「利用者:Mapilaplap/SandboxforNovels」の版間の差分

提供:WikiWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動
(ページの作成:「童話案1 <br> その日は初夏で、花残り月と教室海の日だった。花残り月というのは満月の中でも特別な月で、教室海と重なることは滅多にないから、澪はいつになく上機嫌だった。教室で彼女だけが持つ不思議で神聖な雰囲気も、この日はいくらか増していた。 <br>「今日こそは、金魚がいるといいな」 <br> 窓際で弁当を広げている澪が目を輝かせ…」)
 
編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の35版が非表示)
1行目: 1行目:
童話案1
 
<br> その日は初夏で、花残り月と教室海の日だった。花残り月というのは満月の中でも特別な月で、教室海と重なることは滅多にないから、澪はいつになく上機嫌だった。教室で彼女だけが持つ不思議で神聖な雰囲気も、この日はいくらか増していた。
 
<br>「今日こそは、金魚がいるといいな」
 
<br> 窓際で弁当を広げている澪が目を輝かせて言った。窓から、夏のはじまりを告げる透き通った風が吹いていた。教室は昼休みの賑やかな雰囲気に満たされ、喜怒哀楽様々な声が、ステンドグラスを通って降り注ぐ色とりどりの光のように散乱していた。
 
<br>「僕は金魚なんていなくていいと思うんだ」
 ゲームセンター
<br> 澪の向かい側に座る颯は、鶏肉の照り焼きを口に運びながら言った。
 
<br>「でも、きっといるよ。鯉さんもいたし」
 
<br> 澪は、涼しげな色のセーラー服に溢したソースを、真っ赤なリボンで拭き取りながら答えた。
 
<br>「花残り月の時は何が起こるかわからない」
 
 <br> 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して渡し、セーラー服とリボンにできた小さな染みを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭った。
 僕は失くした物を探しにここにやってきた。訪れるのは七年振りだろうか。そこは寂れたショッピングモールだった。七年前はこの建造物も幾らか賑わいがあり、丁度こんな日曜日の夜となると多くの人の笑顔が見られる場所だった。しかし、度重なる不況のせいかそれともただの経年劣化か、二十年前に建てられた建物は、隠しきれない古臭さが、まるで死んだ魚から漏出する濃厚な出汁のようにゆっくりと、しかし確実に滲み出ていた。
<br>「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけないよ。汚くなってしまうし、少し下品だ」
 十分な広さが確保された駐車場には収容可能台数の一割にも満たない数の車がぽつりぽつりと停車している。中のテナントは半分以上がシャッターを下ろしている。さらに奥へ進むと伽藍とした円状のホールのような空間がある。その空間の中心にある、プラスチックの鎖とポールで囲われた安っぽい人工の芝生の上には、「感染対策。遊具利用禁止」と書かれた看板がある。遊具はそこにはない。だが、七年前は確かに在ったのだ。僕はその看板の文字を見ても、その意味がしばらく理解できなかった。そして、七年前より格段に彩度の落ちた屋根を見上げた。しばらくして僕は途轍もない寂寥に襲われた。それはそこに留まり続ける間、僕の心を確実に蝕み続けた。
 そっか、と澪は笑った。
 その中でたったひとつだけ、周りとは一線を画して一際光を放つ場所があった。階段を上がった二階の奥にあるゲームセンターだ。僕は無為に光に絡めとられてゆく羽虫のように、吸い寄せられるようにしてそこへ向かった。
<br>「ありがとう」
 ゲームセンターは無機質な光で満ち溢れていた。主張の激しいさまざまな色がぶつかり合い、物の輪郭がとても掴みにくくなっている。白、青、赤、黄、緑、紫。そこはひとつの混沌だった。僕はゲームセンターの前に立ち、数回長い瞬きをしてその世界に目を慣らした。その時、僕は目を開くたびに何かが少しずつずれていくような錯覚を覚えた。目を閉じる前にあった物がなくなり、全く新しい物が出現し、さらにその色が変わった。そんな気がした。しかし、目が慣れるとそこは、これといった特徴のない普通のゲームセンターであった。モール全体が陰鬱な黒い空気で充されていたために、より明るく見えたのだろう。普通と違うところと言えば、奥が見えないくらい広い、ということぐらいだった。空間的には広いが、そこはまるで幼い子供が自分の好きなものだけでいっぱいにした玩具箱のように、クレーンゲームやメタルゲームの台やカラフルなポップ、アニメのポスターが雑多に並べられていて、ゲームセンター特有の手狭な雰囲気を醸し出していた。
 <br> 強い風が吹き、それに合わせてピンクの薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。
 僕はその深淵に呑み込まれていくように進んでいった。三歩進めば聞こえる電子音楽が変わる。ひとつひとつの台が自分を主張する様に大音量で音を鳴らし、ライトを光らせ、景品を高く掲げている。しかし、主張する相手は居ないようだ。人工物で埋め尽くされた世界で、僕はひとりも人間を見かけなかった。虚無に向かって主張し続ける彼らの間を、僕は足速に進んでいった。
 <br> 気怠げな午後の授業もおざなりに、放課後はすぐにやってきた。帰りの挨拶を終えた教室はくす玉を割ったように華やかに散らばり、各々が各々の持ち場へと移動を始める。
 しばらく歩いて、随分奥まで来た。そして、まだ奥が見えないことに僕は違和感を覚えた。先のほうを見ても明るい台が整列しているだけで、曲がり角もなければ途切れ目も見当たらない。その先は、暗くて全く見えない。このゲームセンターがこんなに広い筈はない。このショッピングモール自体、そこまで大きくはないだろう。そんなことを思い始めた矢先、その疑問に覆いかぶさるように突然、背後から黒い影が飛び出して来た。その影は僕を追い越してどんどん先へ走っていく。驚いた僕は刹那の間硬直したが、直ぐにそれを追いはじめた。僕はこの奇妙な世界への違和感を確信に変え、黒い影を何かの解決の糸口になる存在だと、直感的に判断したのだった。結構なスピードで走った。足は速い方だ。しかし、追いかけても追いかけてもその尾っぽは、すんでのところで手を掠め、ひらりひらりと先へ行ってしまう。それはよく見ると黒猫の様で、しなる筋肉でごうごうと、そしてすいすいと奥へ駆けて行く。トップスピードを維持した僕は目まぐるしく変化する左右の色彩にくらりとした。その瞬間、世界の上下がぐるりと回転するような感覚を覚え、思わず目を閉じた。僕は大袈裟に転倒した。先刻まで走っていた安っぽいリノリウムのタイルは、いつの間にか柔らかな真紅のカーペットに変わっていて、痛くはなかった。しかし僕が地面に留まっている間に、黒猫はもう先の闇の方へ消えてしまって、見えなくなってしまった。急に恐ろしくなり後ろを振り向くと、視界に入るゲームの台のさらに奥には、黒猫が消えていったのと同じ無機質な闇が、まるで僕を等間隔を空けて追尾し舌舐めずりする蝮のようにそこにあった。僕はこうして、闇に包囲されてしまったのだった。
 <br> 澪は窓の外に、透明でどこまでも続きそうな空を認めて、こんな日にトラックを思い切り走れたら気持ちいいだろうなと思った。でも今日は早く帰りたかったから、運動着の入った巾着袋を前に暫く思案していたものの、結局は、待っていてくれた同じ陸上部の友人に「今日は休むことにする」と言って帰る準備を始めた。
 僕は一瞬引き返そうかと思った。しかし頭を振ってその考えを捨てた。あの闇に突っ込んでいったところで何かが変わるとは思えなかった。それよりあの黒猫を追おう。きっとあの黒猫は僕が探している物の在処を知っているに違いない。そう、僕は失くしたものを探しに来たのだから。
<br>「体調悪いようには見えないけど、用事?」
 僕は一歩一歩を確かめるように歩いた。あの黒猫には走っても追い付けないだろうし、のんびり歩いていたとしても然るべき時に必ず会えるだろうから、走るのは得策ではない。僕はこの不思議な世界を少しずつ理解し、順応し始めていた。そして僕は重厚な赤と黒、そして安っぽい白を基調とした色とりどりの無限の通路に、どこか懐かしさを感じていた。
<br>「今日は特別な日だから早く帰りたいんだ」
 気の遠くなるような時間だった気もするし、少ししか経っていないような気もする。左右に聳えるクレーンゲームの台は変わり映えしなかったが、途中から少しずつ古そうな台が増えていた。T字路のような曲がり角も発見した時には、通路を囲むほとんどの台がレトロなものになっていた。どうやら左側にぽっかりと一台分の穴が空いていて、そこから横に同じような道が続いているようだった。思わず足を早めてそこへ向かうとその短い道の先もT字路のようになっていた。上から見ると片仮名のエのような形で二本の道が一本の道で結ばれていた。僕はこの世界の綻びを見つけたことに興奮を覚え、すぐにその道へ入った。その興奮も束の間、背後に目をやると、今の今まで歩いてきた道が闇の中に沈んで、二度と触れ合えないように隔てられてしまっていた。もう戻ることは出来ないという事実に普段なら恐怖を感じるはずが、何故だかその時の僕はそれ以上に、細やかな達成感と幸福を感じていた。そして今目の前にある道に向かい合おうと覚悟を決めた僕は、その先を見てはっと気づいた。そこには三十代半ばくらいの、疲れ切った顔をした女性がひとり、先ほどまで誰もいなかった空間でクレーンゲームの台に向き合っていたのだった。僕は自然と息を殺し、見つからないように努めようとした。しかしその行為はあまり意味が無いようだった。彼女は僕など眼中にない様子で、爛々とした目で景品だけを見つめ、痩せた手で無造作にボタンを叩いていた。僕は警戒しながらも、彼女に近づいていった。そして恐る恐る声を掛けた。
 <br> 澪は巾着袋を鞄にしまいながら素っ気なく答えた。それまで心配そうにしていた彼女は、返事を聞くと得意げに目を細め、澪に顔を近づけると、小さくからかうように言った。
「すみません。僕が失くした物が何処にあるか知っていますか?」
<br>「颯くんと帰るの?」
 彼女は僕には全く反応を示さずに、無我夢中でその景品を凝視していた。この人と僕はきっと存在する世界が違うのだ。僕はそう納得して、黙って彼女のプレイングを見守る事にした。彼女は楽しむためではなく、あくまで景品を得ることを目標にして慎重にプレイし続けていた。しかし、無情にもアームは景品を掴んではくれない。毎回持ち上げはするもののあと少しのところで、ゴトッと地面に落ちてしまうのだ。段々と彼女の財布の百円玉は減って行き、それに連れて彼女の正気も無くなっていくようだった。
<br>「違うよ」
 彼女は血走った目で最後の百円玉を掲げた。その百円玉は、カラフルな光を反射してピカピカと輝いていた。とても新しそうな昭和四十四年の百円玉だ。彼女はそれに向かって目を瞑り、短く祈りの言葉を呟いた。僕にはわからない言語だ。彼女は恭しく硬貨を投入し、レバーを手に取った。その操作に合わせて、ウィーンという音を立て、アームがするすると滑る。
 <br> 澪は作業を続けながらさっきと同じように素っ気なく聞こえるように努めて返事をしたものの、顔がほんのり赤く染まるのは抑えられなかった。彼女は満足そうな顔をして澪に背を向けると「じゃ、楽しんで」とだけ言って、もうとっくに先に行ってしまった陸上部のみんなを、足早に追いかけていった。
 その時だった。僕の遥か背後から、今目の前で動くアームと同じ種類の音――それも轟音――が鳴り響いてきたのだ。僕がサッと後ろを振り向くと、そこには遥か遠くから、道に沿って滑るように此方へやってくる途轍もなく巨大なクレーンゲームのアームが見えた。あまりに高いため、繋がれているであろう根本の部分は見えない。僕は身動きも出来ずにそれを見ていた。これは決して恐怖から来る行動では無くて、寧ろ僕はその時安心していた。それは、僕に危害を加えるものでは無い事が僕には分かりきっていたからだった。彼女が景品の上にアームを動かし終えると、巨大なアームの方も僕らの台の真上で、ガチンッと音を立てて止まった。そして彼女が下降のボタンを押した。それと時を同じくして巨大なアームも機械音と共に下降し始め、そしてまるで蟻を摘むかのように彼女の上半身を掴んだ。ゴキゴキと、骨の折れる音がした。彼女はそれまでアームに気づく素振りを見せていなかったが、掴まれた瞬間から僕とそのアームを認識し始めたようで、刹那の間に自分の置かれた状況を理解すると、恐怖の表情で僕を見てこう叫んだ。
<br>「颯」
「ねえ君! 景品が取れてたら私に渡して。必ずね! 絶対だから!」
 <br> 周りを囲んでいた集団が居なくなり、本を読んでいた颯が振り返ると、帰る支度をすっかり済ませて、リュックを持ち、はにかんでいる澪がそこに居た。
 非常に哀れな声でそう叫んだ彼女は、瞬きの間に口から血を吐き、大粒の涙を流し始めた。金属の大きな指が腹と背中に、有り得ないくらい食い込んでいる。クレーンゲームのアームというものは、非常に弱いものだと相場が決まっているけれど、これは違うようだった。口から垂れた彼女の血は、白く細い首を伝って同じ色をしたカーペットへ落ちた。そして目の前の台の中のアームが景品を掴み上昇していくと同じ様に、彼女を掴んだままのアームも上昇し遙か上まで行ってしまう。返事をする隙も無かった。仕方がないので僕は景品が穴に運ばれていくかどうかを真剣に見守った。景品を掴んだアームは最大まで上昇すると、ガクンッと少しの間止まる。殆どはここで落ちてしまうのだが、今回は耐えている。それからアームはゆっくりと、受け取り口に続く穴へと向かう。頭上の彼女を捉えた巨大なアームも、何処かへ行く音が聞こえる。目の前のアームを動かすチェーンには所々に引っ掛かりがあるらしく、時々ガチッと揺れる。僕は息を飲んでそれを見詰める。アームが横移動を始めて三回目の引っ掛かりの時だった。もうあと少しで穴に落とせそうなところに、それはあった。アーム全体がガチッと揺れた。景品の掴み方が少し変化した。そのまま景品は三本の指の間からすり抜け、地面へと落下した。ゴトッと音が鳴ると同時に、何処からかグシャッという厭な響きの音が聞こえた。僕は少し悲しい気持ちになって暫く落ちた景品を見詰めていたが、探していた物がそれではない事に気づくとその場を離れて、再び先へと進みはじめた。
<br>「もう行かない?」
 彼女と出会った道を抜けると、それもやはり闇に呑まれ消えてしまい、再び先刻まで歩いてきたような一本道となった。僕はそこから前進し始める。やっぱり、あの黒猫を探そう。そう思った時だった。道の先――闇の中――から、真白な物体がゆっくりとこちらに近づいて来るではないか。それは遠くて明瞭ではないがどうやらそこまで大きくはないようで、不思議な歩き方をしていた。その理由も見える位置に来るとよくわかった。それは、僕の膝下にさえ届かないくらいの小さなアヒルだったのだ。僕が立ち止まって近づいているのを待っている内に、左手前のピンクに彩られた1つの台の上にあの黒猫が居るのにも気がついた。黒猫は興味なさげに欠伸をし伸びをすると真っ黄色に光る大きな両眼を見開いて僕を見た。そしてアヒルが僕の目の前で立ち止まると、黒猫も上からジャンプして、その真横に並んだ。
 <br> 颯は開いていた本をパタンと閉じると
「君たちは誰?」
<br>「待たせてごめん。そろそろ帰ろう」
 僕は普通に人と話すようにごく自然に尋ねた。アヒルは翼を手のように使って、掛けていた片眼鏡を押し上げた。
 <br>と言った。その言葉を聴くと澪は日が差したように笑顔になって
「いやはや[#「いやはや」に傍点]、初対面の年上に向かって敬語も使えないとは……。なんとも無礼甚だしい。これだから最近の人間の若者は、教育がなっておらん。……いやはや[#「いやはや」に傍点]」
<br>「うん」
 彼はどうやら年上のようだった。僕は改まって再び声を掛けてみた。
 <br>と元気よく返事をした。
「すみません。あなたが年上だとは知らなくて。そもそも話せるとも思っていませんでした。ところでここはどのような場所なのでしょうか? あなたの名前はなんですか?」
 <br> 颯は自転車を押して、澪はリュックに両手を掛けて、二人は青葉の繁る家路を気ままに辿った。夏がすでに始まっているものの、あたりにまだ春の残り香が立ち込めているのは、山から降りてきた雪溶け水のせせらぎが、暑さを優しく受け流しているからだった。土手を歩く二人の間には、爽やかな水色の風が吹いていた。
 僕の態度にやや不機嫌アヒルであったが、可愛らしいスーツのネクタイを弄ると、諦めたように答えた。
 <br> 橋を渡って急な階段を登りきると、家のある所まで伸びる、黄金色の長い坂道が現れる。颯はペダルに足を掛けると、澪に後ろに乗るよう促した。澪が腹にしっかりと手を回したのを確認すると、颯は坂道を風のように下った。長い長い坂道も二人には、列を並んでやっと乗ることのできた観覧車のように、ほんの一瞬に感じられた。午後の陽光に照らされた二人乗りの自転車は、清流に住う鮎のように、生き生きとした銀色を反射していた。
「私の名前はニジュウゴ。年も二十五歳だ。年を取るたびに私は名前が変わる。あと半年もすれば私はニジュウロクだ。……いやはや[#「いやはや」に傍点]、四半世紀も世界を見てきた。君たちからすれば短いと思われるかもしれないが、人間に換算すると百二十歳を超えておる。長い、あまりに長い時間だった……。ここでは時間などあまり関係ないが……。それでも長い時間だ。隣の生意気な黒猫は  だ。よろしく」
 <br> 静かな夜だった。花残りの、薄く紫がかった月明かりが辺りを淡く照らし出していた。二人は約束した通りの時間に落ち合い、学校へと向かった。
「」
<br>「ちゃんと持ってきた?」
 
 <br> 道中、颯が聞くと、澪は首に下げた紐についた小さなコルク蓋の小瓶を、「安心して」というように掲げた。
 
 <br> 二人は通学路を歩いた。毎日征く道なのだけれど、夜二人だけで歩くというのは、前の教室海以来ずいぶんと久しぶりで、澪は夜特有の辺りの様相――道端の誘蛾灯の揺らぎや木々のざわめき、誰もいない畦道の匂い、虫が奏でる物悲しい響き――がどこか懐かしく思えた。
 
 <br> 橋に差し掛かったところで、澪は雲の少ない空を見上げた。そこには星が消えてしまうくらいの光りを放つ大きな満月が、まるで夜の支配者のような面持ちで鎮座している。
 そこはまるで、何か特別な世界へ繋がる扉を隠すように、混沌と煌めいていた。僕は足早にそこを離れた。   
<br>「月が明るいね」と澪が言った。
 
<br>「本が読めそうだ」
 
 <br> 水面に映る月の翳を見ながら、颯はふと、独り言のようにそう言った。
 
 <br> 道の先に校舎が見えた。昼間はどこかひなびた雰囲気で、生徒を優しく包み込むような、そういった親しげがあるのだが、溢れんばかりの月光に見出された夜の校舎は、神秘的なものに様変わりしていた。
    嫌な夢
 <br> 鎖が巻かれた校門をすらりと飛び越えると、颯は周りを見回した。
 
 <br> 花残り月の光にはいくつかの効用がある。それが桜の樹を照らすとき、桜は満開の花を咲かすのだ。昼間は葉ばかりだった校庭を囲む桜の樹たちは、うっすらと桃色を帯びて光る花弁をひらひらと風に靡かせ、誇らしげに佇んでいた。校庭は仄かに、春の匂いがする。
 
 <br> 颯は澪が校門を乗り越えるのを手伝った。
 
 <br> いつも開かれている窓から校舎の中へと入る。誰もいない廊下は心なしか広く長く見えて、澪は反射的に颯の手を握った。
 夜風は湿っていた。じっとりと脊髄にまとわりつくようなその水分は、全身に覚えていた不快感を丁寧に保存し続けた。
 <br> 階段を上がって、二人の教室へ向かうと、廊下に面した窓から漏れた光が、ゆらりと、気持ちよさそうに揺れているのを澪は認めた。
 夜は車道でのんびり出来るからいい。と僕は彼に言った。彼は暗がりの歩道に立ち、暗がりは暗がりのままで、彼はそれを以て僕を責めていた。故にそれに紛れた彼の顔は見えない。
 <br> 逸る気持ちを抑えつつ、あくまで場の静謐を侵さぬよう、澪はゆっくりと教室の扉を開いた。
 その不気味さとは裏腹に、僕は最初、清々しい心待ちで側のマンションを見上げた。ベランダは反対側で、ここからは廊下が見える。明かりが点いている。二棟の棺桶。木々が揺れた。
 <br> 風のようなものが、瞬く間に二人を覆った。
 電灯がぽつんと立っていて、真新しいアスファルトを照らしていた。一度も犯されたことのない真っ白な中央線が視界の限りまで続いている。
 <br> 嗅覚が一瞬にして奪われて、代わりに心地よい浮遊感が与えられる。
 電灯には蛾が一匹止まっていて、その羽ばたきの音を連想した僕は、感じていた清々しさを呆気なく見失った。手前の棟の電気が消えた。
 <br> そこは海の中だった。
 全方位から虫の声が聞こえる。湿気が増す。寝汗のような空気と団結して、虫は更に声を荒げる。虫は電源が壊れたラジオのように思想を垂れ流す。草を食む。息を吸う。反発する。同調する。その声はいつの間にか押しては返す波と重なり、坂を下った先に海が見えた。深い暗い海。波は月明かりを捻じ曲げる。月明かりを照らし返す。空に月は見えない。
 <br> 海の中と言っても教室海の中だから、周りは見慣れたいつものままで、ただ学校中の空気がそっくりそのまま海水に置き換わってしまったような具合だ。
 電灯が月だったのだと気が付いたのは奥の棟の電気が消えた後で、彼は一度たりとも動かなかった。僕を見続けるつもりなのか。復讐は何も生まないと、こんなに虫が力説しているじゃないか。そう言おうと思ったが彼が纏う暗闇があんまりに暗いのと、虫の声を言い訳に使うのも違うような気がしたということもあって、僕は何も言わなかった。これも復讐なのかもしれない。光は暴力なのかもしれない。暗闇が彼で彼の体は虫で海は電灯かもしれない。列車は駅に来ないかもしれない。月はどこに隠れた? 彼は知らない。虫も波の音も、あのマンションに住む全ての人も、知らない。
<br>「何回ここへ来ても慣れないな」
 僕を照らす電灯が消えた。ガードレールの先の海も、心なしか先刻より薄暗くなったようだ。もう虫は居ない。轟のような波の音が。岩を削るその嘶きが、わずかに地面を揺らすばかり。
 <br> 颯が呟くと、口から漏れた水泡の群れがくぐもった優しげな音を立てて上昇する。息はできる。しかし身体を動かすと、水の抵抗がしっかりと行手を阻む。不思議な感覚だ。
 精神を揺らがせる。奥に潜る。螺旋を降る。前のめりに倒れる。傾く。落ちる。撹拌する。
 <br> 澪は徐に窓辺へと泳いだ。颯はそれを追いかける。いつもはそこから見下ろせる校庭は深い海の底のような闇に沈んで、窓の外は遥か頭上に花残りの月がぽつんと浮かんでいるばかりだった。咲き乱れていた桜も、今はもう全く見えない。
 本能。人間の行き先。精神が帰依するところ。
<br>「あ、かわいい」
 彼はそれでも動かない。とガードレールと道に区切られた長方形の小さな海がそう言った。
 <br> 手のひら大の、鮮やかな黄色の筋が背中に入った魚が澪の顔を掠めて泳ぎ去る。その一匹に付いていくようにして二、三十匹の群れが教室をぐるりと回ると、二人が入った方の扉から仲良く廊下へ出ていった。
 白の階段が現れる。降る。
<br>「ユメウメイロって魚じゃないかな。食べると美味しいやつだ」
 
 <br> 颯が戯けてそう言うと、澪が笑いながら颯の脇を小突いた。
 
<br>「駄目だよそんなこと言っちゃ。神様なんだから、怒られちゃうかもよ」
 
 <br> そう、ここにいる魚は皆神様なのだ。澪はそれを、亡くなった祖母から教わった。教室海の話を聞いたのは、澪が初めて教室海に行くよりずっと前のことだ。
 目が覚めると寮の部屋で、カーテンの隙間から刺す光は休日の香りがした。ちょうど、洗濯物を乾かすのに適した日だ。
<br> 「大丈夫。きっと赦してくれるよ」
 外から人の声がして僕は立ち上がった。掛け布団が体からずり落ちる音がした。昨日の洗濯物が入った籠から据えた臭いがした。
 <br> 良く見ると、いつの間にか周りは色もかたちも様々な海の生き物達で溢れている。
 窓を開けると門から入ってきた水色のスクーターが手前の駐車場に停まった。人は乗っていなかったが、別にこれといった問題ではないので、僕は女子寮と鉄塔の醸し出す陰鬱を静かに見ていた。空は青に薄いペーパーフィルターをセットしたような色をしていて、テニスコートでボールを打つ小気味いい音が遠くに聞こえていた。
 <br> 黒板からは艶々とした赤い珊瑚が伸びている。古びた机の上では青を閉じ込めたような海牛がせっせと動いている。真っ赤な小魚がロッカーに生えた水草の間をすいすいと泳いでいる。銀色に光る魚の群れが複雑な軌道を描きながら一体感を持って水を切ってゆく。
 廊下に置かれた時計は七時十七分を指していて、その隣の青い棒には黒い傘が掛けられている。僕はその様をしばらく想像した。雲は印象派の作品のようで、風は少女のため息のようだった。太陽が渦を撒き始めた頃に、扉の外の人の声が、随分とうるさくなった。僕は落胆して、これまでのことを全て上の棚に置いて、もう直ぐ来る夏のじわりとした記憶を反芻しながら、石垣の穴に手を突っ込むような心持ちで扉を開いた。
 <br> 月は段々と高度を上げて、辺りはますます明るくなっていた。
 そこには蛇は居なくて、代わりに誰か認識できない人が居て、その右隣、少し行ったところに母がいた。私は裸足のまま部屋を出ると彼女に向かって歩いて、会いたかった、と言った。私の言葉は彼女の抱擁に絆され、辺りはオレンジの色と匂いと温度がして、やけに小さい人が周りにたくさんいた。騒がしかったのはこのせいか、と私は妙に納得して、次に母が母でないことを認識して、小さい人には顔が無いことを認識して、私はどこにいるのかを認識して、僕は時計が止まっていないことを認識して、どこにいるかわからないことも認識して、あなたの温かみを認識して、ただ彼らの目は僕に向いていた。全員の目。
<br>「金魚を探しに行こう」と澪が言った。
 白い階段。降る。暗闇。
 <br> 廊下へ出るとそこには、紡錘形のざらざらとした体に、凶悪な顔をしたサメがゆうゆうと泳いでいた。襲われるような心配は無いとわかっていたが、それでもぴんと張った緊張感が二人の動きを止めた。サメが角の向こうに行くまで、二人は静かにしていた。
 
<br>「もしかしたら話せたかもしれないね。すごく大きかったし」
 
 <br> 澪が強がりの笑顔でそう言った。
 
 <br> 魚たちの中には、稀に言葉を扱える者もいて、彼らは特別な力を持っているのだ。これも澪の祖母から聞いた話だった。実際澪も、何度か話したことがある。丁度前回の教室海の時、澪は願った物をなんでも、鰭を振るうだけで用意できるという鯉に出会った。鯉は大らかで優しく、澪は当時流行っていたテレビ番組のキャラのブレスレットを、颯は分厚い魚の図鑑をそれぞれ貰ったのだ。
 顔を上げると見知った友人の部屋で、僕は夢から目覚めたことを知った。
 <br> 生徒玄関には小さな黄色い魚がたくさん泳いでいた。靴箱をひとつひとつ確認したものの、金魚は居なかった。澪の靴箱には顰めっ面の丸いオコゼがすっぽりと収まっていた。
 僕は九時に寝て、十一時に彼に起こされ、彼の部屋を訪れ、その椅子の上でまた眠りに落ちたのだ。時計は一時を回っている。
 <br> 理科室に置いてある試験管からは長短豊かなチンアナゴが顔を覗かせていた。人体模型にはウツボが巻き付いていた。けれど、金魚は居ない。二人は職員室や他の教室を丹念に探したけれど、結局金魚は見つからなかった。
 彼は音の出ないアコースティックギターを弾いていて、その隣には見慣れない、他の友人がいた。ヘッドフォンを付け、コンピューターを弄っている。顔がいつもと少し違う。パーツがずれ、小さくなり、均衡を破り、正気を保てず、失う理性。弾む唇。静かにしなさいと書かれた張り紙が僕の顔に貼られて、それを僕は引きちぎったつもりだったが、僕はそこには何もなくて、彼らは部屋の隅で固まって実に静か。塩が大さじ二杯くらい入った小さな、輪ゴムで括られたビニール袋がドアの上に付いていて、その上の時計の秒針の音が気持ち悪い。
 <br> 月が昇り、魚の数はどんどん増えていた。月が真上にある時が教室海のピークで、魚の数は一番多くなる。そして、傾くにつれて魚は姿を消し、教室海は最後に微睡の間に夢と交わる。やがて教室は普段の教室に戻る。
 雨が窓を打っていて、雨音は聞こえないけど僕にはそうわかったんだ。時間が近づく。近づくのは嫌だ。近づくのは良いことだ。遠ざかるより難しい。いや簡単。いや駄目なこと。楽しい時がある。春。春は素敵。生き物がたくさん生まれる。辛い冬を乗り越えできたから、暖かくなって気が抜けると、ころっと体調崩したりしちゃうんだ。春先にはさ。
 <br> 放送室を探していた時に、颯が言った。
 ヘッドフォンをずらして気持ちの悪いやつが喋らないでくれとうるさい。
<br>「そうだ、音楽室に行こうよ。鯉さんなら助けてくれるかもしれない」
 鳴っていない雨音が止んだ。もうその時だったのかと僕は納得。じっと待つ。秒針の音がして気持ち悪いやつも仕舞いには秒針の音を立て始めて友人はこっちを見ない。母さんあなたはどこにいますか。本当にいるのか。俺の存在。記憶。思想。思考。行動。理性。衝動。情動。今作られましたあなたは。
 <br> 音楽室の扉を開けると、澪はグランドピアノへ泳いだ。音楽室には燻したような銀色の、細く長い体をした魚が月光に揺れ漂っていた。
 扉をノックする音がして、僕は白い階段を降りて。
<br>「すごい、リュウグウノツカイだよ。本当の海じゃ、すっごく珍しいんだ」
 
 <br> 興奮気味に澪を追いかける颯の横を鮎の群れがびゅんびゅんと追い抜いていく。教室海では、海魚も川魚もない混ぜだ。
 
 <br> 鍵盤蓋を持ち上げると、澪は目を瞑って鍵盤に指を置いた。颯は様子の変わった澪を、少し心配そうに見つめた。
 
 <br> 澪は息を吸い込んだ。どこかから聞こえるくぐもった水泡の音。静かな水の流れ。
 窓の外は深い海で、全てをもう飲み込んでしまったような奢りを僕はその波間に見つけた。僕はいつでも
 <br> 澪の指が、鍵盤を優しく撫でた。
 
 <br> 壁に耳をあててやっと聞こえるような繊細なピアニッシモから、その曲は幕を開ける。
 高さ十メートルはあろうかツリーハウスで目が覚めた。
 <br> 花残り月の光。アンダンティーノの雨垂れ。
 
 <br> 全ての物音を水が邪魔する教室海で、ピアノの音だけが澄んで響く。
 
 <br> 防音の重い扉が誰が触るとなく開き、胸鰭の付け根に黒い点があって、尾鰭が黄色の魚が現れた。鯵だ。最初の一匹を皮切りに、次から次へと同じ姿の魚たちが、競うように入り込んでくる。
 下に集う祭事風の身なりをした人々。
 <br> 鯵の群集はそのまま音楽室の高い天井目一杯に群れを成し、きらきらと月の光を反射しながら、巨大な銀の鏡のような魚群となって、ふわふわといたリュウグウノツカイの周りを周回し、幾らも経たないうちに完全に覆い隠してしまう。
 
 <br> 凭れるような音色の中に、儚い優しさが潜む。鯵の群れは一つの意志を持ったの筋肉のように収縮する。まるで澪の演奏に合わせて幾千もの鯵が踊っている、そんな感覚を颯は覚えた。
 
 <br> やがて曲は終局に差し掛かり、だんだんと鯵は掃けて行く。水に歪められた月光が、白と黒の鍵盤に不思議な模様を映し出す。澪の指はその上を軽やかに滑る。
 恐ろしい悪魔との命の取り合い。
 <br> 鯵が一匹残らずいなくなった頃に、澪は演奏を終えて目を開けた。するとそこには音楽室に入った時にいたリュウグウノツカイは姿を消しており、代わりに途轍もなく大きな、綺麗な錦鯉が微笑んでいた。
 
<br>「素晴らしい演奏だ。とても腕を上げたんだね。……どうもありがとう」
 
 <br> 鯉は心が震えるような声をしている。
 
<br>「久しぶりだね。鯉さん」
 
 <br> 澪は親しげに話し掛ける。
 五号館を出ると、きつい日差しがアスファルトを焼いていた。遠くで、雑木林の影に入った柳が、涼しそうに揺れていた。私は腕時計を確認して、食堂へと向かった。
<br>「こんばんは鯉さん」と颯も言った。
 混雑のピークを過ぎた食堂は、広い空間に並べられた机に、ちらほらと人がいるだけであった。いつもは席の検討を予めつけておくのだが、空きコマ三限、ランチタイム終了間近の学生食堂は随分と空いていたから、私は食券を購入し、チキン南蛮のプレートを受け取ってから席を探した。
<br>「君たちはすごく大きなったんだね」
 窓際の席を取ろうと近づくと、窓の外に、真夏の炎天下に一人、カウンター席でスケートお姉さんが食事をしているのに気がついた。スケートお姉さんとは、ピンクのヘルメットを被り、キャンパス内をローラースケートで移動する、この大学のちょっとした有名人だ。私が入学する前からいるらしいから、三年生か四年生だろうと踏んでいる。窓際に座った彼女はヘルメットを脱ぎ、いつもは見えない茶色のポニーテールを、風に靡かせていた。すでに半分腰掛けたような格好になったが、興味が湧いたので、再び立ち上がり、自動ドアを出て彼女に話しかけた。
 <br> 鯉はしみじみ、そう言った。
「こんにちは! お隣いいですか?」
<br>「ねえ、鯉さん。私たち、あなたにお願いがあるの」
 彼女は驚いた様子で顔をあげた。そして私を認めると、本当に柔らかに顔を綻ばせて、「ええ、もちろん!」と言った。考えていたいくつかよりも、ずっと好意的な反応だったから、私も思わず笑顔になって、「良かったです。断られたらどうしようかと思いました」と言いながら隣に座った。
<br>「鯉さんは前に僕たちにプレゼントをくれた。そんなふうに、僕らの質問に答えをくれることはできる?」
「私は木嶋菜月です。経済の一年生です」
 <br> 鯉は宝石のような澪の眼差しに射抜かれて、困ったようにくるりと回った。
「私は佐藤妃実と言います。」
<br>「質問の種類にもよる。けれど、大抵の事なら答えられるはずだよ。さあ話してごらん」
 よろしくお願いします、そう言って彼女は上品に会釈をした。
 <br> 澪は手を叩いて喜ぶと、すぐに言った。
 では、あの、いただきます、と手を合わせ、私はチキン南蛮を口に運び始めた。
<br>「私、金魚さんがどこにいるか知りたいの」
「妃実さんはどうしてローラースケート履いてるんですか?」
<br>「わかったよ。やってみよう」
 <br> 鯉は和かに、胸鰭を優雅に動かした。
<br>「金魚は花残りの月が真上に昇る時に、君たちの教室に現れる」
 <br> 鯉の言葉に、颯は窓の外を見上げた。いつの間にか、月は大分高くなっている。
<br>「澪、急がなきゃみたいだ」
<br>「そうだね。鯉さんありがとう。また今度……」と言って先を急ぐ澪の手を、颯は掴んだ。
<br>「待って澪。瓶を頂戴」
 <br> 澪ははっと思い出した顔をして、首からコルク瓶を取り、颯に渡した。
<br>「鯉さん、僕らに教室海の水をください。絶対無くならないよう、この瓶に詰めて」
<br>「いいよ。勿論だとも」
 <br> 鯉は再び胸鰭を動かした。空気を閉じ込めていた小さな瓶は教室海の水で満たされた。
<br>「ありがとう。さようなら、鯉さん」
<br>「さようなら」
 <br> 慌てて駆けて行く二人の背中を見ながら、鯉は淋しそうにそう言った。
 <br> 二人は静かな校舎を急いだ。魚たちはさらに数を増やしており、見渡す限りが生き物に埋め尽くされていた。颯は昔訪れた沖縄の水族館を思い出した。その時は水族館の光景を、教室海に似ていると思ったのだ。
 <br> 二匹のマンタが、二人の頭上を覆い被さるように横切る。カワハギに似た魚が階段の手すりに沿って泳いでいる。手の甲よりも小さなフグたちが、踊り場につけた嵌め殺し窓の枠の周りをせっせとつつきながら、小さな鰭を懸命に動かしている。
<br>「よく考えたら、海亀を見たことがないね」
 <br>と澪が言うと、
<br>「確かにそうだ。でもどこかにいるかもしれないよ。教室海は広い」と颯は言う。
 <br> 澪は視界の端に途方もなく大きな尾鰭が家庭科室のドアから覗いているのを見つけた。
<br>「そうだといいな」
 <br> 鰭が消えていくのを見ながら、澪は呟いた。
 <br> 二人は魚を掻き分け、やっとのことで教室に到着した。時計の秒針が零時に重なる、ほんの少し前のことだった。
 <br> 扉を開けると教室は、溢れんばかりの月光で満たされていた。二人がはじめにいた時より、生き物の数は格段に増えていた。
 <br> 海の生き物の息遣いがだけが聞こえる。
 <br> 花残りの月が、教室海に零時を告げた。
 <br> 黒板が、柔らかなオレンジに染まり始める。炎のようなその光は枠をなぞるように流れ、次第に黒板全体に浸透してゆく。
 <br> 二人はその様を、息を呑んで見つめていた。
 <br> 炎はやがてひとつにまとまり、ぼんやりとした膜が生じたと思うと、いつの間にか可愛らしい、見慣れた魚に姿を変えた。
 <br> 金魚だ。
<br>「こんばんは」
 <br> 金魚が静かな声で言った。
<br>「こんばんは」と澪がペコリとお辞儀をした。
 <br> 颯は黙って澪の右後ろに立っている。
<br>「君たちも、未来の事を知りたいのかい?」
 <br> 先に言われてしまったから、澪は中途半端に開きかけた口を噤むと、頷いた。
 <br> 金魚は暫く黙っていたが、やがてゆっくりと泳ぎ始めた。金魚の優雅なオレンジ色の体は、教室にきらきらと輝く軌道を描いた。二人は静かに金魚を待った。周りの生き物たちも息を潜めていた。長い時間を掛けて再び二人の前に戻ると、金魚は言った。
<br>「君たちに話す未来は無い」
 <br> その言葉を聞いた澪は悲しい顔をしたが、諦めることができなくて食い下がった。
<br>「どうして? あなたは全て知ってるのでしょう?」
 <br> 金魚は嘆息すると、聡明な眼で二人を見た。そして優しい声でこう答えた。
<br>「君たちに話したくないんだ。君たちの未来が暗いと言うわけじゃない。未来を知るということ自体が褒められたことじゃないんだ」
 <br> 颯は澪の手を握る。いつの間にか、澪は涙を流している。
<br>「私は怖い。金魚さん、私は未来が恐ろしいの。私はずっと、颯と一緒に居たい」
 <br> 嗚咽混じりと澪の言葉に、金魚は笑った。
<br>「わかった。じゃあ君たちに、少しだけ未来を教えてあげよう。これくらいなら大丈夫」
 <br> 澪は金魚の言葉を聞くと顔をあげた。教室海の中で澪の涙がぽろぽろと浮かんでいた。
<br>「君たちは、もう大人になるんだ。だからここに来るのも、今日が最後だ」
 <br> 颯は握る手を強めた。そして、
<br>「泣かないで澪。大丈夫。僕は澪を置いてったりなんかしない。安心していいんだ。未来は、僕らが決めるものなんだよ」
 <br>と言って精一杯微笑んだ。
 <br> 月の光が差して、二人を包み込む。
<br>「もうさよならの時間だ」と金魚が言う。
<br>「さよなら金魚さん」澪は言った。
 <br> 二人を包んでいた黄色い光は砂粒のようになって拡散した。それに合わせて教室海はゆっくりと解体されていく。生き物は月の砂に触れると溶けてそれに同化し、またそれが拡散していった。辺りいっぱいが光に包まれたところで、二人は目を閉じた。
 <br> 目を覚ますと教室で、二人は机を挟んで窓際に座っていた。月はもう沈んでしまって、校庭の桜はほとんど葉桜になっていた。
 <br> 清らかな初夏の朝日が、山間から顔を出す。遠くから、朝を告げる鳴き声が聞こえる。
 <br> 教室海の存在はまるで胎児の時の記憶のように輪郭をなくし、午睡の夢のように霞んでいた。しかし澪の胸には、月光を含んだ教室海の水を、健気に湛えた小瓶があるのだった。
 <br> 二人は静かな朝の教室で、初めてのキスを交わした。
 <br> 真夏が、もう間も無くやって来る。

4年11月3日 (黃) 09:48時点における最新版



 ゲームセンター



 僕は失くした物を探しにここにやってきた。訪れるのは七年振りだろうか。そこは寂れたショッピングモールだった。七年前はこの建造物も幾らか賑わいがあり、丁度こんな日曜日の夜となると多くの人の笑顔が見られる場所だった。しかし、度重なる不況のせいかそれともただの経年劣化か、二十年前に建てられた建物は、隠しきれない古臭さが、まるで死んだ魚から漏出する濃厚な出汁のようにゆっくりと、しかし確実に滲み出ていた。  十分な広さが確保された駐車場には収容可能台数の一割にも満たない数の車がぽつりぽつりと停車している。中のテナントは半分以上がシャッターを下ろしている。さらに奥へ進むと伽藍とした円状のホールのような空間がある。その空間の中心にある、プラスチックの鎖とポールで囲われた安っぽい人工の芝生の上には、「感染対策。遊具利用禁止」と書かれた看板がある。遊具はそこにはない。だが、七年前は確かに在ったのだ。僕はその看板の文字を見ても、その意味がしばらく理解できなかった。そして、七年前より格段に彩度の落ちた屋根を見上げた。しばらくして僕は途轍もない寂寥に襲われた。それはそこに留まり続ける間、僕の心を確実に蝕み続けた。  その中でたったひとつだけ、周りとは一線を画して一際光を放つ場所があった。階段を上がった二階の奥にあるゲームセンターだ。僕は無為に光に絡めとられてゆく羽虫のように、吸い寄せられるようにしてそこへ向かった。  ゲームセンターは無機質な光で満ち溢れていた。主張の激しいさまざまな色がぶつかり合い、物の輪郭がとても掴みにくくなっている。白、青、赤、黄、緑、紫。そこはひとつの混沌だった。僕はゲームセンターの前に立ち、数回長い瞬きをしてその世界に目を慣らした。その時、僕は目を開くたびに何かが少しずつずれていくような錯覚を覚えた。目を閉じる前にあった物がなくなり、全く新しい物が出現し、さらにその色が変わった。そんな気がした。しかし、目が慣れるとそこは、これといった特徴のない普通のゲームセンターであった。モール全体が陰鬱な黒い空気で充されていたために、より明るく見えたのだろう。普通と違うところと言えば、奥が見えないくらい広い、ということぐらいだった。空間的には広いが、そこはまるで幼い子供が自分の好きなものだけでいっぱいにした玩具箱のように、クレーンゲームやメタルゲームの台やカラフルなポップ、アニメのポスターが雑多に並べられていて、ゲームセンター特有の手狭な雰囲気を醸し出していた。  僕はその深淵に呑み込まれていくように進んでいった。三歩進めば聞こえる電子音楽が変わる。ひとつひとつの台が自分を主張する様に大音量で音を鳴らし、ライトを光らせ、景品を高く掲げている。しかし、主張する相手は居ないようだ。人工物で埋め尽くされた世界で、僕はひとりも人間を見かけなかった。虚無に向かって主張し続ける彼らの間を、僕は足速に進んでいった。  しばらく歩いて、随分奥まで来た。そして、まだ奥が見えないことに僕は違和感を覚えた。先のほうを見ても明るい台が整列しているだけで、曲がり角もなければ途切れ目も見当たらない。その先は、暗くて全く見えない。このゲームセンターがこんなに広い筈はない。このショッピングモール自体、そこまで大きくはないだろう。そんなことを思い始めた矢先、その疑問に覆いかぶさるように突然、背後から黒い影が飛び出して来た。その影は僕を追い越してどんどん先へ走っていく。驚いた僕は刹那の間硬直したが、直ぐにそれを追いはじめた。僕はこの奇妙な世界への違和感を確信に変え、黒い影を何かの解決の糸口になる存在だと、直感的に判断したのだった。結構なスピードで走った。足は速い方だ。しかし、追いかけても追いかけてもその尾っぽは、すんでのところで手を掠め、ひらりひらりと先へ行ってしまう。それはよく見ると黒猫の様で、しなる筋肉でごうごうと、そしてすいすいと奥へ駆けて行く。トップスピードを維持した僕は目まぐるしく変化する左右の色彩にくらりとした。その瞬間、世界の上下がぐるりと回転するような感覚を覚え、思わず目を閉じた。僕は大袈裟に転倒した。先刻まで走っていた安っぽいリノリウムのタイルは、いつの間にか柔らかな真紅のカーペットに変わっていて、痛くはなかった。しかし僕が地面に留まっている間に、黒猫はもう先の闇の方へ消えてしまって、見えなくなってしまった。急に恐ろしくなり後ろを振り向くと、視界に入るゲームの台のさらに奥には、黒猫が消えていったのと同じ無機質な闇が、まるで僕を等間隔を空けて追尾し舌舐めずりする蝮のようにそこにあった。僕はこうして、闇に包囲されてしまったのだった。  僕は一瞬引き返そうかと思った。しかし頭を振ってその考えを捨てた。あの闇に突っ込んでいったところで何かが変わるとは思えなかった。それよりあの黒猫を追おう。きっとあの黒猫は僕が探している物の在処を知っているに違いない。そう、僕は失くしたものを探しに来たのだから。  僕は一歩一歩を確かめるように歩いた。あの黒猫には走っても追い付けないだろうし、のんびり歩いていたとしても然るべき時に必ず会えるだろうから、走るのは得策ではない。僕はこの不思議な世界を少しずつ理解し、順応し始めていた。そして僕は重厚な赤と黒、そして安っぽい白を基調とした色とりどりの無限の通路に、どこか懐かしさを感じていた。  気の遠くなるような時間だった気もするし、少ししか経っていないような気もする。左右に聳えるクレーンゲームの台は変わり映えしなかったが、途中から少しずつ古そうな台が増えていた。T字路のような曲がり角も発見した時には、通路を囲むほとんどの台がレトロなものになっていた。どうやら左側にぽっかりと一台分の穴が空いていて、そこから横に同じような道が続いているようだった。思わず足を早めてそこへ向かうとその短い道の先もT字路のようになっていた。上から見ると片仮名のエのような形で二本の道が一本の道で結ばれていた。僕はこの世界の綻びを見つけたことに興奮を覚え、すぐにその道へ入った。その興奮も束の間、背後に目をやると、今の今まで歩いてきた道が闇の中に沈んで、二度と触れ合えないように隔てられてしまっていた。もう戻ることは出来ないという事実に普段なら恐怖を感じるはずが、何故だかその時の僕はそれ以上に、細やかな達成感と幸福を感じていた。そして今目の前にある道に向かい合おうと覚悟を決めた僕は、その先を見てはっと気づいた。そこには三十代半ばくらいの、疲れ切った顔をした女性がひとり、先ほどまで誰もいなかった空間でクレーンゲームの台に向き合っていたのだった。僕は自然と息を殺し、見つからないように努めようとした。しかしその行為はあまり意味が無いようだった。彼女は僕など眼中にない様子で、爛々とした目で景品だけを見つめ、痩せた手で無造作にボタンを叩いていた。僕は警戒しながらも、彼女に近づいていった。そして恐る恐る声を掛けた。 「すみません。僕が失くした物が何処にあるか知っていますか?」  彼女は僕には全く反応を示さずに、無我夢中でその景品を凝視していた。この人と僕はきっと存在する世界が違うのだ。僕はそう納得して、黙って彼女のプレイングを見守る事にした。彼女は楽しむためではなく、あくまで景品を得ることを目標にして慎重にプレイし続けていた。しかし、無情にもアームは景品を掴んではくれない。毎回持ち上げはするもののあと少しのところで、ゴトッと地面に落ちてしまうのだ。段々と彼女の財布の百円玉は減って行き、それに連れて彼女の正気も無くなっていくようだった。  彼女は血走った目で最後の百円玉を掲げた。その百円玉は、カラフルな光を反射してピカピカと輝いていた。とても新しそうな昭和四十四年の百円玉だ。彼女はそれに向かって目を瞑り、短く祈りの言葉を呟いた。僕にはわからない言語だ。彼女は恭しく硬貨を投入し、レバーを手に取った。その操作に合わせて、ウィーンという音を立て、アームがするすると滑る。  その時だった。僕の遥か背後から、今目の前で動くアームと同じ種類の音――それも轟音――が鳴り響いてきたのだ。僕がサッと後ろを振り向くと、そこには遥か遠くから、道に沿って滑るように此方へやってくる途轍もなく巨大なクレーンゲームのアームが見えた。あまりに高いため、繋がれているであろう根本の部分は見えない。僕は身動きも出来ずにそれを見ていた。これは決して恐怖から来る行動では無くて、寧ろ僕はその時安心していた。それは、僕に危害を加えるものでは無い事が僕には分かりきっていたからだった。彼女が景品の上にアームを動かし終えると、巨大なアームの方も僕らの台の真上で、ガチンッと音を立てて止まった。そして彼女が下降のボタンを押した。それと時を同じくして巨大なアームも機械音と共に下降し始め、そしてまるで蟻を摘むかのように彼女の上半身を掴んだ。ゴキゴキと、骨の折れる音がした。彼女はそれまでアームに気づく素振りを見せていなかったが、掴まれた瞬間から僕とそのアームを認識し始めたようで、刹那の間に自分の置かれた状況を理解すると、恐怖の表情で僕を見てこう叫んだ。 「ねえ君! 景品が取れてたら私に渡して。必ずね! 絶対だから!」  非常に哀れな声でそう叫んだ彼女は、瞬きの間に口から血を吐き、大粒の涙を流し始めた。金属の大きな指が腹と背中に、有り得ないくらい食い込んでいる。クレーンゲームのアームというものは、非常に弱いものだと相場が決まっているけれど、これは違うようだった。口から垂れた彼女の血は、白く細い首を伝って同じ色をしたカーペットへ落ちた。そして目の前の台の中のアームが景品を掴み上昇していくと同じ様に、彼女を掴んだままのアームも上昇し遙か上まで行ってしまう。返事をする隙も無かった。仕方がないので僕は景品が穴に運ばれていくかどうかを真剣に見守った。景品を掴んだアームは最大まで上昇すると、ガクンッと少しの間止まる。殆どはここで落ちてしまうのだが、今回は耐えている。それからアームはゆっくりと、受け取り口に続く穴へと向かう。頭上の彼女を捉えた巨大なアームも、何処かへ行く音が聞こえる。目の前のアームを動かすチェーンには所々に引っ掛かりがあるらしく、時々ガチッと揺れる。僕は息を飲んでそれを見詰める。アームが横移動を始めて三回目の引っ掛かりの時だった。もうあと少しで穴に落とせそうなところに、それはあった。アーム全体がガチッと揺れた。景品の掴み方が少し変化した。そのまま景品は三本の指の間からすり抜け、地面へと落下した。ゴトッと音が鳴ると同時に、何処からかグシャッという厭な響きの音が聞こえた。僕は少し悲しい気持ちになって暫く落ちた景品を見詰めていたが、探していた物がそれではない事に気づくとその場を離れて、再び先へと進みはじめた。  彼女と出会った道を抜けると、それもやはり闇に呑まれ消えてしまい、再び先刻まで歩いてきたような一本道となった。僕はそこから前進し始める。やっぱり、あの黒猫を探そう。そう思った時だった。道の先――闇の中――から、真白な物体がゆっくりとこちらに近づいて来るではないか。それは遠くて明瞭ではないがどうやらそこまで大きくはないようで、不思議な歩き方をしていた。その理由も見える位置に来るとよくわかった。それは、僕の膝下にさえ届かないくらいの小さなアヒルだったのだ。僕が立ち止まって近づいているのを待っている内に、左手前のピンクに彩られた1つの台の上にあの黒猫が居るのにも気がついた。黒猫は興味なさげに欠伸をし伸びをすると真っ黄色に光る大きな両眼を見開いて僕を見た。そしてアヒルが僕の目の前で立ち止まると、黒猫も上からジャンプして、その真横に並んだ。 「君たちは誰?」  僕は普通に人と話すようにごく自然に尋ねた。アヒルは翼を手のように使って、掛けていた片眼鏡を押し上げた。 「いやはや[#「いやはや」に傍点]、初対面の年上に向かって敬語も使えないとは……。なんとも無礼甚だしい。これだから最近の人間の若者は、教育がなっておらん。……いやはや[#「いやはや」に傍点]」  彼はどうやら年上のようだった。僕は改まって再び声を掛けてみた。 「すみません。あなたが年上だとは知らなくて。そもそも話せるとも思っていませんでした。ところでここはどのような場所なのでしょうか? あなたの名前はなんですか?」  僕の態度にやや不機嫌アヒルであったが、可愛らしいスーツのネクタイを弄ると、諦めたように答えた。 「私の名前はニジュウゴ。年も二十五歳だ。年を取るたびに私は名前が変わる。あと半年もすれば私はニジュウロクだ。……いやはや[#「いやはや」に傍点]、四半世紀も世界を見てきた。君たちからすれば短いと思われるかもしれないが、人間に換算すると百二十歳を超えておる。長い、あまりに長い時間だった……。ここでは時間などあまり関係ないが……。それでも長い時間だ。隣の生意気な黒猫は  だ。よろしく」 「」        そこはまるで、何か特別な世界へ繋がる扉を隠すように、混沌と煌めいていた。僕は足早にそこを離れた。   


    嫌な夢


 夜風は湿っていた。じっとりと脊髄にまとわりつくようなその水分は、全身に覚えていた不快感を丁寧に保存し続けた。  夜は車道でのんびり出来るからいい。と僕は彼に言った。彼は暗がりの歩道に立ち、暗がりは暗がりのままで、彼はそれを以て僕を責めていた。故にそれに紛れた彼の顔は見えない。  その不気味さとは裏腹に、僕は最初、清々しい心待ちで側のマンションを見上げた。ベランダは反対側で、ここからは廊下が見える。明かりが点いている。二棟の棺桶。木々が揺れた。  電灯がぽつんと立っていて、真新しいアスファルトを照らしていた。一度も犯されたことのない真っ白な中央線が視界の限りまで続いている。  電灯には蛾が一匹止まっていて、その羽ばたきの音を連想した僕は、感じていた清々しさを呆気なく見失った。手前の棟の電気が消えた。  全方位から虫の声が聞こえる。湿気が増す。寝汗のような空気と団結して、虫は更に声を荒げる。虫は電源が壊れたラジオのように思想を垂れ流す。草を食む。息を吸う。反発する。同調する。その声はいつの間にか押しては返す波と重なり、坂を下った先に海が見えた。深い暗い海。波は月明かりを捻じ曲げる。月明かりを照らし返す。空に月は見えない。  電灯が月だったのだと気が付いたのは奥の棟の電気が消えた後で、彼は一度たりとも動かなかった。僕を見続けるつもりなのか。復讐は何も生まないと、こんなに虫が力説しているじゃないか。そう言おうと思ったが彼が纏う暗闇があんまりに暗いのと、虫の声を言い訳に使うのも違うような気がしたということもあって、僕は何も言わなかった。これも復讐なのかもしれない。光は暴力なのかもしれない。暗闇が彼で彼の体は虫で海は電灯かもしれない。列車は駅に来ないかもしれない。月はどこに隠れた? 彼は知らない。虫も波の音も、あのマンションに住む全ての人も、知らない。  僕を照らす電灯が消えた。ガードレールの先の海も、心なしか先刻より薄暗くなったようだ。もう虫は居ない。轟のような波の音が。岩を削るその嘶きが、わずかに地面を揺らすばかり。  精神を揺らがせる。奥に潜る。螺旋を降る。前のめりに倒れる。傾く。落ちる。撹拌する。  本能。人間の行き先。精神が帰依するところ。  彼はそれでも動かない。とガードレールと道に区切られた長方形の小さな海がそう言った。  白の階段が現れる。降る。


 目が覚めると寮の部屋で、カーテンの隙間から刺す光は休日の香りがした。ちょうど、洗濯物を乾かすのに適した日だ。  外から人の声がして僕は立ち上がった。掛け布団が体からずり落ちる音がした。昨日の洗濯物が入った籠から据えた臭いがした。  窓を開けると門から入ってきた水色のスクーターが手前の駐車場に停まった。人は乗っていなかったが、別にこれといった問題ではないので、僕は女子寮と鉄塔の醸し出す陰鬱を静かに見ていた。空は青に薄いペーパーフィルターをセットしたような色をしていて、テニスコートでボールを打つ小気味いい音が遠くに聞こえていた。  廊下に置かれた時計は七時十七分を指していて、その隣の青い棒には黒い傘が掛けられている。僕はその様をしばらく想像した。雲は印象派の作品のようで、風は少女のため息のようだった。太陽が渦を撒き始めた頃に、扉の外の人の声が、随分とうるさくなった。僕は落胆して、これまでのことを全て上の棚に置いて、もう直ぐ来る夏のじわりとした記憶を反芻しながら、石垣の穴に手を突っ込むような心持ちで扉を開いた。  そこには蛇は居なくて、代わりに誰か認識できない人が居て、その右隣、少し行ったところに母がいた。私は裸足のまま部屋を出ると彼女に向かって歩いて、会いたかった、と言った。私の言葉は彼女の抱擁に絆され、辺りはオレンジの色と匂いと温度がして、やけに小さい人が周りにたくさんいた。騒がしかったのはこのせいか、と私は妙に納得して、次に母が母でないことを認識して、小さい人には顔が無いことを認識して、私はどこにいるのかを認識して、僕は時計が止まっていないことを認識して、どこにいるかわからないことも認識して、あなたの温かみを認識して、ただ彼らの目は僕に向いていた。全員の目。  白い階段。降る。暗闇。

 

 顔を上げると見知った友人の部屋で、僕は夢から目覚めたことを知った。  僕は九時に寝て、十一時に彼に起こされ、彼の部屋を訪れ、その椅子の上でまた眠りに落ちたのだ。時計は一時を回っている。  彼は音の出ないアコースティックギターを弾いていて、その隣には見慣れない、他の友人がいた。ヘッドフォンを付け、コンピューターを弄っている。顔がいつもと少し違う。パーツがずれ、小さくなり、均衡を破り、正気を保てず、失う理性。弾む唇。静かにしなさいと書かれた張り紙が僕の顔に貼られて、それを僕は引きちぎったつもりだったが、僕はそこには何もなくて、彼らは部屋の隅で固まって実に静か。塩が大さじ二杯くらい入った小さな、輪ゴムで括られたビニール袋がドアの上に付いていて、その上の時計の秒針の音が気持ち悪い。  雨が窓を打っていて、雨音は聞こえないけど僕にはそうわかったんだ。時間が近づく。近づくのは嫌だ。近づくのは良いことだ。遠ざかるより難しい。いや簡単。いや駄目なこと。楽しい時がある。春。春は素敵。生き物がたくさん生まれる。辛い冬を乗り越えできたから、暖かくなって気が抜けると、ころっと体調崩したりしちゃうんだ。春先にはさ。  ヘッドフォンをずらして気持ちの悪いやつが喋らないでくれとうるさい。  鳴っていない雨音が止んだ。もうその時だったのかと僕は納得。じっと待つ。秒針の音がして気持ち悪いやつも仕舞いには秒針の音を立て始めて友人はこっちを見ない。母さんあなたはどこにいますか。本当にいるのか。俺の存在。記憶。思想。思考。行動。理性。衝動。情動。今作られましたあなたは。  扉をノックする音がして、僕は白い階段を降りて。


   窓の外は深い海で、全てをもう飲み込んでしまったような奢りを僕はその波間に見つけた。僕はいつでも    高さ十メートルはあろうかツリーハウスで目が覚めた。


 下に集う祭事風の身なりをした人々。


 恐ろしい悪魔との命の取り合い。



 五号館を出ると、きつい日差しがアスファルトを焼いていた。遠くで、雑木林の影に入った柳が、涼しそうに揺れていた。私は腕時計を確認して、食堂へと向かった。  混雑のピークを過ぎた食堂は、広い空間に並べられた机に、ちらほらと人がいるだけであった。いつもは席の検討を予めつけておくのだが、空きコマ三限、ランチタイム終了間近の学生食堂は随分と空いていたから、私は食券を購入し、チキン南蛮のプレートを受け取ってから席を探した。  窓際の席を取ろうと近づくと、窓の外に、真夏の炎天下に一人、カウンター席でスケートお姉さんが食事をしているのに気がついた。スケートお姉さんとは、ピンクのヘルメットを被り、キャンパス内をローラースケートで移動する、この大学のちょっとした有名人だ。私が入学する前からいるらしいから、三年生か四年生だろうと踏んでいる。窓際に座った彼女はヘルメットを脱ぎ、いつもは見えない茶色のポニーテールを、風に靡かせていた。すでに半分腰掛けたような格好になったが、興味が湧いたので、再び立ち上がり、自動ドアを出て彼女に話しかけた。 「こんにちは! お隣いいですか?」  彼女は驚いた様子で顔をあげた。そして私を認めると、本当に柔らかに顔を綻ばせて、「ええ、もちろん!」と言った。考えていたいくつかよりも、ずっと好意的な反応だったから、私も思わず笑顔になって、「良かったです。断られたらどうしようかと思いました」と言いながら隣に座った。 「私は木嶋菜月です。経済の一年生です」 「私は佐藤妃実と言います。」  よろしくお願いします、そう言って彼女は上品に会釈をした。  では、あの、いただきます、と手を合わせ、私はチキン南蛮を口に運び始めた。 「妃実さんはどうしてローラースケート履いてるんですか?」