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===インド古典文化の黄金期===
===インド古典文化の黄金期===
4世紀には、'''チャンドラグプタ1世'''が'''グプタ朝'''を開き、'''チャンドラグプタ2世'''の時代には北インド全域を支配して最盛期を迎えた。このころバラモンの権威が復活し、バラモン教と民間信仰が合わさった多神教・'''ヒンドゥー教'''が社会に定着し始めたほか、バラモンの言葉であるサンスクリット語が公用語となり、'''『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』'''、宮廷詩人'''カーリダーサ'''による'''『シャクンタラー』'''などのサンスクリット文学も栄えた。また、ヒンドゥー教におけるヴァルナの規範を記した'''『マヌ法典』'''もこの時期完成した。天文学や数学も発展し、十進法や位取りでないゼロの概念も生み出された。さらに、美術に関しては、ヘレニズム文化の影響下にあるガンダーラ美術から脱出した'''グプタ様式'''が成立し、'''アジャンター石窟寺院'''に多くの仏教関係の壁画が描かれた。グプタ朝が騎馬遊牧民'''エフタル'''によって滅亡した後には、'''ハルシャ王'''が'''ヴァルダナ朝'''をおこして北インドを支配した。この時期、唐僧の'''玄奘'''・'''義浄'''がそれぞれ陸路・海路でもって来印し、ハルシャ王の保護で仏教の研究機関の中心となっていた'''ナーランダー僧院'''で学んだ。帰国後にはそれぞれ'''『大唐西域記』『南海寄帰内法伝』'''を著した。しかし、ヒンドゥー教への絶対的帰依を主張する宗教運動・'''バクティ運動'''の攻撃を受け、インド国内の仏教はここから衰退に至ることとなる。そしてヴァルダナ朝の衰退後、北インドの統一は長きにわたって果たされることなく、クシャトリヤの子孫を自称する'''ラージプート'''の小国が分立し争い合う時代となった。
4世紀には、'''チャンドラグプタ1世'''が'''グプタ朝'''を開き、'''チャンドラグプタ2世'''の時代には北インド全域を支配して最盛期を迎えた。このころバラモンの権威が復活し、バラモン教と民間信仰が合わさった多神教・'''ヒンドゥー教'''が社会に定着し始めたほか、バラモンの言葉であるサンスクリット語が公用語となり、'''『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』'''、宮廷詩人'''カーリダーサ'''による'''『シャクンタラー』'''などのサンスクリット文学も栄えた。また、ヒンドゥー教におけるヴァルナの規範を記した'''『マヌ法典』'''もこの時期完成した。天文学や数学も発展し、十進法や位取りでないゼロの概念も生み出された。さらに、美術に関しては、ヘレニズム文化の影響下にあるガンダーラ美術から脱出した'''グプタ様式'''が成立し、'''アジャンター石窟寺院'''に多くの仏教関係の壁画が描かれた。グプタ朝が騎馬遊牧民'''エフタル'''によって滅亡した後には、'''ハルシャ王'''が'''ヴァルダナ朝'''をおこして北インドを支配した。この時期、唐僧の'''玄奘'''・'''義浄'''がそれぞれ陸路・海路でもって来印し、ハルシャ王の保護で仏教の研究機関の中心となっていた'''ナーランダー僧院'''で学んだ。帰国後にはそれぞれ'''『大唐西域記』『南海寄帰内法伝』'''を著した。しかし、ヒンドゥー教への絶対的帰依を主張する宗教運動・'''バクティ運動'''の攻撃を受け、インド国内の仏教はここから衰退に至ることとなる。そしてヴァルダナ朝の衰退後、北インドの統一は長きにわたって果たされることなく、クシャトリヤの子孫を自称する'''ラージプート'''の小国が分立し争い合う時代となった。
===東南アジア世界===
東南アジアは、古くから中国等諸地域の影響を受けており、'''銅鼓'''に特徴づけられる青銅器・鉄器文明の'''ドンソン文化'''などがあったが、南アジアや中国との交流がより盛んになると、メコン川下流に東南アジア初の国家である'''扶南'''が建国された。港だった'''オケオ'''からは、ローマの貨幣をはじめとした様々な交易物が発掘されている。また、その約一世紀後にはチャム人によってベトナム中部に港市国家・'''チャンパー'''が建国された。その後、4世紀末から5世紀には、海上でのインドの活動が盛んになり、東南アジア各地で「インド化」が起こった。メコン川中流域ではクメール人が扶南から独立して'''カンボジア'''を建国し、やがて扶南を滅ぼした。一度の分裂を経てカンボジアを再統一した'''アンコール朝'''では、ヒンドゥー教や仏教の影響を受けた'''アンコール=ワット'''を建設した。チャオプラヤ川流域では、モン人のドヴァーラヴァティー王国に続いてタイ人の'''スコータイ朝'''が開かれ、上座部仏教が信仰された。また、イラワディ川流域ではピュー人の'''ピュー'''に次いで南下してきたビルマ人が'''パガン朝'''を建て、ここでも上座部仏教が広まった。一方、前漢の武帝による南越制服以降、チャンパー以北ベトナム北部は中国に服属してきたが、唐の滅亡による混乱をついて'''李朝'''が独立し、国号を'''大越(ダイベト)'''とした。その後、'''陳朝'''は元の侵攻を撃退し、'''字喃(チュノム)'''を制定した。諸島部でも、スマトラ島の'''パレンパン'''を中心として海上交易で栄えた'''シュリーヴィジャヤ王国'''や、大乗仏教を信仰し仏教寺院'''ボロブドゥール'''を建設したジャワ島の'''シャイレンドラ朝'''、同じくジャワ島に位置しヒンドゥー教を信仰した'''古マタラム朝'''など、インドの影響を受けた様々な国家が成立した。

3年9月2日 (黃) 11:27時点における版

インドの古代文明

南アジアにおける最初の文明は、インダス川流域に分布したドラヴィダ系民族の青銅器文明・インダス文明であり、中流域パンジャーブ地方のハラッパーや、下流域シンド地方のモエンジョ=ダーロなど、計画的に建設された都市の遺跡が残されている。インダス文明の衰退後は、カイバル峠を通ってアーリヤ人がパンジャーブ地方に進入・定住した。ここから始まるのが、ヴェーダ時代である。アーリヤ人は自然崇拝を行い、その知識をヴェーダに記した。特に最古のヴェーダをリグ=ヴェーダと呼ぶ。また、ガンジス川上流域への移動以降は、肥沃な土地で農耕を行うようになったことで、階級の体系的分化が起こった。ヴァルナ制である。これによってバラモン(司祭)クシャトリヤ(武人)ヴァイシャ(庶民)シュードラ(隷属民)という四つの身分と枠外の不可触民が定められ、中でもバラモンは高い権威を纏ってバラモン教を成立させた。また、ここに血統集団であるジャーティの考えが結びつくことで、カースト制度が形成されていくこととなる。

多様な宗教の登場

前6世紀ごろ、ガンジス川中・下流域の都市国家群の中でコーサラ国マガダ国が力をつけていた。これらの都市国家では、安定した農業生産のもと、交易等でクシャトリヤやヴァイシャの勢力が大きく増加し、旧来のバラモン教から転換した様々な思想・宗教が育まれた。ウパニシャッド哲学は、祭式至上主義から翻って輪廻転生から解脱するという内面の思索を重視する思想だった。また、ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)が開いたジャイナ教は、解脱のための苦行と不殺生を重んじ、ヴァイシャに支持された。。一方で、ガウタマ=シッダールタ(ブッダ)が開いた仏教は、八正道に則り、正しい行いをして煩悩を蜂起することで解脱に至ると説き、クシャトリヤに支持された。

統一国家の成立

マガダ国のナンダ朝がコーサラ国を破りガンジス川流域を統一したのも束の間、アレクサンドロス大王がインド西北部へ侵入した。この混乱をついて現れたのが、マウリヤ朝である。創始者のチャンドラグプタ王は、ナンダ朝やギリシア系勢力などを次々に打ち滅ぼし、マウリヤ朝はインド初の統一王朝となった。最盛期、アショーカ王の時代には、ダルマ(法)に基づく政治が行われ、仏典の結集やスリランカへの布教などが為された。マウリヤ朝の衰退後は、ギリシア人やイラン人の勢力の進出が始まり、イラン系クシャーン人によって西北インドにクシャーナ朝が開かれた。カニシカ王の時代には最盛期を迎え、中央アジアからガンジス川中流域を支配したほか、ローマとの交易も盛んに行われた。また、このとき菩薩信仰によって大衆の救済をめざした大乗仏教が成立し、ヘレニズム文化に影響された仏像の制作といったガンダーラ芸術も盛んになった。一方南インドでは、ローマとの季節風貿易を行ったサータヴァーハナ朝や、「海の道」で盛んに交易した前期チョーラ朝など、ドラヴィダ系住民が盛んに交易活動を行い、経済的に繁栄した。

インド古典文化の黄金期

4世紀には、チャンドラグプタ1世グプタ朝を開き、チャンドラグプタ2世の時代には北インド全域を支配して最盛期を迎えた。このころバラモンの権威が復活し、バラモン教と民間信仰が合わさった多神教・ヒンドゥー教が社会に定着し始めたほか、バラモンの言葉であるサンスクリット語が公用語となり、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』、宮廷詩人カーリダーサによる『シャクンタラー』などのサンスクリット文学も栄えた。また、ヒンドゥー教におけるヴァルナの規範を記した『マヌ法典』もこの時期完成した。天文学や数学も発展し、十進法や位取りでないゼロの概念も生み出された。さらに、美術に関しては、ヘレニズム文化の影響下にあるガンダーラ美術から脱出したグプタ様式が成立し、アジャンター石窟寺院に多くの仏教関係の壁画が描かれた。グプタ朝が騎馬遊牧民エフタルによって滅亡した後には、ハルシャ王ヴァルダナ朝をおこして北インドを支配した。この時期、唐僧の玄奘義浄がそれぞれ陸路・海路でもって来印し、ハルシャ王の保護で仏教の研究機関の中心となっていたナーランダー僧院で学んだ。帰国後にはそれぞれ『大唐西域記』『南海寄帰内法伝』を著した。しかし、ヒンドゥー教への絶対的帰依を主張する宗教運動・バクティ運動の攻撃を受け、インド国内の仏教はここから衰退に至ることとなる。そしてヴァルダナ朝の衰退後、北インドの統一は長きにわたって果たされることなく、クシャトリヤの子孫を自称するラージプートの小国が分立し争い合う時代となった。

東南アジア世界

東南アジアは、古くから中国等諸地域の影響を受けており、銅鼓に特徴づけられる青銅器・鉄器文明のドンソン文化などがあったが、南アジアや中国との交流がより盛んになると、メコン川下流に東南アジア初の国家である扶南が建国された。港だったオケオからは、ローマの貨幣をはじめとした様々な交易物が発掘されている。また、その約一世紀後にはチャム人によってベトナム中部に港市国家・チャンパーが建国された。その後、4世紀末から5世紀には、海上でのインドの活動が盛んになり、東南アジア各地で「インド化」が起こった。メコン川中流域ではクメール人が扶南から独立してカンボジアを建国し、やがて扶南を滅ぼした。一度の分裂を経てカンボジアを再統一したアンコール朝では、ヒンドゥー教や仏教の影響を受けたアンコール=ワットを建設した。チャオプラヤ川流域では、モン人のドヴァーラヴァティー王国に続いてタイ人のスコータイ朝が開かれ、上座部仏教が信仰された。また、イラワディ川流域ではピュー人のピューに次いで南下してきたビルマ人がパガン朝を建て、ここでも上座部仏教が広まった。一方、前漢の武帝による南越制服以降、チャンパー以北ベトナム北部は中国に服属してきたが、唐の滅亡による混乱をついて李朝が独立し、国号を大越(ダイベト)とした。その後、陳朝は元の侵攻を撃退し、字喃(チュノム)を制定した。諸島部でも、スマトラ島のパレンパンを中心として海上交易で栄えたシュリーヴィジャヤ王国や、大乗仏教を信仰し仏教寺院ボロブドゥールを建設したジャワ島のシャイレンドラ朝、同じくジャワ島に位置しヒンドゥー教を信仰した古マタラム朝など、インドの影響を受けた様々な国家が成立した。