「利用者:キュアラプラプ/サンドボックス/戊」の版間の差分

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===序===
 三年。産まれた赤子が喋り始めるどころか手先が器用になることでおなじみ、三年の月日。長い凍結期間を経てついに帰って来た伝説の記事投票に際して私キュアラプラプが推薦するのは、記事「[[お花摘みゲーム]]」です。これまでの二度の伝説の記事選考で推薦されてきた記事は、選考に敗れてしまった記事も含め、どれも常習者一個人の作り上げた作品としてその優れた完成度を高く評価されたものでした。しかし「お花摘みゲーム」の素晴らしさは、これらの記事の素晴らしさとは全く趣を異にします。「お花摘みゲーム」は、常習者の協働編集の最高到達点なのです。
 元始、記事は実に太陽であった。常習者のあふれ出る創作意欲は専ら標準名前空間に向かい、日常のあらゆる気づきが膨らまされて記事となった。秀逸な記事選考や定例コンテストといったイベントも、記事を中心とした活動の一環として意欲的に催された。しかし同好会・イベントルーム体制から「受験の闇」を経て情報局体制に至った今日、記事は秀逸な記事選考の前日または当日(!)に自薦記事の駒を確保するためだけに用意なく書き始められる例がほとんどだ。どうして記事への熱が依然と比べて失われたのか、その一つの答えは小説や楽曲、漫画といった既存の枠組みを持つ作品を投稿するメディアが姉妹プロジェクトによって発展したことだ。コンテンツとして洗練された規範を与えられていなかった記事というメディアは、この状況において積極的に創作の主要な舞台とする理由を見出されなくなってしまった。特に記事の競合となったのは、同じく専ら文章による創作の舞台となるオンラインノベルである。近年の名作とされる記事を見ても、一見明白にその大部分がオンラインノベルにあって不思議の無いものであることは多い。今、記事は月である。本来のあり方から倒錯した秀逸な記事選考に依って生き、オンラインノベル的価値付けの光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。


 本稿は、記事を再びWikiWiki文化中心の太陽とする準備として、記事というメディアを他の姉妹プロジェクトらと同等のレベルで新しく積極的に価値づける試みである。そこでは、「ノベル的な記事」という現象の考察から記事とノベルの別を理解し、特に「ノベルではなく記事を/記事で書く」ことの意味を記事の性質を元に論じる。記事の再興がイベントを盛り上げ、ひいては常習者間の生産的な連帯を高めることを期待したい。
 記事を読めば一目瞭然、最初に「お花摘み」の説明を行った後、怒涛のようなWikiWiki大喜利コーナー特有の箇条書きの荒波が押し寄せます。狂ったお嬢様が、トイレに行くことをまったく不可解な言葉で婉曲的に伝え続けているのです。「お花摘みに失礼します」「ちょっとお花を摘みに行ってきます」だったのが、「お下品なパンを焼きましょう」「お尻遊ばせ」「おっ おっ おっ おっ」「お"っ お"っん"」「黄金チワワ」……。あり得ない怪文書の羅列は「お花摘み」の大喜利を飛び出し、何故か記事にある短歌節の中で、「はま寿司 集めて遅し 集めるな 駐車場が 混む」「カッコウが住んでるうろの内壁を炙って食べる民族ですわ」「パーティ ティーパーティ パーティーパーティーパー」「叫びたければ叫べばいい 帰りたければ帰ればいい」「なかんずく 皮膚に生えている毛のその一本一本から 寂れたガレージで寿司を食む 二人の親子」など破調まみれの難解な短歌ブームが発生して、最後には「してないけどね ま、いいさ」という本当によく分からない節の中で、「聞け、大樹の霊! バンジージャンプ」「縦回転奴隷 魂は」など、本当によく分からない言葉遊びをし始めます。このように、記事「お花摘みゲーム」は、一個人には到底成し得ないカオスを抱えた、大喜利記事の極北にして最高傑作なのです。


===物語る記事===
 内容の面白さはもちろん、「お花摘みゲーム」はWikiWikiの歴史を語る上でも非常に象徴的な意味合いを持ちます。常習者の活動が記事から姉妹プロジェクトに重点を移しつつ、「受験の闇」に向かって縮小していく中で、「お花摘みゲーム」は当時の常習者がオフラインで話す話題の半分ほどを占めていた謎の言葉遊びたちの文脈を踏まえつつ、常習者たちの持てる全ての記事への力を引き出し集積した、「受験の闇」前夜最後の花火でした。まさにその苦難を経て三年振りに開催された今回の伝説の記事選考の場において、私キュアラプラプは、この暗黒時代の中で瞬いた一つの閃光、「お花摘みゲーム」を、未来永劫語り継ぎ、伝えていきたいのです。絶対的な眩さと闇に消える叙情性は、まさに伝説とするに相応しい。思えばそれは、「お花摘みゲーム」大喜利節にも記されていたことでした――。<blockquote>侮ることなかれ、ボリビア</blockquote>
 WikiWikiにおいて「物語」を載せる場として真っ先に言及されるのはWikiWikiオンラインノベルだろう。時代が下るとともにオンラインノベルに掲載される小説作品は際限なく完成度を高め、ついに傑作選が紙の本の形で出版されるに至りさえした。その一方で、物語はあらゆるメディアのコンテンツにありふれたものとも言える。公序ソングの歌詞や構談社の漫画本はもちろん、記事にも物語性を有するとされるものが多数ある。では、そこで言われる「物語」とは何か? ここではその内容面の議論を避け、簡単に「前の要素を承けて次々に展開していく筋書き」として考えた。ここでは物語は語られる内容であり、その語られ方である記事やノベル、あるいは公序ソングの歌詞や漫画といった形式とは明確に区別される。
 
 物語を語る方法としてノベルや記事を考えると、その違いは歴然として現れる。ノベルすなわち小説の形式は、主に人物(むろん人間である必要は無く、動作または思考を行うものであればよい)をクローズアップして場面という狭い視野の中で情報を描写するものである。ノベルはその場面を自在に転換できるがゆえに、前の要素を承け新しい情報を展開させることに一切の制限が無いため、物語を描くのに適した形式といえる。先ほど挙げた公序ソングの歌詞や漫画も、文章が作品の主役でない点ではノベルと明確に異なるが、場面を展開する上での制限が無く物語を描きやすい形式であることは共通である<ref group="*">例えば "Meine Frau" は物語を音声情報によって語っており、文字情報がそれを補助していると(定義上)説明できる。音声情報にも文字情報にも、自由にそれを展開する妨げになる要素は存在しない。</ref><ref group="*">ただし、これらの形式が物語を描くのに適しているというのは、その形式で作られた全ての作品が物語を持っているということを全く意味しない。</ref>。これに対して、記事という形式は主題に関する情報を簡潔に書き記すという目的上、その全体像を一度に納め、平坦に情報を描写するものである。この性質により、記事は情報を展開させて物語を描き出すのに適さない。
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