「叙述トリック」の版間の差分
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「ねえ小島さん、'''叙述トリック'''って知ってます?」 | 「ねえ小島さん、'''叙述トリック'''って知ってます?」 |
3年1月3日 (ヰ) 23:42時点における版
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起
「ねえ小島さん、叙述トリックって知ってます?」
「急になんだよタケ。まあ知ってるけどさ」
冬の早朝6時15分、僕はいつもより少し早く目覚めてしまい、同じく起きていた小島さんにこの質問をぶつけたのだった。小島さんは35歳くらいで、彫りの深い顔に髭が似合うダンディな人だ。
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「こないだ読んだ本にあって。ミステリーあたりはからっきしなんですよ」
僕はしばらく前にトラブルを起こして大学を退学になり、今は男4人で同居している。ルームシェアだと思えばましだけど……誰が進んで野郎共と一つ屋根の下で住むものか。4人というのは、僕と小島さん、そして京極さんと三津田さん。皆僕より年上だ。あとの2人はまだぐっすり寝こけている。部屋はいささか肌寒い。
「はっ、マジかよ」
小島さんは鼻で笑った。お前がかよ、と顔が語っている。
「こういうの好きだったでしょう? 教えてくださいよ」
時々小島さんが本を読んでいるのを見るが、大体推理小説なのだ。どうやらそういう系統の新人賞に応募したこともあるらしい。
「わかったよ。丁度叙述トリックについての昔話があってな、聞かせてやるよ。ただし、手を動かしながらだ」
見ると、京極さんと三津田さんがもぞもぞと起き出していた。2人とももう、おじさんというよりおじいさんといった方がしっくりくる歳だ。京極さんは身長が低くて小太り、三津田さんは対照的にのっぽで痩せぎすな体型をしている。話し方も、三津田さんは二回りほど年下の僕にも丁寧語を使うが、京極さんはゴリゴリの関西弁で、対照的だ。
「おはようございます」
「なんや2人とも偉う起きるんが早いなあ」
いつも同じ時間に起きていると、アラームなぞ無くとも自然と目が覚めてしまうものだ。僕は変わり映えのしない一日の到来に溜め息を吐くと、布団を畳むために立ち上がった。
「あれは俺が小6になりたての4月の出来事だった」
そう小島さんは話し始めた。
序
「ねえ亮二兄さん、叙述トリックって知ってる?」
「急になんだよケン。まあ知ってるけどさ」
ケンってのは俺、小島健児のあだ名だ。詳しくは覚えちゃいないが、お前と同様叙述トリックって言葉を何かの本で見たんだろう。亮二兄さんとは年が離れててな、子供心には何でも知ってるすごい人に思えたのさ。
兄さんは少し難しい言葉遣いで、説明を始めた。
「叙述トリックっていうのはな、作者が読者に仕掛けるトリックのことだ。そしてそれは必然的に、文字媒体であるが故の特性を利用するものになる」
「作者が読者に?」
「そうだ。普通のトリックってのは、犯人が被害者やら探偵やらに仕掛けるものだろう? ほら、例えば」
そこで椅子の軋む音が微かに聞こえた。兄さんは立ち上がったみたいだった。俺はベッドに座ったまま黙って話を聞いていた。
「頭で想像しながら聞くんだぞ。ここには俺の部屋のドアがある。部屋の中に死体が転がってると思え。そして俺はこの部屋を密室にしようとする。そこで、俺は長い長い、部屋のドアから向かいの壁くらいの長さの氷の棒を持ってくる。あくまで例だから、『どこから?』とかは考えなくていいぞ」
まさにそう質問しようとしていた俺は慌てて口を噤んだ。兄さんはエアーで簡易トリックを実演し始めたようだ。
「まずドアを左手で人が通れるくらいに開けておく。そうしながら氷の棒の端をドアの向かいの壁につける。すると、もう片方の端はドアにつっかえる。まあドアに氷の棒を立てかけてるイメージだ」
「んん? ちょっと待ってよ兄さん」
一旦頭を整理しないと。黙って兄さんの言うことをトレースしていると、階下からはお袋の笑い声が聞こえてきた。我が家は一軒家とはいえ、部屋と部屋の間の壁が薄いのだ。
少し時間をおいて、兄さんが聞いた。
「どうだ?」
「うん、何となくわかったよ」
「じゃあ説明を続けるぞ。とりあえずこのギターを氷の棒と思って立てかけよう。そうしたら……よっと、部屋の外へ出ると同時に氷の棒を放す!」
ゴトッとギターが倒れる音がした。
「こうすると、氷がつっかえ棒となって、ドアは開かなくなる。密室ができるわけだ。あとは鍵が掛かっているように見せかけて、氷が溶けるのを待ってドアを破り突入した瞬間鍵を閉めれば、密室の完成というわけだ! まあ床が濡れているのをどうにかして誤魔化さないといけないんだけどな」
正直後半はよく理解できなかったが、兄さんが見事に密室を作り上げたのがすごいと感嘆したよ。今思えば子供騙しの穴だらけなトリックだがな。
「どうだケン、兄さんが何したかはわかったか?」
「うん!」
「はは、そら良かった。さすが俺の弟だな。よし、あれ、ギターが引っかかって、ギリ通れない…くそ」
そこでバキッと嫌な音がした。
「ああ、俺のギター! 高かったのに!!」
兄さんはギターを上手くつっかえさせ過ぎたようだった。策士策に溺れるっていうか、兄さんも抜けてたんだな。俺は大笑いして、しまいにゃ兄さんもつられて大笑いしてたよ。
笑いの波が収まると、兄さんは説明を再開した。
「いまやったトリックは、犯人が警察もしくは探偵に仕掛けるトリックだ。密室にすることで、捜査側を困らせようとしているんだからな。でも、叙述トリックはそうじゃない」
「ならどんなトリックなの?」
「さっきも言ったが、作者が読者に仕掛けるトリックだ。具体例を挙げるなら、こんな感じだ。『太郎さんが殺されました。犯行が可能だったのは、太郎の弟と妹、次郎、花子のどっちかです。そして現場には口紅が落ちていました。さて、犯人は誰でしょう?』」
「花子!」
俺はすぐに答えた。口紅が落ちてたなら犯人は女じゃないか! ところが兄さんは言った。
「ブブー、残念! 口紅が落ちているということは犯人は女。でも実は、次郎は女で、花子は男だったんです! というわけで正解は次郎でした!」
俺は唖然としていた。だって、そんなことないだろ? すると兄さんは少し焦ったような声で付け足した。
「まあ、これは適当に作っただけだから。ちゃんとしたやつは、もっと丁寧に伏線が張られていて納得できるから安心しろ。こんな風に、作者が読者を直接騙すのが、叙述トリックだ」
「作者が読者を騙す……」
「そしてそれはフェアでなくちゃいけない。さっきの例で行くと、途中で『花子は三郎の妻だ』と書いてあるのに、最後になって『花子は男なんです!』と言っちゃあダメだ。整合性が取れてないだろ? ただし語り手が勘違いしているなどの事情があれば構わないから、三人称の地の文で虚偽を書いてはいけないとされるのが一般的だな」
当時の俺はわかったようなわからないような感じだったが、疑問は残った。
「なんでそんなことするの?」
「まあ、理由は大きく分けて2つだろうな。
1つは、ミステリの難易度を上げるためだ。ミステリには、犯人とかを当てる、作者vs読者のバトルっていう一面があるんだ。どうしても勝ちたい作者が、こんなトリックを仕掛けるんだ。お前もさっき正解できなかっただろ? そういうことだ。
2つ目は、読者を驚かせるためだ。さっき俺の話を聞いたお前は驚いたろ? 世の中には、驚かされるのが楽しいっていう変な人種がいるんだ。そいつらを喜ばせるために作者は叙述トリックを仕掛けるのさ。
おっと、長く喋り過ぎたな。もう小学生は寝る時間だ。じゃあ、おやすみ」
こうしてその日の会話は終わった。
承
小島さんはそこまで話したところで、口を閉じた。いつの間にか京極さんと三津田さんも話に聞き入っている。
「いいところだが、時間だ。続きはまた後でな」
そう言って小島さんは時計を指した。6時45分。僕は大きく溜め息をつくと、顔を洗いに洗面所へ向かった。
「タケ君は溜め息ばかり吐いてますねえ」
「そんなんやと幸運も逃げてまうで」
そう言って三津田さんは銀縁眼鏡を拭き、京極さんは赤ら顔でカラカラと笑った。
「そうだぞ。みっちゃん、ゴクさん、もっと言ってやれ!」
3人のおじさんは揃って僕を子供扱いする。まあ30代の小島さんはともかく、京極さんと三津田さんは還暦が近い。年の差を考えれば当然なのかもしれない。でも、気分のいいことではないからやめてくれと言ってるんだが、本人たちは改善する気がないらしい。僕はまた溜め息を吐こうとして、慌てて口を閉じた。
それから身支度をして朝飯を食って、勤労奉仕の時間と相なった。僕たち4人は同じ工場で働いている。しかも作業するブースも大抵一緒だ。仕事は楽だし働く時間も短いが、給料は信じられないほど少ない。それに、僕は根っからの労働嫌いだ。本音を言えば働きたくないが、それができたら苦労しない。
午前10時、僕たちは作られた商品をひたすら箱に詰める作業をしていた。コンベアーに乗った石鹸を片っ端から紙の箱に入れ、蓋を閉じる。ロボットでもできるだろと思うが、嘆いても詮方ない。単純作業ここに極まれりだ。まったく、暇で暇でしょうがない。
「ねえ小島さん、朝の続きを話してくださいよ」
そこで僕は、小島さんに話の続きをするよう催促した。少しでもこの時間を有意義に使いたいという思いが芽生えてしまったのだ。叙述トリックの説明はあらかた終わったと思うんだが、続きとは何だろう? 横の京極さんと三津田さんも、目を輝かせて小島さんを見つめている。この人たちホントに50代か? 目の輝きは小学生のそれだぞ?
小島さんは「しゃあねえなあ」と言いつつも、どこか楽しげに続きを話し始めた。
破
その次の日の晩、夕飯の時間になって、お袋に言われて俺は2階の自室にいる兄貴を呼びに行った。兄貴の部屋をノックしようとしたところで、急にドアが開き、俺は鼻をしたたかにぶつけた。兄貴は笑いながら「すまんすまん」と謝ったが、こっちは痛いのなんの。不貞腐れたよ。鼻の頭に絆創膏を貼らないといけなかった。
ともかく夕飯になった。そのときは俺と兄貴、親父とお袋の4人暮らしだった。はは、今と同じだな。お袋は専業主婦、親父は市議会議員だった。俺は食卓のお誕生席で黙々と白飯を食ってた。兄さんには無邪気に接していたんだが、他の家族、特に親父の前でははしゃげなかった。今思えば、この時既に親に少し苦手意識を持ってたのかもしれないな。
そんなことは露ほども知らない、何かと心労の絶えない時期を通り抜けた親父は、陽気に「政治は~、政治を~」と理想を語っていた。だからお袋が、
「せっかくケンちゃんが賞状貰ってきたのに、お父さんったら政治、政治ってそればっかり。少しは気にかけてやってくださいよ」
と嗜めた。だが親父は、
「気にかけてるよ。それに、弟ってのは兄の背を見て育つもんだ。だからお前も優秀に育ってるし、健児もそうなるだろう。な、健児?」
事実、親父が褒めるかどうかなんて俺は気にしてなかったから、適当に返事して終わったと思う。親父が言うように、兄は教育通り優秀に育ったんだ。まあ弟がそうじゃないことは、あんたらも知っての通りだ。
そしてその次の日の午後3時、俺は小遣いで買っといたプリンを食べようと、2階の自室からキッチンへ降りてきた。さあ食べようと冷蔵庫を開け放ったんだが、確かに2段目に入れといたはずのプリンがない。中を隅から隅まで探したが、ない。そこで横のゴミ箱を見ると、なんとプリンの空容器が捨ててあったのさ!
それを見て幼き俺は愕然として落涙、この世の不条理を嘆いた……わけじゃあない。正直あんまショックは受けなかった。プリン大好きってわけじゃないし、小遣いは十分貰ってたから惜しくもなかった。たかがプリン1個くらいで家族を詰るような、狭量な男じゃなかったんだ、俺は。
だが、ここで一つ疑問が残った。誰がプリンを食べたのだろう? 容器はゴミの上の方にあり、俺が昼飯のときにこぼしたレタスよりも上にある。ということは、プリンは昼飯より後に食われたってことだ。でも、両親は昼飯の前から買い物に行っていて、まだ帰ってきていない。その日は子供だけで冷凍食品をチンして食べたんだ。そして俺がレタスを捨てたとき、プリンのカップなんて無かった。なら、親が食べたのではない。そして、兄さんは珍しいことにプリンがとても苦手なんだ。食べるなんてこと絶対にあり得ない。今日は客も一切来ていない……。
そこまで考えたところで、自分が無駄な思考をしていたことに気づいた。落ち着いて考えれば、答えは歴然じゃあないか……。
転
「おいそこ、無駄話するんじゃない!」
そこまで小島さんが話したところで、高い椅子に座ったオヤジに注意された。三津田さんと京極さんはそそくさと箱詰め作業をし始める。まったく、いいところだったのに! あいつ、僕たちが働いてるのを見てるだけで給料が入るなんて……。工場勤めを辞められた暁には、あの仕事を目指そうかしら。まあ無理か。
小島さんが話を再開する気配はない。続きはお預けかあ。
でも、プリンを食べたのは一体誰だろう? 僕はそのことばかりを考え続け、いつの間にか昼休憩の時間になっていた。
昼飯を食いながらでも話の続きを聞かせてもらおうと思ったが、小島さんは手早くカレーライスをかきこむと、どこかに行ってしまった。京極さんはそれを見て、
「ケンのヤツ、あら女やな。女に逢いに行くんや」
と顎をさすりながら言った。三津田さんも小指を立てて笑っている。まさかと思ったが、小島さんならあり得るかもしれない。なんてったって顔がいい。
「もしそうなら、彼女さん、小島さんに相当入れ込んでるんすね」
と言うと、2人のおじさんは揃って頷いた。この人らホントに中年か? ニヤケ面は中学生のそれそのものだぞ?
小島さんは仕事が再開する直前に戻って来た。よっしゃ話の続きをせがもうと身構えた矢先、残念ながら京極さんと三津田さんは離れた場所に増援に向かわされてしまった。2人のいないところで続きを聞くのは忍びない。だが……。
「さっき聞いた話なんだが、叙述トリックにもいろいろあるらしいぜ」
葛藤していると、小島さんが突然口を開いた。
「『意味なし叙述』ってのと『意味あり叙述』ってのがあるらしい」
「さっきって、昼休みに?」
「ああ」
「もしかして、恋人?」
「ん、さてはみっちゃんとゴクさんに入れ知恵されたな? あの爺さんたち、勘が鋭いからなぁ。すごいぜあの人らは」
ならなぜこんな底辺の暮らしをしてるんだ。もっとも、僕が言えたことじゃないが。
「まあそれはさておき、叙述トリックの説明だ。小説とかで叙述トリックが仕掛けられているとする。問題は、なぜ仕掛けられたのか、だ」
何か小島さんのお兄さんが話の中で言ってた気がするな。
「もし読者を驚かせるためだけに仕掛けられたものなら、それは『意味なし叙述』だ。でも、犯人当てとかの要素として組み込まれたものならば、作品の成立に不可欠だから、『意味あり叙述』となる」
「えーっと、小島さんのお兄さんの話に合わせると……読者を驚かせるためのものが意味なし叙述、ミステリの難易度を上げるためのものが意味あり叙述ってことですか」
「そうだ。よく覚えてるな。まあミステリ的な仕掛けに限らずとも、小説の主題に関わるなら意味あり叙述だとする人もいるらしい。そもそもこれらの概念自体が最近提唱されたもので、定義は人によってまちまちなんだと」
むむむ、要するに驚かせるためだけか否か、ってことか。というか、彼女さんに会う貴重な時間を使ってこんなこと聞いてきてくれたのかよ。もっと別のこと話しなさいよ。
「じゃ、そういうことだ。昔話の続きは、仕事終わってからな」
小島さんはそう言うと、あとは黙々と箱詰めをするだけだった。僕は、小島さんのミステリ好きは彼女さんの影響なのかもな、とぼんやり思った。
結局4人が揃ったのは夜8時半、布団を敷いて寝支度をする頃合だった。冬の夜は長いが、僕らは季節に関係なく9時には寝る。他の皆も各々の布団に胡座をかいたのを見ると、僕は早速切り出した。
「それで小島さん、プリンを食べたのは誰なんです?」
「なんだタケ、解らないのか? あれだけヒント出してやったってのに」
小島さんは馬鹿にしたように笑うと、
「ゴクさんとみっちゃんは解ったよな?」
と水を向けた。
「まあ、考える時間がぎょうさんあったさかいなあ」
「老いた脳にはなかなかきつかったですよ」
え? 解ってないの僕だけ?
「じゃあ、タケのために続きを話すか」
そう言うと小島さんはニヤニヤしながら話の最終章へ入った。
急
俺がプリンを諦めて、ダイニングで源氏パイを食っていると、兄貴が2階の自室から降りてきた。そして兄貴は俺の顔を見るなり、笑い出したのさ。俺は少々ムッとして、
これで昔話は終わりだ。 結
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