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(ページの作成:「'''エトセトラ'''(ラテン語:'''''et cetera''''')とは、エ、セ、ラ、etc...のことである。etcとも略される。 ==概要== 前述の通り、「エ…」)
 
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'''エトセトラ'''(ラテン語:'''''et cetera''''')とは、エ、セ、ラ、etc...のことである。etcとも略される。
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==概要==
==概要==
前述の通り、「エトセトラ」は本質的には「エ」と「セ」と「ラ」、および「その他」("<span class="plainlinks">[https://ja.wikiwiki.ga/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%82%BB%E3%83%88%E3%83%A9 etc]</span>")によって構成される語句であるというのが現在の主流な解釈である。
前述の通り、「エトセトラ」は本質的には「エ」と「セ」と「ラ」、および「その他」("<span class="plainlinks">[https://ja.wikiwiki.ga/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%82%BB%E3%83%88%E3%83%A9 etc]</span>")によって構成される語句であるというのが現在の主流な解釈である。しかしながら、これが一般的に持つ意味は「その他」のみであり、つまるところこの言葉は<span class="plainlinks">[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AA%E7%92%B0%E5%AE%9A%E7%BE%A9 循環定義]</span>をとっているといえることになる。これについての詳細は後述する、


しかしながら、これが一般的に持つ意味は「その他」のみであり、つまるところ、この言葉は<span class="plainlinks">[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AA%E7%92%B0%E5%AE%9A%E7%BE%A9 循環定義]</span>をとっているといえることになる。これについての詳細は後述する、
また、そもそも「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものなのかについても未だに定説はない。後述の通り、「その他」は理論上では、その対象以外のすべてを指す言葉である。例えば「ラーメン、生姜焼き、天津飯、etc...」としたとき、これは「ラーメン」と「生姜焼き」と「天津飯」、そして「ラーメンでも生姜焼きでも天津飯でもないすべて」を表し、つまりこれらは「万物」に値する。


また、そもそも「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものなのかについても未だに定説はない。
しかしながら、人間の認知能力は「万物」を真に理解出来るほど強くなく、そのうえ「ラーメン」レベルにそれを細分化しようものなら理解は全くもって不可能である。このため、人間は「その他」が含む意義を、文脈やその対象の体系から予測し、万物に含まれる情報を限定的に入手するのである。例えば前述の「ラーメン、生姜焼き、天津飯、etc...」なら、この"etc"には何か料理が入るのだろう、と考えるような具合である。
 
'''<big>そう、エトセトラと人間は会話しているのである!!!</big>'''
 
一方、結局のところ「その他」に何が当たるに関してははっきりと定められないため、[[語弊]]を生じさせる危険性を孕んでいることも確かである。


==歴史==
==歴史==
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エトセトラは、もともとラテン語の語句として生まれたものであり、直訳するならば「および、残りのもの」という、平凡な語句であった。
エトセトラは、もともとラテン語の語句として生まれたものであり、直訳するならば「および、残りのもの」という、平凡な語句であった。


しかしながら、これが世界各地に広まっていくにつれ、この語句の中にある「ト」は、日本語の共格助詞「と」であるという認識が一般化し、けれどももともとの「その他」という意味は残り続けたため、
しかしながら、これが世界各地に広まっていくにつれ、この語句の中にある「ト」は、日本語の共格助詞「と」であるという認識が一般化し、けれども元々の「その他」という意味は残り続けたため、これによってこの語句「エトセトラ」は、「『エ』と『セ』と『ラ』、すなわち『その他』」と再定義されることとなった。
 
これによってこの語句、「エトセトラ」は、「『エ』と『セ』と『ラ』、すなわち『その他』」と再定義されることとなった。


===修正===
===修正===
その後、これに一石を投じたのが、日本語学者である<ruby>'''干支瀬戸羅'''<rt>'''えと せとら'''</rt></ruby>氏だった。彼は「いや『エ』と『セ』と『ラ』に『その他』の意味はないだろ…」という衝撃的な持論を展開したのだ。
しかしその後、これに一石を投じる人物が現れる。日本語学者である<ruby>'''干支瀬戸羅'''<rt>'''えと せとら'''</rt></ruby>氏だ。彼は「いや『エ』と『セ』と『ラ』に『その他』の意味はないだろ…」という衝撃的な持論を展開したのだ。


そしてそれと同時に発表された、これを裏付ける文章は以下のものであった。
そしてそれと同時に発表された、これを裏付ける文章は以下のものであった。
{{引用|引用文={{名言|名言=エとセとラ、etc|人物=干支瀬戸羅|対象=エトセトラ}}}}
{{引用|引用文={{名言|名言=エとセとラ、etc|人物=干支瀬戸羅|対象=エトセトラ}}}}
これはつまり、「エ」と「セ」と「ラ」、そして「その他」としての「エ」と「セ」と「ラ」を同時に表す一文であったのだが、少なくとも当時は「エ」も「セ」も「ラ」もそれ自体に他ならないものと考えられていた。
これはつまり、「エ」と「セ」と「ラ」、そして「その他」としての「エ」と「セ」と「ラ」を同時に表す一文であった。しかし、少なくとも当時の学会では、「エ」も「セ」も「ラ」もそれ自体に他ならないものと考えられていた。このため一見整合性があるようにも見えるこの一文は、例えば「バナナ、その他にも、バナナ」のような、論理的におかしなものであることが明らかとなる。
 
このため、一見整合性があるようにも見えるこの一文は、例えば「バナナ、その他にも、バナナ」のような、論理的におかしなものであることが明らかとなる。


そうなると、必然的にこれは当時の「エトセトラ」に対する認識は間違いであるということの指摘を帯びるものとして成立することになったのである。
そうなると、必然的にこれは当時の「エトセトラ」に対する認識について間違いであるということの指摘を帯びるものとして成立することになったのである。


同氏は、これを'''エトセトラ=セトラ間の非同一性'''(潜性セトラ説とも)という主張によって説明しようとした。これは、前述した通り「エ」と「セ」と「ラ」は「その他」と同一のものではないというものである。
同氏は、これを'''エトセトラ=セトラ間の非同一性'''(潜性セトラ説とも)という主張によって説明しようとした。これは、前述した通り「エ」と「セ」と「ラ」は「その他」と同一のものではないというものである。つまり、「エトセトラ」は「エ」と「セ」と「ラ」、そしてそれらとは別に見えない形で潜在する「その他」、これらの概念によって構成されているという主張であり、これは現代エトセトラ学における大きな革命とされている。


つまり、「エトセトラ」は「エ」と「セ」と「ラ」、そしてそれらとは別に見えない形で潜在する「その他」、これらの概念によって構成されているという主張であり、これは現代エトセトラ学における大きな革命とされている。
しかしながら、これでは「エトセトラ」の定義に「エトセトラ」自身が使われており、一般的に意味を成さないとされる循環定義となってしまっている。このことから、潜性セトラ説は完成された主張とは言いがたいという欠点を抱えている。
 
しかしながら、これでは「エトセトラ」の定義に「エトセトラ」自身が使われ、一般的に意味を成さないとされる循環定義となってしまっていることから、完成された主張とは言えないという欠点を抱えている。


===学会の分裂===
===学会の分裂===
この主張に異を唱える者も存在した。同じく日本語学者の<ruby>'''園田尊皇放火'''<rt>'''そのた そのほか'''</rt></ruby>氏は'''定性エトセトラ説'''を主張し、これは「エ」と「セ」と「ラ」を具体物と見做し、つまり特定の「エ」「セ」「ラ」を認めて矛盾を回避するというものだった。
この主張に異を唱える者も存在した。同じく日本語学者の<ruby>'''園田尊皇放火'''<rt>'''そのた そのほか'''</rt></ruby>氏は'''定性エトセトラ説'''を主張したのだ。これは、「エ」と「セ」と「ラ」を具体物と見做し、つまり特定の「エ」「セ」「ラ」を認めて矛盾を回避するというものだった。例えば、前述のように「バナナ、その他にも、バナナ」は非文であるが、「バナナA、その他にも、バナナAでない全バナナ」としてみなすことができれば、それは誤りではないことが見て取れる。
 
例えば、前述のように「バナナ、その他にも、バナナ」は非文であるが、「バナナA、その他にも、バナナAでない全バナナ」としてみなすことができれば、それは誤りではないことが見て取れる。
 
さらに、潜性セトラ節の大きな問題である、循環定義性に関しても解決できることから、これは大きな注目を集め、多くの支持者を生み出すこととなった。


また、この主張によってエトセトラ学会は干支派(潜性セトラ派・潜性派とも)と園田派(定性エトセトラ派・定性派とも)に分かれて対立することになり、
そのうえ、定性エトセトラ説は潜性セトラ説の大きな問題である循環定義性に関しても解決できることから、これは大きな注目を集め、多くの支持者を生み出すこととなった。この主張によってエトセトラ学会は干支派(潜性セトラ派・潜性派とも)と園田派(定性エトセトラ派・定性派とも)に分かれて対立することになり、その軸ともいえる「エ」と「セ」と「ラ」の性質に関しては、激しく対立しながら研究を進めることとなった。
 
その軸ともいえる「エ」と「セ」と「ラ」の性質に関しては、激しく対立しながら研究を進めることとなった。


===現在===
===現在===
現在のエトセトラ学会は、干支派と園田派の対立も大きく緩和しており、それぞれの説を横断したエトセトラの研究もかなり盛んになってきている。
現在のエトセトラ学会は、干支派と園田派の対立も大きく緩和しており、それぞれの説を横断したエトセトラの研究もかなり盛んになってきている。しかし、「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものであるのか、前述の通り未だはっきりとした答えは出ていない。このことから、現在ではこれらを性質ごとすべて意図的に無視した潜性セトラ説の方がより完成された理論として定説となっているが、今後間違いなくこれは覆されることであろう。
 
しかし、「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものであるのか、前述の通り未だはっきりとした答えは出ていない。
 
このため、現在ではこれらを性質ごとすべて意図的に無視した潜性セトラ説の方がより完成された理論として定説となっているが、今後間違いなくこれは覆されることであろう。


また、そもそも「エトセトラ」の「ト」は日本語の助詞「と」ではなく、意味として「エ」も「セ」も「ラ」も含まないという「エトセトラ[[非自己叙述的|非自己]][[包含ノート|包含]]説」も、主にその辺の一般人である'''エトス・エートル・アン'''氏によって主張されている。<ref>エトセトラ研究グループが街中でエトセトラについてのインタビューをした際、彼女はこう主張し、研究グループの全員は泡を吹いて倒れた。</ref>
また、そもそも「エトセトラ」の「ト」は日本語の助詞「と」ではなく、意味として「エ」も「セ」も「ラ」も含まないという「エトセトラ[[非自己叙述的|非自己]][[包含ノート|包含]]説」も、主にその辺の一般人である'''エトス・エートル・アン'''氏によって主張されている。<ref>エトセトラ研究グループが街中でエトセトラについてのインタビューをした際、彼女はこう主張し、研究グループの全員は泡を吹いて倒れた。</ref>確かにこの主張はすべての問題を解決できているが、あまりにも根拠に欠けた粗末なものであることから、全く相手にされていないというのが現状である。
 
確かにこの主張はすべての問題を解決できているが、あまりにも根拠に欠けた粗末なものであることから、全く相手にされていないというのが現状である。


==エトセトラ==
==エトセトラ==
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  エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ<br>       ⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ) <br>∴ エ,セ,ラ ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)
  エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ<br>       ⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ) <br>∴ エ,セ,ラ ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)


「『エ』と『セ』と『ラ』は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生より、背理法によって「エトセトラ = エ,セ,ラ」という仮定、つまり以前の定義が誤っていることが分かるのである。
「『エ』と『セ』と『ラ』は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生より、背理法によって「エトセトラ エ,セ,ラ」という仮定、つまり以前の定義が誤っていることが分かるのである。


では、潜性セトラ説に基づき、「エトセトラ ⇔ エ,セ,ラ,エトセトラ」と仮定すると、以下のようになる。
では、潜性セトラ説に基づき、「エトセトラ ⇔ エ,セ,ラ,エトセトラ」と仮定すると、以下のようになる。
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  エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc<br>       ⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)<br>∴ エ,セ,ラ,etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)
  エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc<br>       ⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)<br>∴ エ,セ,ラ,etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)


「『エ』と『セ』と『ラ』およびその他は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生により、背理法によって「エトセトラ = エ,セ,ラ,エトセトラ」という仮定が誤っていることが分かるのである。
「『エ』と『セ』と『ラ』およびその他は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生により、背理法によって「エトセトラ = エ,セ,ラ,エトセトラ」という仮定が誤っていることが分かる。
 
これは、"etc"、エトセトラが「『エ』と『セ』と『ラ』、そして自身」という循環定義をされているために、無限に「エ」と「セ」と「ラ」を取り出せるため、


あるところで打ち切ったものと、それ以上に続けたものとで結果が異なってしまうことが原因である。例えば以下のように、「エ,セ,ラ,etc」ではなく「エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc」をエトセントラル・ドグマに当てはめると矛盾は発生しない。
これは、"etc"、エトセトラが「『エ』と『セ』と『ラ』、そして自身」という循環定義をされているため、無限に「エ」と「セ」と「ラ」を取り出せることにより、あるところで打ち切ったものと、それ以上に続けたものとで結果が異なってしまうことが原因である。例えば以下のように、「エ,セ,ラ,etc」ではなく「エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc」をエトセントラル・ドグマに当てはめると矛盾は発生しない。


  エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc<br>       ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)<br>∴ etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)
  エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc<br>       ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)<br>∴ etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)


この矛盾を解決するために、干支派は「『エ』と『セ』と『ラ』は実際には存在せず、仮想にも存在しない『非存在』である」という主張を用いて、無視するべきものを無視していないがために矛盾が生じているという立場をとっている。
干支派はこの矛盾を解決するために、「『エ』と『セ』と『ラ』は実際には存在せず、仮想にも存在しない『非存在』である」という主張を用いて、無視するべきものを無視していないがために矛盾が生じているという立場をとっている。これによれば、「エ」も「セ」も「ラ」も考慮されないものとなり、さらにエトセトラは単独で機能しないため、この例は全くもって無意味なものであるという。これこそが潜性セトラ説の本質なのである。「[[トートロジー|エトセトラ ⇔ エトセトラ]]」という、全くもって否定しがたい主張が可能になるのだ。


これによれば、「エ」も「セ」も「ラ」も考慮されないものとなり、さらにエトセトラは単独で機能しないため、この例は全くもって無意味なものであるという。これこそが潜性セトラ説の本質なのである。
なお、これに関しては、前述したエトセトラ非自己包含説との類似性も主張されている。


さらに、そうなれば「[[トートロジー|エトセトラ ⇔ エトセトラ]]」という、全くもって否定しがたい主張が可能になるのだ。なお、これに関して、前述したエトセトラ非自己包含説との類似性も主張されている。
しかし結局のところ、「エ」と「セ」と「ラ」の性質が解明されない限り、エトセトラ学の発展、つまり完成を目にすることはできないのである。


結局のところ、「エ」と「セ」と「ラ」の性質が解明されない限り、エトセトラ学の発展、つまり完成を目にすることはできないのである。
==脚注==
==脚注==
<references />
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[[カテゴリ:ロジック]]
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  個野記事派過去野このきじはかこの秀逸しゅういつ名記事なきじ

エトセトラ(ラテン語:et cetera)とは、エ、セ、ラ、etc...のことである。etcとも略される。

概要[編集 | ソースを編集]

前述の通り、「エトセトラ」は本質的には「エ」と「セ」と「ラ」、および「その他」("etc")によって構成される語句であるというのが現在の主流な解釈である。しかしながら、これが一般的に持つ意味は「その他」のみであり、つまるところこの言葉は循環定義をとっているといえることになる。これについての詳細は後述する、

また、そもそも「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものなのかについても未だに定説はない。後述の通り、「その他」は理論上では、その対象以外のすべてを指す言葉である。例えば「ラーメン、生姜焼き、天津飯、etc...」としたとき、これは「ラーメン」と「生姜焼き」と「天津飯」、そして「ラーメンでも生姜焼きでも天津飯でもないすべて」を表し、つまりこれらは「万物」に値する。

しかしながら、人間の認知能力は「万物」を真に理解出来るほど強くなく、そのうえ「ラーメン」レベルにそれを細分化しようものなら理解は全くもって不可能である。このため、人間は「その他」が含む意義を、文脈やその対象の体系から予測し、万物に含まれる情報を限定的に入手するのである。例えば前述の「ラーメン、生姜焼き、天津飯、etc...」なら、この"etc"には何か料理が入るのだろう、と考えるような具合である。

そう、エトセトラと人間は会話しているのである!!!

一方、結局のところ「その他」に何が当たるに関してははっきりと定められないため、語弊を生じさせる危険性を孕んでいることも確かである。

歴史[編集 | ソースを編集]

発生[編集 | ソースを編集]

エトセトラは、もともとラテン語の語句として生まれたものであり、直訳するならば「および、残りのもの」という、平凡な語句であった。

しかしながら、これが世界各地に広まっていくにつれ、この語句の中にある「ト」は、日本語の共格助詞「と」であるという認識が一般化し、けれども元々の「その他」という意味は残り続けたため、これによってこの語句「エトセトラ」は、「『エ』と『セ』と『ラ』、すなわち『その他』」と再定義されることとなった。

修正[編集 | ソースを編集]

しかしその後、これに一石を投じる人物が現れる。日本語学者である干支瀬戸羅えと せとら氏だ。彼は「いや『エ』と『セ』と『ラ』に『その他』の意味はないだろ…」という衝撃的な持論を展開したのだ。

そしてそれと同時に発表された、これを裏付ける文章は以下のものであった。

「エとセとラ、etc」

~ エトセトラ について、干支瀬戸羅

これはつまり、「エ」と「セ」と「ラ」、そして「その他」としての「エ」と「セ」と「ラ」を同時に表す一文であった。しかし、少なくとも当時の学会では、「エ」も「セ」も「ラ」もそれ自体に他ならないものと考えられていた。このため一見整合性があるようにも見えるこの一文は、例えば「バナナ、その他にも、バナナ」のような、論理的におかしなものであることが明らかとなる。

そうなると、必然的にこれは当時の「エトセトラ」に対する認識について間違いであるということの指摘を帯びるものとして成立することになったのである。

同氏は、これをエトセトラ=セトラ間の非同一性(潜性セトラ説とも)という主張によって説明しようとした。これは、前述した通り「エ」と「セ」と「ラ」は「その他」と同一のものではないというものである。つまり、「エトセトラ」は「エ」と「セ」と「ラ」、そしてそれらとは別に見えない形で潜在する「その他」、これらの概念によって構成されているという主張であり、これは現代エトセトラ学における大きな革命とされている。

しかしながら、これでは「エトセトラ」の定義に「エトセトラ」自身が使われており、一般的に意味を成さないとされる循環定義となってしまっている。このことから、潜性セトラ説は完成された主張とは言いがたいという欠点を抱えている。

学会の分裂[編集 | ソースを編集]

この主張に異を唱える者も存在した。同じく日本語学者の園田尊皇放火そのた そのほか氏は定性エトセトラ説を主張したのだ。これは、「エ」と「セ」と「ラ」を具体物と見做し、つまり特定の「エ」「セ」「ラ」を認めて矛盾を回避するというものだった。例えば、前述のように「バナナ、その他にも、バナナ」は非文であるが、「バナナA、その他にも、バナナAでない全バナナ」としてみなすことができれば、それは誤りではないことが見て取れる。

そのうえ、定性エトセトラ説は潜性セトラ説の大きな問題である循環定義性に関しても解決できることから、これは大きな注目を集め、多くの支持者を生み出すこととなった。この主張によってエトセトラ学会は干支派(潜性セトラ派・潜性派とも)と園田派(定性エトセトラ派・定性派とも)に分かれて対立することになり、その軸ともいえる「エ」と「セ」と「ラ」の性質に関しては、激しく対立しながら研究を進めることとなった。

現在[編集 | ソースを編集]

現在のエトセトラ学会は、干支派と園田派の対立も大きく緩和しており、それぞれの説を横断したエトセトラの研究もかなり盛んになってきている。しかし、「エ」と「セ」と「ラ」がどのようなものであるのか、前述の通り未だはっきりとした答えは出ていない。このことから、現在ではこれらを性質ごとすべて意図的に無視した潜性セトラ説の方がより完成された理論として定説となっているが、今後間違いなくこれは覆されることであろう。

また、そもそも「エトセトラ」の「ト」は日本語の助詞「と」ではなく、意味として「エ」も「セ」も「ラ」も含まないという「エトセトラ非自己包含説」も、主にその辺の一般人であるエトス・エートル・アン氏によって主張されている。[1]確かにこの主張はすべての問題を解決できているが、あまりにも根拠に欠けた粗末なものであることから、全く相手にされていないというのが現状である。

エトセトラ[編集 | ソースを編集]

「エ」と「セ」と「ラ」が、実際のところどのようなものであるのかについて、これまでにされてきた主張を以下に列挙しておく。

麻薬の常用者親愛なる編集者の皆様へ
この節は大喜利である。面白いのを思いついたら追加していきなさい。


  1. 非存在「エ」と非存在「セ」と非存在「ラ」。主に干支派が推している。
  2. 具体的存在「エ」と具体的存在「セ」と具体的存在「ラ」。主に園田派が推している。
  3. えくぼと背筋とラジオ体操。主に体操集団が推している。
  4. 円筒と銭湯と乱闘。主に ん党 が推している。
  5. "エ"トセトラとエト"セ"トラとエトセト"ラ"。主に推しているのは、推している人、etc...。
  6. 絵と瀬と螺。主に一文字教が推している。
  7. 円周率生産性のない凄惨な罪の清算ゲームラプラプの悪魔。主に常習者が推している。

循環定義の問題点[編集 | ソースを編集]

「リンゴ[2]、バナナ[3]、その他[4]」と言ったとき、「その他」が少なくとも「リンゴ」と「バナナ」ではないことからも分かる通り、「その他」はこれが係る全てと異なる。

このことから、「リンゴ,バナナ,etc ⇔ リンゴ,バナナ,¬(リンゴ∨バナナ)」は正しいといえる。これを一般化すると、次のようになる。

x,etc ⇔ x,¬x[5]

これに、「エトセトラ ⇔ エ,セ,ラ」と仮定して、前述した例文を示すと、以下のようになる。

エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ
       ⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)
∴ エ,セ,ラ ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)

「『エ』と『セ』と『ラ』は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生より、背理法によって「エトセトラ ⇔ エ,セ,ラ」という仮定、つまり以前の定義が誤っていることが分かるのである。

では、潜性セトラ説に基づき、「エトセトラ ⇔ エ,セ,ラ,エトセトラ」と仮定すると、以下のようになる。

エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc
       ⇔ エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)
∴ エ,セ,ラ,etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)

「『エ』と『セ』と『ラ』およびその他は、『エ』でも『セ』でも『ラ』でもない」という矛盾の発生により、背理法によって「エトセトラ = エ,セ,ラ,エトセトラ」という仮定が誤っていることが分かる。

これは、"etc"、エトセトラが「『エ』と『セ』と『ラ』、そして自身」という循環定義をされているため、無限に「エ」と「セ」と「ラ」を取り出せることにより、あるところで打ち切ったものと、それ以上に続けたものとで結果が異なってしまうことが原因である。例えば以下のように、「エ,セ,ラ,etc」ではなく「エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc」をエトセントラル・ドグマに当てはめると矛盾は発生しない。

エ,セ,ラ,etc ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,etc
       ⇔ エ,セ,ラ,エ,セ,ラ,¬(エ∨セ∨ラ)
∴ etc ⇔ ¬(エ∨セ∨ラ)

干支派はこの矛盾を解決するために、「『エ』と『セ』と『ラ』は実際には存在せず、仮想にも存在しない『非存在』である」という主張を用いて、無視するべきものを無視していないがために矛盾が生じているという立場をとっている。これによれば、「エ」も「セ」も「ラ」も考慮されないものとなり、さらにエトセトラは単独で機能しないため、この例は全くもって無意味なものであるという。これこそが潜性セトラ説の本質なのである。「エトセトラ ⇔ エトセトラ」という、全くもって否定しがたい主張が可能になるのだ。

なお、これに関しては、前述したエトセトラ非自己包含説との類似性も主張されている。

しかし結局のところ、「エ」と「セ」と「ラ」の性質が解明されない限り、エトセトラ学の発展、つまり完成を目にすることはできないのである。

脚注[編集 | ソースを編集]

  1. エトセトラ研究グループが街中でエトセトラについてのインタビューをした際、彼女はこう主張し、研究グループの全員は泡を吹いて倒れた。
  2. 「りんご」と読むのだが、知ってた?
  3. 「ばなな」と読むのだが、知ってた?
  4. えっと、なんて読むんだろこれ…
  5. エトセトラ学におけるセントラル・ドグマという意を込め、これはエトセントラル・ドグマとよばれている。

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