったらしく保健室に静寂が下りて、時間が過ぎるのをじっと待ち続けた。早退したいけど、鞄を取りに教室に戻る勇気なんてない。でも人に取ってきてもらうのは申し訳ないから、みんなが帰る放課後まで保健室にいるつもりだった。体調は回復しつつあったけど、気分は最悪だった。
 またやってしまった。でも、私だって好きで黙っているんじゃない。みんなの前に立つと、みんなの目を感じると、声の出し方が思い出せなくなってしまうのだ。
 また、嫌なことを言われる。そう気づいて、消えかけていた悪寒がぶり返してきた。しばらく迷ったけど、結局、スカートのポケットからスマホを取り出した。よせばいいのに、私はSNSのアプリを起動させる。
 このままだと、悪い想像が際限なく膨らんで、押しつぶされそうだった。だから、現実を直視して、それを封じようと思った。現実は、少なくとも有限だから。あるいは、期待していたのかもしれない。誰も私を悪く言っていないという一縷の望みに。
 彼らのアカウントを検索して、投稿を表示した。授業中でも、机の下でこっそりスマホを触っている人は多い。少し前にされた投稿がすぐに飛び込んできた。
  14:22 クリリン『鼠がまた黙ってる』
  14:23 きっしー『だるいって』
  14:28 つっぱり棒マスター『2日連続はエグいだろ』
  14:33 檸檬『明日もまたやるんじゃない?』
 たまらず画面を暗くした。スマホをベッドの端に投げ、袖を目の上に当てた。みじめなのか申し訳ないのか、自分でもわからない涙が出てきて、声を我慢するしかなかった。こんなときだけは音が出てくる自分の口が、恨めしくて仕方がなかった。
 和佳さんの「なんでも言ってね」という言葉と、自分のふがいなさを詫びるような表情を思い出した。
 私が陰で言われていることを話そうかな、と思った。話してどうなるものでもないかもしれないけれど、せめて楽になりたかった。実際何か行われたのかはわからないけれど、少なくとも、この二日間で私に手を差し伸べてくれたのは、彼女だけだった。そして私は、その手にすがらないと耐えられそうになかった。
 明日話そう。そう決めた。そのとき、和佳さんにまだ保健室まで付き添ってくれたお礼を言っていないことに気がついた。これも明日伝えよう。体の震えは少しだけ収まっていた。
 けれど次の日、他のクラスのみんなは一人残らず来ていたのに、和佳さんは学校を休んだ。担任の先生は、風邪だと言っていた。そして、私の心は折れてしまった。


*        *        *


「どうしたの。早く読みなさい」
 木下先生は、おとといより明らかに機嫌が悪かった。私はうつむいてスカートを握りしめることしかできなかった。
「黙っていても何も変わらないわよ」
 先生が苛烈な言葉を飛ばすほどに、私の喉は塞がり、声が出せなくなった。頭に血がのぼって熱い。肩が震える。和佳さん以外の全員が揃った教室に、木下先生の叱責が覆いかぶさる。
「もう三年生よ? こんなこともできなくてどうするの。みんなの前で話すのがそんなに恥ずかしいの?」
 一言一言が心を削り、涙が込み上げてくる。違うんです先生。わざとじゃないんです。こんなことが、途方もないくらい難しいんです。どうしても話し方が思い出せないんです。そう心の底から叫びたいのに、声が出てくれない。無音の叫びは、誰も聞いてくれない。
 教室は、私の大嫌いな、先生が怒っているとき特有の張り詰めた空気に満ちていた。生徒全員が息を殺すなか、先生の押し殺した、でも隠しきれない怒りが滲み出た大声が響き渡る。けれど、殺伐とした雰囲気の中に、私は確かに、みんなの呆れを感じた。またかよ、とみんながうんざりしているのを、感じ取ってしまった。
「これから先の人生、人前で話す機会なんて何百回、何千回とあるわ。その度に、押し黙ってみんなを待たせるつもり? ねえ、聞いてるの?」
 先生を直視できない。ひたすら下を向いて、みじめな気持ちに耐えるしかなかった。この先、何千回とこんな気分にならないといけないのだろうか。こんなに頑張っているのに、でもこんなに苦しいのに、他の人から罵倒されつづけるのだろうか。
 つらい。限界だった。涙と鼻水が滲み出てきて、しゃくりあげる声は静まり返った教室に響いてしまうから、必死にこらえて袖で顔を拭った。こんな姿を見られたらまたひどいことを言われるけど、でも耐えられなかった。
「泣いても何も解決しないわよ! 今までは泣いたらうやむやにできてたんでしょ。社会はそんなに甘くないわ」
 うやむやにしたいなんて思ってない。好きで泣く人なんていない。そう叫びたいのに、喉からはみじめな呼吸音しか出てこない。
「さあ、読みなさい! 読めばいいのよ。その両手に持った教科書を読み上げる、たったそれだけの話じゃない」
 先生の厳しい言葉に、たまらず目を閉じた。吐き気すら感じた。手足の震えが押さえきれなくて、息ができなくなった。喉は完全に塞がって、歯を固く食いしばらないと呼吸音が漏れ出てしまうから、まともな声なんて出せるわけがなかった。頭はとてつもなく熱いのに背中は冬みたいに寒くて、涙と洟が次から次へとあふれてきて、一刻でも早くこの嵐が過ぎ去ればいいのにと祈った。
 けれど結局、木下先生の責め苦は授業の終わりのチャイムが鳴るまで続いた。


*        *        *


 次は給食時間だったけれど、私は真っ先にトイレに向かった。家か、せめて保健室に行きたかったけれど、泣き腫らした顔で遠くまで行くことはできなかった。洗面所でまずは顔を洗った。みじめで不細工な顔が鏡に映って、余計苦しくなった。
 複数人の足音が近づいてきた。明るい声で笑い合っている。私は反射的に一番奥の個室に入って鍵を閉めた。洋式便器と私だけが残された。
 違うクラスの女子の集団が、弾んだ声で俳優の話をしている。気づかれたくなくて、気配を殺した。やがて彼女らは去っていったけど、クラスから隔絶されたこの空間は居心地がよくて、そのまま個室の中にいた。今は、誰とも顔を合わせたくなかった。もう給食は始まっただろうけど、食欲なんてなかった。
 そして、私は携帯を取り出した。彼らの反応を見ずにはいられなかった。今日はきのうまでとは明らかに違う。先生が怒ったのも初めてのことだったし、クラスのみんなの不満はピークに達しているように感じられた。
 彼らの投稿を見ることは、私の義務のようにすら感じた。悪趣味な覗き見を始め、みんなに迷惑をかけた私の、受けるべき罰だ。
 けれど、またも私は甘かった。
  11:34 きっしー『【悲報】今日もお黙り女のせいで授業がストップ』
  11:40 クリリン『もう10分経ったんだが』
  11:46 墾田永年私財法『受験も近いのに、純粋に迷惑。先生に言ってなんとかしてもらおうよ。』
  11:59 檸檬『だから言ったじゃん笑 鼠は明日もやるって笑』
 読んだ瞬間、くらりと眩暈がした。立っていられなくなってしゃがみ込んだ。そして、猛烈な吐き気が襲ってきた。たまらず体を折って、便座に片手をついてもどした。胃からは酸っぱい胃液しか出てこなかったけれど、私は何度もえずいた。胃液と涙が滴り落ちる水音がやけによく聞こえた。喉が焼けて、視界が霞んで、手が震えた。鼻水が垂れてきて、でも吐き気のせいで拭うことも何もできなかった。
 みじめだった。ひたすらみじめで、もう耐えられなかった。声が漏れた。一度泣きはじめたら、止められなかった。誰もいないトイレの個室で、汚い床に膝をついて、顔の穴という穴からばっちい液を垂らしたひどい顔で、泣きじゃくった。誰も聞いてくれない声を上げた。どうして私がこんな目に遭わないといけないの。確かに迷惑はかけたけど、でも、わざとじゃないよ。人の陰口を言ってるみんなより、私の方がひどかったの? こんなに傷つかないといけないくらい、悪いことだったの?
 床にはいつの間にか手から滑り落ちたスマホが転がっていた。黒ずんだタイルの上に落ちたそれは、どこまでも汚らわしいものに見えた。こんなものさえなければ、私はこんなに苦しまなくてよかった。すべて、私が悪いのだ。聞こえないはずの声を聞いてしまった。耳にしてはいけない叫びを、聞いてしまった。
 トイレットペーパーを一巻き切り取って、口を拭いた。次の一巻きで鼻を噛んで、最後に目を拭った。紙をトイレに放って、水を流す。後始末はすべてしたけれど、立ち上がることができなかった。
「もう嫌だな」
 あれだけ出し方がわからなかった声は、一人の個室ですんなりこぼれ落ちた。


*        *        *


「それでミッキー、話したいことってなあに?」
 和佳さんは、翌日は登校していた。風邪は軽いものだったようだ。朝、まるで数年ぶりかのように再会を大袈裟に祝する人たちの中に割り込んで、私は声をかけた。話したいことがあるから、今から来てくれないか、と。
 急なことに和佳さんは戸惑っていたし、周りの友達は嫌悪感を露骨に顔に出していたけど、それも少しのことで和佳さんは気さくに頷いた。同行を申し出る大村さんと栗原くんを押しとどめて、理科室まで着いてきてくれた。朝の会が始まる前の理科室には、誰も来ない。実験をするための大きな机に、私たちは向かい合って座った。
 陰気な顔をした私に、けれど明るく和佳さんは問いかける。保健室に連れていってもらったとき、「なんでも言って」と言ったことを覚えているのだろう。私の唐突なお願いに文句一つ言わず笑顔を向けてくれる。
「急にごめんね。話したいことって、これのこと」
 私はスマホを机の上に置いた。和佳さんが画面を覗き込んで、顔を歪めた。画面には、きのう投稿されたあのメッセージが並んでいる。
「私、人前で喋るのが苦手なの。それで、授業の発表で黙っちゃうことがあった。そして、それについてSNSでみんながいろいろ言ってるのを、私知ってたの」
 和佳さんは黙って画面を見ていた。青ざめた表情で、食い入るように文面を見つめている。
「たくさん迷惑かけた。授業をストップさせちゃったし、不愉快な思いもさせた。本当に申し訳ないと思ってる」
 和佳さんと二人きりなら、言葉はすらすら出てきた。みんなの前でもそうならよかったのにと思うけど、でも、何もかも、もう遅い。
「けどね、私、きのうはそんなことしてない
 和佳さんがゆっくりと視線を上げた。私と目が合う。
「きのう黙っちゃったのは、加奈子ちゃん。私が悪いお手本を見せちゃったのかな。きっとあの子も私と同じで、影響されやすい人だから。私も恥ずかしかった。共感性羞恥って言うのかな。まるで自分のことみたいにみじめだったし、苦しかったし、怖かった。けどね、それでも、私じゃない。私じゃないの」
 私はスマホをなぞって一つの投稿を表示する。和佳さんはもう一度目を落とす。
「あの場にいた人で、黙っているのが私だなんて思う人いない。いるわけない。きのう学校に来てた人なら
  11:59 檸檬『だから言ったじゃん笑 鼠は明日もやるって笑』
「この『檸檬』って人、和佳さんでしょ?」
 朝の会の始まりを告げるチャイムが鳴った。顔を伏せた和佳さんの髪が一房、はらりと落ちた。


*        *        *


 顔を上げた和佳さんは、別人のようにとげとげしい目で私を見た。
「なんで、これを知ってるの」
「……たまたま、流れてきて。遠足の話とかから、同じクラスの誰かだなって」
「ずっと前のことじゃない! まさかずっと、監視してたってこと?」
「……ごめん」
「はあ? そんなのストーカーじゃん。最悪。ほんと嫌なんだけど」
 責め立てられて、けれど私はきのうまでのようにみじめな気持ちはせず、ただただ悲しいだけだった。
「ねえ、教えてほしいの」
「嫌よ。私、帰る」
 乱暴に席を立った和佳さんの背中に、叫んだ。
「噓だったの? 謝ってくれたのも、心配してくれたのも、なんでも話してって言ってくれたのも、全部噓だったの? 心の中では、私のこと笑ってたの?」
 和佳さんが立ち止まった。言いながら、涙が滲んで、声が震えた。和佳さんは振り返って、苦しそうに顔を歪めた。
「何、逆ギレ? 元はといえば、あんたが悪いんじゃないの。みんなの時間を奪って、受験も近いのに授業の邪魔して、全部あんたが悪いのよ!」
 そう言う彼女は本当に苦しそうで、いっそう心が痛んだ。気持ちの整理はつけてきたつもりだったけれど、叫んでいるうちに、感情が大きくなっていって、制御できなくなった。想いがあふれて、喉が詰まった。いくつもの言葉が胸を塞いだ。涙が止まらなくなって、心が痛みを訴えてきて、唇が震えた。
 どうして、そんなこと言ったの? そんなに、迷惑だったの? どうして、止めてくれなかったの? どうして、優しくしてくれたの? どうして、どうして……。
「どうして、面と向かって言ってくれなかったの……?」
 ぽつりとこぼれた言葉だけが宙に浮かんで、静寂が下りた。
 涙を袖で拭って、私は言った。
「私、転校するの」
 はっと和佳さんが顔を上げた。私は笑顔を作ってみせる。きっと、とても痛々しい。
「親には話をつけておいた。来週には、違う県の中学校に行くの。ここに登校するのも、今日で最後。引っ越しの準備とかで忙しいから、あなたと話して、もう帰るつもり」
 打ちひしがれたように、和佳さんは立ち尽くしていた。何か言葉を探そうとするけれど、見つからないみたい。私は立ち上がる。
「もう、帰るね。最後に話せてよかった」
 私はスマホをポケットにしまって、理科室の扉を開けた。和佳さんを残して、誰もいない廊下を歩き出す。教室から隔絶された空間は、こんなにも息がしやすかった。
「待って!」
 靴箱で靴を履いて、玄関から出ていこうとしたとき、呼び止められた。廊下の向こうに、膝に手をついた和佳さんが立っていた。
「ごめん」
 和佳さんはうつむいた。
「ほんとに、ごめん」
 短い言葉だけれど、私には、それだけで十分だった。そこで、思い出した。
「ねえ、和佳さん、ありがとう。おととい、保健室に連れていってくれて」
 和佳さんは、虚をつかれたようだった。そして、唇を曲げた。
「まだ、お礼言ってなかったから」
「そんなの……どうでもいい……」
「私、和佳さんが優しくなかったとは思ってないよ。私を心配してくれたのも、和佳さんだから」
 なぜか悲しくなって、涙が流れてきた。和佳さんもくしゃりと顔を歪めた。
「ミッキー、優しすぎるよ……」
 私は笑って手を振った。これ以上いると、和佳さんにみっともない顔を見せてしまいそうだったから。
「じゃあね」
 そして私は校舎の外へと足を進めた。真っ青な空がまぶしすぎて、また涙があふれた。