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WikiWikiにおいて「物語」を載せる場として真っ先に言及されるのはWikiWikiオンラインノベルだろう。時代が下るとともにオンラインノベルに掲載される小説作品は際限なく完成度を高め、ついに傑作選が紙の本の形で出版されるに至りさえした。その一方で、物語はあらゆるメディアのコンテンツにありふれたものとも言える。公序ソングの歌詞や構談社の漫画本はもちろん、記事にも物語性を有するとされるものが多数ある。では、そこで言われる「物語」とは何か? ここではその内容面の議論を避け、簡単に「前の要素を承けて次々に展開していく筋書き」として考えた。ここでは物語は語られる内容であり、その語られ方である記事やノベル、あるいは公序ソングの歌詞や漫画といった形式とは明確に区別される<ref group="*">この定義においては、本稿の内容もまた物語であるといえる。</ref>。 | |||
物語を語る方法としてノベルや記事を考えると、その違いは歴然として現れる。ノベルすなわち小説の形式は、主に人物(むろん人間である必要は無く、動作または思考を行うものであればよい)をクローズアップして場面という狭い視野の中で情報を描写するものである。ノベルはその場面を自在に転換できるがゆえに、前の要素を承け新しい情報を展開させることに一切の制限が無いため、物語を描くのに適した形式といえる。先ほど挙げた公序ソングの歌詞や漫画も、文章が作品の主役でない点ではノベルと明確に異なるが、場面を展開する上での制限が無く物語を描きやすい形式であることは共通である<ref group="*">例えば "Meine Frau" は物語を音声情報によって語っており、文字情報がそれを補助していると(定義上)説明できる。公序ソングという形式には、自由にこれらの情報を展開する妨げとなる性質は存在しないのである。</ref><ref group="*">ただし、これらの形式が物語を描くのに適しているというのは、その形式で作られた全ての作品が物語を持っているということを全く意味しない。</ref> | 物語を語る方法としてノベルや記事を考えると、その違いは歴然として現れる。ノベルすなわち小説の形式は、主に人物(むろん人間である必要は無く、動作または思考を行うものであればよい)をクローズアップして場面という狭い視野の中で情報を描写するものである。ノベルはその場面を自在に転換できるがゆえに、前の要素を承け新しい情報を展開させることに一切の制限が無いため、物語を描くのに適した形式といえる。先ほど挙げた公序ソングの歌詞や漫画も、文章が作品の主役でない点ではノベルと明確に異なるが、場面を展開する上での制限が無く物語を描きやすい形式であることは共通である<ref group="*">例えば "Meine Frau" は物語を音声情報によって語っており、文字情報がそれを補助していると(定義上)説明できる。公序ソングという形式には、自由にこれらの情報を展開する妨げとなる性質は存在しないのである。</ref><ref group="*">ただし、これらの形式が物語を描くのに適しているというのは、その形式で作られた全ての作品が物語を持っているということを全く意味しない。</ref>。これに対して、記事という形式は主題に関する情報を簡潔に書き記すという目的上、原則その全体像を一度に納め、平坦に情報を描写するものでなければならない。これを達成する記事の機能が節であり、節は複数の観点から並立にその主題を説明する役割を担う。このため、記事の構成要素である節は、ノベル等の構成要素である場面と違って相互の関連や前を承けての発展といったことを行うことが性質上難しく、ゆえに記事は情報を展開させて物語を描き出すのに適さない形式なのである。 | ||
では、「ノベル的な記事」はどのようにこの障壁を乗り越えているのだろうか。その方法論として最も広く受け入れられたのは、「真実節」という手法である。真実節は「[[ジョン]]」を初出とする記事の最後に現れる節であり、その記事に関する隠されていた衝撃的な事実を示す役割を様々な記事で果たしている。ここにおいて、真実節が記事の中で担う機能は、その記事が主題の全体像を収めて情報を平坦に記し伝える全知者として振る舞う範囲を(脚注後の空白によって空間的にも明白な形で)脱し、質的に全く異なる、ノベル等における「場面」と同様の働きができる節を設置して強制的に記事部分を承け情報を展開させるというものだと分析できる。つまり、真実節は記事が確実で網羅的なものであれる範囲の外から記事を一つの「場面」として相対化し、 | |||
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5年12月4日 (I) 15:07時点における版
序
元始、記事は実に太陽であった。常習者のあふれ出る創作意欲は専ら標準名前空間に向かい、日常のあらゆる気づきが膨らまされて記事となった。秀逸な記事選考や定例コンテストといったイベントも、記事を中心とした活動の一環として意欲的に催された。しかし同好会・イベントルーム体制から「受験の闇」を経て情報局体制に至った今日、記事は秀逸な記事選考の前日または当日(!)に自薦記事の駒を確保するためだけに用意なく書き始められる例がほとんどだ。どうして記事への熱が依然と比べて失われたのか、その一つの答えは小説や楽曲、漫画といった既存の枠組みを持つ作品を投稿するメディアが姉妹プロジェクトによって発展したことだ。コンテンツとして洗練された規範を与えられていなかった記事というメディアは、この状況において積極的に創作の主要な舞台とする理由を見出されなくなってしまった。特に記事の競合となったのは、同じく専ら文章による創作の舞台となるオンラインノベルである。近年の名作とされる記事を見ても、一見明白にその大部分がオンラインノベルにあって不思議の無いものであることは多い。今、記事は月である。本来のあり方から倒錯した秀逸な記事選考に依って生き、オンラインノベル的価値付けの光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
本稿は、記事を再びWikiWiki文化中心の太陽とする準備として、記事というメディアを他の姉妹プロジェクトらと同等のレベルで新しく積極的に価値づける試みである。そこでは、「ノベル的な記事」という現象の考察から記事とノベルの別を理解し、特に「ノベルではなく記事を/記事で書く」ことの意味を記事の性質を元に論じる。記事の再興がイベントを盛り上げ、ひいては常習者間の生産的な連帯を高めることを期待したい。
物語る記事
WikiWikiにおいて「物語」を載せる場として真っ先に言及されるのはWikiWikiオンラインノベルだろう。時代が下るとともにオンラインノベルに掲載される小説作品は際限なく完成度を高め、ついに傑作選が紙の本の形で出版されるに至りさえした。その一方で、物語はあらゆるメディアのコンテンツにありふれたものとも言える。公序ソングの歌詞や構談社の漫画本はもちろん、記事にも物語性を有するとされるものが多数ある。では、そこで言われる「物語」とは何か? ここではその内容面の議論を避け、簡単に「前の要素を承けて次々に展開していく筋書き」として考えた。ここでは物語は語られる内容であり、その語られ方である記事やノベル、あるいは公序ソングの歌詞や漫画といった形式とは明確に区別される[* 1]。
物語を語る方法としてノベルや記事を考えると、その違いは歴然として現れる。ノベルすなわち小説の形式は、主に人物(むろん人間である必要は無く、動作または思考を行うものであればよい)をクローズアップして場面という狭い視野の中で情報を描写するものである。ノベルはその場面を自在に転換できるがゆえに、前の要素を承け新しい情報を展開させることに一切の制限が無いため、物語を描くのに適した形式といえる。先ほど挙げた公序ソングの歌詞や漫画も、文章が作品の主役でない点ではノベルと明確に異なるが、場面を展開する上での制限が無く物語を描きやすい形式であることは共通である[* 2][* 3]。これに対して、記事という形式は主題に関する情報を簡潔に書き記すという目的上、原則その全体像を一度に納め、平坦に情報を描写するものでなければならない。これを達成する記事の機能が節であり、節は複数の観点から並立にその主題を説明する役割を担う。このため、記事の構成要素である節は、ノベル等の構成要素である場面と違って相互の関連や前を承けての発展といったことを行うことが性質上難しく、ゆえに記事は情報を展開させて物語を描き出すのに適さない形式なのである。
では、「ノベル的な記事」はどのようにこの障壁を乗り越えているのだろうか。その方法論として最も広く受け入れられたのは、「真実節」という手法である。真実節は「ジョン」を初出とする記事の最後に現れる節であり、その記事に関する隠されていた衝撃的な事実を示す役割を様々な記事で果たしている。ここにおいて、真実節が記事の中で担う機能は、その記事が主題の全体像を収めて情報を平坦に記し伝える全知者として振る舞う範囲を(脚注後の空白によって空間的にも明白な形で)脱し、質的に全く異なる、ノベル等における「場面」と同様の働きができる節を設置して強制的に記事部分を承け情報を展開させるというものだと分析できる。つまり、真実節は記事が確実で網羅的なものであれる範囲の外から記事を一つの「場面」として相対化し、