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 日記でも付けるか、と思い立ったのは本日、一月二十三日のことである。何でも、夜寝る前に寮の机の下で腹筋をしようと思い座り込んだ時に、偶々思いついたのだ。
 日記というものは毎日コツコツつけるものであって、毎日付けてこその日記なのだが、何も隠そう私は毎日コツコツ続けるという類のものが非常に苦手である。よってこの日記が近いうちに日記とは呼べない雑文集に成り下がる恐れは十分あり得る(というか、絶対そうなる)がしかし、私は今思春期という真青に輝く宝石のような時期にあり、現在の一時一時の感情は出来るだけ丁重に扱い、後に残しておくべきであるという年相応の傲慢な考えの持ち主であるから、思い立ったが吉日ということで、机の下で膝を抱えたままケーブルが繋がったスマートフォンを開きこれを書き記している次第である。
 さて、早速今日あったことを記していこう。今日は友人と遊びに行った。メインプレイスだ。十時半集合のところ、何にでも用意周到な私は九時半過ぎに到着し、その本屋でオスカーワイルドの「サロメ」を購入した。十時ごろになると啓が到着し、二人で最高に楽しい時間を過ごした。啓といるのは心の底から楽しい。まあ、クラロワをして過ごしたのだが……。その後高津達の目にビクビクしながらなべ、しほと合流し、十一時十五分から上映の映画「すずめの戸締まり」を観た。啓以外は二回目の鑑賞で、それぞれ感じるところがあったみたいだ。私は一回目より二回目の方がストーリーを踏まえた上でのギミックに気づくことが多くて、中々楽しめた。まあ、前回楽しめなかったのは尿意を極限まで我慢していたからかもしれないが……。その後お菓子を買い、LINEで偽装工作をしながら、我々四人は高津達の待つビックエコーへと向かった。そこでも私は殆どクラロワをしていてあまり歌わなかった。今考えると千円も払ったのにゲームばかりしていたことに少し後悔してる。私は喉が強い方ではないので、数曲歌っただけで声が出なくなっていたから変わらなかったのかもしれないが。
 皆が十六歳になり、私も八時までカラオケができると大晦日から息巻いていたのだが、素晴らしく奇妙なタイミングで入寮してしまったため、謀らずも私には寮の門限という制約が掛かってしまっていた。よって私は優と、五時半頃にビックエコーを後にした。他愛のない話をしながらモノレールに乗り首里駅に着く。そして私は首里駅から寮までを歩いた。首里近辺というところは中々興味深い路地が多くあり、時間に少し余裕があった私は招かれるように行ったことのない路地を探索した。その散歩の間私は風景を文章になおす、という素敵で高尚な遊びをした。何ていい散歩だったろう。この一人散歩の思い出は簡単には忘れないと思う。
 コンビニでビッグカツを2個買うと寮に帰り部屋に入った。電気が消されて先輩は寝ていたので、夕食を摂ってスタンドの電気で「サロメ」を読み進めた。その後先輩が起きると、私は青崎優吾の「水族館の殺人」を手に取り読み始めた。丁度裏染天馬が依頼を受けようとする最高の胸熱シーンから始まり、重厚な解決パートに圧巻されながらも二十三時を超えたくらいに読了することができた。最高の作品だった。ありがとう青崎先生。
 また、散歩で汗をかいていたため風呂にも入りたかったが、忘れ物を父に持って来てもらったりと色々あった為結局入れなかった。仕方がないのでシャツを着替えて明日風呂に入ることにする。あと、その後梨木香歩の「西の魔女が死んだ」も少しだけ読んだ。本当に素敵な本だとつくづく思う。
 その後時計を見た私は筋トレをして寝ようとしたのだが、前述のとおり、スマートフォンを開いてしまい、結局今は二十四日の一時になってしまっている。これからマスクを洗い、寝ようと思う。
 因みに、月曜なのに何故休みかというと、それは学校で推薦入試が行われていたからだ。本来は自宅学習であった筈だが……。まあそんなことは良いか。とにかく今日は充実した1日であった。
 明日は十年に一度の寒波が来るそうだ。せうが心配であるが、メールを送ったし、賢い彼のことだ、きっと大丈夫だろう。明日こそは「杪夏」の執筆もしっかりと進め、駿台に向けた勉強もし、身体を絞るための筋トレもやろうと思う。日記も書けよ!
 はあ、少し調子に乗って夜更かしし過ぎてしまった。明日はちゃんと起きられるだろうか。まあ、何はともあれ――。
 おやすみなさい。




 本日、一月二十四日は十年に一度の大寒波と予測されていたとおり、かなり寒くなった。明日の終わりまで冷え込み、特に昼頃には十度を下回るらしい。少し楽しみだが寒いというのは結構辛いものだ。
 さて、今朝は危惧していたようには寝過ごさず、時間に間に合うように起きることができた。持ち帰り期間の連休明けで皆荷物が多かったのだが、中でもせうは(軽音部の部室が無くなってしまった為に)放課後教室でアコギを弾くために大量の教科書と共に持っていこうとしていた。しかし、流石に一人では持ち運べない量だから、私が彼のアコギを持って登校することとなった。直前まで雨が降っていて心配だったが、寮監が傘を貸してくれたお陰で何とか難を逃れることができた。教室は珍しく開いていて何人か先に来ていた人が居た。
 それからは貴志やせうと話しながら、普段通りの火曜日の授業を受けた。叶と太一と映画を観に行く計画を立てた以外は、これといった出来事は起こらなかった。あ、刃牙子先生に東大に行けるって言われたっけ。これからはもっとずっと努力しなければいけない……! 放課後は啓と共にクラロワで遊んだ。彼にトロフィーの先を越された私は、彼が帰った後もトロ上げをして、割と楽に追いつくことができた。最近の自分のプレイは素晴らしく上手い気がする……。そういえばその時はるが五百円を返して来た。それなのに冷たく対応してしまったため、ちょっと後悔。申し訳ないな。
 帰寮し、何事もなく部屋に戻った。ちうね先輩はやっぱり最高だ。寮で私は勉強するのかと思いきや、今日は昨日買ったオスカーワイルドの「サロメ」を読み終えた。とても美しい物語であった。戯曲を読むのは初めてのことだったが、本当に心の底から楽しむことができた。流石は耽美派の親玉だ。最高だなあ。
 今日は申し訳程度の筋トレも終えて、本も読んで、普通の火曜日にしては充実した一日だったと思う。日記も書けたしね。けど明日は体育、前回腰の痛みからテストを免除されたが、再テストが明日あるかもしれない……。そのことを考えると憂鬱だ。ないことを祈る。また、ジャージのズボンも忘れてしまって、ひごしょうから貸してもらった。本当申し訳ないな……ありがとうひごしょう……。それに……。踊る曲「ロキ」らしい……。やばいね、大丈夫かな……。
 そういえば、久々にこんな寒さを味わうことができたと、振り返って思う。連休前の暑さがまるで嘘のように、体温を否応なく奪っていく刃物のように冷たい風が吹き荒れていた……。指が痛くなるくらい寒かった。
 もう十一時になりそうだ。まだ歯も磨いてないし、マスクも洗ってない。そういえば薬も飲んでいない。やる事が多いし、明日も早いからもう寝ることにする。では――。
 おやすみなさい。


P.S.兼城と風の中、余りの寒さにはしゃぎながら走って帰った時、なかなかノスタルジックなものを感じた。私たちが切望している「青春」の壊れたかけらのようなひと時だった。きっと「青春」と言うものはこういうものなんだろうな。ここでは小説のような「青春」を送る事はできないとはなから諦めていたけれど、小説のように耽美でなくても、曲がりなりにも私の「青春」を、今私は謳歌出来ているのだろうか。
 こればっかりは後にならないとわからない。三年後振り返った未来の私は、今の私の気持ちを「青春に憧れた哀れな少年のごっこ遊び」だったと嘲笑するのかもしれないし、これは「小説に負けないくらいの本当の青春」だったと感じて羨ましがってるかもしれない。若しくはその「ごっこ遊び」こそ「本当の青春」なのかもしれない。
 とにかくこれは今考えても分からない事だ。なぜなら未来の私がどう思うかでそれが決定されるからだ。
 まあ、せめて後悔しないように、今を一生懸命生きたい。
 もう十一時十分を回った。明日は体育があるものの、学校自体は午前中授業だ。
 よし、時間もあるし、汚くなってきた部屋整理整頓をしよう。風呂にも入って、勉強も筋トレも執筆も、妥協せず行うんだ。
 私だけの、輝く未来の為にね。


 ゲームセンター


 流石は國吉真嘉。大きな男になる男。昨日の追伸が嘘のように、本日、一月二十五日も妥協しまくりの一日であった。それに実に寒い日でもあった。
 今朝はいつも通り、時間通りに布団から出て、時間通りに学校についた。それから退屈な数学の授業(いつもは二時間連続で数学なのだが、一時間目は自習であった。のぶとの娘の授業参観らしい、のぶとの娘神! ありがとう)をゲームをして潰し、その後ダンスという最悪な体育の授業を受けた。
 何故授業でダンスをするんだ? 誰が得するのだろうか? 今のところ、私の周りには誰一人として居ない。もしかしたら体育教師共はそれを知っていて、嫌がらせとしてやっているのだろうか。いや、それは違うだろう。彼らにそんな高度な思考が出来るとは思えない。
 まあ、そんなことはいい。言いたいことは他にもあるが……。私たちのグループの曲は先日言ったとおり「ロキ」で、ただでさえテンポが早い曲である。そのうえ、難易度がとても高い振り付けを平気で入れる頭の弱い人々が振り付け係になった事で私たちグループの男子は相当苦労している。そのお陰で私たち男子の積極性が薄れるのは至極当然のことだが、彼女ら(同じグループの振り付けの女子達)はそんなことはお構いなしに死んだような視線をぶつけて我々の尊厳を踏み躙り、さらに我々に対して怒りの感情を覚え始め、露骨にそれを表している。辛い。このグループの女子達はまるでマグマ溜まりみたいだ。沸々と体の奥底に波打つ熱い溶岩を蓄えている音が聞こえる。これが爆発した時、私たちはどうなってしまうのだろうか。こんな授業。誰が得するんだよ。
 そういえば昨日から、ダンスのテストを受けて居なかったために一人だけやらされることを心配して憂鬱な気分になっていたが、何故か今回やらなかった。どうやら杞憂に終わったようだ。授業の最初に最初にやるかも的なことを体育教師共は言っており、私は誠に焦って体調が悪くなったのだが、どうなったのだろう。忘れでもしたのだろうか。いや、もしかしたらわざと長引かせて、休んだ人がビクビクする時間を延ばし更なる苦しみを与えるための敢えての試みかもしれない……。いや、そんなことはないか……。前述のとおり、彼らに知性は見られない。
 さて、ダンスの話はもうこれくらいでいいだろう。あまり思い出したくはない。その後私は体育の授業をなんとか乗り切り、LHRを遊んで学校が終わった。午前中授業なのだ。そのまま帰って勉強でもするかと思った私は啓の席でクラロワをしていた。するとなべが私をバドミントンに誘ったのだ! どんな誘いにも大体は乗っかる私は二つ返事でOKし、なんと午後6時半までバドミントンをした……! なかなか楽しかったが、途中で私は足が攣ってしまい、運動不足と体力の無さを露呈することとなってしまった。もっと動かなくては……!
 死ぬ程冷たい風が皮膚を突き刺す中なべとしほと下校し寮に帰ると、ギリギリ時間をオーバーしながらも夕食を食べ終え、約三日振りの風呂に入り、体を清潔にした。清々しい気分だった。風呂は良いな。毎日入りたい。その後には掃除があったので時間を見ながら洗濯をした。洗濯したものを干し終え先輩が部屋を出ると、私は入寮以降何もせずすっかり汚くなっていた部屋を時間をかけて整理整頓した。整理整頓というのも、手軽にとても良い気分になれる優れた行為だ。直後に少しだけ筋トレをして今この日記を書いている。今日は本も整理したが、読みはしなかった。
 時計を見ると、あと少しで十二時を回りそうだ。風呂に入り、部屋も整理整頓され、今日の気分は頗る良い。綺麗になった部屋の居心地も最高だ。新しいこの環境なら、執筆も勉強も頑張ることができるだろうか。明日、頑張ってくれよ、俺!
 最近は朝起きられているとは言っても、ギリギリのところを攻めている感じがある。早く寝ないといけない。だからそろそろ――。
 おやすみなさい。


 今日、一月二十六日はいつも通りの木曜日であった。昨日や一昨日のようには寒くなく、昼間は少し暖かったものの、充分寒い日であった。
 さて、今朝は少しだけ遅くなったがしっかりと起き、早く準備していつも通りせうと登校した。今日最も楽しかったことは、国語で今扱っている教材の「時間と自由の関係について」をせうと一緒に深めたことだ。哲学を議論するのは素晴らしく楽しい。この文章は解釈の幅がある為に、議論はより捗った。私はこの文章を、「量的時間上に瞬間的今が無限に存在する事を認識することで、哲学的時間が無限に生産され、それを積み重ねることによって永遠の主観的人生を創造する事ができる。また、その主観的人生において創り出された永遠の自由こそ、人類に平等と創造の自由を与えているのだ」という文章だと解釈したのだが、語り出すと幾らでも長くなりそうだから置いておこう。というか造語ばかりである程度理解した上でないとこの説明は伝わらないだろう。私は今まで哲学等専門分野やその論説文などに造語が多い理由がわからず、全くの無駄な労力だと思っており、半ば憎んでさえいたのだが、そんなことはなかった。造語というのは哲学の話をするときには非常に便利であった。思わぬところで造語の使い易さを学んだ。一時間目の終わりにせうと考え始めてから、私は放課後まで四六時中このことばかり考えていた。せうと話すのは本当に楽しかったなぁ。自分からあんなにスラスラと言葉が出るものだとは思っていなかった。新しい自分を知る事もできたな。クソ早口だったけど。
 放課後になると私はクラロワに没頭し、赤冠に到達する事ができた。死ぬ程イライラして禿げかけ、それによって優や机や床にあたり、せいほや心や優に多大なる迷惑をかけたことは本当に反省している。申し訳ない……。だが、クラロワはやはり脳死で楽しかった。啓とは会えなかった……。
 その後私は、達成感と虚無感を胸に心とせいほとローソンを経由して帰寮した。帰寮してからは「異端の祝祭」を読了した。ホラー小説の、セオリー通りの物語終結方法だったが、その流れが完璧すぎてとても面白かった。中盤からの引き込まれていく感覚は不気味な音を立てる竜巻のようだった。あらすじに擬音語が入っていた事に貴志と笑ったが、あの鳴き声もポイントとなっているのがとても良かった。ホラーとしても申し分なく、何度も背後を確認した。芦花公園。すごい作家だ。
 その後申し訳程度に筋トレをし、英語の課題をなんとか終わらせて、今もうすぐ一時を回りそうなところである。そう、これを書いてる今は、一月二十七日なのだ……! もう流石に寝なければ、明日起きられるかに関わってくる。やばいんだ、最近。だからさ――。
 おやすみなさい。




 僕は失くした物を探しにここにやってきた。訪れるのは七年振りだろうか。そこは寂れたショッピングモールだった。七年前はこの建造物も幾らか賑わいがあり、丁度こんな日曜日の夜となると多くの人の笑顔が見られる場所だった。しかし、度重なる不況のせいかそれともただの経年劣化か、二十年前に建てられた建物は、隠しきれない古臭さが、まるで死んだ魚から漏出する濃厚な出汁のようにゆっくりと、しかし確実に滲み出ていた。
 十分な広さが確保された駐車場には収容可能台数の一割にも満たない数の車がぽつりぽつりと停車している。中のテナントは半分以上がシャッターを下ろしている。さらに奥へ進むと伽藍とした円状のホールのような空間がある。その空間の中心にある、プラスチックの鎖とポールで囲われた安っぽい人工の芝生の上には、「感染対策。遊具利用禁止」と書かれた看板がある。遊具はそこにはない。だが、七年前は確かに在ったのだ。僕はその看板の文字を見ても、その意味がしばらく理解できなかった。そして、七年前より格段に彩度の落ちた屋根を見上げた。しばらくして僕は途轍もない寂寥に襲われた。それはそこに留まり続ける間、僕の心を確実に蝕み続けた。
 その中でたったひとつだけ、周りとは一線を画して一際光を放つ場所があった。階段を上がった二階の奥にあるゲームセンターだ。僕は無為に光に絡めとられてゆく羽虫のように、吸い寄せられるようにしてそこへ向かった。
 ゲームセンターは無機質な光で満ち溢れていた。主張の激しいさまざまな色がぶつかり合い、物の輪郭がとても掴みにくくなっている。白、青、赤、黄、緑、紫。そこはひとつの混沌だった。僕はゲームセンターの前に立ち、数回長い瞬きをしてその世界に目を慣らした。その時、僕は目を開くたびに何かが少しずつずれていくような錯覚を覚えた。目を閉じる前にあった物がなくなり、全く新しい物が出現し、さらにその色が変わった。そんな気がした。しかし、目が慣れるとそこは、これといった特徴のない普通のゲームセンターであった。モール全体が陰鬱な黒い空気で充されていたために、より明るく見えたのだろう。普通と違うところと言えば、奥が見えないくらい広い、ということぐらいだった。空間的には広いが、そこはまるで幼い子供が自分の好きなものだけでいっぱいにした玩具箱のように、クレーンゲームやメタルゲームの台やカラフルなポップ、アニメのポスターが雑多に並べられていて、ゲームセンター特有の手狭な雰囲気を醸し出していた。
 僕はその深淵に呑み込まれていくように進んでいった。三歩進めば聞こえる電子音楽が変わる。ひとつひとつの台が自分を主張する様に大音量で音を鳴らし、ライトを光らせ、景品を高く掲げている。しかし、主張する相手は居ないようだ。人工物で埋め尽くされた世界で、僕はひとりも人間を見かけなかった。虚無に向かって主張し続ける彼らの間を、僕は足速に進んでいった。
 しばらく歩いて、随分奥まで来た。そして、まだ奥が見えないことに僕は違和感を覚えた。先のほうを見ても明るい台が整列しているだけで、曲がり角もなければ途切れ目も見当たらない。その先は、暗くて全く見えない。このゲームセンターがこんなに広い筈はない。このショッピングモール自体、そこまで大きくはないだろう。そんなことを思い始めた矢先、その疑問に覆いかぶさるように突然、背後から黒い影が飛び出して来た。その影は僕を追い越してどんどん先へ走っていく。驚いた僕は刹那の間硬直したが、直ぐにそれを追いはじめた。僕はこの奇妙な世界への違和感を確信に変え、黒い影を何かの解決の糸口になる存在だと、直感的に判断したのだった。結構なスピードで走った。足は速い方だ。しかし、追いかけても追いかけてもその尾っぽは、すんでのところで手を掠め、ひらりひらりと先へ行ってしまう。それはよく見ると黒猫の様で、しなる筋肉でごうごうと、そしてすいすいと奥へ駆けて行く。トップスピードを維持した僕は目まぐるしく変化する左右の色彩にくらりとした。その瞬間、世界の上下がぐるりと回転するような感覚を覚え、思わず目を閉じた。僕は大袈裟に転倒した。先刻まで走っていた安っぽいリノリウムのタイルは、いつの間にか柔らかな真紅のカーペットに変わっていて、痛くはなかった。しかし僕が地面に留まっている間に、黒猫はもう先の闇の方へ消えてしまって、見えなくなってしまった。急に恐ろしくなり後ろを振り向くと、視界に入るゲームの台のさらに奥には、黒猫が消えていったのと同じ無機質な闇が、まるで僕を等間隔を空けて追尾し舌舐めずりする蝮のようにそこにあった。僕はこうして、闇に包囲されてしまったのだった。
 僕は一瞬引き返そうかと思った。しかし頭を振ってその考えを捨てた。あの闇に突っ込んでいったところで何かが変わるとは思えなかった。それよりあの黒猫を追おう。きっとあの黒猫は僕が探している物の在処を知っているに違いない。そう、僕は失くしたものを探しに来たのだから。
 僕は一歩一歩を確かめるように歩いた。あの黒猫には走っても追い付けないだろうし、のんびり歩いていたとしても然るべき時に必ず会えるだろうから、走るのは得策ではない。僕はこの不思議な世界を少しずつ理解し、順応し始めていた。そして僕は重厚な赤と黒、そして安っぽい白を基調とした色とりどりの無限の通路に、どこか懐かしさを感じていた。
 気の遠くなるような時間だった気もするし、少ししか経っていないような気もする。左右に聳えるクレーンゲームの台は変わり映えしなかったが、途中から少しずつ古そうな台が増えていた。T字路のような曲がり角も発見した時には、通路を囲むほとんどの台がレトロなものになっていた。どうやら左側にぽっかりと一台分の穴が空いていて、そこから横に同じような道が続いているようだった。思わず足を早めてそこへ向かうとその短い道の先もT字路のようになっていた。上から見ると片仮名のエのような形で二本の道が一本の道で結ばれていた。僕はこの世界の綻びを見つけたことに興奮を覚え、すぐにその道へ入った。その興奮も束の間、背後に目をやると、今の今まで歩いてきた道が闇の中に沈んで、二度と触れ合えないように隔てられてしまっていた。もう戻ることは出来ないという事実に普段なら恐怖を感じるはずが、何故だかその時の僕はそれ以上に、細やかな達成感と幸福を感じていた。そして今目の前にある道に向かい合おうと覚悟を決めた僕は、その先を見てはっと気づいた。そこには三十代半ばくらいの、疲れ切った顔をした女性がひとり、先ほどまで誰もいなかった空間でクレーンゲームの台に向き合っていたのだった。僕は自然と息を殺し、見つからないように努めようとした。しかしその行為はあまり意味が無いようだった。彼女は僕など眼中にない様子で、爛々とした目で景品だけを見つめ、痩せた手で無造作にボタンを叩いていた。僕は警戒しながらも、彼女に近づいていった。そして恐る恐る声を掛けた。
「すみません。僕が失くした物が何処にあるか知っていますか?」
 彼女は僕には全く反応を示さずに、無我夢中でその景品を凝視していた。この人と僕はきっと存在する世界が違うのだ。僕はそう納得して、黙って彼女のプレイングを見守る事にした。彼女は楽しむためではなく、あくまで景品を得ることを目標にして慎重にプレイし続けていた。しかし、無情にもアームは景品を掴んではくれない。毎回持ち上げはするもののあと少しのところで、ゴトッと地面に落ちてしまうのだ。段々と彼女の財布の百円玉は減って行き、それに連れて彼女の正気も無くなっていくようだった。
 彼女は血走った目で最後の百円玉を掲げた。その百円玉は、カラフルな光を反射してピカピカと輝いていた。とても新しそうな昭和四十四年の百円玉だ。彼女はそれに向かって目を瞑り、短く祈りの言葉を呟いた。僕にはわからない言語だ。彼女は恭しく硬貨を投入し、レバーを手に取った。その操作に合わせて、ウィーンという音を立て、アームがするすると滑る。
 その時だった。僕の遥か背後から、今目の前で動くアームと同じ種類の音――それも轟音――が鳴り響いてきたのだ。僕がサッと後ろを振り向くと、そこには遥か遠くから、道に沿って滑るように此方へやってくる途轍もなく巨大なクレーンゲームのアームが見えた。あまりに高いため、繋がれているであろう根本の部分は見えない。僕は身動きも出来ずにそれを見ていた。これは決して恐怖から来る行動では無くて、寧ろ僕はその時安心していた。それは、僕に危害を加えるものでは無い事が僕には分かりきっていたからだった。彼女が景品の上にアームを動かし終えると、巨大なアームの方も僕らの台の真上で、ガチンッと音を立てて止まった。そして彼女が下降のボタンを押した。それと時を同じくして巨大なアームも機械音と共に下降し始め、そしてまるで蟻を摘むかのように彼女の上半身を掴んだ。ゴキゴキと、骨の折れる音がした。彼女はそれまでアームに気づく素振りを見せていなかったが、掴まれた瞬間から僕とそのアームを認識し始めたようで、刹那の間に自分の置かれた状況を理解すると、恐怖の表情で僕を見てこう叫んだ。
「ねえ君! 景品が取れてたら私に渡して。必ずね! 絶対だから!」
 非常に哀れな声でそう叫んだ彼女は、瞬きの間に口から血を吐き、大粒の涙を流し始めた。金属の大きな指が腹と背中に、有り得ないくらい食い込んでいる。クレーンゲームのアームというものは、非常に弱いものだと相場が決まっているけれど、これは違うようだった。口から垂れた彼女の血は、白く細い首を伝って同じ色をしたカーペットへ落ちた。そして目の前の台の中のアームが景品を掴み上昇していくと同じ様に、彼女を掴んだままのアームも上昇し遙か上まで行ってしまう。返事をする隙も無かった。仕方がないので僕は景品が穴に運ばれていくかどうかを真剣に見守った。景品を掴んだアームは最大まで上昇すると、ガクンッと少しの間止まる。殆どはここで落ちてしまうのだが、今回は耐えている。それからアームはゆっくりと、受け取り口に続く穴へと向かう。頭上の彼女を捉えた巨大なアームも、何処かへ行く音が聞こえる。目の前のアームを動かすチェーンには所々に引っ掛かりがあるらしく、時々ガチッと揺れる。僕は息を飲んでそれを見詰める。アームが横移動を始めて三回目の引っ掛かりの時だった。もうあと少しで穴に落とせそうなところに、それはあった。アーム全体がガチッと揺れた。景品の掴み方が少し変化した。そのまま景品は三本の指の間からすり抜け、地面へと落下した。ゴトッと音が鳴ると同時に、何処からかグシャッという厭な響きの音が聞こえた。僕は少し悲しい気持ちになって暫く落ちた景品を見詰めていたが、探していた物がそれではない事に気づくとその場を離れて、再び先へと進みはじめた。
 彼女と出会った道を抜けると、それもやはり闇に呑まれ消えてしまい、再び先刻まで歩いてきたような一本道となった。僕はそこから前進し始める。やっぱり、あの黒猫を探そう。そう思った時だった。道の先――闇の中――から、真白な物体がゆっくりとこちらに近づいて来るではないか。それは遠くて明瞭ではないがどうやらそこまで大きくはないようで、不思議な歩き方をしていた。その理由も見える位置に来るとよくわかった。それは、僕の膝下にさえ届かないくらいの小さなアヒルだったのだ。僕が立ち止まって近づいているのを待っている内に、左手前のピンクに彩られた1つの台の上にあの黒猫が居るのにも気がついた。黒猫は興味なさげに欠伸をし伸びをすると真っ黄色に光る大きな両眼を見開いて僕を見た。そしてアヒルが僕の目の前で立ち止まると、黒猫も上からジャンプして、その真横に並んだ。
「君たちは誰?」
 僕は普通に人と話すようにごく自然に尋ねた。アヒルは翼を手のように使って、掛けていた片眼鏡を押し上げた。
「いやはや[#「いやはや」に傍点]、初対面の年上に向かって敬語も使えないとは……。なんとも無礼甚だしい。これだから最近の人間の若者は、教育がなっておらん。……いやはや[#「いやはや」に傍点]」
 彼はどうやら年上のようだった。僕は改まって再び声を掛けてみた。
「すみません。あなたが年上だとは知らなくて。そもそも話せるとも思っていませんでした。ところでここはどのような場所なのでしょうか? あなたの名前はなんですか?」
 僕の態度にやや不機嫌アヒルであったが、可愛らしいスーツのネクタイを弄ると、諦めたように答えた。
「私の名前はニジュウゴ。年も二十五歳だ。年を取るたびに私は名前が変わる。あと半年もすれば私はニジュウロクだ。……いやはや[#「いやはや」に傍点]、四半世紀も世界を見てきた。君たちからすれば短いと思われるかもしれないが、人間に換算すると百二十歳を超えておる。長い、あまりに長い時間だった……。ここでは時間などあまり関係ないが……。それでも長い時間だ。隣の生意気な黒猫は  だ。よろしく」
「」
 
 
 
 そこはまるで、何か特別な世界へ繋がる扉を隠すように、混沌と煌めいていた。僕は足早にそこを離れた。   






    嫌な夢






 夜風は湿っていた。じっとりと脊髄にまとわりつくようなその水分は、全身に覚えていた不快感を丁寧に保存し続けた。
 夜は車道でのんびり出来るからいい。と僕は彼に言った。彼は暗がりの歩道に立ち、暗がりは暗がりのままで、彼はそれを以て僕を責めていた。故にそれに紛れた彼の顔は見えない。
 その不気味さとは裏腹に、僕は最初、清々しい心待ちで側のマンションを見上げた。ベランダは反対側で、ここからは廊下が見える。明かりが点いている。二棟の棺桶。木々が揺れた。
 電灯がぽつんと立っていて、真新しいアスファルトを照らしていた。一度も犯されたことのない真っ白な中央線が視界の限りまで続いている。
 電灯には蛾が一匹止まっていて、その羽ばたきの音を連想した僕は、感じていた清々しさを呆気なく見失った。手前の棟の電気が消えた。
 全方位から虫の声が聞こえる。湿気が増す。寝汗のような空気と団結して、虫は更に声を荒げる。虫は電源が壊れたラジオのように思想を垂れ流す。草を食む。息を吸う。反発する。同調する。その声はいつの間にか押しては返す波と重なり、坂を下った先に海が見えた。深い暗い海。波は月明かりを捻じ曲げる。月明かりを照らし返す。空に月は見えない。
 電灯が月だったのだと気が付いたのは奥の棟の電気が消えた後で、彼は一度たりとも動かなかった。僕を見続けるつもりなのか。復讐は何も生まないと、こんなに虫が力説しているじゃないか。そう言おうと思ったが彼が纏う暗闇があんまりに暗いのと、虫の声を言い訳に使うのも違うような気がしたということもあって、僕は何も言わなかった。これも復讐なのかもしれない。光は暴力なのかもしれない。暗闇が彼で彼の体は虫で海は電灯かもしれない。列車は駅に来ないかもしれない。月はどこに隠れた? 彼は知らない。虫も波の音も、あのマンションに住む全ての人も、知らない。
 僕を照らす電灯が消えた。ガードレールの先の海も、心なしか先刻より薄暗くなったようだ。もう虫は居ない。轟のような波の音が。岩を削るその嘶きが、わずかに地面を揺らすばかり。
 精神を揺らがせる。奥に潜る。螺旋を降る。前のめりに倒れる。傾く。落ちる。撹拌する。
 本能。人間の行き先。精神が帰依するところ。
 彼はそれでも動かない。とガードレールと道に区切られた長方形の小さな海がそう言った。
 白の階段が現れる。降る。






     ⑴
 目が覚めると寮の部屋で、カーテンの隙間から刺す光は休日の香りがした。ちょうど、洗濯物を乾かすのに適した日だ。
 外から人の声がして僕は立ち上がった。掛け布団が体からずり落ちる音がした。昨日の洗濯物が入った籠から据えた臭いがした。
 窓を開けると門から入ってきた水色のスクーターが手前の駐車場に停まった。人は乗っていなかったが、別にこれといった問題ではないので、僕は女子寮と鉄塔の醸し出す陰鬱を静かに見ていた。空は青に薄いペーパーフィルターをセットしたような色をしていて、テニスコートでボールを打つ小気味いい音が遠くに聞こえていた。
 廊下に置かれた時計は七時十七分を指していて、その隣の青い棒には黒い傘が掛けられている。僕はその様をしばらく想像した。雲は印象派の作品のようで、風は少女のため息のようだった。太陽が渦を撒き始めた頃に、扉の外の人の声が、随分とうるさくなった。僕は落胆して、これまでのことを全て上の棚に置いて、もう直ぐ来る夏のじわりとした記憶を反芻しながら、石垣の穴に手を突っ込むような心持ちで扉を開いた。
 そこには蛇は居なくて、代わりに誰か認識できない人が居て、その右隣、少し行ったところに母がいた。私は裸足のまま部屋を出ると彼女に向かって歩いて、会いたかった、と言った。私の言葉は彼女の抱擁に絆され、辺りはオレンジの色と匂いと温度がして、やけに小さい人が周りにたくさんいた。騒がしかったのはこのせいか、と私は妙に納得して、次に母が母でないことを認識して、小さい人には顔が無いことを認識して、私はどこにいるのかを認識して、僕は時計が止まっていないことを認識して、どこにいるかわからないことも認識して、あなたの温かみを認識して、ただ彼らの目は僕に向いていた。全員の目。
 白い階段。降る。暗闇。


「これからどうなるんだろう」
 窓際で弁当を広げていた澪が呟くように言った。窓から、夏のはじまりを告げる透き通った風が吹いていた。教室は昼休みの賑やかな雰囲気に満たされ、喜怒哀楽様々な声が、ステンドグラスを通って降り注ぐ色とりどりの光のようにあたりに散乱していた。
「誰かの悪戯かもしれないし、何かしら定められていて、もう取り返しのつかないことなのかもしれない」
 向かいに座る颯は、鶏肉の照り焼きを口に運びながら答えた。
「そうだね」
 澪は、涼しげなセーラー服に溢したソースを真っ赤なリボンで拭き取りながら、悲しげに答えた。
 颯は鞄からウェットティッシュを取り出して澪に渡し、セーラー服とリボンにできた小さなシミを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭いた。
「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけない。リボンが汚くなってしまうし、少し下品だ」
 そっか、と澪は笑った。
「ありがとう」
 強い風が吹き、それに合わせてピンク色の薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。
 気怠げな午後の授業もおざなりに、放課後はすぐにやってきた。帰りの挨拶を終えた教室はくす玉を割ったように華やかに散らばり、各々が各々の持ち場へと移動を始める。
 澪は窓の外に、透明でどこまでも続きそうな空を認めて、こんな日にトラックを思い切り走れたら気持ちいいだろうなと思った。でも今日は早く帰らないといけないから、運動着の入った巾着袋を前に暫く思案していたものの、結局は、待っていてくれた同じ陸上部の紀恵に「今日は休むことにする」と言い帰る準備を始めた。
「体調悪いようには見えないけど、用事?」
「今日は特別な日だから早く帰りたいんだ」
 澪は巾着袋を鞄に仕舞いながら素っ気なく答えた。それまで心配そうにしていた紀恵は、その返事を聞くと得意げに目を細め、澪に顔を近づけると、小さく揶揄うように言った。
「颯くんと帰るの?」
 紀恵は颯の方をちらりと見た。整った目鼻に、低く魅力的な笑い声。長めだがすっきりして似合う髪型に、細かい所まで配慮が行き届いた仕草。背は真ん中より少し大きいくらいだけれど、他とは一線を画して大人びているところがあって、男子の集団にいる彼は少々目立って見えた。
 紀恵は気付いていた。澪と颯には変に距離が近いところがある。部活も違う二人は普段の生活で積極的に関わることはないものの、掃除など時々関わりがあった時には、隠しきれない信頼やら何やらが、二人の表情からふと覗くのである。そこに恋愛感情が含まれているかどうかは紀恵にはわからなかったが、互いを特別大切に思っているであろうことは確信していた。そんなふうに二人はこのクラスで、洗い立ての布団のような香りの距離を維持し続けていた。しかしどうしたことか、いつもなら近づくことのない二人が、今日はお昼を一緒に食べていたのだ。しかも、とっくに心を許しあっているのが周りに伝わってくるくらい、とても幸せそうに。だから澪のいう特別というものは、十中八九、颯と関連したことだろう。紀恵はそう考えていた。
「違うよ」
 澪は作業を続けながらさっきと同じように素っ気なく聞こえるように努めて返事をしたものの、顔がほんのり赤く染まるのは抑えられなかった。それを見た紀恵は満足そうな顔をして澪に背を向けると「あっそ。じゃ、楽しんで」とだけ言って、もうとっくに先に行ってしまった陸上部のみんなを、足早に追いかけていった。
 紀恵が出ていってしまうと、それと入れ替わるように、窓から詩梟が飛び込んできて、器用に教卓へと着地した。きっと裏山から来たのだろう。あるいは、湖の方の森から来たのかもしれない。澪には判断がつかなかった。澪は詩梟を、夜か、昼間でも暗い森の奥でしか見たことがなかったため、こんな日当たりの良い教室に現れるなんて珍しいと思った。
 詩梟は午後の日差しに目を細めながら、嘴で呑気に羽をつついていた。こちらなど全く意に介さないのんびりした仕草に、この詩梟は夜より昼間の方が似合うと澪は思った。そんな風に、ゆったりとした時間の中に生きているような詩梟に、気がつく者は誰一人としていなかった。許可された者でなければ、詩梟を見ることはできないのだ。教室で澪と颯だけが、詩梟を見ることができた。
 窓の外の葉桜に囲まれた校庭では、陸上部のみんながトラックを駆けていた。そのままその集団が走り続ける様を眺めていると、紀恵が運動場の脇にある部室の方から必死に追いつこうと走っているのが見えた。澪は、自分が遅れることも構わずに待ってくれた紀恵に改めて感謝し、それにより再び、彼女を待たせた上で部活にも行かなかったことの罪悪感が胸を掠めた。澪は頭《かぶり》を振ってその気持ちを払い除けると、薄桃色《はくとういろ》の鞄に筆箱を入れ、勢いよくファスナーを閉めた。
 澪がゆったりと準備を進めている間に、クラスのほとんどが部活に行くか家に帰るかしてしまった教室は、がらんとして、いつもより広く見えた。端の扉の方で盛り上がっていた颯がいる集団も一人、また一人というように消えていき、いつしか教室にいるのは澪と颯、そして詩梟だけになっていた。
 人がいなくなると、颯は本を読み始めた。
 もちろん颯は、詩梟の存在に気づいていたし、澪が準備をもうすぐ終えるであろうことも予めわかっていた。それでも読み始めるのは、特別な理由からなどではなく、続きが気になっていたという単純な欲求からだった。颯はずっと続きが読みたかったのだ。
 澪は教室の隅で本に向かう颯を見た。澪は、颯が本好きであることを知っていた。家に帰ると毎日欠かさず本を読んでいることも、一度読み始めた本は、できるだけ一気に読み終えてしまいたいと思っていることも。
 幸い物語は終局に近いようだったから、澪は席に座り直すと、颯が読み終えるまで待つことにした。澪には本を読む習慣などないから、閉じた鞄を再び開けると、中にあったポーチから手鏡と櫛を取り出し、不慣れな手つきで前髪を整え始めた。
 正直言って、澪はこの作業に暇潰し以外の意味を見出せなかった。紀恵がやれとしつこいから、少しやってみようと思っただけのことだ。
「澪は可愛いんだから、もっと見た目に気を遣ったら良いと思うな。ねえ、今日の放課後、街のデパートに行って、コスメ買おうよ。澪、全然持ってないでしょ?」
 そう言って強引に手を引き、化粧売り場を回った時の、紀恵の楽しそうな顔を思い出す。ポーチの中の化粧品は、ひとつ残らず紀恵が用意してくれたものなのだ。
 可愛らしすぎる趣味のそれらを、澪は気に入って使うということはなかったが、それでも親友が顔を輝かせながら見繕って、ポーチにまでまとめてくれたそれに対して、澪は御守りのような安心感を感じていた。だから使うことは無いのにも関わらず、ポーチは常に持ち歩くようにしていた。
 罪滅ぼしのようなその作業にも幾らも経たないうちに飽きてしまって、溜息をつくと、澪はパタンと手鏡を閉じた。澪にとって、前髪くらいで男の子からの印象が大きく変わるなんて俄かには信じられないことだったし、鏡で自分の顔をじっと見つめるというのも、なんだか性に合わなかった。ましてや今からこの前髪を見せるのは、他でもない颯だけなのだ。
 澪が手鏡を閉じたのと同じくして、颯は本を閉じた。そして颯は暫く、その本が持つ清々しい読後感に際して、顔に手を当てて打ち震えていた。もし澪が肩を叩かなかったら、颯はそのまま何時間もそうしていたかもしれない。
 肩を叩かれた颯が振り返ると、帰る支度をすっかり済ませて、リュックを持ち、はにかんでいる澪がそこに居た。読んでいた本のせいかも知れない。どうしてだか、澪が堪らなく愛おしく感じて、颯は思わず立ち上がった。しかし、こんな所で彼女を抱き締めるわけにはいかないし、当の本人が困惑したような表情になったから
「待たせてごめん。そろそろ帰ろうか」
 と出来るだけ優しい声で言った。
 澪はその言葉を聴くと日が差したように笑顔になって
「うん」
 と元気よく返事をした。
 颯が本を鞄にしまうまでの間に、詩梟は二度鳴いた。
 隣で颯を待っていた澪は、この詩梟はとっても不思議だと、改めて思った。澪が今まで見てきた詩梟は笛のような声で鳴いた。この詩梟の鳴き声は、鈴のようだった。
 そんなふうなことを思っているうちに、颯が支度を終えた。そして、先を急いだ澪が教室の扉に手をかけた時だった。
 ばさりと大きな音がして、詩梟が窓から教室を飛び出した。
 透き通った空を上昇していく詩梟の後ろ姿に、二人は何か大事なことを忘れてしまっているような気がした。しかし、二人は目を合わせると安心したように頷いて、青葉の茂る家路を辿りはじめた。
 失くした記憶とは、然るべき時に思い出すものなのだ。
 二人ははじめから、そう知っていたから。 
 鈴の音が聞こえた気がして、走っていた紀恵はふと教室の方を見た。見上げた先の教室はいつもと変わらぬ様子でそこにあったが、紀恵は不思議な違和感を感じた。青空をきらきらと反射する窓に視線が釘付けになり、紀恵はゆっくりとスピードを落とすと、立ち止まった。
「あれ、澪……」
 澪? 紀恵は自問した。澪って、誰だろう?
 涙が一筋頬を伝い、もう一度、鈴の音がした。
 茫然と立ち尽くしていた紀恵は、頬に垂れた涙を舐めた。
「何やってんだか」
 顔を運動着のお腹の部分で拭った紀恵は、再びトラックに沿って走り始めた。傾きかけた日の揺らぎに生まれた淡い喪失は、青空の青となって拡散し、背中を押す風となって消失した。
 よし。いい感じ。
 スピードを上げた紀恵の背中は心なしか先程より軽く見える。
 ばさりと音がして、紀恵は空を見上げた。
 視線の先には、凱旋の出発を告げる鐘ような、その胸が沸き立つ力強い羽音の主は居らず、ただ遥かな青空がどこまでも広がっているだけであった。
 颯は自転車を押して、澪はリュックに両手を掛けて、二人は並んで土手を歩いていた。
 夏が既に始まっているものの、あたりにまだ春の残り香が立ち込めているのは、山から降りてきた雪解け水のせせらぎが、暑さを優しく受け流しているからであった。
 澪は川面にちらちらと反射した午後の日差しに、ぼんやりと二人の未来を見出し、颯に悟られぬように外方を向いて赤面した。颯はそこに、澪の笑顔を見ていた。
 橋を渡って、突き当たりの急な階段を登りきると、二人の家がある集落の方まで蛇行する、急で長い坂が現れる。登校する際は、この坂が些か厄介なもので、特に颯は毎朝、息を切らしながら立ち漕ぎで挑むのだが、そんな苦行に毎日耐えられるのは、帰りにはこの道が、盆地の真ん中に大きくある澄んだ湖、その周りに広がる畑たちと点々とある家々、それらを全て囲むようにして遥か向こうまで広がる森、その先の渓谷までもを見渡すことのできる、山紫水明の景勝地へと姿を変えるためであった。そんな坂を自転車で一気に駆け降りるより清々しいことはない。颯はそれが大好きだった。
 それに今日は澪が隣に居る。
 颯は自転車に跨ると、澪に後ろに座るように促した。澪はちょこんと後ろに座ると、嬉しそうに颯の腹に手を回した。
 いつもならブレーキをかけずに駆け降りる颯だったが、澪を乗せながらそうすると彼女を落としかねないと思うと、ブレーキのレバーを握りしめて、いつもの半分にも満たないスピードで降り始めた。
 通学路が同じ澪は時々、部活を終えて山間《やまあい》が夕闇に染まる頃に、坂を風のように駆け降りていく颯を後ろから見ることがあったから、颯が自分のために慎重に走ってくれていることにちゃんと気がついていた。それに澪は心が変に温まって、涼を得るためにひんやりとした颯の背中に、気づかれないように優しく頰をあてたが、逆に颯の、夏草のような匂いに包まれてしまい、更に心が変になった。
 颯はいつもよりゆっくりと流れる景色に、これはこれで良いと思い、しばらく景色を眺めていたが、背中に押し当てられた柔らかな二双の蕾の存在に気がつくと、急に身体の感覚がそれに縛られて、もう景色など認識できなくなっていた。
 颯にはどこか達観したところがあって、それがよく大人っぽいと言われる所以でもあったが、高校生の幼さも確実に残されていた。そして、それが露わになるのは、唯一澪の前だけだったのだ。しかし、澪は颯のこととなると恐ろしく鈍感で(彼女は他のことに於いても敏感とは言い難かったが)それに気がつくことはないから、颯の評価は一様に大人びた少年で固定されていた。彼の中の少年は世間に暴かれる事なく、二人の秘密の花園にのみだけ、精霊のように姿を現した。
 互いの鼓動が聴こえるくらい近くで、二人は自分の鼓動を抑えるのに必死だった。長い長い坂も二人には、列を並んでやっと乗ることのできた観覧車のように、ほんの一瞬に感じられた。
 坂を下り終えた颯は、けざやかに萌える稲が等間隔に並んだ水田の脇に自転車を停めた。ぴんと張った水面には空高く聳える大入道が、まるで夏の象徴のようにそこに鎮座している。
 颯としては、澪に降りることを促したつもりだったが、澪は止まった事にも気づかぬまま颯を抱きしめて続けていたから、颯は黙ってそのまま待っていたものの、恐ろしく扇情的な感触に思わず「澪、坂降りたし、歩こ」と素っ気なく言った。この時颯は、自分の声が上擦ってないかだけが気がかりだった。
 澪は目を開け、瞬時に状況を理解すると、猫のように飛び跳ねて自転車から降りた。それからお互い気まずく感じて、会話もせず反対を向いて歩いた。もちろんそれは、真っ赤に染まった自分の顔を相手に悟られまいとするためだった。
 
 


 家に着くと、澪はどたばたと二階に上がり、部屋の扉をばたんと閉めて深呼吸をした。カーテンを閉め切った見慣れた部屋はひんやり暗くて、澪の心をいくらか落ち着かせた。
 顔を上げると見知った友人の部屋で、僕は夢から目覚めたことを知った。
 リュックを置き窓を開けると、静寂と危険の香りを孕んだ温い風が入ってきた。澪はその中に翠雨の気配を感じて、開けた窓をすぐに閉めた。
 僕は九時に寝て、十一時に彼に起こされ、彼の部屋を訪れ、その椅子の上でまた眠りに落ちたのだ。時計は一時を回っている。
 鞄の中の物をベッドに投げ出すと、役に立ちそうなものだけを素早く選んで、薄いコーラルピンクに向日葵の刺繍が施されたショルダーバッグにそれらを入れた。バッグには元から、ナイフと幾らかのお金が入っていた。
 彼は音の出ないアコースティックギターを弾いていて、その隣には見慣れない、他の友人がいた。ヘッドフォンを付け、コンピューターを弄っている。顔がいつもと少し違う。パーツがずれ、小さくなり、均衡を破り、正気を保てず、失う理性。弾む唇。静かにしなさいと書かれた張り紙が僕の顔に貼られて、それを僕は引きちぎったつもりだったが、僕はそこには何もなくて、彼らは部屋の隅で固まって実に静か。塩が大さじ二杯くらい入った小さな、輪ゴムで括られたビニール袋がドアの上に付いていて、その上の時計の秒針の音が気持ち悪い。
 玄関先では颯が、空を見上げながら待っていた。目線の先にはさっきの入道雲がどうどうと蠢いている。
 雨が窓を打っていて、雨音は聞こえないけど僕にはそうわかったんだ。時間が近づく。近づくのは嫌だ。近づくのは良いことだ。遠ざかるより難しい。いや簡単。いや駄目なこと。楽しい時がある。春。春は素敵。生き物がたくさん生まれる。辛い冬を乗り越えできたから、暖かくなって気が抜けると、ころっと体調崩したりしちゃうんだ。春先にはさ。
「通り雨が来そうだ」
 ヘッドフォンをずらして気持ちの悪いやつが喋らないでくれとうるさい。
 澪は颯の言葉に頷くと、
 鳴っていない雨音が止んだ。もうその時だったのかと僕は納得。じっと待つ。秒針の音がして気持ち悪いやつも仕舞いには秒針の音を立て始めて友人はこっちを見ない。母さんあなたはどこにいますか。本当にいるのか。俺の存在。記憶。思想。思考。行動。理性。衝動。情動。今作られましたあなたは。
「ねえ、自転車で行かない?」と言った。
 扉をノックする音がして、僕は白い階段を降りて。
「いいよ。乗って」
 颯は空を見たまま答えた。
 
 
 湿った空気が瞬く間にあたりを覆った。ひぐらしが驟雨の兆しに、火《も》えるように鳴いていた。
 前方から迫る灰色のカーテンのような雨雲の中に、澪は故しれぬ気配を感じた。海《わだ》|祗《つみ》がいまにも山を越えて来るようだと澪は思った。
 颯は畦道を軽快に飛ばした。風が、路傍に佇む灌木《かんぼく》の若葉を揺らしながら渦を巻いて天に昇っていった。色彩にみるみるうちに灰色が差し、押し出された青は強風ととも盆地を後にした。
 一粒。ささやかな雨が澪の頬を濡らした。あの聳え立つ入道雲から落ちてきたとは思えないほどささやかな優しい雫だ。それは頬を流れ、潤う唇に同化した。
 それから堰を切ったように雨が降り始めた。田んぼの水面は磨りガラスのようにぼやけ、制服は肌に染み付いていく。あの優しさは最初の一粒だけが持つ個性だったらしく、つまらないほどに透き通った雨は雨以上の輝きを持たないままただ二人を濡らした。用水路の流れが勢いづき、遠くで稲妻が走った。颯は黙って自転車を漕いだ。
 耳を蹂躙する雨音の狭間に、澪は確かに、鈴の音を聴いた。




 二人はびしょ濡れになりつつも、なんとか颯の家に到着した。颯は澪を玄関で待たせると、水を滴らせながら大きなバスタオルを持ってきて、濡れた澪の身体に被せた。
 澪は頭を乱雑に拭うと、タオルの隙間から颯を見上げて「ありがとう」と言った。濡れた髪から垂れた零露が、頬を伝って顎から落ちた。
 纏わり付いた水分を粗方拭き終えると、小腹の空いた二人は台所に行って、お湯を沸かしカップ麺を作った。居間で分け合って食べたそれは、澪が水を多く入れてしまったから少々味が薄かった。
 テレビはつまらない、取るに足らない報道番組を垂れ流していた。カーテンの隙間から覗く空は昼間までの清々しさが嘘のように灰色に沈んでいた。初め二人は通り雨だと思っていたが、雨足は強まるばかりで、もうしばらく続きそうだった。遠い国の戦争の話ばかり映すテレビに飽きてしまった澪は、神妙な面持ちで、雨粒にざっくばらんに打たれる窓を見ていた。颯は制服が彼女の身体に張り付いて健康な曲線を示しているのを密かに横目で認めていた。颯はその膨らみが、これからの旅が暖かな光で溢れたものであることを予言しているかのように思えた。
 近くに大きな雷が落ちた。
「もうそろそろ」
 颯は言った。
 
 玄関の扉を開けると、颯は大きな傘を開いて澪と二人、雨が濡らす道へと繰り出した。
 落日に際して起こる自然の様相は雨雲が運んで来た影に強引に隠されてしまって、あたりは二人の知らぬ間に夜になっていた。誘蛾灯が雨の中誰ともつかぬ空間に向かって淑やかに光って揺れていた。
 傘をさしていたとはいえ風は強く、バス停に着いた頃には、乾きかけた靴下もしとどに濡れてしまい、歩くたびに水が跳ねる音がした。
 瀑布のような雨音だけが聞こえる。屋根や長椅子などない、看板だけの質素なバス停だ。背後には鬱蒼とした森が迫っている。森の先には湖がある。
 二人は身を寄せ合って一つの傘に隠れ、じっと迎えを待った。この行為は、旅の予感を消し去る可能性のある、極めて大胆かつ細やかな試みだった。澪はバス停の周りに漂う強かな闇を、稚ない眼差しで見つめた。颯はその手を、強く握った。
 山の方から一対の明かりが下りてくる。
「バスだ」
 雨が更に激しさを増した。夜行バスが、水を掻き分ける轟音と共に二人に接近した。自然の音のみで構成されたそこでは、それは殆ど異質な轟だった。
 鈴の音がして、二人の手から傘が落ちた。
 
 
 運転席に座った年増の男は、フロントガラスに体当たりする雨風に阻害されたぼやけた視界の端に、制服に身を包んだ少年少女が一つの傘に身を寄せ合っているのを見出し、緩やかにブレーキを踏んだ。
 男は時計に目をやった。「こんな時間に珍しい。駆け落ちだろうか」誰もいない冷たい車内で男は呟いた。
 鈴の音がした。
 これから起こるであろう面倒のことを考えて、男はため息を吐いた。そして辛うじてバス停とわかるような錆びついた看板を再び見た。
 そこには傘が一本の落ちているだけだった。
 
 
 澪はぱちりと瞬きをして颯の顔を見た。颯も澪を見た。
「すごい。すり抜けちゃった。私たち、透明になったみたい」
 傘は、鈴音の狭間に入り込んでしまった二人の身体をすり抜けたのだった。雨も二人に構わず真っ直ぐに地面に落ちていく。二人はそっくりそのまま現実から隔離されてしまったのだ。
 澪は欣然《きんぜん》と道へ駆け出した。ばしゃばしゃと水が飛び散る音がする。まるで二人がこれまでの世界としっかりと隔たれてしまったことを誰かが印象付けるかのように、その音は籠《くぐも》って聞こえた。それはまるで耳に綿が詰め込まれたような感覚だった。
 直後、夜行バスが澪のいる道上を通過した。颯は驚き、声をあげて澪に駆け寄った。澪は腕を抱え、体を震わせた。
「へへ。ああ。全然大丈夫だよ。なんともない……。でもちょっとだけ寒いかも」
 澪は颯を見上げて血色の薄い唇で微笑んだ。ついさっきまで二人は雨の中にいたのだ。
 彼女のその微笑みは真夏の草花のような精一杯の微笑みで、それは颯の胸を鋭く貫いた。颯は澪をきつく抱きしめた。
「そうか。良かった。もうこんなふうな事はしないで」
 ん、と澪は短く返事をした。澪は颯の言葉より、その濡れた強かな体に集中していた。颯は澪の耳元で囁いた。
「もう二人だ。……大丈夫。きっと帰って来られる」
 愛を引き裂くにあたって、それは既に存在していなければならない。二人に独立した世界が与えられたということはつまり、かの魔女の悋気《りんき》に彩られた思惑の第一段階は既に終了したということだ。
 現実において人を捕らえている幾千もの屈折した柵《しがらみ》から奇しくも二人は脱出したのだった。極限まで純粋に愛し合う二人にとってそれらは最も相性の悪いものだと言わざるをえない。それは寓話のような、恩寵的に整えられた世界でのみ正しく生育するといった種の愛なのだ。
 籠《くぐも》った、灰色の雨音に包まれながら颯は澪にキスをした。これは恋愛的な意味での、二人の初めてのキスだった。二人の源泉からこんこんと湧き続けていた欲望はその柵によって堰き止められていたのだが、水が並々と湛えられたグラスのように殆ど限界を迎えており、そこへ思いがけない形で解放されたがために、一度に咎が外れたのだった。
 二人は互いが有する己への情熱を唇が触れ合うその熱のやり取りにおいて感じとり、そしてそれは、更に己の情熱に薪を焚べることとなった。
 唇を離すと、二人は互いの背に手を当て存在を確かめ合った。勿論、そんな事はしなくとも二人は互いに存在していた。
 道の少し先を行ったところでバスが停車し、慌てた様子の老運転手が降りてきた。彼は暫く周りを見渡したのち、バス停まで来て、落ちていた傘を拾い上げた。再び彼は周りを注意深く観察したかと思うと、傘を投げ捨て、そのままバスへと一目散に逃げて行ってしまった。
 二人は彼の後ろ姿を苦笑いで見守った。
 身を寄せ合い男を見送る少年と少女の顔は、まるで幾つも歳月を重ねた壮年夫婦のように和やかだった。しかし二人の持つ若きエネルギーは、その裏面《りめん》にて、刻一刻と高まり続けていた。
 
 
 二人は森に入った。その先に入り口があることを二人は感じ取っていた。
 森を抜けると、湖のほとりが姿を現した。静謐な、至る細部まで静謐な、光る湖だ。
 今までは少しだけ異なる座標に移動させられていた二人だったが木々を掠め森を抜けるうちに、もう一つの軸、時間においても切り離されていくのを感じた。それはまるで空中にふわりと浮き上がるような感覚だった。
 開けた場所に出ると、それがよく判る。落ちる雨粒の速度が非常に遅いのだ。それぞれが輝きを讃えた、無数の雨粒達は小さな宝石のようにゆっくりと落ちてゆく。颯はますます鈍くなる世界に自らの存在の限界を感じた。
 澪が恐る恐る足を湖に触れた。不思議な、落ち着くような光を含んだ水面は、弾力を帯びた包み込むような感覚と共に、澪の運動靴の底を優しく持ち上げた。
「ねえ颯、向こうへ行こう」
 澪が指差した向こうには、木造の古めかしい家屋が、湖の光と同性質の光を孕んでそこにあった。澪がもう一歩踏み出す。運動靴が光る細波《さざなみ》を生む。颯も隣について、建物へと向かう。
 玄関の扉まで着いた。二人はもう最早、元の世界を認識するのが困難になっていた。雨は限りなく薄まり、雨音は遥か遠くの赤子の鳴き声のようだった。湖を囲っていたはずの森はもう見えない。景色の向こうまで水面が広がり、二人を囲むように水平線を形作っている。澪は輝く夏草の草原の真ん中にいるような気がした。家に近づくと、どうやら湖の光の中心はこの家だったらしく、幾千の蛍が止まっているように光っている。
 二人は湖を何度も訪れた事はあったけれど、水が光ることなど一度も無かったし、こんな家を見るのも初めてだった。間違いなく、二人の為にここに用意されたものだ。
 颯がドアを開けた。先には安息の暗闇が広がっている。それはとても優しい暗闇だった。きっとここから、旅が始まるに違い無い。
 澪の手が少しだけ震えている。
「この先は僕らの世界じゃない。きっと魔女の世界だ」
「そうね。すごく楽しみ」
 二人は再びキスをした。この接吻は少なからず、現実との訣別を記念したものだったと言えよう。実に細やかなキスだ。
 手を繋いだ二人はその暗闇の中へ、勇敢さに似た若さで進んでいった。
 
 
     ⑵
 
 
 窓の外は深い海で、全てをもう飲み込んでしまったような奢りを僕はその波間に見つけた。僕はいつでも
 
 
 ゆったりとして健康的な寝息が颯の前髪を優しく揺らし、そして頬をくすぐった。素敵な朝の微睡みに、夢と現の境目を、繋がれた小舟のように行き来していた颯は、そのくすぐったさで目を開いた。ひとつの染みもない真っ白で薄いレースカーテンは、まだ少しだけ夜の涼しさを保持した風に吹かれて揺れ、真夏の朝の、あの燃えるような始まりの日の光が、隙間からちらちらと顔を覗かせている。
 高さ十メートルはあろうかツリーハウスで目が覚めた。
 爽やかな光に目慣らした颯は、ベッドの中で密着する血の通った少女の顔を見た。繊細な造形の顔が朝日に照らされ、彼女の瑞々しい若さが裸に剥かれている。
 颯は澪の頬に手を触れた。
「澪、おはよう。もう朝らしい、起きて」
 澪は少しだけ抵抗したけれど、目を擦ってベッドから降りた。そして不機嫌そうに洗面所に向かおうとしたが、そこでぱちくりと瞬きをした。
 
 
 日が上るとそこは咽せ返るような真夏だった。澪は二週間がいっぺんに去って、夏の盛りが回ってきたように思った。 
 
 鄙びた雰囲気が齎《もたら》す安息が、赤く染まる木の葉の落葉する様を彷彿とさせるような侘しい感じのする洋風の家だった。




 下に集う祭事風の身なりをした人々。




 恐ろしい悪魔との命の取り合い。






     9
     
     
     
     
     
     
「知ってる? この世界がどうやって成り立ってるか」


 
 五号館を出ると、きつい日差しがアスファルトを焼いていた。遠くで、雑木林の影に入った柳が、涼しそうに揺れていた。私は腕時計を確認して、食堂へと向かった。
 
 混雑のピークを過ぎた食堂は、広い空間に並べられた机に、ちらほらと人がいるだけであった。いつもは席の検討を予めつけておくのだが、空きコマ三限、ランチタイム終了間近の学生食堂は随分と空いていたから、私は食券を購入し、チキン南蛮のプレートを受け取ってから席を探した。
 
 窓際の席を取ろうと近づくと、窓の外に、真夏の炎天下に一人、カウンター席でスケートお姉さんが食事をしているのに気がついた。スケートお姉さんとは、ピンクのヘルメットを被り、キャンパス内をローラースケートで移動する、この大学のちょっとした有名人だ。私が入学する前からいるらしいから、三年生か四年生だろうと踏んでいる。窓際に座った彼女はヘルメットを脱ぎ、いつもは見えない茶色のポニーテールを、風に靡かせていた。すでに半分腰掛けたような格好になったが、興味が湧いたので、再び立ち上がり、自動ドアを出て彼女に話しかけた。
 
「こんにちは! お隣いいですか?」
 
 彼女は驚いた様子で顔をあげた。そして私を認めると、本当に柔らかに顔を綻ばせて、「ええ、もちろん!」と言った。考えていたいくつかよりも、ずっと好意的な反応だったから、私も思わず笑顔になって、「良かったです。断られたらどうしようかと思いました」と言いながら隣に座った。
 
「私は木嶋菜月です。経済の一年生です」
 
「私は佐藤妃実と言います。」
 
 よろしくお願いします、そう言って彼女は上品に会釈をした。
 
 では、あの、いただきます、と手を合わせ、私はチキン南蛮を口に運び始めた。
 
「妃実さんはどうしてローラースケート履いてるんですか?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
      ――
 
 
 
 
 
 

4年11月3日 (黃) 09:48時点における最新版



 ゲームセンター



 僕は失くした物を探しにここにやってきた。訪れるのは七年振りだろうか。そこは寂れたショッピングモールだった。七年前はこの建造物も幾らか賑わいがあり、丁度こんな日曜日の夜となると多くの人の笑顔が見られる場所だった。しかし、度重なる不況のせいかそれともただの経年劣化か、二十年前に建てられた建物は、隠しきれない古臭さが、まるで死んだ魚から漏出する濃厚な出汁のようにゆっくりと、しかし確実に滲み出ていた。  十分な広さが確保された駐車場には収容可能台数の一割にも満たない数の車がぽつりぽつりと停車している。中のテナントは半分以上がシャッターを下ろしている。さらに奥へ進むと伽藍とした円状のホールのような空間がある。その空間の中心にある、プラスチックの鎖とポールで囲われた安っぽい人工の芝生の上には、「感染対策。遊具利用禁止」と書かれた看板がある。遊具はそこにはない。だが、七年前は確かに在ったのだ。僕はその看板の文字を見ても、その意味がしばらく理解できなかった。そして、七年前より格段に彩度の落ちた屋根を見上げた。しばらくして僕は途轍もない寂寥に襲われた。それはそこに留まり続ける間、僕の心を確実に蝕み続けた。  その中でたったひとつだけ、周りとは一線を画して一際光を放つ場所があった。階段を上がった二階の奥にあるゲームセンターだ。僕は無為に光に絡めとられてゆく羽虫のように、吸い寄せられるようにしてそこへ向かった。  ゲームセンターは無機質な光で満ち溢れていた。主張の激しいさまざまな色がぶつかり合い、物の輪郭がとても掴みにくくなっている。白、青、赤、黄、緑、紫。そこはひとつの混沌だった。僕はゲームセンターの前に立ち、数回長い瞬きをしてその世界に目を慣らした。その時、僕は目を開くたびに何かが少しずつずれていくような錯覚を覚えた。目を閉じる前にあった物がなくなり、全く新しい物が出現し、さらにその色が変わった。そんな気がした。しかし、目が慣れるとそこは、これといった特徴のない普通のゲームセンターであった。モール全体が陰鬱な黒い空気で充されていたために、より明るく見えたのだろう。普通と違うところと言えば、奥が見えないくらい広い、ということぐらいだった。空間的には広いが、そこはまるで幼い子供が自分の好きなものだけでいっぱいにした玩具箱のように、クレーンゲームやメタルゲームの台やカラフルなポップ、アニメのポスターが雑多に並べられていて、ゲームセンター特有の手狭な雰囲気を醸し出していた。  僕はその深淵に呑み込まれていくように進んでいった。三歩進めば聞こえる電子音楽が変わる。ひとつひとつの台が自分を主張する様に大音量で音を鳴らし、ライトを光らせ、景品を高く掲げている。しかし、主張する相手は居ないようだ。人工物で埋め尽くされた世界で、僕はひとりも人間を見かけなかった。虚無に向かって主張し続ける彼らの間を、僕は足速に進んでいった。  しばらく歩いて、随分奥まで来た。そして、まだ奥が見えないことに僕は違和感を覚えた。先のほうを見ても明るい台が整列しているだけで、曲がり角もなければ途切れ目も見当たらない。その先は、暗くて全く見えない。このゲームセンターがこんなに広い筈はない。このショッピングモール自体、そこまで大きくはないだろう。そんなことを思い始めた矢先、その疑問に覆いかぶさるように突然、背後から黒い影が飛び出して来た。その影は僕を追い越してどんどん先へ走っていく。驚いた僕は刹那の間硬直したが、直ぐにそれを追いはじめた。僕はこの奇妙な世界への違和感を確信に変え、黒い影を何かの解決の糸口になる存在だと、直感的に判断したのだった。結構なスピードで走った。足は速い方だ。しかし、追いかけても追いかけてもその尾っぽは、すんでのところで手を掠め、ひらりひらりと先へ行ってしまう。それはよく見ると黒猫の様で、しなる筋肉でごうごうと、そしてすいすいと奥へ駆けて行く。トップスピードを維持した僕は目まぐるしく変化する左右の色彩にくらりとした。その瞬間、世界の上下がぐるりと回転するような感覚を覚え、思わず目を閉じた。僕は大袈裟に転倒した。先刻まで走っていた安っぽいリノリウムのタイルは、いつの間にか柔らかな真紅のカーペットに変わっていて、痛くはなかった。しかし僕が地面に留まっている間に、黒猫はもう先の闇の方へ消えてしまって、見えなくなってしまった。急に恐ろしくなり後ろを振り向くと、視界に入るゲームの台のさらに奥には、黒猫が消えていったのと同じ無機質な闇が、まるで僕を等間隔を空けて追尾し舌舐めずりする蝮のようにそこにあった。僕はこうして、闇に包囲されてしまったのだった。  僕は一瞬引き返そうかと思った。しかし頭を振ってその考えを捨てた。あの闇に突っ込んでいったところで何かが変わるとは思えなかった。それよりあの黒猫を追おう。きっとあの黒猫は僕が探している物の在処を知っているに違いない。そう、僕は失くしたものを探しに来たのだから。  僕は一歩一歩を確かめるように歩いた。あの黒猫には走っても追い付けないだろうし、のんびり歩いていたとしても然るべき時に必ず会えるだろうから、走るのは得策ではない。僕はこの不思議な世界を少しずつ理解し、順応し始めていた。そして僕は重厚な赤と黒、そして安っぽい白を基調とした色とりどりの無限の通路に、どこか懐かしさを感じていた。  気の遠くなるような時間だった気もするし、少ししか経っていないような気もする。左右に聳えるクレーンゲームの台は変わり映えしなかったが、途中から少しずつ古そうな台が増えていた。T字路のような曲がり角も発見した時には、通路を囲むほとんどの台がレトロなものになっていた。どうやら左側にぽっかりと一台分の穴が空いていて、そこから横に同じような道が続いているようだった。思わず足を早めてそこへ向かうとその短い道の先もT字路のようになっていた。上から見ると片仮名のエのような形で二本の道が一本の道で結ばれていた。僕はこの世界の綻びを見つけたことに興奮を覚え、すぐにその道へ入った。その興奮も束の間、背後に目をやると、今の今まで歩いてきた道が闇の中に沈んで、二度と触れ合えないように隔てられてしまっていた。もう戻ることは出来ないという事実に普段なら恐怖を感じるはずが、何故だかその時の僕はそれ以上に、細やかな達成感と幸福を感じていた。そして今目の前にある道に向かい合おうと覚悟を決めた僕は、その先を見てはっと気づいた。そこには三十代半ばくらいの、疲れ切った顔をした女性がひとり、先ほどまで誰もいなかった空間でクレーンゲームの台に向き合っていたのだった。僕は自然と息を殺し、見つからないように努めようとした。しかしその行為はあまり意味が無いようだった。彼女は僕など眼中にない様子で、爛々とした目で景品だけを見つめ、痩せた手で無造作にボタンを叩いていた。僕は警戒しながらも、彼女に近づいていった。そして恐る恐る声を掛けた。 「すみません。僕が失くした物が何処にあるか知っていますか?」  彼女は僕には全く反応を示さずに、無我夢中でその景品を凝視していた。この人と僕はきっと存在する世界が違うのだ。僕はそう納得して、黙って彼女のプレイングを見守る事にした。彼女は楽しむためではなく、あくまで景品を得ることを目標にして慎重にプレイし続けていた。しかし、無情にもアームは景品を掴んではくれない。毎回持ち上げはするもののあと少しのところで、ゴトッと地面に落ちてしまうのだ。段々と彼女の財布の百円玉は減って行き、それに連れて彼女の正気も無くなっていくようだった。  彼女は血走った目で最後の百円玉を掲げた。その百円玉は、カラフルな光を反射してピカピカと輝いていた。とても新しそうな昭和四十四年の百円玉だ。彼女はそれに向かって目を瞑り、短く祈りの言葉を呟いた。僕にはわからない言語だ。彼女は恭しく硬貨を投入し、レバーを手に取った。その操作に合わせて、ウィーンという音を立て、アームがするすると滑る。  その時だった。僕の遥か背後から、今目の前で動くアームと同じ種類の音――それも轟音――が鳴り響いてきたのだ。僕がサッと後ろを振り向くと、そこには遥か遠くから、道に沿って滑るように此方へやってくる途轍もなく巨大なクレーンゲームのアームが見えた。あまりに高いため、繋がれているであろう根本の部分は見えない。僕は身動きも出来ずにそれを見ていた。これは決して恐怖から来る行動では無くて、寧ろ僕はその時安心していた。それは、僕に危害を加えるものでは無い事が僕には分かりきっていたからだった。彼女が景品の上にアームを動かし終えると、巨大なアームの方も僕らの台の真上で、ガチンッと音を立てて止まった。そして彼女が下降のボタンを押した。それと時を同じくして巨大なアームも機械音と共に下降し始め、そしてまるで蟻を摘むかのように彼女の上半身を掴んだ。ゴキゴキと、骨の折れる音がした。彼女はそれまでアームに気づく素振りを見せていなかったが、掴まれた瞬間から僕とそのアームを認識し始めたようで、刹那の間に自分の置かれた状況を理解すると、恐怖の表情で僕を見てこう叫んだ。 「ねえ君! 景品が取れてたら私に渡して。必ずね! 絶対だから!」  非常に哀れな声でそう叫んだ彼女は、瞬きの間に口から血を吐き、大粒の涙を流し始めた。金属の大きな指が腹と背中に、有り得ないくらい食い込んでいる。クレーンゲームのアームというものは、非常に弱いものだと相場が決まっているけれど、これは違うようだった。口から垂れた彼女の血は、白く細い首を伝って同じ色をしたカーペットへ落ちた。そして目の前の台の中のアームが景品を掴み上昇していくと同じ様に、彼女を掴んだままのアームも上昇し遙か上まで行ってしまう。返事をする隙も無かった。仕方がないので僕は景品が穴に運ばれていくかどうかを真剣に見守った。景品を掴んだアームは最大まで上昇すると、ガクンッと少しの間止まる。殆どはここで落ちてしまうのだが、今回は耐えている。それからアームはゆっくりと、受け取り口に続く穴へと向かう。頭上の彼女を捉えた巨大なアームも、何処かへ行く音が聞こえる。目の前のアームを動かすチェーンには所々に引っ掛かりがあるらしく、時々ガチッと揺れる。僕は息を飲んでそれを見詰める。アームが横移動を始めて三回目の引っ掛かりの時だった。もうあと少しで穴に落とせそうなところに、それはあった。アーム全体がガチッと揺れた。景品の掴み方が少し変化した。そのまま景品は三本の指の間からすり抜け、地面へと落下した。ゴトッと音が鳴ると同時に、何処からかグシャッという厭な響きの音が聞こえた。僕は少し悲しい気持ちになって暫く落ちた景品を見詰めていたが、探していた物がそれではない事に気づくとその場を離れて、再び先へと進みはじめた。  彼女と出会った道を抜けると、それもやはり闇に呑まれ消えてしまい、再び先刻まで歩いてきたような一本道となった。僕はそこから前進し始める。やっぱり、あの黒猫を探そう。そう思った時だった。道の先――闇の中――から、真白な物体がゆっくりとこちらに近づいて来るではないか。それは遠くて明瞭ではないがどうやらそこまで大きくはないようで、不思議な歩き方をしていた。その理由も見える位置に来るとよくわかった。それは、僕の膝下にさえ届かないくらいの小さなアヒルだったのだ。僕が立ち止まって近づいているのを待っている内に、左手前のピンクに彩られた1つの台の上にあの黒猫が居るのにも気がついた。黒猫は興味なさげに欠伸をし伸びをすると真っ黄色に光る大きな両眼を見開いて僕を見た。そしてアヒルが僕の目の前で立ち止まると、黒猫も上からジャンプして、その真横に並んだ。 「君たちは誰?」  僕は普通に人と話すようにごく自然に尋ねた。アヒルは翼を手のように使って、掛けていた片眼鏡を押し上げた。 「いやはや[#「いやはや」に傍点]、初対面の年上に向かって敬語も使えないとは……。なんとも無礼甚だしい。これだから最近の人間の若者は、教育がなっておらん。……いやはや[#「いやはや」に傍点]」  彼はどうやら年上のようだった。僕は改まって再び声を掛けてみた。 「すみません。あなたが年上だとは知らなくて。そもそも話せるとも思っていませんでした。ところでここはどのような場所なのでしょうか? あなたの名前はなんですか?」  僕の態度にやや不機嫌アヒルであったが、可愛らしいスーツのネクタイを弄ると、諦めたように答えた。 「私の名前はニジュウゴ。年も二十五歳だ。年を取るたびに私は名前が変わる。あと半年もすれば私はニジュウロクだ。……いやはや[#「いやはや」に傍点]、四半世紀も世界を見てきた。君たちからすれば短いと思われるかもしれないが、人間に換算すると百二十歳を超えておる。長い、あまりに長い時間だった……。ここでは時間などあまり関係ないが……。それでも長い時間だ。隣の生意気な黒猫は  だ。よろしく」 「」        そこはまるで、何か特別な世界へ繋がる扉を隠すように、混沌と煌めいていた。僕は足早にそこを離れた。   


    嫌な夢


 夜風は湿っていた。じっとりと脊髄にまとわりつくようなその水分は、全身に覚えていた不快感を丁寧に保存し続けた。  夜は車道でのんびり出来るからいい。と僕は彼に言った。彼は暗がりの歩道に立ち、暗がりは暗がりのままで、彼はそれを以て僕を責めていた。故にそれに紛れた彼の顔は見えない。  その不気味さとは裏腹に、僕は最初、清々しい心待ちで側のマンションを見上げた。ベランダは反対側で、ここからは廊下が見える。明かりが点いている。二棟の棺桶。木々が揺れた。  電灯がぽつんと立っていて、真新しいアスファルトを照らしていた。一度も犯されたことのない真っ白な中央線が視界の限りまで続いている。  電灯には蛾が一匹止まっていて、その羽ばたきの音を連想した僕は、感じていた清々しさを呆気なく見失った。手前の棟の電気が消えた。  全方位から虫の声が聞こえる。湿気が増す。寝汗のような空気と団結して、虫は更に声を荒げる。虫は電源が壊れたラジオのように思想を垂れ流す。草を食む。息を吸う。反発する。同調する。その声はいつの間にか押しては返す波と重なり、坂を下った先に海が見えた。深い暗い海。波は月明かりを捻じ曲げる。月明かりを照らし返す。空に月は見えない。  電灯が月だったのだと気が付いたのは奥の棟の電気が消えた後で、彼は一度たりとも動かなかった。僕を見続けるつもりなのか。復讐は何も生まないと、こんなに虫が力説しているじゃないか。そう言おうと思ったが彼が纏う暗闇があんまりに暗いのと、虫の声を言い訳に使うのも違うような気がしたということもあって、僕は何も言わなかった。これも復讐なのかもしれない。光は暴力なのかもしれない。暗闇が彼で彼の体は虫で海は電灯かもしれない。列車は駅に来ないかもしれない。月はどこに隠れた? 彼は知らない。虫も波の音も、あのマンションに住む全ての人も、知らない。  僕を照らす電灯が消えた。ガードレールの先の海も、心なしか先刻より薄暗くなったようだ。もう虫は居ない。轟のような波の音が。岩を削るその嘶きが、わずかに地面を揺らすばかり。  精神を揺らがせる。奥に潜る。螺旋を降る。前のめりに倒れる。傾く。落ちる。撹拌する。  本能。人間の行き先。精神が帰依するところ。  彼はそれでも動かない。とガードレールと道に区切られた長方形の小さな海がそう言った。  白の階段が現れる。降る。


 目が覚めると寮の部屋で、カーテンの隙間から刺す光は休日の香りがした。ちょうど、洗濯物を乾かすのに適した日だ。  外から人の声がして僕は立ち上がった。掛け布団が体からずり落ちる音がした。昨日の洗濯物が入った籠から据えた臭いがした。  窓を開けると門から入ってきた水色のスクーターが手前の駐車場に停まった。人は乗っていなかったが、別にこれといった問題ではないので、僕は女子寮と鉄塔の醸し出す陰鬱を静かに見ていた。空は青に薄いペーパーフィルターをセットしたような色をしていて、テニスコートでボールを打つ小気味いい音が遠くに聞こえていた。  廊下に置かれた時計は七時十七分を指していて、その隣の青い棒には黒い傘が掛けられている。僕はその様をしばらく想像した。雲は印象派の作品のようで、風は少女のため息のようだった。太陽が渦を撒き始めた頃に、扉の外の人の声が、随分とうるさくなった。僕は落胆して、これまでのことを全て上の棚に置いて、もう直ぐ来る夏のじわりとした記憶を反芻しながら、石垣の穴に手を突っ込むような心持ちで扉を開いた。  そこには蛇は居なくて、代わりに誰か認識できない人が居て、その右隣、少し行ったところに母がいた。私は裸足のまま部屋を出ると彼女に向かって歩いて、会いたかった、と言った。私の言葉は彼女の抱擁に絆され、辺りはオレンジの色と匂いと温度がして、やけに小さい人が周りにたくさんいた。騒がしかったのはこのせいか、と私は妙に納得して、次に母が母でないことを認識して、小さい人には顔が無いことを認識して、私はどこにいるのかを認識して、僕は時計が止まっていないことを認識して、どこにいるかわからないことも認識して、あなたの温かみを認識して、ただ彼らの目は僕に向いていた。全員の目。  白い階段。降る。暗闇。

 

 顔を上げると見知った友人の部屋で、僕は夢から目覚めたことを知った。  僕は九時に寝て、十一時に彼に起こされ、彼の部屋を訪れ、その椅子の上でまた眠りに落ちたのだ。時計は一時を回っている。  彼は音の出ないアコースティックギターを弾いていて、その隣には見慣れない、他の友人がいた。ヘッドフォンを付け、コンピューターを弄っている。顔がいつもと少し違う。パーツがずれ、小さくなり、均衡を破り、正気を保てず、失う理性。弾む唇。静かにしなさいと書かれた張り紙が僕の顔に貼られて、それを僕は引きちぎったつもりだったが、僕はそこには何もなくて、彼らは部屋の隅で固まって実に静か。塩が大さじ二杯くらい入った小さな、輪ゴムで括られたビニール袋がドアの上に付いていて、その上の時計の秒針の音が気持ち悪い。  雨が窓を打っていて、雨音は聞こえないけど僕にはそうわかったんだ。時間が近づく。近づくのは嫌だ。近づくのは良いことだ。遠ざかるより難しい。いや簡単。いや駄目なこと。楽しい時がある。春。春は素敵。生き物がたくさん生まれる。辛い冬を乗り越えできたから、暖かくなって気が抜けると、ころっと体調崩したりしちゃうんだ。春先にはさ。  ヘッドフォンをずらして気持ちの悪いやつが喋らないでくれとうるさい。  鳴っていない雨音が止んだ。もうその時だったのかと僕は納得。じっと待つ。秒針の音がして気持ち悪いやつも仕舞いには秒針の音を立て始めて友人はこっちを見ない。母さんあなたはどこにいますか。本当にいるのか。俺の存在。記憶。思想。思考。行動。理性。衝動。情動。今作られましたあなたは。  扉をノックする音がして、僕は白い階段を降りて。


   窓の外は深い海で、全てをもう飲み込んでしまったような奢りを僕はその波間に見つけた。僕はいつでも    高さ十メートルはあろうかツリーハウスで目が覚めた。


 下に集う祭事風の身なりをした人々。


 恐ろしい悪魔との命の取り合い。



 五号館を出ると、きつい日差しがアスファルトを焼いていた。遠くで、雑木林の影に入った柳が、涼しそうに揺れていた。私は腕時計を確認して、食堂へと向かった。  混雑のピークを過ぎた食堂は、広い空間に並べられた机に、ちらほらと人がいるだけであった。いつもは席の検討を予めつけておくのだが、空きコマ三限、ランチタイム終了間近の学生食堂は随分と空いていたから、私は食券を購入し、チキン南蛮のプレートを受け取ってから席を探した。  窓際の席を取ろうと近づくと、窓の外に、真夏の炎天下に一人、カウンター席でスケートお姉さんが食事をしているのに気がついた。スケートお姉さんとは、ピンクのヘルメットを被り、キャンパス内をローラースケートで移動する、この大学のちょっとした有名人だ。私が入学する前からいるらしいから、三年生か四年生だろうと踏んでいる。窓際に座った彼女はヘルメットを脱ぎ、いつもは見えない茶色のポニーテールを、風に靡かせていた。すでに半分腰掛けたような格好になったが、興味が湧いたので、再び立ち上がり、自動ドアを出て彼女に話しかけた。 「こんにちは! お隣いいですか?」  彼女は驚いた様子で顔をあげた。そして私を認めると、本当に柔らかに顔を綻ばせて、「ええ、もちろん!」と言った。考えていたいくつかよりも、ずっと好意的な反応だったから、私も思わず笑顔になって、「良かったです。断られたらどうしようかと思いました」と言いながら隣に座った。 「私は木嶋菜月です。経済の一年生です」 「私は佐藤妃実と言います。」  よろしくお願いします、そう言って彼女は上品に会釈をした。  では、あの、いただきます、と手を合わせ、私はチキン南蛮を口に運び始めた。 「妃実さんはどうしてローラースケート履いてるんですか?」