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==8月13日20時32分 城島浩司==
==8月13日22時30分 城島浩司==
YGT-081-“ロックイーター”の調査は順調に進んでいた。沖縄県糸満市に位置する、沖縄本島最南端の喜屋武岬。波打ち際より少し陸側に、礁池が広がっている。ここの方言では「イノー」というらしい。
この1時間余り、現場はてんてこまいだった。市街地に突如現れた外部存在。暴虐の限りを尽くしたそれは、多くの人的・物的損害を出したが、ほどなくして姿をくらませた。第二十七分隊は、被災地での救助活動にあたった。派遣された自衛隊や現地の消防団などと共に、怪我人を保護したり瓦礫の下に生き埋めにされた人々を助け出したりした。しかし、分隊長である浩司と、第一小隊長の樋口は、救助活動から離脱して会議に出席している。


日は沈んだが、そこかしこに設置された投光器によって、岩の地面は明るく照らされていた。埋め立て工事前の調査という名目で、YGT財団機動部隊第二十七分隊“ルック・ハイ”は派遣されていた。その真の目的は、半径10メートルもの岩をくり抜く、ロックイーターの調査。このYGTは最近発見されたばかりで、どのような形態をしているのか、そもそも実体があるのかすらわかっていない。だからこそ、この調査は意義がある。“ルック・ハイ”分隊長・城島浩司は、そう考えていた。
財団は、各地に民家に見せかけた小基地を持っている。いかなる時、いかなる場所でも、突発事態に対応できるようにだ。そして、現場に近い小基地の中に、二人はいた。予告された時刻通りに、財団の秘密回線が開き、会議が始まった。


第一小隊長の樋口小百合が、資料が挟まれたバインダー片手に駆け寄ってきた。
浩司と樋口は、白い椅子に並んで腰掛け、正面のスクリーンに目を向けていた。22時30分、それまで黒かったスクリーンに、突如としていくつかの人の姿が映し出された。その中には、機動部隊元帥・剣崎剛毅の姿もある。慌ただしく、財団の会議が始まった。
<br>「分隊長、超音波探査が完了しました。向こうの旗が立っている地点の直下12.08メートル地点を中心に、半径9.66メートルの完全な球の岩がくり抜かれています」
<br>「半径は今まで発見された穴のそれと一致するな」
<br>「はい。崩落の危険性は、当座は無いようです」
<br>「よし。至急報告書をまとめろ。日付が変わらないうちに、本部に送付するんだ」
<br>「了解です。……カバーストーリーはどうなるんでしょうかね。やっぱりシンクホールとかでしょうか」
<br> 樋口が職務範囲を逸脱する話をすることは今まで無かったから、浩司はちょっと驚いた。
<br>「まあそんなところじゃないか。だがそれは隠蔽作業員のやつらが考えることだ。俺たちが考える必要は無い」
<br>「……おっしゃる通りです。失礼しました」
<br> ちょっと冷淡に言い過ぎただろうか。樋口の声が想像より沈んでいたため、浩司は付け足した。
<br>「樋口は隠蔽作業員を目指しているのか?」
<br> 少し躊躇するような間のあと、樋口は首肯した。ショートカットの髪が揺れる。
<br> 財団職員、常習者はAからEまでのクラスに分類されている。アルファベットが早いほど、安全で機密へのアクセス権も強い。樋口を含めた機動部隊員はDクラスで、浩司をはじめとする分隊長だけはCクラス職員だ。職員たちは、経験や貢献度、技能などに応じて、次のクラスへと昇格されていく。
<br>「分隊長はどうして機動部隊に残ったんですか? Cクラスだから、隠蔽作業員にもなれたのに」
<br> 当然だが、直接YGTと対峙する機動部隊員よりも、隠蔽作業員の方が安全である。そのため、ほとんどのCクラス職員は隠蔽作業員を志願する。しかし、浩司は違った。
<br>「ちょっと事情があってな。そういう樋口はどうして隠蔽作業員を志望してるんだ?」
<br>「ちょっと事情がありまして」
<br> そう言うと、樋口はふわりと微笑んだ。つられて浩司も唇をほころばせる。調査の結果、ロックイーターのオブジェクトクラスがKohinoorを脱さないだろうことがわかり、部隊の緊張が緩んでいたのだ。
<br>「さあ、報告書をよろしく頼んだぞ」
<br> 樋口は背を向け、崖下に建設された調査拠点へと、小走りに向かっていった。その拠点も、明日には引き払うことになるだろう。浩司は真っ暗な海に目を向けた。闇に隠れて水面はほぼ見えないが、規則正しい波音が海の存在を知らせてくる。浩司は昔から、夜の海が好きだった。理由はわからない。しかし、落ち着くようなノスタルジックになるような、なんとも形容し難い気持ちになるのが、心地よかった。
<br> 浩司は今年29歳、財団職員となって10年目だ。高卒直後に常習者となったため、勤続年数が長く、そのため20代でのCクラス入りという異例の出世を成し遂げている。対する樋口は27歳。年はほぼ同じなのに、階級の差のせいで堅苦しい話し方をされるのは、少し居心地が悪く思っている。
<br> 樋口小百合の仕事ぶりは上々だ。丁寧かつ迅速で、些細なことにもよく気づく。今年度上半期の昇級分隊長推薦は、彼女が妥当だろうな。彼女の夢が叶うのも、そう遠くない未来かもしれない。
<br> そんな思惟は、当の樋口の上擦った叫び声で途切れた。
<br>「分隊長! 那覇市街に外部存在が出現しました!」


分隊長の浩司と10の小隊の隊長全員、総勢11名が拠点の会議室に集まっていた。備えつけのスクリーンに、第十二分隊“さきがけ”の航空部隊が撮影している映像が映っている。市街地におけるHoeflerクラスのYGTの出現。前代未聞の一大事だ。いや、前例はあったか……?
まず最初に、当該YGTの呼称が決定した。無論、上層部で既に決まっていたことを発表したに過ぎないのだろうが。YGT-362“<ruby>引力者<rt>グラビティア</rt></ruby>”。それが、巨人に与えられた名前だった。


スクリーンは3分割され、そのうち2つには上空から対象に接近するヘリコプターからの映像が、残りの1つは地上のエージェントからの映像が流れている。ヘリは対象から100メートルほど離れたところを旋回している。その対象、それは巨人だった。瓦礫の体に火花をまとった、首無し巨人。浩司は、いやこの部屋にいる全員は、その威容に圧倒されていた。巨人は鉄の腕を振り回して、ビルを殴る。その度に、ビルは揺れてコンクリートの破片が散っていく。その足元で、まるで蟻のように散り散りに逃げていく影が、人間であると気づいた時、浩司は戦慄した。
対策研究員がその旨を淡々と伝えると、被害の状況の確認に移った。第二十七分隊はバックアップを務めただけのため、話すことはなかったが、唯一巨人と交戦した第十二分隊の分隊長は、いろいろなことを報告した。部下を亡くしたばかりだというのに、財団も酷なことをさせるものだ、と浩司は思った。同時に、すぐに自分も同じ状況に追い込まれるかもしれないな、とも想像する。


この緊急事態に、財団は最寄りの第十二分隊に接近調査を命じた。その航空部隊が、先遣隊として偵察に向かっている。第二十七分隊は、バックアップ部隊に指名された。今、隊員たちは出動準備を大わらわで進めている。
被害状況は、甚大と言ってよかった。死者は確認が取れているだけでも52人。多くの犠牲者が瓦礫の奥深くに埋まっているであろうことを考えれば、死者数は300をくだらないだろう、というのが妥当な推測だった。負傷者は言わずもがな、それより多い。さらに、31戸の家屋が全壊、半壊以上の被害を受けたのは200戸を超えた。ゆいレールや国道330号線といった主要な交通基幹も被害に遭い、徒歩で避難を余儀なくされた民衆が那覇の街に溢れている。家を失った人々は周辺の避難場所──公園、小学校など──に身を寄せているが、それらの場所の人口密度はすごいことになっている。


画面の中の巨人が伸び上がり、太い右腕をビルの屋上に振り下ろした。建物が限界を迎え、亀裂が入った屋上の一角が崩落した。それに続いて、ビル全体が大きく揺れた。あっという間もなく、ビルはふわりと視界から消え、代わりに灰色の煙がもうもうと上がってくる。わずかに遅れ、ドオォーンという轟音が聞こえてきた。室内の全員が、思わず息を呑んだ。なんて暴力、なんて脅威。
一方、財団の被害は、第十二分隊航空部隊のA15ヘリコプター2機と、乗組員4名だった。軽微に聞こえるが、交戦した兵力が全滅したと捉えれば、大損害だ。話題は、YGT-362の分析に移った。


2機のヘリは、巨人から80メートルほどに接近していた。互いが巨人に対して反対側の位置にいる。画面越しに、ヘリの無線が聞こえてきた。雑音混ざりだが、浩司の耳は会話の断片を聞き取った。
白衣を着た対策研究員が、今回の攻撃でわかったことを列挙していく。
<br>「──リ機関砲の使用を許可する」
<br>「当該YGTは、高さ約23メートル。出現時には、半径300メートルに及ぶ重力異常を引き起こしました。周りの物を無制限に引き寄せることで、体を形作りました。体の内部に、引力を操る何者かがいるのか、それとも純粋に引力のみが発生しているのかは、現時点では不明です。また、確認された攻撃手段は、対象の吸引と、瓦礫を吸引して投げる投石の二種類。戦闘の様子から、引力者は引力のオン・オフを自在にコントロールできると推察されます」
<br>「コブラ・ワン了解、15ミリ機関砲準備」
<br>誰かが手を挙げて質問した。
<br>「コブラ・ツー了解、15ミリ機関砲準備」
<br>「出現時の吸引が終わった後も、体を形成する瓦礫が落ちなかったのはなぜだ?」
<br>本部が、武器の使用を許諾したのだ。他の抑制方法を諦め、武力によってこの巨人を制圧するという選択。
<br>「おそらくですが、それらの瓦礫は恒常的に引き寄せるよう、力を操作していたのだと考えます。その上で、他の物も引き寄せられるのでしょう」
<br>「撃ち方用意。……撃て!」
<br>それからも、細々とした報告は続いた。放射線の反応は無し、現実改変および認識災害の兆候は無し、サーモグラフィーによれば首の辺りに熱反応が見られる、航空機による接近は危険ゆえ陸上部隊で対応すべき……。
<br>バリバリバリという銃撃音が響き、巨人の肌の2カ所から細かい破片が舞う。巨人は変わらず近くのビルに体当たりをしていた。2機のヘリは、機関砲を正確に当て続けた。狙う場所を徐々にずらしていく。絶え間なく放たれる銃弾が首のあたりをえぐった時、巨人に変化が訪れた。身をよじり、弾を気にしたような素振りを見せたのだ。腕を振り回し、空を掻く。ヘリは細かく移動しながら、照準を首に合わせ続ける。効いている、と浩司は思った。巨人に攻撃が効いている、つまり無敵ではないということだ。物理攻撃が通るという事実が、浩司の心を休めた。
<br>「こちら本部。コブラ・ワン、コブラ・ツー、空対地ミサイルの使用を許可する」
<br>「コブラ・ワン了解、ミサイル発射用意」
<br>「コブラ・ツー了か……ん?」


その時だった。巨人が腕を伸ばし、掌をまっすぐヘリに向けた。
その時、新たに一人が会議に参加した。遅れた参加者を見て、浩司は驚愕した。いや、人は見えなかった。見えないことに驚いた。画面には、黒地に三本の白い曲線が描く、人の顔のような図形。それは、W5評議員の印だった。


==8月13日20時40分、瑞慶覧雅登==
財団の職員でさえも、その正体を知る者は少ない。常習者最高の地位を占めるW5評議員。管理者に次ぐ権力を保持し、財団の実質的な最高諮問機関の、たった十人の構成員。そのうちの一人が、この会議に参加してきた。
息を弾ませ、雅登は道を走っていた。後方からは、ビルが打たれる轟音が響いてくる。血でぬらつく両の手のひらを握り、車道をとにかく遠くへと駆ける。


振り返ると、黒々とした巨体が200メートルほど離れたところに、十分大きく見えた。地上では、大量の人が一方向に逃げていく。雅登もその中の一人だ。車道には、乗り捨てられた車がそこかしこに転がっている。それらを縫って走る群衆に、周りの家屋から出てきた人々が次々と加わっていく。祭りかと見紛うほどの人数が、そこにはいた。彼らの表情に、尋常でない恐怖と混乱が浮かんでいなければ。無秩序な悲鳴と遠い衝撃音が聞こえてこなければ。暴虐の化身の襲来に、群衆はパニックに陥っていた。
浩司は、自らの心拍数が急上昇し、顔が紅潮していくのを感じた。おそらく、会議に参加している全員が同じ心地だろう。緊張、そして少しの高揚。平の職員が、W5評議員に接触する機会など、まず無い。浩司は、興奮を抑えられない。


通勤鞄を持ったままのサラリーマン、ハイヒールを脱いで素足で走る女性、小さな子供をおぶっている母親……さまざまな人が、雅登と並んで走っている。モノレールの駅から脱した雅登は、大通りをそのまま走って逃げた。しかし、不運なことに、巨人の移動方向と逃げる方向が一致してしまった。追いつかれこそしていないものの、5分弱走り続けた割に、距離を稼げていない。
前置きなしに、W5評議員の声が響いた。正確には、声を変換した電子音だが。
<br>「YGT-362は、人間だ」
<br>場は、静まりかえった。
<br>「先刻の事件を受け、米国が接触してきた。彼の国は、引力者の存在を既に関知しており、調査を進めていた。彼らが言うには、こうだ」
<br>浩司は唾を呑み込んだ。
<br>「引力者は、異能を有した人間、平たく言えば超能力者だ。そして、引力者は世界各地に点在している。その能力の原理はわからない。引力者は科学の外にいるわけだから、YGTであることは間違いない。引力者について、一つ確かに言えるのは、彼らが互いに連係してきな臭い動きをしているということだ」
<br>きな臭い動き? まさか……。
<br>「引力者は、{{傍点|文章=戦争}}の準備を進めているらしい。先刻の襲来は、その口火を切るものなのかもしれない。もしこれが正しければ、近々、引力者と人類の全面戦争が始まる可能性があるということだ。つまり、次なる攻撃の可能性は高い」
<br>全面戦争。その言葉の重みが、じんわりと心に沈んでいった。今回の攻撃は、ほんの序章に過ぎないのかもしれない。何せ、引力者は複数いるのだ。あの巨人が何十人も一斉に現れたら……。浩司の不穏な想像をよそに、電子音は続く。
<br>「今回のことは、あまりにも重大事だ。現在各国は、引力者の存在を公表する構えだ」
<br>「えっ……」
<br>場がどよめいた。「偽装」を旨とされるYGTの存在が、公表される……?
<br>「一人の引力者の存在をひた隠しにしたとて、事態は悪化するのみだという判断だ。そこで、W5評議会として、YGT財団に命ずる」
<br>背筋を伸ばし、下命を聞いた。
<br>「引力者による攻撃を防御し、引力者を排除せよ。自衛隊も、武力行使で臨む。こちらも、全兵力をもってして、引力者から無辜の市民を守れ。普段の任務とは趣を異にするが、人々の日常を守るという目的は変わらない。このことを肝に銘じ、全力で任務にあたれ。以上だ」
<br>「はっ!」
<br>全員の声が揃った。そして、W5評議員は会議から退出した。残された財団職員は、静かな興奮に満ちていた。


上空から、ヘリコプターの飛行音が響いてくる。自衛隊の軍用ヘリだろうか、ひょっとすると米軍のものかもしれない。まるで特撮映画みたいだ、なんて呑気とも言えることを雅登は思った。その時、ぎゃっという叫びが前方から聞こえた。目を向けると、転んだのか若い女の人が道路に倒れ込んだところだった。次の瞬間、後続の集団の無数の足が、彼女を踏み越えていき、くぐもった悲鳴が響いた。反射的に雅登は目を逸らした。前方に視線を固定し、女性が横たわっているであろう場所の脇を走り抜けていく。雅登は、振り返らなかった。体がこわばり、息が苦しくなる。でも、足を止めることはできなかった。乾いた目で、地面を凝視する。足に神経を集中させる。間違っても、躓いてしまわぬように。
対策研究員と隠蔽作業員は引力者の調査・分析にあたり、機動部隊員が実地対応を受け持つことがすぐに決定した。剣崎元帥の号令で、機動部隊内での役割も割り振られた。現在沖縄本島にいる第十二分隊と第二十七分隊が、避難民の誘導および引力者の捜索、戦闘準備を行う。佐賀にいる第十九分隊と、東シナ海で演習中の第三分隊海上部隊も応援に来る。一方で、沖縄以外での備えも怠れない。次もまた引力者が沖縄に出現するとは限らないからだ。各地の分隊は、日本各地に散らばり、状況に応じて応援派遣させる。


耳をつんざくような轟音が後ろからしたのは、その時だった。はっと振り返ると、巨人の横のビルが、だるま落としのようにふっと下へ落ちるところだった。ドドドという音がし、火砕流のような粉塵が地上を高速で舐めてくるのが見えた。咄嗟に、雅登はリュックを捨て、群衆の列と垂直方向に走った。後続の人と次々に体がぶつかるが、どうにかバランスを保って走る。雅登が列から脱し、ビルの合間の路地に飛び込んだのと同時に、大通りを土煙が襲った。灰色の雲が一気に群衆を覆い、全く見えなくなる。いくつもの悲鳴が、煙の中から迸った。路地にも粉塵と細かい礫が舞い入ってくる。目に沁み、呼吸がしづらくなる。ハンカチで口を覆い、立ち上がった。必死に路地の向こうへと走る。
狭い沖縄本島に、二つも分隊がいたのは幸運だった。第十二分隊は沖縄に駐屯しているから当然なのだが、遊軍として駆け回っている第二十七分隊がここに居合わせたのは全くの偶然だ。ロックイーターのおかげだな、と浩司は思う。


路地を抜けて一本向こうの道に出ると、目と喉の痛みはだいぶましになった。道幅は狭く、人影はない。さっきと同じ、巨人から離れる方へと駆け出した。息が切れ、なかなか足が動かない。こんなことなら、もっと体力をつけておくんだった。足が遅いから死ぬんだろうか。涙が出てきた。
会議は終了した。第二十七分隊は、那覇の南を担当することになった。電話で分隊の皆にその旨を伝え、浩司は樋口と共に立ち上がった。


ふと、そこらを満たす悲鳴の喧騒の奥に、バリバリという異質な音が聞こえるのに気づいた。これは、と走りながら巨人の方を振り仰ぐと、家並みの上に、軍用ヘリが見えた。機体の下に閃光が見える。巨人を撃っているのだ。いいぞ、そのまま引きつけていてくれ。そう切に祈った。
==8月13日23時19分 神代晃平==
寝息を立てる葵を抱いた椿と並んで、晃平は歩いていた。国道58号を国場川沿いに南下し、大きなショッピングモールの横を通過した。少し先で川は本流と合流し、右手の海に注いでいる。周りには、同じ方向に歩く人々が大勢いた。皆うつむき、幽鬼のように黙して行進している。車道は自動車でぎゅうぎゅうに満ち、ほとんど動かない。3時間ほど前に戦場と化した場所。そこからとにかく離れようと、あてもなく彷徨っているのだ。もっとも、晃平たちの事情は少し異なっていたが。


ヘリは巨人と少し離れたところにホバリングしている。軍が倒してくれるという安堵と、軍が相手しているということはただ事でないんだという恐怖が、同時に雅登の心に押し寄せる。その時、巨人が大きな右腕をヘリへと伸ばした。あのモノレールの車両を、さらに瓦礫が覆った、鉄とコンクリートの腕。しかし、ヘリに届く長さでは到底ない。
那覇の中でも都会といえるこの一帯は、普段ならこの時間でも灯りは少なくないのだろう。コンビニやパチンコ店のネオン、街灯も多い。しかし、今は違う。先の事変で多くの電線が寸断され、那覇市一帯が停電しているのだ。避難民を誘導しようと、警察や自衛隊が各所でサーチライトを焚いている。しかしそれだけで足元をちゃんと照らすことはできず、人々は皆、携帯のライトを地面に向けながら黙って避難を続けるのだった。日常と完全にかけ離れた風景で、ややもすれば、自分は夢を見ているのではないかという心持ちになる。


次の瞬間、ヘリがぎゅんと急発進した、ように見えた。機体のバランスが崩れ、錐揉み状態になる。だが、まっすぐ、巨人の掌に向かってすっ飛んでいく。あっという間もなく、ヘリは巨人の掌に激突、爆発した。わずかに遅れて、衝撃波が雅登の周りの空気を揺らす。ヘリの破片が散っていくのを、雅登は呆然と見ていた。いや、散っていない。一瞬舞い散るが、すぐに巨人の掌に吸い寄せられている。はっと気づいた。{{傍点|文章=引き寄せているのだ}}。巨人はヘリを、引き寄せたのだ。
また、パトカーや自衛隊の車両、果ては戦車までもが道路にいて、睨みを利かせているところもあった。そして、そんな場所を通るたびに、晃平はひどく緊張するのだった。今にも、迷彩服を着た男たちに捕まるのではないか、いや問答無用で撃ち殺されるのではないか、と不安になる。もはや、晃平は肉体的によりも精神的にずっと疲れていた。


いつの間にか、雅登の足は止まっていた。もう、体が限界だった。足がガクガクと震え、たまらずその場にへたりこむ。ぜえぜえと荒い息しかできない。でも、目は巨人の手から離せなかった。少し前に身を持って味わったあの重力。巨人は、それを自由に使えるのだ。まるっきり未知の能力に、既存の軍隊は太刀打ちできるのか? 急に背筋が寒くなった。
唐突に、晃平の手の中のスマホが震動した。ライトを切って画面を覗く。見覚えのある番号からの着信だった。
<br>「もしもし?」
<br>「やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ」
<br> 5日前、晃平のもとにこの日本語が堪能な若者から連絡が来た。晃平をグラビティ持ちと看破し、自分たちの仲間になるよう要求してきたのだ。彼によれば、世界中の同様の能力者が集まり、組織を作っている。そして、諸国に宣戦布告しようとしているというのだ。これには、腰を抜かした。しかし、『君が敵になるくらいなら、僕たちは君をまず殺す』と脅迫されれば、要求に従わざるを得なかった。連れてきていいのは妻と息子のみ、5日後に沖縄に迎えを寄越す、と一方的に伝えられ、ここまで来たのだ。しかし、こんな事態になってしまうとは。


突然、シュウウッという空気を切り裂く音が、頭上から聞こえた。微かな航跡を残して何かが、巨人の胴にぶつかり、ドンと爆ぜた。一瞬、巨人が明るく照らされ、その体からいくつかの破片が落ちていくのが見えた。いつの間にか雅登の上方に来ていたヘリコプターから、ミサイルが発射されたのだった。
<br>「コーヘイ、やってくれたねえ」
<br>アンドレの声は、しかし弾んでいるように聞こえた。
<br>「正直、こっちは大混乱だよ。謎の戦力が一番槍を取っちゃったし、ストラテジーを最初から練り直さなきゃいけないし、予定を前倒しにして宣戦布告をしちゃうっぽいし、でもでも、何より驚愕と衝撃と尊敬が渦巻いてるよ!」
<br>口を挟む間もなく、アンドレは矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
<br>「何だい、あれは⁈ グラビティを使って巨人の体を作る? 誰も思いつかなかったアイデアだ! それだけじゃない、あれを実現するグラビティの強さは、僕らの中でも持っているやつはそういない。つまり、君のパワーは僕らの組織でも屈指ってことだ! すぐに幹部になれるよ!」
<br>「ちょ、ちょっと待ってくれ。あれは、アクシデントだったんだ。その、攻撃に加担しようとしたわけじゃない。それに、大きな誤解があるよ……」
<br>周りの人に聞こえないよう、声を潜めて反論しようとするが、ハイな声に遮られる。
<br>「いいんだよ、言い訳は。だって、君のしたことは正しいことなんだから。いいかい? 僕らグラビティ使いは、選ばれし存在なんだ。常人の命なんて、気にすることはない。選ばれた存在が、そうでない存在を統べるべきだ。これから僕らがやることは、その偉大なる一歩目なんだ! その本当に最初の栄えある嚆矢を、君が放ったってわけさ」
<br>晃平には、アンドレの主張は理解できないし、危険なものだとも思う。しかし、家族の安全のためには、この男に保護されないといけないのだ。たとえ他の全人類を見放しても。
<br>「そうだそうだ、本題を忘れてた。今、世界中の軍が目を皿のようにして君を探し回っている。そうだろ?」
<br>あちらこちらに見える自衛隊の隊員たちが、全員俺を捕らえようと、いや殺そうとしている。わかっていたことだが、改めて他人からその事実を突きつけられると、やはり恐ろしい。
<br>「僕らとしては、捕まったり殺されたりする前に、君をピックアップしたいわけだ。そこで、僕らは今、急いでそっちに向かっている。約束の時間を、何時間か早める。朝の6時だ。場所は変わらず。いいね?」
<br>「……わかった。6時だな」
<br>「じゃ、頑張って生き延びてね!」


すぐにもう一発のミサイルが撃ち込まれる。それは正確に標的の方へ飛んでいき、今度は巨人の肩に着弾した。巨人は顕著に反応した。姿は見えないが虫の羽音が聞こえたときのように、盲滅法に腕を振り回す。みたびミサイルが巨人の鉄の皮膚を穿ち、巨人の恐慌はヒートアップした。
電話は切られた。ひどく疲れたような気分になる。椿が物問いたげに見てくるので、耳元に口を寄せ、予定が変わったことをそっと囁いた。もともと曇っていた椿の顔が、さらに沈痛に歪む。仕方のなかったこととはいえ、結果として多くの人の命が奪われてしまった。そのことに、椿は心を痛めているのだ。


攻撃が効いている。そう喜ぶ余裕は、雅登には全く無かった。雅登の心中は、ヘリのパイロットへの怨嗟で満ちていた。なんだって俺の真上に陣取ったんだ、これじゃあ俺が巻き添えを食いかねないじゃないか。嫌な予感につき動かされ、雅登は立ち上がり、再び一目散に走り出した。巨人のいない方へ、道をまっすぐ逃げる。
しかし、当局に出頭したとて、アンドレたちの組織の追跡と攻撃から逃げられる気はしなかった。葵を守るには、こうするしかなかったのだ。それに、今となっては引き返すことができない。トロッコは走り出してしまった。もう、このレールを最後まで走り切るしか、助かる道はないのだ。


ヘリは猛攻を加えていた。友機が撃墜された恨みも籠めてか、空対地ミサイルを絶え間なく発射し続ける。何せ的が大きい。巨人から300メートル離れていても、外れる攻撃は無かった。一発一発の威力は小さくとも、少しずつ少しずつ巨人の装甲を削ることができている。
明らかに憔悴している椿の腕から、葵を抱き上げる。幼子の熱い体温が胸に伝わってきた。朝6時までに、約束の場所へと辿り着かなくてはならない。どこか道路が機能している場所まで歩いて、タクシーを拾わなければ。


それは、7発目のミサイルを発射したときだった。巨人の動きが止まった。ダメージを受けて動けなくなったのではない。巨人に顔はないのに、パイロットは視線に射すくめられるように感じた。ゆっくりと、巨人の左腕が上がっていく。
心に湧き立つ暗雲を閉じ込め、前を向いたとき、橋の上で群衆に目を向けている自衛隊員が見えた。迷彩服に身を包んだ何人かが、こちらの方を見ている。うち一人は、スコープのようなものを目に当てている。


見つかった、と雅登は確信した。巨人は遂に、うるさい虫の姿を捉えたのだ。雅登は全力疾走しながら、首をねじ曲げて後ろを見ていた。巨人がヘリを見つけた。巨人の左腕が上がっていく。これは、まずい。ヘリもそれを察知したのだろう、ヘリが機首を上げ、後退しようとするが、それより早く巨人の掌がヘリを向いた。泣きそうになりながら、雅登は思った。だから言ったじゃないか。
ふと、晃平は気づいた。あいつらはこちらに漠然と視線を向けているのではない。{{傍点|文章=俺}}を見ているのだ。{{傍点|文章=気づかれている}}。


グンッという音が聞こえた気がした。気がしただけで無音だったのだが、間違いなく、巨人が重力を発動したのだ。ヘリが、巨人の方にぐっと動く。しかし、ヘリは落ちていかなかった。機体を大きく傾け、機底を巨人に向け、平衡を保っていた。{{傍点|文章=下}}という方向の変化に、推力の方向を巧みに合わせたのだ。ヘリはほとんど真横になりながら、ホバリングしている。出力を上げたローターの轟音が、耳に刺さる。
スコープを取った男と、まともに目が合った。精悍な顔つきで、こちらを見つめている。彼は、目を逸らさぬまま横の隊員に何事か告げた。隊員は奥の方へと走っていく。


雅登は心の中で、ヘリに向かって快哉を叫んだ。よくやった、頑張れ! ヘリからは100メートルほど離れたが、道がまっすぐだから、ヘリも巨人もよく見えた。もしかしたら、逃げ切れるかもしれない。
晃平は立ち止まった。椿が驚いて足を止める。周りの群衆は、一瞬迷惑そうな顔をするが、構わず横をすり抜けていく。
<br>「どうしたの?」
<br>「気づかれた」
<br>手短に答えると、椿は息を呑んだ。数十メートル先の隊員を見つめたまま、抱いていた葵を椿に突き出す。
<br>「今度は、瀬長島で待ち合わせだ。後ろに走って、大きく迂回して向かえ。2時までに俺が来なかったら、先に行っててくれ」
<br>「……でも!」
<br>「葵を頼む」
<br>目を合わせ、微笑んでみせる。何か言いたげだった椿も、覚悟を決めたように頷いた。葵を抱きしめ、人の流れに逆らって走り去っていく。
<br>晃平は前方へと視線を戻した。たくさんの人々の頭越しに、男と目が合う。


その瞬間、ヘリが巨人と反対方向に吹っ飛んだ。いや違う、巨人の重力がなくなったんだ、と雅登は瞬時に思い直した。引力を相殺するための推力が不要になり、放り出されたのだ。あたかも綱引きの最中に、相手が突然綱を離したかのように。ヘリは激しく回転して高度を下げてくる。ちょうど雅登の方へと。雅登の顔から血の気が引いた。だから、こっちに来るなって……。走るスピードを上げようとした途端、何かに激突し、胸をしたたかに打った。吐きそうになり、思わずアスファルトに倒れ込む。
葵を守る。そのためなら、何にだってなってやろう。……巨人にだって。晃平は走り出す。


後ろばかり見ていたのが仇となり、乗り捨てられた車にぶつかってしまったのだ。一瞬ののち雅登は空を見上げた。ヘリは体勢を整えていた。だいぶ高度は落ち、橇がしっかり見えるほどだったが。よかった、なんとか凌げた、と思った直後、雅登は巨人の動きに気づいた。
==8月13日23時22分 城島浩司==
「分隊長! 不審な通話を傍受しました!」
<br>セカンドショップの格好をした財団の小基地の中。一人の通信員が叫んだ。声には隠し切れない興奮が顕れている。
<br>「最初から聞かせろ。手空きの者は話者の特定を急げ」
<br>短く告げると、通信員はヘッドセットを渡してきた。それをつけると、数分前の録音が耳に飛び込んできた。
<br>『もしもし?』『やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ』
<br>アンドレとコーヘイという二人は、それから2分半にわたって話していた。ハイに長広舌をふるうアンドレと、押し殺した声で返答するコーヘイ。彼らの通話内容は、衝撃的だった。コーヘイという男が、先刻現れた引力者であることは間違いないだろう。そして、アンドレはそのバックにいる引力者の組織の人間で、コーヘイと接触を図っている。
<br>何より、通信が傍受できたということは、どちらかがここ付近にいるということだ。おそらくは件の引力者の方が。
<br>「分隊長! 通話していた人物が見つかりました!」
<br>「間違いないか?」
<br>「はい。監視カメラに記録された唇の動きと、傍受した通話内容が、完全に合致しました」
<br>「よし、どこだ?」
<br>通信員は壁に貼られた周辺地図の一点を指した。ここから目と鼻の先だ。
<br>「現在、国道58号線を南下中。ちょうど我々の方へ接近しています」
<br>「肉眼で確認する。ついて来い」


巨人の右腕の動きが、スローモーションのように見えた。後方からぐわあっと上がってきた右腕は、頭上にまっすぐ伸びていた。そのまま前方に振り下ろされてくる。これは、投球フォームだ。腕に遅れることコンマ数秒、右の掌に引かれた大量の瓦礫が猛スピードで射出された。こちら目がけて、まっすぐ。
浩司は外へと出た。夜気が服越しに肌を刺す。
 
<br>国場川に架かる明治橋。そこの片方の車線を占有し、第二十七分隊は警戒任務にあたっていた。その先頭へと行き、怯えながら避難する群衆に目を向ける。
「うわあぁぁああ」
<br>「正面に見える、赤ん坊を腕に抱いている男です」
<br>高速の瓦礫は、散弾のようにヘリを襲った。散弾の範囲は、動けない雅登の少しだけ上に広がっていた。唸りを上げて飛んできた無数のコンクリート片は、ヘリコプターと周りのビルや道路を砕いた。
<br>通信員に言われて、浩司はその男に目を留めた。疲れ切ったような顔で、俯きながら歩いてくる。横には、男の妻らしき人物もいる。
 
<br>あの男が、引力者なのか。浩司は部下からサーモグラフィーを受け取った。ついさっき、米国からの情報として本部から連絡があった。なんでも、引力者は能力を発動すると、体温が上昇するらしい。そういうわけで、隊の設備をひっかき回して、スコープ型のサーモグラフィーを一つだけ見つけてきたのだ。そこら中の物を手当たり次第に引き寄せ巨人となった引力者は、さぞ体温が上がっているだろう。
ドガガガガと死の散弾が相次いで着弾し、雅登の後ろで石の煙が上がる。腰が抜けて、立つことができない。直後、上で爆発音がした。ヘリが胴から黒煙をあげ、激しく回転しながら落ちてくる。ヘリは最後の最後にバランスを崩し、50メートルほど先で、横倒しになって墜落した。その瞬間大きな爆発が起こり、外れたプロペラが火焔を切り裂いて道路を駆ける。巨大な回転刃は、猛スピードで雅登を襲った。雅登が横に飛び退いた瞬間、プロペラは一瞬前まで雅登が空間を裂き、車に深々と突き刺さった。プロペラに衝突された車は横転し、そして爆炎を上げた。雅登は爆風に吹っ飛ばされ、路面に転がった。炎の熱は頬を炙り、光は辺りを明るく照らしていた。
<br>浩司はサーモグラフィーを目に当て、およそ100メートル先の人影を見遣った。結果は、火を見るより明らかだった。男の体の中心部、心臓の辺りが特に赤くなっている。
 
<br>サーモグラフィーを外し、肉眼で男を見つめる。向こうもこちらの動きを感じ取ったのか、男は立ち止まってこちらを見据えていた。目を逸らさぬまま、傍らの通信員に手早く指示する。
しばし雅登は呆然としていた。アスファルトにへたりこんだまま、どれほど放心していたかわからない。地面が大きく揺れ、雅登は我に返った。地響きの正体は、巨人の足音だった。こちらに向かって歩いてきている。黒い体に火をまとった巨体が、炎をあげるヘリの残骸の向こうに聳え立っているのが見えた。それが、ゆっくりと、しかし一歩ずつ、近づいてきている。
<br>「対象人物を発見した。本部に連絡しろ」
<br>「……もう許してくれよ」
<br>通信員が走り去り、そのまま浩司は振り返ってハンドサインを送った。橋に待機していた隊員が、一斉に動き出す。浩司はまた男に向き直った。
<br>目から涙がこぼれた。
<br>「なんで、なんでこっちにくるんだよ。あっちいけよ。なんで……」
<br>逃げなくては。ふと、思い出した。ここから、あの巨人から、逃げなくては。雅登は震える足で、また立ち上がり、よたよたと走った。巨人が歩むたびに地面が揺れ、転びそうになる。道にはコンクリート片が散らばり、何度もそれに躓きそうになる。
 
嗚咽で息ができず、また倒れ込んだ。手の平が痛み、安里駅で負った傷を思い出した。ほんの数十分前の出来事のはずなのに、遥か昔のことのように思える。巨人の足音が、地獄の鐘の音に聞こえた。あれは、俺の死刑判決を知らせているんだ。逃げられないぞと、そう知らせてるんだ……。
 
絶望の中、雅登はゆっくりと振り返った。ほんの数十メートル先に、巨人はいた。また一歩、巨人は歩を進める。震動に体が跳ねる。あと数歩。もう少しで、俺はあいつに踏み潰される……。ふと、家族の姿が脳裏をよぎった。ホントなら今頃、俺は家に帰って晩飯を食べているはずなのに。母さんがご飯をよそってくれて、父さんはテレビのスポーツ中継を見ていて、妹は隅でスマホをいじっているはずなのに。なんで、なんでこんな目に遭ってるんだ? なんでだ? なんで……?
 
そのとき、思いも寄らぬことが起こった。巨人が、ぐらりと揺れたのだ。そのまま巨人は前に倒れていく。それだけではない。巨人を形作る瓦礫が、崩れ落ちていく。腕が外れ、派手な音を立てて落下する。倒れて接地した部分から、ガラガラと瓦礫が崩れていく。巨体を繋ぎ留めていた引力が、解除されたのだろうか。轟音を立てて巨人が倒れていく。
 
巨人は雅登に覆いかぶさるように、倒れてくる。雅登は飛び起き、逃げ出した。ここで、死んでたまるか。雅登は全力で走り、横に伸びている路地に飛び込んだ瞬間、巨人が地面に激突する大音響が響き渡った。
 
地面が激しく揺れ、土煙がもうもうと舞い上がり、雅登を包み込んだ。雅登は頭を抱えて地面に伏せ、じっとしていた。たっぷり5分は経っただろうか。土煙が晴れ、呼吸もしやすくなってから、雅登はおそるおそる身を起こした。体に積もった粉塵を払い、振り返った。巨人が倒れた道には、うずたかく瓦礫が堆積していた。とりあえず、急に動き出したりする気配はない。
 
すると、道の方から、若い女の声が聞こえた。それに続いて、男の声、それから赤ちゃんのぐずる声も。雅登は道の瓦礫の上に登り、周りを見回した。左、堆積した瓦礫の突端。その上で、一組の家族が固く抱き合っていた。泣きじゃくる赤ん坊を、母親と父親が両側から固く抱き締めている。巨人の崩落に巻き込まれるのを、辛くも免れたのだろうか。雅登は心が温まるのを感じ、そっと背を向けた。後ろでその母親が、「よかった、帰ってきてくれて」と涙まじりに言うのが聞こえた、ような気がする。
 
俺は助かったのだろうか? 路地を歩きながら、ぼんやりと雅登は考えた。虎口を脱したのだという実感が湧かない。今になって、体の各所が痛み始めた。ずっと逃げ続けたから、体も心もふらふらだ。路地を歩きながら、雅登は公衆電話を探そうと決意した。携帯は失くしてしまった。まずは、家族に無事を伝えよう。雅登は、瓦礫の少ない方へ、ゆっくりと歩いていった。
 
 
雅登が、あの家族が瓦礫の{{傍点|文章=上}}にいたことに疑問を持つのは、まだ先のことである。

3年2月22日 (ゐ) 22:04時点における最新版

8月13日22時30分 城島浩司[編集 | ソースを編集]

この1時間余り、現場はてんてこまいだった。市街地に突如現れた外部存在。暴虐の限りを尽くしたそれは、多くの人的・物的損害を出したが、ほどなくして姿をくらませた。第二十七分隊は、被災地での救助活動にあたった。派遣された自衛隊や現地の消防団などと共に、怪我人を保護したり瓦礫の下に生き埋めにされた人々を助け出したりした。しかし、分隊長である浩司と、第一小隊長の樋口は、救助活動から離脱して会議に出席している。

財団は、各地に民家に見せかけた小基地を持っている。いかなる時、いかなる場所でも、突発事態に対応できるようにだ。そして、現場に近い小基地の中に、二人はいた。予告された時刻通りに、財団の秘密回線が開き、会議が始まった。

浩司と樋口は、白い椅子に並んで腰掛け、正面のスクリーンに目を向けていた。22時30分、それまで黒かったスクリーンに、突如としていくつかの人の姿が映し出された。その中には、機動部隊元帥・剣崎剛毅の姿もある。慌ただしく、財団の会議が始まった。

まず最初に、当該YGTの呼称が決定した。無論、上層部で既に決まっていたことを発表したに過ぎないのだろうが。YGT-362“引力者グラビティア”。それが、巨人に与えられた名前だった。

対策研究員がその旨を淡々と伝えると、被害の状況の確認に移った。第二十七分隊はバックアップを務めただけのため、話すことはなかったが、唯一巨人と交戦した第十二分隊の分隊長は、いろいろなことを報告した。部下を亡くしたばかりだというのに、財団も酷なことをさせるものだ、と浩司は思った。同時に、すぐに自分も同じ状況に追い込まれるかもしれないな、とも想像する。

被害状況は、甚大と言ってよかった。死者は確認が取れているだけでも52人。多くの犠牲者が瓦礫の奥深くに埋まっているであろうことを考えれば、死者数は300をくだらないだろう、というのが妥当な推測だった。負傷者は言わずもがな、それより多い。さらに、31戸の家屋が全壊、半壊以上の被害を受けたのは200戸を超えた。ゆいレールや国道330号線といった主要な交通基幹も被害に遭い、徒歩で避難を余儀なくされた民衆が那覇の街に溢れている。家を失った人々は周辺の避難場所──公園、小学校など──に身を寄せているが、それらの場所の人口密度はすごいことになっている。

一方、財団の被害は、第十二分隊航空部隊のA15ヘリコプター2機と、乗組員4名だった。軽微に聞こえるが、交戦した兵力が全滅したと捉えれば、大損害だ。話題は、YGT-362の分析に移った。

白衣を着た対策研究員が、今回の攻撃でわかったことを列挙していく。
「当該YGTは、高さ約23メートル。出現時には、半径300メートルに及ぶ重力異常を引き起こしました。周りの物を無制限に引き寄せることで、体を形作りました。体の内部に、引力を操る何者かがいるのか、それとも純粋に引力のみが発生しているのかは、現時点では不明です。また、確認された攻撃手段は、対象の吸引と、瓦礫を吸引して投げる投石の二種類。戦闘の様子から、引力者は引力のオン・オフを自在にコントロールできると推察されます」
誰かが手を挙げて質問した。
「出現時の吸引が終わった後も、体を形成する瓦礫が落ちなかったのはなぜだ?」
「おそらくですが、それらの瓦礫は恒常的に引き寄せるよう、力を操作していたのだと考えます。その上で、他の物も引き寄せられるのでしょう」
それからも、細々とした報告は続いた。放射線の反応は無し、現実改変および認識災害の兆候は無し、サーモグラフィーによれば首の辺りに熱反応が見られる、航空機による接近は危険ゆえ陸上部隊で対応すべき……。

その時、新たに一人が会議に参加した。遅れた参加者を見て、浩司は驚愕した。いや、人は見えなかった。見えないことに驚いた。画面には、黒地に三本の白い曲線が描く、人の顔のような図形。それは、W5評議員の印だった。

財団の職員でさえも、その正体を知る者は少ない。常習者最高の地位を占めるW5評議員。管理者に次ぐ権力を保持し、財団の実質的な最高諮問機関の、たった十人の構成員。そのうちの一人が、この会議に参加してきた。

浩司は、自らの心拍数が急上昇し、顔が紅潮していくのを感じた。おそらく、会議に参加している全員が同じ心地だろう。緊張、そして少しの高揚。平の職員が、W5評議員に接触する機会など、まず無い。浩司は、興奮を抑えられない。

前置きなしに、W5評議員の声が響いた。正確には、声を変換した電子音だが。
「YGT-362は、人間だ」
場は、静まりかえった。
「先刻の事件を受け、米国が接触してきた。彼の国は、引力者の存在を既に関知しており、調査を進めていた。彼らが言うには、こうだ」
浩司は唾を呑み込んだ。
「引力者は、異能を有した人間、平たく言えば超能力者だ。そして、引力者は世界各地に点在している。その能力の原理はわからない。引力者は科学の外にいるわけだから、YGTであることは間違いない。引力者について、一つ確かに言えるのは、彼らが互いに連係してきな臭い動きをしているということだ」
きな臭い動き? まさか……。
「引力者は、戦争の準備を進めているらしい。先刻の襲来は、その口火を切るものなのかもしれない。もしこれが正しければ、近々、引力者と人類の全面戦争が始まる可能性があるということだ。つまり、次なる攻撃の可能性は高い」
全面戦争。その言葉の重みが、じんわりと心に沈んでいった。今回の攻撃は、ほんの序章に過ぎないのかもしれない。何せ、引力者は複数いるのだ。あの巨人が何十人も一斉に現れたら……。浩司の不穏な想像をよそに、電子音は続く。
「今回のことは、あまりにも重大事だ。現在各国は、引力者の存在を公表する構えだ」
「えっ……」
場がどよめいた。「偽装」を旨とされるYGTの存在が、公表される……?
「一人の引力者の存在をひた隠しにしたとて、事態は悪化するのみだという判断だ。そこで、W5評議会として、YGT財団に命ずる」
背筋を伸ばし、下命を聞いた。
「引力者による攻撃を防御し、引力者を排除せよ。自衛隊も、武力行使で臨む。こちらも、全兵力をもってして、引力者から無辜の市民を守れ。普段の任務とは趣を異にするが、人々の日常を守るという目的は変わらない。このことを肝に銘じ、全力で任務にあたれ。以上だ」
「はっ!」
全員の声が揃った。そして、W5評議員は会議から退出した。残された財団職員は、静かな興奮に満ちていた。

対策研究員と隠蔽作業員は引力者の調査・分析にあたり、機動部隊員が実地対応を受け持つことがすぐに決定した。剣崎元帥の号令で、機動部隊内での役割も割り振られた。現在沖縄本島にいる第十二分隊と第二十七分隊が、避難民の誘導および引力者の捜索、戦闘準備を行う。佐賀にいる第十九分隊と、東シナ海で演習中の第三分隊海上部隊も応援に来る。一方で、沖縄以外での備えも怠れない。次もまた引力者が沖縄に出現するとは限らないからだ。各地の分隊は、日本各地に散らばり、状況に応じて応援派遣させる。

狭い沖縄本島に、二つも分隊がいたのは幸運だった。第十二分隊は沖縄に駐屯しているから当然なのだが、遊軍として駆け回っている第二十七分隊がここに居合わせたのは全くの偶然だ。ロックイーターのおかげだな、と浩司は思う。

会議は終了した。第二十七分隊は、那覇の南を担当することになった。電話で分隊の皆にその旨を伝え、浩司は樋口と共に立ち上がった。

8月13日23時19分 神代晃平[編集 | ソースを編集]

寝息を立てる葵を抱いた椿と並んで、晃平は歩いていた。国道58号を国場川沿いに南下し、大きなショッピングモールの横を通過した。少し先で川は本流と合流し、右手の海に注いでいる。周りには、同じ方向に歩く人々が大勢いた。皆うつむき、幽鬼のように黙して行進している。車道は自動車でぎゅうぎゅうに満ち、ほとんど動かない。3時間ほど前に戦場と化した場所。そこからとにかく離れようと、あてもなく彷徨っているのだ。もっとも、晃平たちの事情は少し異なっていたが。

那覇の中でも都会といえるこの一帯は、普段ならこの時間でも灯りは少なくないのだろう。コンビニやパチンコ店のネオン、街灯も多い。しかし、今は違う。先の事変で多くの電線が寸断され、那覇市一帯が停電しているのだ。避難民を誘導しようと、警察や自衛隊が各所でサーチライトを焚いている。しかしそれだけで足元をちゃんと照らすことはできず、人々は皆、携帯のライトを地面に向けながら黙って避難を続けるのだった。日常と完全にかけ離れた風景で、ややもすれば、自分は夢を見ているのではないかという心持ちになる。

また、パトカーや自衛隊の車両、果ては戦車までもが道路にいて、睨みを利かせているところもあった。そして、そんな場所を通るたびに、晃平はひどく緊張するのだった。今にも、迷彩服を着た男たちに捕まるのではないか、いや問答無用で撃ち殺されるのではないか、と不安になる。もはや、晃平は肉体的によりも精神的にずっと疲れていた。

唐突に、晃平の手の中のスマホが震動した。ライトを切って画面を覗く。見覚えのある番号からの着信だった。
「もしもし?」
「やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ」
 5日前、晃平のもとにこの日本語が堪能な若者から連絡が来た。晃平をグラビティ持ちと看破し、自分たちの仲間になるよう要求してきたのだ。彼によれば、世界中の同様の能力者が集まり、組織を作っている。そして、諸国に宣戦布告しようとしているというのだ。これには、腰を抜かした。しかし、『君が敵になるくらいなら、僕たちは君をまず殺す』と脅迫されれば、要求に従わざるを得なかった。連れてきていいのは妻と息子のみ、5日後に沖縄に迎えを寄越す、と一方的に伝えられ、ここまで来たのだ。しかし、こんな事態になってしまうとは。


「コーヘイ、やってくれたねえ」
アンドレの声は、しかし弾んでいるように聞こえた。
「正直、こっちは大混乱だよ。謎の戦力が一番槍を取っちゃったし、ストラテジーを最初から練り直さなきゃいけないし、予定を前倒しにして宣戦布告をしちゃうっぽいし、でもでも、何より驚愕と衝撃と尊敬が渦巻いてるよ!」
口を挟む間もなく、アンドレは矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
「何だい、あれは⁈ グラビティを使って巨人の体を作る? 誰も思いつかなかったアイデアだ! それだけじゃない、あれを実現するグラビティの強さは、僕らの中でも持っているやつはそういない。つまり、君のパワーは僕らの組織でも屈指ってことだ! すぐに幹部になれるよ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あれは、アクシデントだったんだ。その、攻撃に加担しようとしたわけじゃない。それに、大きな誤解があるよ……」
周りの人に聞こえないよう、声を潜めて反論しようとするが、ハイな声に遮られる。
「いいんだよ、言い訳は。だって、君のしたことは正しいことなんだから。いいかい? 僕らグラビティ使いは、選ばれし存在なんだ。常人の命なんて、気にすることはない。選ばれた存在が、そうでない存在を統べるべきだ。これから僕らがやることは、その偉大なる一歩目なんだ! その本当に最初の栄えある嚆矢を、君が放ったってわけさ」
晃平には、アンドレの主張は理解できないし、危険なものだとも思う。しかし、家族の安全のためには、この男に保護されないといけないのだ。たとえ他の全人類を見放しても。
「そうだそうだ、本題を忘れてた。今、世界中の軍が目を皿のようにして君を探し回っている。そうだろ?」
あちらこちらに見える自衛隊の隊員たちが、全員俺を捕らえようと、いや殺そうとしている。わかっていたことだが、改めて他人からその事実を突きつけられると、やはり恐ろしい。
「僕らとしては、捕まったり殺されたりする前に、君をピックアップしたいわけだ。そこで、僕らは今、急いでそっちに向かっている。約束の時間を、何時間か早める。朝の6時だ。場所は変わらず。いいね?」
「……わかった。6時だな」
「じゃ、頑張って生き延びてね!」

電話は切られた。ひどく疲れたような気分になる。椿が物問いたげに見てくるので、耳元に口を寄せ、予定が変わったことをそっと囁いた。もともと曇っていた椿の顔が、さらに沈痛に歪む。仕方のなかったこととはいえ、結果として多くの人の命が奪われてしまった。そのことに、椿は心を痛めているのだ。

しかし、当局に出頭したとて、アンドレたちの組織の追跡と攻撃から逃げられる気はしなかった。葵を守るには、こうするしかなかったのだ。それに、今となっては引き返すことができない。トロッコは走り出してしまった。もう、このレールを最後まで走り切るしか、助かる道はないのだ。

明らかに憔悴している椿の腕から、葵を抱き上げる。幼子の熱い体温が胸に伝わってきた。朝6時までに、約束の場所へと辿り着かなくてはならない。どこか道路が機能している場所まで歩いて、タクシーを拾わなければ。

心に湧き立つ暗雲を閉じ込め、前を向いたとき、橋の上で群衆に目を向けている自衛隊員が見えた。迷彩服に身を包んだ何人かが、こちらの方を見ている。うち一人は、スコープのようなものを目に当てている。

ふと、晃平は気づいた。あいつらはこちらに漠然と視線を向けているのではない。を見ているのだ。気づかれている

スコープを取った男と、まともに目が合った。精悍な顔つきで、こちらを見つめている。彼は、目を逸らさぬまま横の隊員に何事か告げた。隊員は奥の方へと走っていく。

晃平は立ち止まった。椿が驚いて足を止める。周りの群衆は、一瞬迷惑そうな顔をするが、構わず横をすり抜けていく。
「どうしたの?」
「気づかれた」
手短に答えると、椿は息を呑んだ。数十メートル先の隊員を見つめたまま、抱いていた葵を椿に突き出す。
「今度は、瀬長島で待ち合わせだ。後ろに走って、大きく迂回して向かえ。2時までに俺が来なかったら、先に行っててくれ」
「……でも!」
「葵を頼む」
目を合わせ、微笑んでみせる。何か言いたげだった椿も、覚悟を決めたように頷いた。葵を抱きしめ、人の流れに逆らって走り去っていく。
晃平は前方へと視線を戻した。たくさんの人々の頭越しに、男と目が合う。

葵を守る。そのためなら、何にだってなってやろう。……巨人にだって。晃平は走り出す。

8月13日23時22分 城島浩司[編集 | ソースを編集]

「分隊長! 不審な通話を傍受しました!」
セカンドショップの格好をした財団の小基地の中。一人の通信員が叫んだ。声には隠し切れない興奮が顕れている。
「最初から聞かせろ。手空きの者は話者の特定を急げ」
短く告げると、通信員はヘッドセットを渡してきた。それをつけると、数分前の録音が耳に飛び込んできた。
『もしもし?』『やあ、夜分遅くにごめんね。僕さ、アンドレだよ』
アンドレとコーヘイという二人は、それから2分半にわたって話していた。ハイに長広舌をふるうアンドレと、押し殺した声で返答するコーヘイ。彼らの通話内容は、衝撃的だった。コーヘイという男が、先刻現れた引力者であることは間違いないだろう。そして、アンドレはそのバックにいる引力者の組織の人間で、コーヘイと接触を図っている。
何より、通信が傍受できたということは、どちらかがここ付近にいるということだ。おそらくは件の引力者の方が。
「分隊長! 通話していた人物が見つかりました!」
「間違いないか?」
「はい。監視カメラに記録された唇の動きと、傍受した通話内容が、完全に合致しました」
「よし、どこだ?」
通信員は壁に貼られた周辺地図の一点を指した。ここから目と鼻の先だ。
「現在、国道58号線を南下中。ちょうど我々の方へ接近しています」
「肉眼で確認する。ついて来い」

浩司は外へと出た。夜気が服越しに肌を刺す。
国場川に架かる明治橋。そこの片方の車線を占有し、第二十七分隊は警戒任務にあたっていた。その先頭へと行き、怯えながら避難する群衆に目を向ける。
「正面に見える、赤ん坊を腕に抱いている男です」
通信員に言われて、浩司はその男に目を留めた。疲れ切ったような顔で、俯きながら歩いてくる。横には、男の妻らしき人物もいる。
あの男が、引力者なのか。浩司は部下からサーモグラフィーを受け取った。ついさっき、米国からの情報として本部から連絡があった。なんでも、引力者は能力を発動すると、体温が上昇するらしい。そういうわけで、隊の設備をひっかき回して、スコープ型のサーモグラフィーを一つだけ見つけてきたのだ。そこら中の物を手当たり次第に引き寄せ巨人となった引力者は、さぞ体温が上がっているだろう。
浩司はサーモグラフィーを目に当て、およそ100メートル先の人影を見遣った。結果は、火を見るより明らかだった。男の体の中心部、心臓の辺りが特に赤くなっている。
サーモグラフィーを外し、肉眼で男を見つめる。向こうもこちらの動きを感じ取ったのか、男は立ち止まってこちらを見据えていた。目を逸らさぬまま、傍らの通信員に手早く指示する。
「対象人物を発見した。本部に連絡しろ」
通信員が走り去り、そのまま浩司は振り返ってハンドサインを送った。橋に待機していた隊員が、一斉に動き出す。浩司はまた男に向き直った。