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「なんでもないよ」 | 「なんでもないよ」 | ||
と僕が言うとそう、と言ってすぐにまた眠りに落ちた。彼女のずり落ちた毛布を掛け直すと、僕は外に出た。 | と僕が言うとそう、と言ってすぐにまた眠りに落ちた。彼女のずり落ちた毛布を掛け直すと、僕は外に出た。 | ||
閑静な住宅地を抜けると、アーケード街。この先に行くと、すぐ駅に出る。 | |||
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食事を終えると、二人は食器を持って台所へ向かった。颯はスポンジに洗剤をつけると、食器をごしごしと洗って、ついた泡を丹念に流し、水切りかごに置いた。調味料の片づけを終えた澪は清潔な布巾を取り出して、中の食器を綺麗に拭き上げた。皿は全部、もとあった場所に収まった。 | 食事を終えると、二人は食器を持って台所へ向かった。颯はスポンジに洗剤をつけると、食器をごしごしと洗って、ついた泡を丹念に流し、水切りかごに置いた。調味料の片づけを終えた澪は清潔な布巾を取り出して、中の食器を綺麗に拭き上げた。皿は全部、もとあった場所に収まった。 | ||
食後、ソファでゆっくりするのにも飽きると、二人は家の捜索に取り掛かった。自分たちがここにいることは間違いではないが、でもそれは不思議なことだ。二人はそう言った真実を、肌で感じ取ることに長けていた。 | 食後、ソファでゆっくりするのにも飽きると、二人は家の捜索に取り掛かった。自分たちがここにいることは間違いではないが、でもそれは不思議なことだ。二人はそう言った真実を、肌で感じ取ることに長けていた。 | ||
4年8月21日 (K) 06:54時点における版
⑴
「これからどうなるのかな」
窓際で弁当を広げていた澪が呟くように言った。窓から、夏のはじまりを告げる透き通った風が吹いていた。教室は昼休みの賑やかな雰囲気に満たされ、喜怒哀楽様々な声が、ステンドグラスを通って降り注ぐ色とりどりの光のようにあたりに散乱していた。
「わからないけど、俺は楽しみだよ」
向かいに座る颯は、鶏肉の照り焼きを口に運びながら答えた。
「そうだね」
澪は、涼しげなセーラー服に溢したソースを真っ赤なリボンで拭き取りながら、悲しげに答えた。
颯は鞄からウェットティッシュを取り出して澪に渡し、セーラー服とリボンにできた小さなシミを拭くように言った。澪は不思議そうに受け取り、不器用な手つきでそれを拭いた。
「水を含ませておくだけで、汚れの落ちやすさは随分変わるんだ。リボンなんかで拭いちゃいけない。リボンが汚くなってしまうし、少し下品だ」
「そっか」と澪は笑った。
「ありがとう」
強い風が吹き、それに合わせてピンク色の薄いカーテンが踊り子のようにはためいた。風鈴のような澪の笑顔に、颯はひとひらの涼しさを感じた。
気怠げな午後の授業もおざなりに、放課後はすぐにやってきた。帰りの挨拶を終えた教室はくす玉を割ったように華やかに散らばり、各々が各々の持ち場へと移動をはじめる。
澪は窓の外に、透明でどこまでも続きそうな空を認めて、こんな日にトラックを思い切り走れたら気持ちいいだろうなと思った。でも今日は早く帰らないといけないから、運動着の入った巾着袋を前に暫く思案していたものの、結局は、待っていてくれた同じ陸上部の紀恵に「今日は休むことにする」と言い帰る準備をはじめた。
「体調悪いようには見えないけど、用事?」
「今日は特別な日だから早く帰りたいんだ」
澪は巾着袋を鞄に仕舞いながら素っ気なく答えた。それまで心配そうにしていた紀恵は、その返事を聞くと得意げに目を細め、澪に顔を近づけると、小さく揶揄うように言った。
「颯くんと帰るの?」
紀恵は颯の方をちらりと見た。整った目鼻に、低く魅力的な笑い声。長めだがすっきりして似合う髪型に、細かいところまで配慮が行き届いた仕草。背は真ん中より少し大きいくらいだけれど、他とは一線を画して大人びているところがあって、男子の集団にいる彼は少々目立って見えた。
紀恵は気づいていた。澪と颯には変に距離が近いところがある。部活も違う二人は普段の生活で積極的に関わることはないものの、掃除など時々関わりがあったときには、隠しきれない信頼やらなにやらが、二人の表情からふと覗くのである。そこに恋愛感情が含まれているかどうかは紀恵にはわからなかったが、互いを特別大切に思っているであろうことは確信していた。そんなふうに二人はこのクラスで、洗い立ての布団のような香りの距離を維持し続けていた。しかしどうしたことか、いつもなら近づくことのない二人が、今日はお昼を一緒に食べていたのだ。しかも、とっくに心を許しあっているのが周りに伝わってくるくらい、とても幸せそうに。だから澪のいう特別というものは、十中八九、颯と関連したことだろう。紀恵はそう考えていた。
「違うよ」
澪は作業を続けながら、さっきと同じように素っ気なく聞こえるように努めて返事をしたものの、顔がほんのり赤く染まるのは抑えられなかった。それを見た紀恵は満足そうな顔をして澪に背を向けると、「あっそ。じゃ、楽しんで」とだけ言って、もうとっくに先に行ってしまった陸上部のみんなを、足早に追いかけていった。
紀恵が出ていってしまうと、それと入れ替わるように窓から詩梟が飛び込んできて、器用に教卓へと着地した。きっと裏山から来たのだろう。あるいは、湖の方の森から来たのかもしれない。澪には判断がつかなかった。澪は詩梟を、夜か、昼間でも暗い森の奥でしか見たことがなかったため、こんな日当たりの良い教室に現れるなんて珍しいと思った。
詩梟は午後の日差しに目を細めながら、嘴で呑気に羽をつついていた。こちらなど全く意に介さないのんびりした仕草に、この詩梟は夜より昼間の方が似合うと澪は思った。そんな風に、ゆったりとした時間の中に生きているような詩梟に、気がつく者は誰一人としていなかった。許可された者でなければ、詩梟を見ることはできないのだ。教室で澪と颯だけが、詩梟を見ることができた。
窓の外の葉桜に囲まれた校庭では、陸上部のみんながトラックを駆けていた。そのままその集団が走り続ける様を眺めていると、紀恵が運動場の脇にある部室の方から必死に追いつこうと走っているのが見えた。澪は、自分が遅れることも構わずに待ってくれた紀恵に改めて感謝し、それにより再び、彼女を待たせた上で部活にも行かなかったことの罪悪感が胸を掠めた。澪は頭を振ってその気持ちを払い除けると、薄桃色筆箱を机から取り出して、鞄のファスナーを勢いよく開けた。
澪がゆったりと準備を進める間に、クラスのほとんどが部活に行くか家に帰るかしてしまった教室は、がらんとして、いつもより広く見えた。扉の方で盛り上がっていた颯がいる集団も一人、また一人というように消えていき、いつしか教室にいるのは澪と颯、そして詩梟だけになっていた。颯は本を読みはじめた。
もちろん颯は、詩梟の存在に気づいていたし、澪が準備をもうすぐ終えるであろうことも予めわかっていた。それでも読みはじめるのは、特別な理由からなどではなく、続きが気になっていたという単純な欲求からだった。颯はずっと続きが読みたかったのだ。
澪は教室の隅で本に向かう颯を見た。澪は、颯が本好きであることを知っていた。家に帰ると毎日欠かさず本を読んでいることも、一度読みはじめた本は、できるだけ一気に読み終えてしまいたいと思っていることも。
幸い物語は終局に近いようだったから、澪は席に座り直すと、颯が読み終えるまで待つことにした。澪には本を読む習慣などないから、閉じた鞄を再び開けると、中にあったポーチから手鏡と櫛を取り出し、不慣れな手つきで前髪を整えはじめた。
正直言って、澪はこの作業に暇潰し以外の意味を見出せなかった。紀恵がやれとしつこいから、少しやってみようと思っただけのことだ。
「澪は可愛いんだから、もっと見た目に気を遣ったら良いと思うな。ねえ、今日の放課後、街のデパートに行って、コスメ買おうよ。澪、全然持ってないでしょ?」
そう言って強引に手を引き、化粧売り場を回ったときの、紀恵の楽しそうな顔を思い出す。ポーチの中の化粧品は、ひとつ残らず彼女が用意してくれたものなのだ。
可愛らしすぎる趣味のそれらを、澪は気に入って使うということはなかったが、それでも親友が顔を輝かせながら見繕って、ポーチにまでまとめてくれたそれに対して、澪は御守りのような安心感を感じていた。だから使うことはないのにも関わらず、ポーチは常に持ち歩くようにしていた。
罪滅ぼしのようなその作業にもいくらも経たないうちに飽きてしまって、溜息をつくと、澪はパタンと手鏡を閉じた。澪にとって、前髪くらいで男の子からの印象が大きく変わるなんて俄かには信じられなかったし、鏡で自分の顔をじっくり見つめるというのも、なんだか性に合わなかった。ましてや今からこの前髪を見せるのは、他でもない颯だけなのだ。
澪が手鏡を閉じたのと同じくして、颯は本を閉じた。そして颯は暫く、その本が持つ清々しい読後感に際して、顔に手を当てて打ち震えていた。もし澪が肩を叩かなかったら、颯はそのまま何時間もそうしていたかもしれない。
肩を叩かれた颯が振り返ると、帰る支度をすっかり済ませて、リュックを持ち、はにかんでいる澪がそこに居た。読んでいた本のせいかも知れない。どうしてだか、澪が堪らなく愛おしく感じて、颯は思わず立ち上がった。しかし、こんなところで彼女を抱き締めるわけにはいかないし、当の本人が困惑したような表情になったから、「待たせてごめん。そろそろ帰ろうか」とできるだけ優しい声で言った。
澪はその言葉を聴くと日が差したように笑顔になって「うん」と元気よく返事をした。
颯が準備を済ませてしまうまでの間に、詩梟は二度鳴いた。
隣で颯を待っていた澪は、この詩梟はとっても不思議だと、改めて思った。澪が今まで見てきた詩梟は笛のような声で鳴いた。この詩梟の鳴き声は、鈴のようだった。
そんなふうなことを思っているうちに、颯が支度を終えた。そして、先を急いだ澪が教室の扉に手をかけたときだった。
ばさりと大きな音がして、詩梟が窓から教室を飛び出した。
透き通った空を上昇していく詩梟の後ろ姿に、二人はなにか大事なことを忘れてしまっているような気がした。しかし、二人は目を合わせると安心したように頷いて、青葉の茂る家路を辿りはじめた。
失くした記憶とは、然るべきときに思い出すものなのだ。
二人ははじめから、そう知っていたから。
鈴の音が聞こえた気がして、走っていた紀恵はふと教室の方を見た。見上げた先の教室はいつもと変わらぬ様子でそこにあったが、紀恵は不思議な違和感を感じた。青空をきらきらと反射する窓に視線が釘づけになり、紀恵はゆっくりとスピードを落とすと、立ち止まった。
「あれ、澪……」
澪? 紀恵は自問した。澪って、誰だろう?
涙が一筋頬を伝い、もう一度、鈴の音がした。
茫然と立ち尽くしていた紀恵は、頬に垂れた涙を舐めた。
「なにやってんだか」
顔を運動着のお腹の部分で拭った紀恵は、再びトラックに沿って走りはじめた。傾きかけた日の揺らぎに生まれた淡い喪失は、青空の青となって拡散し、背中を押す風となって消失した。
よし。良い感じ。
スピードを上げた紀恵の背中は心なしか先程より軽く見える。
ばさりと音がして、紀恵は空を見上げた。
視線の先には、凱旋を告げる鐘ような、その胸が沸き立つ力強い羽音の主は居らず、ただ遥かな青空がどこまでも広がっているだけであった。
颯は自転車を押して、澪はリュックに両手を掛けて、二人は並んで土手を歩いていた。
夏が既にはじまっているものの、あたりにまだ春の残り香が立ち込めているのは、山から降りてきた雪解け水のせせらぎが、暑さを優しく受け流しているからであった。
澪は川面にちらちらと反射した午後の日差しに、ぼんやりと二人の未来を見出し、颯に悟られぬように外方を向いて赤面した。颯はそこに、澪の笑顔を見ていた。
橋を渡って、突き当たりの急な階段を登りきると、二人の家がある集落の方まで蛇行する、急で長い坂が現れる。登校する際は、この坂が些か厄介なもので、特に颯は毎朝、息を切らしながら立ち漕ぎで挑むのだが、そんな苦行に毎日耐えられるのは、帰りにはこの道が、盆地の真ん中に大きくある澄んだ湖、その周りに広がる畑たちと点々とある家々、それらを全て囲むようにして遥か向こうまで広がる森、その先の渓谷までもを見渡すことのできる、山紫水明の景勝地へと姿を変えるためであった。そんな坂を自転車で一気に駆け降りるより清々しいことはない。颯はそれが大好きだった。
それに今日は澪が隣に居る。
颯は自転車に跨ると、澪に後ろに座るように促した。澪はちょこんと後ろに座ると、嬉しそうに颯の腹に手を回した。
いつもならブレーキをかけずに駆け降りる颯だったが、澪を乗せながらそうすると彼女を落としかねないと思うと、ブレーキのレバーを握りしめて、いつもの半分にも満たないスピードで降りはじめた。
通学路が同じ澪は時々、部活を終えて山間が夕闇に染まる頃に、坂を風のように駆け降りていく颯を後ろから見ることがあったから、颯が自分のために慎重に走ってくれていることにちゃんと気がついていた。それに澪は心が変に温まって、涼を得るためにひんやりとした颯の背中に、気づかれないように優しく頰をあてたが、逆に颯の、夏草のような匂いに包まれてしまい、更に心が変になった。
颯はいつもよりゆっくりと流れる景色に、これはこれで良いと思い、しばらく景色を眺めていたが、背中に押し当てられた柔らかな二双の蕾の存在に気がつくと、急に身体の感覚がそれに縛られて、もう景色など認識できなくなっていた。
颯にはどこか達観したところがあって、それがよく大人っぽいと言われる所以でもあったが、高校生の幼さも確実に残されていた。そして、それが露わになるのは、唯一澪の前だけだったのだ。しかし、澪は颯のこととなると恐ろしく鈍感で(彼女は他のことに於いても敏感とは言い難かったが)それに気がつくことはないから、颯の評価は一様に大人びた少年で固定されていた。彼の中の少年は世間に暴かれることなく、二人の秘密の花園にのみだけ、精霊のように姿を現した。
互いの鼓動が聴こえるくらい近くで、二人は自分の鼓動を抑えるのに必死だった。長い長い坂も二人には、列を並んでやっと乗ることのできた観覧車のように、ほんの一瞬に感じられた。
坂を下り終えた颯は、けざやかに萌える稲が等間隔に並んだ水田の脇に自転車を停めた。ぴんと張った水面には空高く聳える大入道が、まるで夏の象徴のようにそこに鎮座している。
颯としては、澪に降りることを促したつもりだったが、澪は止まったことにも気づかぬまま颯を抱きしめて続けていたから、颯は黙ってそのまま待っていたものの、恐ろしく扇情的な感触に思わず「澪、坂降りたし、歩こ」と素っ気なく言った。このとき颯は、自分の声が上擦ってないかだけが気がかりだった。
澪は目を開け、瞬時に状況を理解すると、猫のように飛び跳ねて自転車から降りた。それからお互い気まずく感じて、会話もせず反対を向いて歩いた。もちろんそれは、真っ赤に染まった自分の顔を相手に悟られまいとするためだった。
家に着くと、澪はどたばたと二階に上がり、部屋の扉をばたんと閉めて深呼吸をした。カーテンを閉め切った見慣れた部屋はひんやり暗くて、澪の心をいくらか落ち着かせた。
リュックを置き窓を開けると、静寂と危険の香りを孕んだ温い風が入ってきた。澪はその中に翠雨の気配を感じて、開けた窓をすぐに閉めた。
鞄の中のものをベッドに投げ出すと、役に立ちそうなものだけを素早く選んで、薄いコーラルピンクに向日葵の刺繍が施されたショルダーバッグにそれらを入れた。バッグには元から、ナイフといくらかのお金が入っていた。
玄関先では颯が、空を見上げながら待っていた。目線の先にはさっきの入道雲がどうどうと蠢いている。
「通り雨が来そうだ」
澪は颯の言葉に頷くと、
「ねえ、自転車で行かない?」と言った。
「いいよ。乗って」
颯は空を見たまま答えた。
湿った空気が瞬く間に盆地を覆った。ひぐらしが驟雨の兆しに、火えるように鳴いていた。
前方から迫る灰色のカーテンのような雨雲の中に、澪は故しれぬ気配を感じた。海祗がいまにも山を越えてくるようだと澪は思った。
颯は畦道を軽快に飛ばした。風が、路傍に佇む灌木の若葉を揺らしながら渦を巻いて天に昇っていった。色彩にみるみるうちに灰色が差し、押し出された青は強風ととも盆地を後にした。
一粒。ささやかな雨が澪の頬を濡らした。あの聳え立つ入道雲から落ちてきたとは思えないほどささやかな優しい雫だ。それは頬を流れ、潤う唇に同化した。
それから堰を切ったように雨が降りはじめた。田んぼの水面は磨りガラスのようにぼやけ、制服は肌に染みついていく。あの優しさは最初の一粒だけが持つ個性だったらしく、つまらないほどに透き通った雨は雨以上の輝きを持たないままただ二人を濡らした。用水路の流れが勢いづき、遠くで稲妻が走った。颯は黙って自転車を漕いだ。
耳を蹂躙する雨音の狭間に、澪は確かに、鈴の音を聴いた。
二人はびしょ濡れになりつつも、なんとか颯の家に到着した。颯は澪を玄関で待たせると、水を滴らせながら大きなバスタオルを持ってきて、濡れた澪の身体に被せた。
澪は頭を乱雑に拭うと、タオルの隙間から颯を見上げて「ありがとう」と言った。濡れた髪から垂れた零露が、頬を伝って顎から落ちた。
纏わりついた水分を粗方拭き終えると、小腹の空いた二人は台所に行って、お湯を沸かしカップ麺を作った。居間で分け合って食べたそれは、澪が水を多く入れてしまったから少々味が薄かった。
テレビはつまらない、取るに足らない報道番組を垂れ流していた。カーテンの隙間から覗く空は昼間までの清々しさが嘘のように灰色に沈んでいた。はじめ二人は通り雨だと思ったが、雨足は強まるばかりで、もうしばらく続きそうだった。遠い国の戦争の話ばかり映すテレビに飽きてしまった澪は、神妙な面持ちで、雨粒にざっくばらんに打たれる窓を見ていた。颯は制服が彼女の身体に張りついて健康な曲線を示しているのを密かに横目で認めていた。颯はその膨らみが、これからの旅が暖かな光で溢れたものであることを予言しているかのように思えた。
近くに大きな雷が落ちた。
「もうそろそろ」
颯は言った。
玄関の扉を開けると、颯は大きな傘を開いて澪と二人、雨が濡らす道へと繰り出した。
落日に際して起こる自然の様相は雨雲が運んで来た影に強引に隠されてしまって、あたりは二人の知らぬ間に夜になっていた。誘蛾灯が雨の中誰ともつかぬ空間に向かって淑やかに光って揺れていた。
傘をさしていたとはいえ風は強く、バス停に着いた頃には、乾きかけた靴下もしとどに濡れてしまい、歩くたびに水が跳ねる音がした。
瀑布のような雨音だけが聞こえる。屋根や長椅子などない、看板だけの質素なバス停だ。背後には鬱蒼とした森が迫っている。森の先には湖がある。
二人は身を寄せ合って一つの傘に隠れ、じっと迎えを待った。この行為は、旅の予感を消し去る可能性のある、極めて大胆かつ細やかな試みだった。澪はバス停の周りに漂う強かな闇を、稚ない眼差しで見つめた。颯はその手を、強く握った。
山の方から一対の明かりが下りてくる。
「バスだ」
雨が更に激しさを増した。夜行バスが、水を掻き分ける轟音と共に二人に接近した。自然の音のみで構成されたそこでは、それは殆ど異質な轟だった。
鈴の音がして、二人の手から傘が落ちた。
運転席に座った年増の男は、フロントガラスに体当たりする雨風に阻害されたぼやけた視界の端に、制服に身を包んだ少年少女が一つの傘に身を寄せ合っているのを見出し、緩やかにブレーキを踏んだ。
男は時計に目をやった。「こんな時間に珍しい。駆け落ちだろうか」誰もいない冷たい車内で男は呟いた。
鈴の音がした。
これから起こるであろう面倒のこを考えて、男はため息を吐いた。そして辛うじてバス停とわかるような錆びついた看板を再び見た。
そこには傘が一本の落ちているだけだった。
澪はぱちりと瞬きをして颯の顔を見た。颯も澪を見た。
「すごい。すり抜けちゃった。私たち、透明になったみたい」
傘は、鈴音の狭間に入り込んでしまった二人の身体をすり抜けたのだった。雨も二人に構わず真っ直ぐに地面に落ちていく。二人はそっくりそのまま現実から隔離されてしまったのだ。
澪は欣然と道へ駆け出した。ばしゃばしゃと水が飛び散る音がする。まるで二人がこれまでの世界としっかりと隔たれてしまったことを誰かが印象づけるかのように、その音は籠って聞こえた。それはまるで耳に綿が詰め込まれたような感覚だった。
直後、夜行バスが澪のいる道上を通過した。颯は驚き、声をあげて澪に駆け寄った。澪は腕を抱え、体を震わせた。
「へへ。うん。大丈夫だよ。なんともない……。でもちょっと寒いかな」
澪は颯を見上げて血色の薄い唇で微笑んだ。ついさっきまで二人は雨の中にいたのだ。
彼女のその微笑みは真夏の草花のような精一杯の微笑みで、それは颯の胸を鋭く貫いた。颯は澪をきつく抱きしめた。
「そうか。良かった。もうこんなふうなことはしないで」
ん、と澪は短く返事をした。澪は颯の言葉より、その濡れた強かな体に集中していた。颯は澪の耳元で囁いた。
「もう二人だ。……大丈夫。きっと帰って来られる」
愛を引き裂くにあたって、それは既に存在していなければならない。二人に独立した世界が与えられたということはつまり、かの魔女の悋気に彩られた思惑の第一段階は既に終了したということだ。
現実において人を捕らえている幾千もの屈折した柵から奇しくも二人は脱出したのだった。極限まで純粋に愛し合う二人にとってそれらは最も相性の悪いものだと言わざるをえない。それは寓話のような、恩寵的に整えられた世界でのみ正しく生育するといった種の愛なのだ。
籠った、灰色の雨音に包まれながら颯は澪にキスをした。これは恋愛的な意味での、二人のはじめてのキスだった。二人の源泉からこんこんと湧き続けていた欲望はその柵によって堰き止められていたのだが、水が並々と湛えられたグラスのように殆ど限界を迎えており、そこへ思いがけない形で解放されたがために、一度に咎が外れたのだった。
二人は相手が有する己への情熱を唇が触れ合うその熱のやり取りにおいて感じとり、そしてそれは、更に己の情熱に薪を焚べることとなった。
唇を離すと、二人は互いの背に手を当て存在を確かめ合った。勿論、そんなことはしなくとも二人は互いに存在していた。
道の少し先を行ったところでバスが停車し、慌てた様子の老運転手が降りてきた。彼は暫く周りを見渡したのち、バス停まで来て、落ちていた傘を拾い上げた。再び彼は周りを注意深く観察したかと思うと、傘を投げ捨て、そのままバスへと一目散に逃げて行ってしまった。
二人は彼の後ろ姿を苦笑いで見守った。
身を寄せ合い男を見送る少年と少女の顔は、まるでいくつも歳月を重ねた壮年夫婦のように和やかだった。しかし二人の持つ若きエネルギーは、その裏面にて、刻一刻と高まり続けていた。
二人は森に入った。その先に入り口があることを二人は感じ取っていた。
森を抜けると、湖のほとりが姿を現した。至る細部まで静謐な光る湖だ。
今までは少しだけ異なる座標に移動させられていた二人だったが木々を掠め森を抜けるうちに、もう一つの軸、時間においても切り離されていくのを感じた。それはまるで空中にふわりと浮き上がるような感覚だった。
開けた場所に出ると、それがよく判る。落ちる雨粒の速度が異常に遅いのだ。それぞれが輝きを讃えた、無数の雨粒達は小さな宝石のようにゆっくりと落ちてゆく。颯はますます鈍くなる世界に限界を感じた。
澪が恐る恐る足を湖に触れた。不思議な、落ち着くような光を含んだ水面は、弾力を帯びた包み込むような感覚と共に、澪の運動靴の底を優しく持ち上げた。
「ねえ颯、向こうへ行こう」
澪が指差した向こうには、木造の古めかしい家屋が、湖の光と同性質の光を孕んでそこにあった。澪がもう一歩踏み出す。運動靴が光る細波を生む。颯も隣について、建物へと向かう。
玄関の扉まで着いた。二人はもう最早、元の世界を認識するのが困難になっていた。雨は限りなく薄まり、雨音は遥か遠くの赤子の鳴き声のようだった。湖を囲っていたはずの森はもう見えない。景色の向こうまで水面が広がり、二人を囲むように水平線を形作っている。澪は輝く夏草の草原の真ん中にいるような気がした。家に近づくと、どうやら湖の光の中心はこの家だったらしく、幾千の蛍が止まっているように光っている。
二人は湖を何度も訪れたことはあったけれど、水が光ることなど一度もなかったし、こんな家を見るのもはじめてだった。間違いなく、二人のためにここに用意されたものだ。
颯がドアを開けた。先には安息の暗闇が広がっている。それはとても優しい暗闇だった。きっとここから、旅がはじまるに違いない。
澪の手が少しだけ震えている。
「この先は僕らの世界じゃない。きっと魔女の世界だ」
「そうね。すごく楽しみ」
二人は再びキスをした。この接吻は少なからず、現実との訣別を記念したものだったと言えよう。実に細やかなキスだ。
手を繋いだ二人はその暗闇の中へ、勇敢さに似た若さで進んでいった。
1
「特別なものを見に来たんだろ?」
僕は真っ新な原稿用紙に向かって呟いた。
「やめてくれ。ここにはないんだ」
静が、んーと唸りながら上体を起こして僕の腿に手を置き、どうしたの? と聞く。
「なんでもないよ」
と僕が言うとそう、と言ってすぐにまた眠りに落ちた。彼女のずり落ちた毛布を掛け直すと、僕は外に出た。
閑静な住宅地を抜けると、アーケード街。この先に行くと、すぐ駅に出る。
⑵ ゆったりとして健康的な寝息が颯の前髪を優しく揺らし、そして頬をくすぐった。素敵な朝の微睡みに、夢と現の境目を、繋がれた小舟のように行き来していた颯は、そのくすぐったさで目を開いた。ひとつの染みもない真っ白で薄いレースカーテンは、まだ少しだけ夜の涼しさを保持した風に吹かれて揺れ、真夏の朝の、あの燃えるようなはじまりの日の光が、隙間からちらちらと顔を覗かせている。 爽やかな光に目を慣らした颯は、ベッドの中の少女の顔を見た。繊細な造形が朝日に照らされ、彼女の瑞々しい若さが裸に剥かれている。 颯は澪の頬に手を触れた。 「澪、おはよう。もう朝らしい、起きて」 澪は少しだけ抵抗したけれど、目を擦ってベッドから降りた。そして不機嫌そうに洗面所に向かおうとしたが、そこでぱちくりと瞬きをし周りを見回した。 「ここはどこだろう」と澪は言った。 暖かな雰囲気が漂う部屋だった。涼しげな色のカーペットに、太陽を吸い込んだ木の床。温もり漂うキャビネットに、洒落たデザインの読書灯。無駄なものは一つとしてないが、足りないものも一つもない。全てが同じ方向を向いた、完璧な寝室だ。 開け放たれた窓の隙間から、間の抜けた小鳥の鳴き声が聞こえる。 颯は立ち上がって、側のクローゼットを開いた。中には二人がいつも使っている服達が、清潔な状態で掛けられていた。ここに来るまでのことを二人はうまく思い出せなかった。昨夜の記憶は涙越しの夜景のようにぼやけ、使い古されたワンピースのようにほつれていた。澪がただ一つ覚えているのは頬を打った雨粒の感触だった。 部屋を出て廊下を進み、リビングを抜けると、水色のペンキで塗られた玄関があった。サンダルが二足、綺麗に揃えて置かれている。 扉を開けると、世界が一時白飛びして、二人は目を細めた。はじめに、こぢんまりとした菜園を二人はぼんやりとした視界の中に認めた。その菜園はつい先程まで人がいたかのように、隅々まで手入れされていた。目が慣れてくると、玄関の先には白い石畳の小径が続き、路の左手には林が、そして右手には青々とした野原が広がっているのに二人は気がついた。遠くには小高い丘が見える。絵葉書のような景色だった。 ぎらついた蝉の鳴き声が林から聞こえる。さっき聞こえた囀りの、正体であろう小鳥が二羽、戯れながら遠くへ飛んで行く。手に持てそうな雲が、吸い込まれそうな青空にぽつんと浮かんでいる。澪は二週間がいっぺんに去って、夏の盛りが回ってきたかのように感じた。 二人は石畳の小径を辿った。道の傍には露草が斑らに生えていて、その中にはもう萎んでしまっているのもいくつかあった。 緑を含んだ風が真っ白な制服の袖を揺らしながら二人を追い越してゆく。ここは平地のようで、先に見える丘くらいしか凹凸がないから、盆地に住んでいた二人は不思議な感覚を覚えたけれど、その原因を探し当てるには至らなかった。澪はなんとなく、開放的で素敵な場所だと思った。 野原では若草から湧き立つ気流のようなものが辺りを燃え上がらせていて、二人は身体が押し上げられるような錯覚を覚えた。その炎は丘へと向かう二人の足を、それとなく急がせた。 丘の上に立って、二人はもといた家を眺めた。鄙びた雰囲気が齎す安息が、赤く染まる木の葉の落葉する様を彷彿とさせるような侘しい洋風の家だった。丘の天辺でしばらく仰向けになって風の便りに耳を澄ませていたけれど、お腹が空いたから、二人は家へと戻った。 キッチンにはひと通りの調理道具が揃っていた。それらは埃一つ被らずに丁寧に仕舞ってあり、手に取るとよく馴染んだ。澪は鶏小屋から卵を取ってきた。颯は摘んだレタスとトマトとキュウリを洗い流して、包丁で切り、ボウルにサラダを作った。路端に生えていた露草もサラダに入れた。ボウルはすぐに冷蔵庫に入れて冷やした。澪はコンロに火を着けると、スクランブルエッグを作った。冷蔵庫に偶然入っていたベーコンも厚く切って、カリカリになるまで焼いた。颯は横で食パンを四切れ、一度にバターを乗せてトースターで焼いた。チン、と軽快な音が鳴ると、颯は上の棚にあったあらかじめ濯いで乾かしておいた食器を二枚取り出して、食パンを二枚ずつ乗せて、木のテーブルの向かい同士に置いた。そのまま冷蔵庫から、サラダと粉チーズ、瓶に入ったシーザードレッシングを取ってテーブルをセッティングし、引き出しにあったクルトンをサラダの上に振り撒いた。お箸とフォークどちらを持っていくか迷ったが、颯は結局どちらもテーブルに置いた。ちょうどその頃キッチンで鳴っていたベーコンが焼けるパチパチという音が聞こえなくなり、颯は澪がベーコンを焼き終えたことを知った。 澪がキッチンから焼き立てのベーコンエッグを装った皿を二つ、鼻歌を歌いながら持って来た。テーブルにはその皿が嵌るような余白が颯によって設けられおり、澪はそこへ皿を置いた。その間に颯は冷蔵庫へ行き、取り出した牛乳パックを二個のグラスと共に食卓へ運び、エプロンを着けたまま先に掛けていた澪のために注いだ。テーブルは朗らかな光に暖められ、あたりには焼き上がったばかりのパンとベーコンの匂いが垂れている。 二人は両手を合わせると「いただきます」と言って食事をはじめた。朝食にしては少し遅い時間だが、それでもそれは紛れもなく素敵な朝食だった。小さな紫と赤と緑の冷えたサラダはシャキシャキとして瑞々しかった。クルトンの食感が全体に陰影を与えつつ、粉チーズとドレッシングの塩梅が堪らない。ドレッシングかもしくはとれたての野菜のせいか、とにかく今まで食べたことないくらいに美味しいサラダだった。 ベーコンと卵からは湯気が立ち上っていて、トーストは焼き加減は絶妙だった。颯は向いに座る、ベーコンを夢中で噛みちぎる少女の顔をぼんやりと見つめた。 ここの真夏は春を濃縮し切ったようだ。春の麗らかさを砂糖と煮詰めて瓶詰めしたような夏だ。颯の自然と笑みが溢れた。俺はついさっき澪と同じベッドで寝てたんだ。寝返りを打つと唇が触れ合うくらいの距離で。 少年の自然な独占欲を孕んだ好意はそんな拙い回想で悦に入るのだった。その拙さに気がついた颯の頬には赤が挿し、彼は咳払いをしつつ目を瞑った。あまり見たことのない表情をしている颯を見て、澪は口一杯にパンを詰めながら、どうしたの? と、不明瞭に言った。こっちは暑いね、と第一ボタンを開けた夏服の襟をパタパタさせながら、颯は目を逸らして言った。 食事を終えると、二人は食器を持って台所へ向かった。颯はスポンジに洗剤をつけると、食器をごしごしと洗って、ついた泡を丹念に流し、水切りかごに置いた。調味料の片づけを終えた澪は清潔な布巾を取り出して、中の食器を綺麗に拭き上げた。皿は全部、もとあった場所に収まった。 食後、ソファでゆっくりするのにも飽きると、二人は家の捜索に取り掛かった。自分たちがここにいることは間違いではないが、でもそれは不思議なことだ。二人はそう言った真実を、肌で感じ取ることに長けていた。
薬棚。 故郷に帰りたくなる薬
二人の一番の関心事は常に互いであり、その他のことはまるで些細な違いにしか二人の目には映らない。現実はまるで暗い部屋で映画を見ているときに、微かに聞こえる雨音のようだった。捉えようによっては良い効果音だけれど、それ以上の役割はない。もし雨が、映画の音が聞こえなくなるくらい激しくなったら、そのときは、少し開いてた部屋の窓を閉めてあげればいい。
今のところ、颯と澪は互いにそこに居て、笑顔で、爽快で、隅まで健やかで、その間には以前と寸分変わらぬ安寧が横たわっているのだった。微熱のような趣のそれは、理性という鉄柵も、いずれバターのように溶かしてしまう危険性を孕んでいたが、彼らには、そうなってももう大丈夫なのかもしれない、というぼんやりとした楽観が胸を掠めることがあった。互いの笑顔の陰に、その安寧がもたらす退屈を見る折に、二人は強く、それを願ったりした。
その針が、君の指に刺さらないのならそれで良い。
照り返し
2
僕は
8
一室に入った。ドアが閉まると、雨の音は薄っすらとしか聞こえない。 「ちょっと奥入って、椅子に掛けてて」 僕は濡れたままフローリングを歩いて暗いリビングに入った。カーテンは閉め切っていて電気もついていない。 梢さんは洗面所に寄ってからすぐにこちらに来た。 「ああもう、電気でもつけたらいいのに」 そう言ってパチっとボタンを押した梢さんだったが、やっぱり、いっか、と一人で言うとまた電気を消して、椅子に掛けた僕の肩に手を置いた。 「ははっ、びしょ濡れだね」 梢さんはそう笑った。 僕も真似して力なく笑うと、静かな一室に沈黙が生まれた。二人はそのまま、薄っすらと聞こえる雨音を共有した。
⑼
だめだ
9
「知ってる? この世界がどうやって成り立ってるか」
梢さんは濡れたまま、後ろから僕の裸の背中を抱いた。
「私は知ってるよ。君がなんて言って欲しいかまで、知ってる」
梢さんは僕の右の首筋にキスをして、僕はズボンを握り締めた。
「僕はなんて言って欲しいんですか?」
「自分でわからないの?」
「わかったら苦労しませんよ」
「そう、不便なのね」
梢さんは立ち上がると、再び洗面所へ向かい、タオルを持ってきた。
「思ったよりも本気な話なんですね」