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「ただいま」
「ただいま」
 団地の狭い一部屋に、疲れた声が虚しく響いた。真澄は後ろ手にドアを閉めると、ため息をついて、汗に濡れた運動靴を脱いだ。
 団地の狭い一部屋に、疲れた声が虚しく響いた。真澄は後ろ手にドアを閉めると、ため息をついて、汗に濡れた運動靴を脱いだ。
 床にはビールの空き缶やタバコの吸い殻、どこから来たかわからないゴミが転がっている。副流煙と腐った果物が入り混じったような匂いに真澄は顔を顰めた。毎日嗅いでいても吐き気を催す。どれだけ嗅いでも慣れることはないだろう。
 床にはビールの空き缶やタバコの吸い殻、どこから来たかわからないゴミが転がっている。副流煙と腐った果物が入り混じったような匂いに真澄は顔を顰めた。毎日嗅いでいても吐き気を催す。どれだけ嗅いでも慣れることはないだろう。そんな匂いだ。
 シンクに溜まった、いつ使われたのかも分からない汚れた食器たちを横目に、ゴミを避けながら自分の部屋へと向かう。すっかり傾いた太陽が発する血のように赤い西日は、タールで茶色く汚れた壁を不気味に染め上げていた。
 シンクに溜まった、いつ使われたのかも分からない汚れた食器たちを横目に、ゴミを避けながら自分の部屋へと向かう。すっかり傾いた太陽が発する血のように赤い西日は、茶色く汚れた壁を不気味に染め上げていた。
 真澄は手垢のついたパンフレットが散乱した机の上に、千円札が置かれているのを認めた。
 真澄は手垢のついたパンフレットが散乱した机の上に、千円札が置かれているのを認めた。
 今日も母ちゃんは帰ってこんのじゃろう。……いつもんことや。最近はふけーきやけん、当たり前や。真澄はそんなことを思いながら、千円札を乱暴にポケットに詰めると机を離れた。
 今日も母ちゃんは帰ってこんのじゃろう。……いつもんことや。最近はふけーきやけん、当たり前や。真澄はそんなことを思いながら、千円札を乱暴にポケットに詰めると机を離れた。
 部屋に入ると素早く扉を閉め、鞄から取り出した消臭剤を部屋の隅々まで丹念に吹きかけた。その作業が終わると、深呼吸をして確かめるように部屋を見渡した。
 部屋に入ると素早く扉を閉め、鞄から取り出した消臭剤を部屋の隅々まで丹念に吹きかけた。その作業が終わると、深呼吸をして確かめるように部屋を見渡した。
 薄かピンクんベッドに、カーペット。本棚に学習机、クローゼットに白んカーテン。統一感があって、整理されとって、清潔で、そして何よりよか匂いや。うちだけんピンクん世界。うちは、こん中でだけ生ききる。
 薄かピンクんベッドに、カーペット。本棚に学習机、クローゼットに白んカーテン。統一感があって、整理されとって、清潔で、そして何よりよか匂いや。うちだけんピンクん世界。うちは、こん中でだけ生ききる。
 満足した真澄は、自分のセーラー服の匂いを嗅いだ。夏の学校生活を一日耐えきった身体は、盲目な情熱のような不快な香りがした。眉間に皺を寄せた真澄はクローゼットからいい匂いのする服を取り出し風呂道具を用意すると、息を止めて部屋の扉を開け、素早く外へと駆け出た。
 満足した真澄は、自分の制服の匂いを嗅いだ。夏の学校生活を一日耐えきった身体は、盲目な情熱のような不快な香りがした。眉間に皺を寄せた真澄はクローゼットからいい匂いのする服を取り出し風呂道具を用意すると、息を止めて部屋の扉を開け、素早く外へと駆け出た。
 鍵を閉め振り向くと、生気を感じさせない団地がめいっぱいの茜色に染められていた。真澄はその色に、逆にじっと見つめられているような気がして、小走りで銭湯へ向かった。
 鍵を閉め振り向くと、生気を感じさせない団地がめいっぱいの茜色に染められていた。真澄はその色に、逆にじっと見つめられているような気がして、小走りで銭湯へ向かった。


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 シングルマザーの生活は苦しく、母は夜遅くまで働き詰めで、必然的に真澄は鍵っ子になった。給食費が払えないこともざらにあった。上履きやランドセルも、中古のものを使った。もちろん部活など簡単には入れないし、友達と遊ぶこともできなかった。真澄はクラスで孤立したのはごく自然なことだったと言えよう。いじめられるというわけではない、それどころか、皆優しく接してくれる。だがそこにそれ以上がないのだ。そういう人種のことを「あまりもん」と真澄は呼んでいる。「あまりもん」は「あまりもん」としか一緒に居られない。それも他のみんなが一緒にいるのとは訳が違う。味噌汁を飲み終えた時に底に残るちょびっとの中にいるような感じだ。そうして真澄は、ずっと「あまりもん」として生きていた。しかし、改善しない生活のままでも、二人は楽しく生活していた。母には可愛い盛りの娘がいて、娘には若くて美しい母がいたからだ。
 シングルマザーの生活は苦しく、母は夜遅くまで働き詰めで、必然的に真澄は鍵っ子になった。給食費が払えないこともざらにあった。上履きやランドセルも、中古のものを使った。もちろん部活など簡単には入れないし、友達と遊ぶこともできなかった。真澄はクラスで孤立したのはごく自然なことだったと言えよう。いじめられるというわけではない、それどころか、皆優しく接してくれる。だがそこにそれ以上がないのだ。そういう人種のことを「あまりもん」と真澄は呼んでいる。「あまりもん」は「あまりもん」としか一緒に居られない。それも他のみんなが一緒にいるのとは訳が違う。味噌汁を飲み終えた時に底に残るちょびっとの中にいるような感じだ。そうして真澄は、ずっと「あまりもん」として生きていた。しかし、改善しない生活のままでも、二人は楽しく生活していた。母には可愛い盛りの娘がいて、娘には若くて美しい母がいたからだ。
 その幸せな生活の歯車が狂いはじめたのは、真澄が高学年になった頃だっだ。すでに三十を超えていた母の肌は、急激に張りを失った。髪の潤いは日に増して消えていった。化粧が濃くなり、粉っぽくなった。仕事が減ったからか夜に家にいることが多くなり、家で飲むようになった。真澄が母の職業を察するようになったのもその頃だ。男の人が何人か家に来た。
 その幸せな生活の歯車が狂いはじめたのは、真澄が高学年になった頃だっだ。すでに三十を超えていた母の肌は、急激に張りを失った。髪の潤いは日に増して消えていった。化粧が濃くなり、粉っぽくなった。仕事が減ったからか夜に家にいることが多くなり、家で飲むようになった。真澄が母の職業を察するようになったのもその頃だ。男の人が何人か家に来た。
 最初は広告だった。豊胸手術の怪しげな広告が部屋のポストに入っていた。真澄が水道の請求書と一緒に部屋に持ち帰ってそれを机に置いた時、母はあまり関心を示さなかったのを今でも覚えている。いくらか経ち、真澄がその広告を忘れたくらいに、一つのパンフレットが机に置かれた。豊胸手術についての、近くの医院のものだ。それからお札だけ置いて夜の仕事に出かける回数が少しずつ増えていった。パンフレットは着実に増え、それとともに部屋は汚くなっていった。最初は片付けていた真澄も、ペースが間に合わなくなると諦めた。母の様子もみるみる変わっていった。真澄は母とほとんど顔を合わせなくなった。週に三日会えたら多い方といった具合だった。その上会う時は決まって酔っていて、躁状態で興奮しているか、でなければ鬱状態で、喋りかけても応答さえしないかの二択だった。躁状態の時は決まって豊胸手術の話ばかりした。「豊胸手術は五十万から、高かところでは百万くらいするとばってん、やっぱり高かところは違うんばい。うちも高か方がよかねぇ。安全なんやあ。安全やし形もよかし長持ちもする。……そうなんよずっとふとかままではおらられんとよ。……ばってんたっかれば長持ちするし、うちもそうするわ。体へん負担も少なかし……麻酔もしっかりしとーけん痛うもなかし。……そうそう豊胸手術って言うてんね何個も種類があるんばい。ほらここ、こん福岡んT医院やったのこん方法やったら入院までせんでもそん日で帰るる……ヒアルロン酸ってんば入るるんよ、ほら注射みたいやけんね、チューって。ばってん長持ちせんけん、うちゃこれで行こうと思うと、そうそう、シリコンバッグ……自然に仕上がるし。こん大阪んS美容外科に、K先生っていう先生がおってね、ハンサムで腕も良うてすっごか評判がよかと……。ここでやろうか迷うとう……」真澄は変わっていく母を不気味に感じて、距離を置いた。パンフレットはどんどん増え、県を跨いだ医院のパンフレットも増えた。中には東京のもあった。段々と鬱状態の時が増え、母は見るからに憔悴していくようだった。母は口癖のように「金ん足らん」と嘆いた。ゴミは、床を埋め尽くさんばかりに増えていった。真澄はそんな母を見るのが辛くて、部屋へと篭った。
 最初は広告だった。豊胸手術の怪しげな広告が部屋のポストに入っていた。真澄が水道の請求書と一緒に部屋に持ち帰ってそれを机に置いた時、母はあまり関心を示さなかったのを覚えている。いくらか経ち、真澄がその広告を忘れたくらいに、一つのパンフレットが机に置かれた。豊胸手術についての、近くの医院のものだ。それからお札だけ置いて夜の仕事に出かける回数が少しずつ増えていった。パンフレットは着実に増え、それとともに部屋は汚くなっていった。最初は片付けていた真澄も、ペースが間に合わなくなると諦めた。母の様子もみるみる変わっていった。真澄は母とほとんど顔を合わせなくなった。週に三日会えたら多い方といった具合だった。その上会う時は決まって酔っていて、躁状態で興奮しているか、でなければ鬱状態で、喋りかけても応答さえしないかの二択だった。躁状態の時は決まって豊胸手術の話ばかりした。「豊胸手術は五十万から、高かところでは百万くらいするとばってん、やっぱり高かところは違うんばい。うちも高か方がよかねぇ。安全なんやあ。安全やし形もよかし長持ちもする。……そうなんよずっとふとかままではおらられんとよ。……ばってんたっかれば長持ちするし、うちもそうするわ。体へん負担も少なかし……麻酔もしっかりしとーけん痛うもなかし。……そうそう豊胸手術って言うてんね何個も種類があるんばい。ほらここ、こん福岡んT医院やったのこん方法やったら入院までせんでもそん日で帰るる……ヒアルロン酸ってんば入るるんよ、ほら注射みたいやけんね、チューって。ばってん長持ちせんけん、うちゃこれで行こうと思うと、そうそう、シリコンバッグ……自然に仕上がるし。こん大阪んS美容外科に、K先生っていう先生がおってね、ハンサムで腕も良うてすっごか評判がよかと……。ここでやろうか迷うとう……」真澄は変わっていく母を不気味に感じて、距離を置いた。パンフレットはどんどん増え、県を跨いだ医院のパンフレットも増えた。中には東京のもあった。段々と鬱状態の時が増え、母は見るからに憔悴していくようだった。母は口癖のように「金ん足らん」と嘆いた。ゴミは、床を埋め尽くさんばかりに増えていった。真澄はそんな母を見るのが辛くて、部屋へと篭った。




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 あん後花那ちゃんは自分ば、髪ば乾かし終えるまで待っとってくれて、そん間、ようけん話ばした。喋った内容は緊張したけんかぼんやりとしか覚えとらんばってん、ばりくだらんことばっかりで楽しかったことだけは、ちゃんとこけー記憶されと。
 あん後花那ちゃんは自分ば、髪ば乾かし終えるまで待っとってくれて、そん間、ようけん話ばした。喋った内容は緊張したけんかぼんやりとしか覚えとらんばってん、ばりくだらんことばっかりで楽しかったことだけは、ちゃんとこけー記憶されと。
 真澄は胸に手を当てた。
 真澄は柔い胸に手を当てた。
 嫌な人じゃなかったな。ちゅうか、ばり面白か人やった。食わず好かんしとったんやろうか。どうしよう、嬉しか。一生懸命なら「あまりもん」にもこがん事があるんばい。
 嫌な人じゃなかったな。ちゅうか、ばり面白か人やった。食わず好かんしとったんやろうか。どうしよう、嬉しか。一生懸命なら「あまりもん」にもこがん事があるんばい。
「花那ちゃん」
「花那ちゃん」
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 帰りがけにコンビニに寄って、サラダとツナマヨおにぎりを買った。真澄はお金の精算をしながら、家路を辿った。
 帰りがけにコンビニに寄って、サラダとツナマヨおにぎりを買った。真澄はお金の精算をしながら、家路を辿った。
 銭湯ん中学生料金で二百二十円。コインランドリーで三百円。サラダとおにぎりで二百五十二円。残りは二百二十八円や。
 銭湯ん中学生料金で二百二十円。コインランドリーで三百円。サラダとおにぎりで二百五十二円。残りは二百二十八円や。
 いつも変わらない数字だが、真澄は毎回計算するようにしていた。計算は非常に得意だったし、そうするとことで、自分がお金を持っていると実感できるからだ。
 いつも変わらない数字だが、真澄は毎回計算するようにしていた。計算は得意だったし、そうするとことで、それが自分のお金だということを実感できるからだ。
 今日は、お金ば貯め始め二百九十三日目や。二百二十八かくる二百九十三で六万六千八百四。二週間に一度消臭剤とスプレー、あと風呂周りん道具買うけん、そこから千三百四十四かくる二十ん二万六千八百八十円ば引いて残りは三万九千九百二十四円。よし、明日で四万円が貯まる。
 今日は、お金ば貯め始め二百九十三日目や。二百二十八かくる二百九十三で六万六千八百四。二週間に一度消臭剤と洗剤、あと風呂周りん道具買うけん、そこから千三百四十四かくる二十ん二万六千八百八十円ば引いて残りは三万九千九百二十四円。よし、明日で四万円が貯まる。
 使い道について考えたことはなかった。ただお金が溜まっていると言うだけで、真澄はなぜだか安心した。
 使い道について考えたことはなかった。ただお金が溜まっていると言うだけで、真澄はなぜだか安心した。


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