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 すべてが透明だった。空間はただ茫然と立ちすくみ、そこには静寂さえなかった。まっさらなキャンバスに躍る白も、深宇宙をたたえる夜暗の黒も、その不可視のガラス張りの前では、不在を象徴するに値しない。
 三年。産まれた赤子が喋り始めるどころか手先が器用になることでおなじみ、三年の月日。長い凍結期間を経てついに帰って来た伝説の記事投票に際して私キュアラプラプが推薦するのは、記事「[[お花摘みゲーム]]」です。これまでの二度の伝説の記事選考で推薦されてきた記事は、選考に敗れてしまった記事も含め、どれも常習者一個人の作り上げた作品としてその優れた完成度を高く評価されたものでした。しかし「お花摘みゲーム」の素晴らしさは、これらの記事の素晴らしさとは全く趣を異にします。「お花摘みゲーム」は、常習者の協働編集の最高到達点なのです。
 透明というのは無色であって、それはやはり白でも黒でもなく、たとえばその「意識」という感覚の色を問われて想像するようなものであった。
 それは淡く澄んでいて、しかしその淡さに要求される神秘的なグラデーションは、澱となって析出しはじめた。こうして虚空は透明なまま、ゆらぎ、ひずみ、ひびわれた。世界に混沌への指向性を与えたのは、「光あれ」という言葉ではなく、意識の自問自答であった。
 縒れた空間が媒体となって、ようやく光が散乱し、意味ある視界が開けた。それはまさに開闢であって、空間を切り分け、天地を区別し、象った。生まれたての地平は鏡面にすぎず、天地はただ対称だったから、世界は細胞分裂の途中のようにも見えた。
 その意識は、徐々に覚醒し始めた。遠くに瞬く星々が、黒い空白を連れてきたとき、近くを横切る光球が、白い炎であたりを照らした。水に溶かした絵の具のように、黒は褪せ、ほどかれ、青くなった。それは、空と海とが産声をあげたときだった。
 空は視界の正面を覆うように広がっていたから、このとき初めて、彼は自分があおむけになっていることを知った。しかし、その次には、真上にあるはずの空が見えないことにも気づいた。
 ――それを遮っていた白い天井の蛍光灯とつまるところ目が合ったとき、意識の焦点が収束した。彼は自分がベッドの上に寝かされていて、看護師らしき誰かの声に何か呼びかけられているというその状況を、はたと理解した。
「もしもーし! 聞こえてますか?」
 彼女は病室奥のモニターをちらと確認したが、そこには複雑に舞いしきる白黒の砂嵐しか映っていないようで、「バッテリー切れかしら」とつぶやく。
「あ、あの……」
 彼が言った。
「すみません、ここは……?」
「あっ! 意識が戻ったんですね!」
 彼がいかにも臆病そうに、その声の主を捉えようとする間にも、続けて声が聞こえてくる。
「はじめまして、私は、勝手ながらあなたの看護を務めさせていただいている者です。先日あなたがこの辺りで意識を失っていたところを……」
 この声は、彼が寝かされているベッドのすぐ横の棚、その上段にあるスマートスピーカーのような小さな機械から発されていた。
「ああ、ええと、申し遅れました。私はAIです」


     *   *   *
 記事を読めば一目瞭然、最初に「お花摘み」の説明を行った後、怒涛のようなWikiWiki大喜利コーナー特有の箇条書きの荒波が押し寄せます。狂ったお嬢様が、トイレに行くことをまったく不可解な言葉で婉曲的に伝え続けているのです。「お花摘みに失礼します」「ちょっとお花を摘みに行ってきます」だったのが、「お下品なパンを焼きましょう」「お尻遊ばせ」「おっ おっ おっ おっ」「お"っ お"っん"」「黄金チワワ」……。あり得ない怪文書の羅列は「お花摘み」の大喜利を飛び出し、何故か記事にある短歌節の中で、「はま寿司 集めて遅し 集めるな 駐車場が 混む」「カッコウが住んでるうろの内壁を炙って食べる民族ですわ」「パーティ ティーパーティ パーティーパーティーパー」「叫びたければ叫べばいい 帰りたければ帰ればいい」「なかんずく 皮膚に生えている毛のその一本一本から 寂れたガレージで寿司を食む 二人の親子」など破調まみれの難解な短歌ブームが発生して、最後には「してないけどね ま、いいさ」という本当によく分からない節の中で、「聞け、大樹の霊! バンジージャンプ」「縦回転奴隷 魂は」など、本当によく分からない言葉遊びをし始めます。このように、記事「お花摘みゲーム」は、一個人には到底成し得ないカオスを抱えた、大喜利記事の極北にして最高傑作なのです。


「んー、なるほど。つまり、あなたは過去からタイムスリップして来た、そう言いたいわけですね?」
 内容の面白さはもちろん、「お花摘みゲーム」はWikiWikiの歴史を語る上でも非常に象徴的な意味合いを持ちます。常習者の活動が記事から姉妹プロジェクトに重点を移しつつ、「受験の闇」に向かって縮小していく中で、「お花摘みゲーム」は当時の常習者がオフラインで話す話題の半分ほどを占めていた謎の言葉遊びたちの文脈を踏まえつつ、常習者たちの持てる全ての記事への力を引き出し集積した、「受験の闇」前夜最後の花火でした。まさにその苦難を経て三年振りに開催された今回の伝説の記事選考の場において、私キュアラプラプは、この暗黒時代の中で瞬いた一つの閃光、「お花摘みゲーム」を、未来永劫語り継ぎ、伝えていきたいのです。絶対的な眩さと闇に消える叙情性は、まさに伝説とするに相応しい。思えばそれは、「お花摘みゲーム」大喜利節にも記されていたことでした――。<blockquote>侮ることなかれ、ボリビア</blockquote>
 彼女の言葉に、彼は居心地が悪そうに答えた。この診療所は、完全に彼女たちのボランティアによって運営されており、診察行為も彼女ら自身で行っている。
「は、はい。僕のいた時代では、まあ確かにAIブームみたいなことも起きてはいましたけど、それでもまだ発展途上で、ましてさっき言ってらしたように……AIに人権を認めるなんていうのは、ちょっと考えられないというか……」
「しかし――あなたは自分が住んでいた地域も、家族の名前も、自分の名前さえわからない、と」
 カルテこそ電子化されてはいるが、このような問診の形態ばかりは、彼の言う「過去」のそれと何ら変わりないものだった。――この病室にいる生物学的「人間」が、たった一人であることを除けば。
「そうなんです。何故か……どうしても思い出せません」
「なるほど、わかりました」
 大量に蓄積されてきた情報を抽出し、つなぎ合わせて、彼女はさも深刻そうな、憐れむような声音を合成し、診断を下した。
「――あなたは十中八九、『環境性ノストフィリア症候群』でしょう」
 その聞いたことのない病名にどう反応すればいいのか分からず、彼はとにかく続きを促そうと押し黙った。病室に沈黙が降り、モニターのホワイトノイズだけが響く。
「あっ、そっか、そうですよね、わかりませんよね。『環境性ノストフィリア症候群』は、まあ……つまり、『自分が過去の人間だと思い込んでしまう』という病気です」
 ――「環境性ノストフィリア症候群」、あるいは「懐古症候群」――二十四世紀前半に突如発生したこの原因不明の症状は、やはり地球全体を覆ったペシミズムと結びつけて考えられる。止まらない人口の減少、文明レベルを維持できなくなる不安――それらに対する防衛機制としてはたらいた、一種の「社会的幼児退行」であるとする説さえある。
 そんな診断を受け、彼はやはり混乱しているようだった。
「え、いや、でも、僕は……」
 彼はひどくもどかしい思いをしていた。自分は確かにあの二十一世紀を生きてきたはずで、それは明らかに確信をもって首肯されるべき直観なのに、その具体的な、生活的な、主観的な記憶だけが、まったく欠乏しているのだ。どこかで見た電柱のその奥の曇り空も、どこかで見た噛みあわない茶色のタイルも、都市の遠くに見える山の輪郭も、誰も彼を助けてはくれなかった。
「――ねえ、ちょっと散歩にでも出かけましょうよ!」
 とつぜん彼女が切り出した。
「実は、わたしも発症したことがあるんです。『環境性ノストフィリア症候群』。そのときは本当に、何といいますか、信じられない思いでした。でも、ここでの治療のおかげで、ちゃんと元気になれたんです! 散歩もたくさんしたんですよ!」
 棚の上段で、筺体にひかれたラインが緑色に光る。これはAIの感情に連動して色彩が顕れるしくみになっており、緑色は「喜び」だった。
「どうですか? 今の世界を実際に歩いてみる、というのは、ちゃんと効果的なリハビリとして認められてもいますし、良い気分転換にもなると思いますよ」
 彼の気持ちは、少し明るくなった。
「そうですね。行きましょう!」

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 三年。産まれた赤子が喋り始めるどころか手先が器用になることでおなじみ、三年の月日。長い凍結期間を経てついに帰って来た伝説の記事投票に際して私キュアラプラプが推薦するのは、記事「お花摘みゲーム」です。これまでの二度の伝説の記事選考で推薦されてきた記事は、選考に敗れてしまった記事も含め、どれも常習者一個人の作り上げた作品としてその優れた完成度を高く評価されたものでした。しかし「お花摘みゲーム」の素晴らしさは、これらの記事の素晴らしさとは全く趣を異にします。「お花摘みゲーム」は、常習者の協働編集の最高到達点なのです。

 記事を読めば一目瞭然、最初に「お花摘み」の説明を行った後、怒涛のようなWikiWiki大喜利コーナー特有の箇条書きの荒波が押し寄せます。狂ったお嬢様が、トイレに行くことをまったく不可解な言葉で婉曲的に伝え続けているのです。「お花摘みに失礼します」「ちょっとお花を摘みに行ってきます」だったのが、「お下品なパンを焼きましょう」「お尻遊ばせ」「おっ おっ おっ おっ」「お"っ お"っん"」「黄金チワワ」……。あり得ない怪文書の羅列は「お花摘み」の大喜利を飛び出し、何故か記事にある短歌節の中で、「はま寿司 集めて遅し 集めるな 駐車場が 混む」「カッコウが住んでるうろの内壁を炙って食べる民族ですわ」「パーティ ティーパーティ パーティーパーティーパー」「叫びたければ叫べばいい 帰りたければ帰ればいい」「なかんずく 皮膚に生えている毛のその一本一本から 寂れたガレージで寿司を食む 二人の親子」など破調まみれの難解な短歌ブームが発生して、最後には「してないけどね ま、いいさ」という本当によく分からない節の中で、「聞け、大樹の霊! バンジージャンプ」「縦回転奴隷 魂は」など、本当によく分からない言葉遊びをし始めます。このように、記事「お花摘みゲーム」は、一個人には到底成し得ないカオスを抱えた、大喜利記事の極北にして最高傑作なのです。

 内容の面白さはもちろん、「お花摘みゲーム」はWikiWikiの歴史を語る上でも非常に象徴的な意味合いを持ちます。常習者の活動が記事から姉妹プロジェクトに重点を移しつつ、「受験の闇」に向かって縮小していく中で、「お花摘みゲーム」は当時の常習者がオフラインで話す話題の半分ほどを占めていた謎の言葉遊びたちの文脈を踏まえつつ、常習者たちの持てる全ての記事への力を引き出し集積した、「受験の闇」前夜最後の花火でした。まさにその苦難を経て三年振りに開催された今回の伝説の記事選考の場において、私キュアラプラプは、この暗黒時代の中で瞬いた一つの閃光、「お花摘みゲーム」を、未来永劫語り継ぎ、伝えていきたいのです。絶対的な眩さと闇に消える叙情性は、まさに伝説とするに相応しい。思えばそれは、「お花摘みゲーム」大喜利節にも記されていたことでした――。

侮ることなかれ、ボリビア