「世界五分後仮説」の版間の差分

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これによって、世界(すべての存在)を構成する三つの存在「自分」、「他の存在」、そしてそれらをつなぐ「意識」不確実性、つまりすべての存在、「世界」の不確実性が確認された。これがこの仮説の前提である。
これによって、世界(すべての存在)を構成する三つの存在「自分」、「他の存在」、そしてそれらをつなぐ「意識」の不確実性、つまりすべての存在、「世界」の不確実性が確認された。これがこの仮説の前提である。


===結論===
===結論===
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つまり、最も優れている、といっても真に過言ではないようなものは、安直に言うならば"完全な無"のみであるのだが、その何もないようなところから出てきた、その"前提"と同様に再帰的な相互の仮の関係がもとにされ、
つまり、最も優れている、といっても真に過言ではないようなものは、安直に言うならば"完全な無"のみであるのだが、その何もないようなところから出てきた、その"前提"と同様に再帰的な相互の仮の関係がもとにされ、


つまり脆弱であるが、その概念だけは全く揺るがない「論理的でないもの」、これこそが意識できるものがそれたりえる性質、それどころか論理そのものさえをも支えることになる、という考えである。
つまり脆弱であるが、その概念だけは全く揺るがない「論理的でないもの」、これこそが、意識できるものがそれたりえる性質、それどころか論理そのものさえをも支えることになる、という考えである。


現在では、人間の生み出した「論理」が先鋭化していくにつれて、最早「論理的思考至上主義社会」ともいえるような状態が一般化している。
現在では、人間の生み出した「論理」が先鋭化していくにつれて、最早「論理的思考至上主義社会」ともいえるような状態が一般化している。
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*[[オスォナダツウェロク存在学]](WikiWiki)
*[[オスォナダツウェロク存在学]](WikiWiki)


[[カテゴリ:オスォナダツウェロク]]
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