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<big>'''僕と卵焼き'''</big>
'''ババアゲーム'''とは、纏足ババアゲームから派生した、ババアに任意の事物の特性を仮託させるというゲームである。


 卵焼きは僕が作れる数少ない料理の一つだ。小学生の時、年に一度、給食ではなく弁当を食べる行事があった。児童は少なくとも一品目は自作しないといけないというルールがあり、その際に母親からレシピを教わったように思う。溶き卵に軽く味をつけ、油を引いて温めたフライパンにまずは半量流し入れる。卵焼き用の小さくて四角いフライパンがあり、成形は小学生でも簡単だった。ある程度固まったら菜箸で巻いていき、空いたスペースに残りの卵を投入する。あとは同じことを繰り返せば完成だ。
==概要==
<br> これから述べるのは完全な私見である。手軽さの割に、普段の食卓に卵焼きが並ぶことはあまりない。並ぶとしたら、似た料理なら目玉焼きかオムレツであろうか。思うに、卵焼きは弁当に特化した料理なのであろう。甘い味つけの卵焼きは、通常のご飯にはあまり向かない。しょっぱいおかずが席巻している食卓に、卵焼きが入り込む余地はもはや残されていないのだ。しかし、こと弁当となると、話が変わってくる。弁当とは、冷めることが前提となった料理である。常温のものを食べるとしたとき、甘いものの方が味が落ちにくい。そのため、卵焼きは弁当におけるタンパク源のエースとして世の弁当箱に君臨するに至ったのだろう。
纏足ババアゲームは、長距離ウォーキングの往路の後半に生み出され、一時の隆盛を誇ったゲームである。[[魯迅 (ゲーム)|魯迅ゲーム]]に続いて常習者を魅了したが、復路には[[畜生!]]に取って代わられた。
<br> だが、僕はだし巻き玉子の方が好きだ。


<big>'''僕とタオルケット'''</big>
しかしその後、このゲームは変質し、纏足から脱却した「ババアゲーム」として生まれ変わった。再び息を吹き返したババアゲームはさらなる繁栄を謳歌した。


 寒いが羽毛布団を引っ張り出してくるまでもない日は、とても寝苦しい。大抵僕は薄いタオルケット一枚で戦う。それをかぶって寝ようとするのだが、問題は頭である。突出部は効率的に放熱するので、特に耳なんかは非常に冷える。枕に押し付けて暖をとろうにも、嘆かわしいことに両耳を同時に下にすることはできない。そこでタオルケットを頭までかぶるのだが、そうすると今度は息が苦しい。呼吸が窮屈になって寝れたものではない。そうしてまたタオルケットを下ろすのである。
常習者は数々のゲームを作り上げてきたが、ババアゲームを最後に新たな言葉遊びの創出は下火になり、やがてなくなった。ババアゲームは、常習者の自然発生的ゲームの集大成にして最後の花火であると言える。
<br> 一方、夏にはタオルケットをかぶる必要はない。しかし、困ったもので体の上に何か乗っていないと落ち着かないのだ。そこで、タオルケットを少しだけかける。問題は、どこにかけるのかだ。頭寒足熱というし足がいいかと思うが、姿勢を変えるたびに蹴飛ばしてしまう。冷やしてはいけないからお腹にしてみるが、今度は何か暑い。まったく、困ったものである。
<br> この前、気力がない上に寒かったので、昼だというのにベッドに寝転がってタオルケットをかぶっていた。すると、そのタオルケットが随分前からあるものであることに気がついた。二つ前の家に住んでいた時には既にあった。ところどころほつれてきていて、経てきた時間が感じられた。そこではたと思い当たったのだが、僕は今までタオルケットのことをまったく意識していなかった。タオルケットがあるのはもちろん知っていたし、毎夜使ってもいる。しかし、その細部は全くと言っていいほど認識していなかったのだ。そう気づく一分前にタオルケットの色を問われたら、答えられなかったように思うのだ。タオルケットがあることはわかっていたが、言うなれば『タオルケットという概念』として捉えていて、『前の前の家でも使っていた赤いタオルケット』という個体としては微塵も認識していなかった。
<br> 僕の記憶力や注意力が弱いだけなのか、それとも他の人も同じようなことがあるのか。あなたは自分の寝ているシーツがどんな柄だったか、覚えているだろうか。


<big>'''僕とソシャゲ'''</big>
==歴史==
 
===長距離ウォーキング往路後半===
 一年前くらいまで、僕は多くの学生の例に漏れずソシャゲでたくさん遊んでいた。平日でも日に二時間は優に費やしていただろうか。やはり面白いのである。それに毎日ログインすることで得するようになっている。ログボだけでも集めたくなるのは仕方あるまい。多くは勝負事の体裁をとっているため、負けず嫌いの僕は「勝つまでご飯食べない!」などと馬鹿な決心をしては連敗し続けていたものだ。転機は去年の学園祭だった。[[名探偵武者小路の事件簿 消えた打出の小槌の謎|自主制作映画]]の編集をしていた僕は、そのためのストレージを確保するために多くのアプリを削除した。そこですっぱりというわけではないが、僕は次第にスマホゲームから離れるようになった。代わりにSNSの使用時間が大幅に増えたのだが。
きっかけは、常習者が興じていた魯迅ゲームの行き詰まりだった。「魯迅」に似た音は無数にあるが、複数名が一時間以上それを言い続ければ、アイデアは枯渇していく。
<br> 今ではゲームはほぼしなくなりSNSの時間も減った。あんなことで時間を浪費するなんて愚かしいとすら思っている。そう思うまでに、スマホを与えられてから三年近くもかかってしまった。代わりに音楽を流す時間が大幅に増えただけのような気もするが。親にスマホを買ってもらったとき、ほとんど一日中スマホを触っている姉や一緒に帰っているときにさえゲームをしている[[利用者:神座麟|級友]]の姿を見てきたために、ああはなるまいと思っていた。しかし実際はこのざまであった。
<br> 中高生はスマホを持たせるにはあまりに幼すぎる。子供だから自制などできない。僕だっていい例だし、弟もテレビのある部屋に籠もりっきりで何をしているのかと思ったらどうもYouTubeを見ているらしい。大画面で。仕方ないのでマサラダといよわを大量に再生して履歴を汚染しておいた。それはいいとして、だからといって大人になってからスマホを持つようにしたらいいのかというと、それも違う気もする。大人になってからスマホを持ったとて、他の人で何年か遅れで同じルートを辿るだけのようにも思う。スマホから脱却するには、スマホを持ってからいろんなアホなことをしでかし、そこから自分で学ぶ経験こそが必要なのではないかと思ったりもする。ガキどもは僕が今まで捨ててきたアホな性格・言動を恥じることなくやっている。おそらく数年後には「死にたい……」と自分の過去を振り返っているのだろう。今の僕のように。最近は中学生を見てよくそのことを実感する。数年の黒歴史量産期間は誰にも不可避のものなのかもしれない。そう考えると、子供のうちに愚かな所業をしておいてできるだけ早い更生に期待するのがまだベターやもしれぬ。
 
<big>'''僕と数学'''</big>
 
 僕はたまに[[利用者:キュアラプラプ|キュアラプラプ]]氏と数学について議論を戦わせる。彼の主張はこうだ。「国語は読めば正答に辿り着ける。しかし数学は解法を思いついた者勝ちのインスピレーションバトルだ」。対する私は「数学の解法は論理的思考によって導出可能だ。国語こそ解釈しだいでどうとでも捉えられる」と言ってきた。数学の答えが一つに定まる厳密性に惹かれて理系に進学した者として、この主張を崩すわけにはいかない。
<br> ところが、少し前、数学の放課後講座に行ったときである。難関大学の入試問題が出され、僕は手も足も出なかった。出たとしても左足の指くらいだった。難関大の過去問とはいえ比較的易しく、既に習った範囲で(理論上は)解ける問題である。先生による解説がなされ、左足の指以上の出し方が説明されると、僕は思った。これはインスピレーションバトルだ。両辺にnをかけるなんて思いつくわけがない。
<br> こうして僕は思い知った。数学はレベルが高いほどインスピレーションバトルになる。キュアラプラプ氏が数学をインスピレーションバトルだと言い募っていたのは、彼がより難しい数学をしていたためだったのだ。内進文系諸君はなぜか我々より難易度の高い教材を使っている。指導教諭の頭がおかしいとしか思えないのだが、ともかく彼らはハイレベルな問題を解こうとしているから、数学をインスピレーションバトルに感じるのではないか。
<br> ならばどうすればよいのか。十分な演習が解決すると僕は思う。膨大な量の問題を解くことで多くのインスピレーションを事前に獲得しておく。そうすることで、初見の解法が少なくなり、ハイレベルな問題もインスピレーションバトルではなくなるのではないか。そのとき、難関大の入試問題すらも論理的思考でねじ伏せることが可能になる。
<br> 理論上はそうだ。実際問題、「膨大な量の問題を解く」なんてできそうにない。難しい数学はインスピレーションバトルであり続けるだろう。
 
<big>'''僕と睡眠時間'''</big>
 
 この前、Mitchie Mの『ビバハピ』を聞いていたら驚いた。初音ミクの調声のあまりの上手さにではない。いやそれも驚嘆したが、「クタクタ 睡眠は8時間」という歌詞にである。これは僕の平日の睡眠時間に相当する。疲れてるなら10時間寝ろよと僕は思った。この歌に限らず、「8時間睡眠」といえば長い眠りの代名詞だし、フィクションの大人はよく1時くらいまで起きている。
<br> 僕はおそらく多くの同年代の人より寝るのが早い。基本的に10時に床につく。最近は弟より早いくらいだ。僕が小学生のときは9時過ぎには寝ていたのに。平日は8時間近く寝ているが、十分かと言われるとそうでもない。その証拠に、休日は10時間くらい寝ている。つまり普段の睡眠は足りていないのだ。しかし、友達に就寝時刻を聞くと早くても11時とかで、日付が変わる頃が一番多いような気がする。この前なんか、朝8時くらいに起きて最近の更新をチェックしたら、深夜3時くらいに[[Sisters:WikiWikiリファレンス/公序ソング#コンビニ・バイト|公序ソング]]を投稿している[[利用者:芯|人]]がいた。寝ろやと僕は常々思っている。そしたらその時そいつは既に起床していた。僕はびっくりした。遅寝早起きである。僕の理想と正反対である。
<br> 世にはショートスリーパーなどという生き物もいるらしい。そういう人と比すと、僕は一日当たり数時間も活動時間が短くなっているわけである。それは不利と言えるかもしれない。しかし、僕は長めに寝ることで健康を得ている気がするので、悔やむ気持ちはない。僕が危惧しているのは逆である。僕は無意識のうちに、自らの早寝を誇らしく思っていた。寝てない自慢の逆、寝てる自慢をしていた心当たりが僕にはある。「え〜そんな時間まで起きてたの? 僕は10時には寝てたよお」みたいな具合である。僕と話していた人は「墓場で一生寝てろボケナス」と思っていたのかもしれない。怖ろしい。寝てる自慢はやめようと僕は思った。え? 普段いつ寝てるかって? 11時半くらいですかね。

5年5月12日 (K) 22:03時点における版

ババアゲームとは、纏足ババアゲームから派生した、ババアに任意の事物の特性を仮託させるというゲームである。

概要

纏足ババアゲームは、長距離ウォーキングの往路の後半に生み出され、一時の隆盛を誇ったゲームである。魯迅ゲームに続いて常習者を魅了したが、復路には畜生!に取って代わられた。

しかしその後、このゲームは変質し、纏足から脱却した「ババアゲーム」として生まれ変わった。再び息を吹き返したババアゲームはさらなる繁栄を謳歌した。

常習者は数々のゲームを作り上げてきたが、ババアゲームを最後に新たな言葉遊びの創出は下火になり、やがてなくなった。ババアゲームは、常習者の自然発生的ゲームの集大成にして最後の花火であると言える。

歴史

長距離ウォーキング往路後半

きっかけは、常習者が興じていた魯迅ゲームの行き詰まりだった。「魯迅」に似た音は無数にあるが、複数名が一時間以上それを言い続ければ、アイデアは枯渇していく。