「エトセトラ」の版間の差分
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1年12月18日 (ゐ) 20:50時点における版
エトセトラ(ラテン語:et cetera)とは、エ、セ、ラ、etc...のことである。etcとも略される。
概要
前述の通り、「エトセトラ」は本質的には「エ」と「セ」と「ラ」、および「その他」("etc")によって構成される語句であるというのが現在の主流な解釈である。
しかしながら、これが一般的に持つ意味は「その他」のみであり、つまるところ、この言葉は循環定義をとっているといえることになる。これについての詳細は後述する、
また、そもそも「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものなのかについても未だに定説はない。
歴史
発生
エトセトラは、もともとラテン語の語句として生まれたものであり、直訳するならば「および、残りのもの」という、平凡な語句であった。
しかしながら、これが世界各地に広まっていくにつれ、この語句の中にある「ト」は、日本語の共格助詞「と」であるという認識が一般化し、けれどももともとの「その他」という意味は残り続けたため、
これによってこの語句、「エトセトラ」は、「『エ』と『セ』と『ラ』、すなわち『その他』」と再定義されることとなった。
修正
その後、これに一石を投じたのが、日本語学者である干支瀬戸羅氏だった。彼は「いや『エ』と『セ』と『ラ』に『その他』の意味はないだろ…」という衝撃的な持論を展開したのだ。
そしてそれと同時に発表された、これを裏付ける文章は以下のものであった。
「エとセとラ、etc」 ~ エトセトラ について、干支瀬戸羅 |
これはつまり、「エ」と「セ」と「ラ」、そして「その他」としての「エ」と「セ」と「ラ」を同時に表す一文であったのだが、少なくとも当時は「エ」も「セ」も「ラ」もそれ自体に他ならないものと考えられていた。
このため、一見整合性があるようにも見えるこの一文は、例えば「バナナ、その他にも、バナナ」のような、論理的におかしなものであることが明らかとなる。
そうなると、必然的にこれは当時の「エトセトラ」に対する認識は間違いであるということの指摘を帯びるものとして成立することになったのである。
同氏は、これをエトセトラ=セトラ間の非同一性(潜性セトラ説とも)という主張によって説明しようとした。これは、前述した通り「エ」と「セ」と「ラ」は「その他」と同一のものではないというものである。
つまり、「エトセトラ」は「エ」と「セ」と「ラ」、そしてそれらとは別に見えない形で潜在する「その他」、これらの概念によって構成されているという主張であり、これは現代エトセトラ学における大きな革命とされている。
しかしながら、これでは「エトセトラ」の定義に「エトセトラ」自身が使われ、一般的に意味を成さないとされる循環定義となってしまっていることから、完成された主張とは言えないという欠点を抱えている。
学会の分裂
この主張に異を唱える者も存在した。同じく日本語学者の園田尊皇放火氏は定性エトセトラ説を主張し、これは「エ」と「セ」と「ラ」を具体物と見做し、つまり特定の「エ」「セ」「ラ」を認めて矛盾を回避するというものだった。
例えば、前述のように「バナナ、その他にも、バナナ」は非文であるが、「バナナA、その他にも、バナナAでない全バナナ」としてみなすことができれば、それは誤りではないことが見て取れる。
さらに、潜性セトラ節の大きな問題である、循環定義性に関しても解決できることから、これは大きな注目を集め、多くの支持者を生み出すこととなった。
また、この主張によってエトセトラ学会は干支派(潜性セトラ派・潜性派とも)と園田派(定性エトセトラ派・定性派とも)に分かれて対立することになり、
その軸ともいえる「エ」と「セ」と「ラ」の性質に関しては、激しく対立しながら研究を進めることとなった。
現在
現在のエトセトラ学会は、干支派と園田派の対立も大きく緩和しており、それぞれの説を横断したエトセトラの研究もかなり盛んになってきている。
しかし、「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものであるのか、前述の通り未だはっきりとした答えは出ていない。
このため、現在ではこれらを性質ごとすべて意図的に無視した潜性セトラ説の方がより完成された理論として定説となっているが、今後間違いなくこれは覆されることであろう。
また、そもそも「エトセトラ」の「ト」は日本語の助詞「と」ではなく、意味として「エ」も「セ」も「ラ」も含まないという「エトセトラ非自己包含説」も、主にその辺の一般人であるエトス・エートル・アン氏によって主張されている。[1]
確かにこの主張はすべての問題を解決できているが、あまりにも根拠に欠けた粗末なものであることから、全く相手にされていないというのが現状である。
エトセトラ
「エ」と「セ」と「ラ」が、実際のところどのようなものであるのかについて、これまでにされてきた主張を以下に列挙しておく。
この節は大喜利である。面白いのを思いついたら追加していきなさい。 |
- 非存在「エ」と非存在「セ」と非存在「ラ」。主に干支派が推している。
- 具体的存在「エ」と具体的存在「セ」と具体的存在「ラ」。主に園田派が推している。
- えくぼと背筋とラジオ体操。主に体操集団が推している。
- 円筒と銭湯と乱闘。主に ん党 が推している。
- "エ"トセトラとエト"セ"トラとエトセト"ラ"。主に推しているのは、推している人、etc...。
- 絵と瀬と螺。主に一文字教が推している。
- 円周率と生産性のない凄惨な罪の清算ゲームとラプラプの悪魔。主に常習者が推している。
循環定義の問題点
「リンゴ[2]、バナナ[3]、その他[4]」と言ったとき、「その他」が少なくとも「リンゴ」と「バナナ」ではないことからも分かる通り、「その他」はこれが係る全てと異なる。
このことから、「リンゴ,バナナ,etc ⇔ リンゴ,バナナ,¬(リンゴ∨バナナ)」は正しいといえる。これを一般化すると、次のようになる。
x,etc ⇔ x,¬x[5]
これに、「エトセトラ ⇔ エ,セ,ラ」と仮定して、前述した例文を示すと、以下のようになる。
エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ
⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)
∴ エ,セ,ラ ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)
「『エ』と『セ』と『ラ』は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生より、背理法によって「エトセトラ = エ,セ,ラ」という仮定、つまり以前の定義が誤っていることが分かるのである。
では、潜性セトラ説に基づき、「エトセトラ ⇔ エ,セ,ラ,エトセトラ」と仮定すると、以下のようになる。
エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc
⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)
∴ エ,セ,ラ,etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)
「『エ』と『セ』と『ラ』およびその他は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生により、背理法によって「エトセトラ = エ,セ,ラ,エトセトラ」という仮定が誤っていることが分かるのである。
これは、"etc"、エトセトラが「『エ』と『セ』と『ラ』、そして自身」という循環定義をされているために、無限に「エ」と「セ」と「ラ」を取り出せるため、
あるところで打ち切ったものと、それ以上に続けたものとで結果が異なってしまうことが原因である。例えば以下のように、「エ,セ,ラ,etc」ではなく「エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc」をエトセントラル・ドグマに当てはめると矛盾は発生しない。
エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc
⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)
∴ etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)
この矛盾を解決するために、干支派は「『エ』と『セ』と『ラ』は実際には存在せず、仮想にも存在しない『非存在』である」という主張を用いて、無視するべきものを無視していないがために矛盾が生じているという立場をとっている。
これによれば、「エ」も「セ」も「ラ」も考慮されないものとなり、さらにエトセトラは単独で機能しないため、この例は全くもって無意味なものであるという。これこそが潜性セトラ説の本質なのである。
さらに、そうなれば「エトセトラ ⇔ エトセトラ」という、全くもって否定しがたい主張が可能になるのだ。なお、これに関して、前述したエトセトラ非自己包含説との類似性も主張されている。
結局のところ、「エ」と「セ」と「ラ」の性質が解明されない限り、エトセトラ学の発展、つまり完成を目にすることはできないのである。