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==概要== | ==概要== | ||
'''ギニア連合共和国'''(〃れんごうきょうわこく、西:Républica Unida de Guinea、仏:République Uni de Guinée、葡:Républica Unida da Guiné、英:United Republic of Guinea、[[管理者語|管]]: | '''ギニア連合共和国'''(〃れんごうきょうわこく、西:Républica Unida de Guinea、仏:République Uni de Guinée、葡:Républica Unida da Guiné、英:United Republic of Guinea、[[管理者語|管]]:義二亜例武五宇尾宇個苦)通称ギニア連合は、アフリコセアニアに位置し、西アフリカ、東オセアニアからなる連邦共和制国家。首都はコナクリ。 | ||
==国名== | ==国名== | ||
通常、日本語での表記はギニア連合、又は単にギニア。この名前の由来は、「'''ティンクル☆ギュニキュア'''(アニメ作品)」に登場するキャラクター、「'''キュアギニギニ'''」である。 | |||
日本語における漢字表記では'''幾内亜連'''(略表記:'''幾連''')とされる。 | 日本語における漢字表記では'''幾内亜連'''(略表記:'''幾連''')とされる。 | ||
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===ギニア連合王国の成立=== | ===ギニア連合王国の成立=== | ||
西暦920年、先述した「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」のキャラクター、「'''キュアギニギニ''' | 西暦920年、先述した「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」のキャラクター、「'''キュアギニギニ'''」の熱狂的なファンが団結し、キュアギニギニを王とする形で'''ギニア連合王国'''を建国した。 | ||
その後、キュアギニギニの的確な行政と指導<ref>具体的にどのようなことをしたのかは明らかになっていないが、少なくともギニギニビームを放ったことは確認されている。</ref>によってギニア連合王国は急成長を果たし、瞬く間に世界有数の経済大国となった。 | |||
しかし同時に、隣国の[[有無ジェリア]]とは宗教的な軋轢<ref>ギニア連合王国はキュアギニギニを信仰していたが、有無ジェリアはジェリアを信仰していた。</ref>があり、互いにしばしば敵対することになる。また、これによって[[有無ジェリア]]の友好国であった'''インド'''とも敵対してしまう。 | |||
===大インド帝国の成立と幾連印戦争=== | ===大インド帝国の成立と幾連印戦争=== | ||
西暦1018年ごろ、インドは'''東インド地方及びその諸島'''、'''西インド諸島'''、'''南亜インド地方'''を併合し、'''大インド帝国''' | 西暦1018年ごろ、インドは'''東インド地方及びその諸島'''、'''西インド諸島'''、'''南亜インド地方'''を併合し、'''大インド帝国'''となった。ただでさえ緊張関係が続いていたギニア連合王国とインドであったが、大インド帝国の成立によって、東南アジア・オセアニアにおいて両国間での国境の接触が生じてしまい、両国はさらなる緊張状態に陥った。 | ||
西暦1022年、大インド帝国はギニア連合王国の'''パプアニュー・ギニア州'''における'''パプア自治区'''に、キュアギニギニ信者が少ない<ref>現在でも、パプア自治区には'''「ティンクル☆ギュニキュア」'''の中でも'''キュアパプパプ'''推しが多い傾向にある。</ref>ことを理由として、同地方の大インド帝国への割譲を4回に渡って要求。 | 西暦1022年、大インド帝国はギニア連合王国の'''パプアニュー・ギニア州'''における'''パプア自治区'''に、キュアギニギニ信者が少ない<ref>現在でも、パプア自治区には'''「ティンクル☆ギュニキュア」'''の中でも'''キュアパプパプ'''推しが多い傾向にある。</ref>ことを理由として、同地方の大インド帝国への割譲を4回に渡って要求。 | ||
しかしギニア連合王国はこの全てを黙殺した<ref>なお、大インド帝国の要求に反応しなかったのは、先述した「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」において、キュアギニギニが「<u>積極的に話す人は嫌い</u>」と発言したことがあるからである。</ref> | しかしギニア連合王国はこの全てを黙殺した<ref>なお、大インド帝国の要求に反応しなかったのは、先述した「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」において、キュアギニギニが「<u>積極的に話す人は嫌い</u>」と発言したことがあるからである。</ref>ため、ついにギニア連合王国と大インド帝国との間で'''幾連印戦争(ギニア連合=大インド戦争)'''が開始した。 | ||
[[ファイル:幾連印戦争1.png|代替文= | {|class="wikitable" style="background-color:white;" | ||
|style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争1.png|代替文=|フレームなし]] | |||
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{| class="wikitable" | {| class="wikitable" | ||
|'''ギニア連合王国''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''ギニア連合王国''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
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|'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
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====戦争初期==== | ====戦争初期==== | ||
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戦争初期のアフリカ戦線では、'''大インド帝国の本土'''である中央インド州が、'''ギニア連合王国の本土'''であるコナクリ・ギニア州、そしてビサウ・ギニア州に向けて侵攻を開始。 | 戦争初期のアフリカ戦線では、'''大インド帝国の本土'''である中央インド州が、'''ギニア連合王国の本土'''であるコナクリ・ギニア州、そしてビサウ・ギニア州に向けて侵攻を開始。 | ||
ギニア連合はエクエイター・ギニア州を中央インド州に進軍させ、<u>敵軍の背後をつく形で攻撃</u> | ギニア連合はエクエイター・ギニア州を中央インド州に進軍させ、<u>敵軍の背後をつく形で攻撃</u>を仕掛けた。この作戦は初頭こそ成功していたものの、西インド州を出発した'''大インド帝国海軍'''が<u>大西洋を横断して西アフリカ戦線に到着</u>。そのうえビサウ・ギニア州での<u>強襲揚陸を成功させた</u>ことで、陸からの攻撃に対する防衛に手いっぱいだったコナクリ・ギニア州、そしてビサウ・ギニア州の戦況は急激に悪化し、ギニア連合は攻勢を中断し、しばらくの間は防御に専念することになる。 | ||
=====東南アジア・オセアニア戦線===== | =====東南アジア・オセアニア戦線===== | ||
戦争初期の東南アジア・オセアニア戦線では、戦争が開始して僅か6時間後、ギニア連合王国のパプアニュー・ギニア州、そのパプア自治区が、東インド州から進軍してきた大インド帝国によって占領されてしまい、戦況は絶望的な状況に陥っていた。 | |||
また、<u>南亜インド州の圧倒的な人的資源による人海戦術</u>によって戦線はほとんど崩壊し、さらにパプアニュー・ギニア州での<u>ギニア連合王国軍の徴兵は限界に達した</u>ことで、もはやパプアニュー・ギニア州での組織的防衛、とりわけ陸軍は目立って機能していなかった。 | |||
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|style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争2.png|代替文=|フレームなし]] | |||
[[ファイル:幾連印戦争2.png|代替文= | |style="border:1px solid white;"| | ||
{| class="wikitable" | {| class="wikitable" | ||
|'''ギニア連合王国''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''ギニア連合王国''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
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|'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
|} | |} | ||
|} | |||
====戦争中期==== | ====戦争中期==== | ||
=====アフリカ戦線===== | =====アフリカ戦線===== | ||
戦争中期のアフリカ戦線では、東南アジア・オセアニア戦線でのパプア・ニューギニア州の劣勢によって士気を上げた大インド帝国軍の攻撃はさらに激しくなり、さらに<u>東南アジア・オセアニア戦線の大インド帝国軍がアフリカ戦線に引き抜かれた</u>ことで、ギニア連合王国軍のアフリカ戦線はますます苦しい状態になっていった。 | |||
<u>大インド帝国軍は全軍を西に向けていた</u>ためエクエイター・ギニア州からのギニア連合王国軍の進撃に反応できず、ギニア連合王国軍は中規模ながら<u>大インド帝国軍の包囲殲滅に成功</u> | この戦況を打破するために、エクエイター・ギニア州は隙をついて[[有無ジェリア]]近辺に進軍。<ref>なおこのとき、戦火の影響で'''有ジェリア地方'''には'''有事'''が起こった。しかしながら、'''無ジェリア地方'''は'''無事'''だった。</ref><u>大インド帝国軍は全軍を西に向けていた</u>ためエクエイター・ギニア州からのギニア連合王国軍の進撃に反応できず、ギニア連合王国軍は中規模ながら<u>大インド帝国軍の包囲殲滅に成功</u>した。これによって大インド帝国軍の戦力は分散され、この隙をついてビサウ・ギニア州は<u>大インド帝国海軍による[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E9%A0%AD%E5%A0%A1 橋頭堡]を破壊</u>、こうしてギニア連合王国軍と大インド帝国軍の勢力は再び均衡した。 | ||
=====東南アジア・オセアニア戦線===== | =====東南アジア・オセアニア戦線===== | ||
戦争中期の東南アジア・オセアニア戦線では、ついに<u>ニューギニア島全土が大インド帝国軍によって掌握</u>され、もはやパプアニュー・ギニア州は'''ビスマーク諸島のみ''' | 戦争中期の東南アジア・オセアニア戦線では、ついに<u>ニューギニア島全土が大インド帝国軍によって掌握</u>され、もはやパプアニュー・ギニア州は'''ビスマーク諸島のみ'''であった。しかしギニア連合王国海軍は、一縷の望みとして<u>西インド州への逆侵攻</u>を計画し、それを実行。なんとか太平洋を横断した同海軍は、この計画を成功させた。西インド州はこの急襲に対応できず、西暦1026年、瞬く間に中核都市である'''ハバナ'''を失って降伏した。 | ||
<u>大インド帝国海軍の本拠地であった西インド州</u>を失ったことで、同海軍は大幅に弱体化した。このため大インド帝国軍は、南亜インド州の人的資源をさらにアフリカ戦線に割かなくてはならなくなり、東南アジア・オセアニア戦線が手薄になった結果、戦線は再び構築され直され、翌年にはギニア連合王国軍はパプア自治区も含めた<u>パプアニュー・ギニア州の全土の奪還に成功</u>する。 | |||
=====ナントカスタン中亜同盟の参戦と南アジア戦線===== | =====ナントカスタン中亜同盟の参戦と南アジア戦線===== | ||
西暦1026年、中央アジアの国々によって構成される'''ナントカスタン中亜同盟'''が、大インド帝国軍の南亜インド州から、'''パキスタン地方''' | 西暦1026年、中央アジアの国々によって構成される'''ナントカスタン中亜同盟'''が、大インド帝国軍の南亜インド州から、'''パキスタン地方'''を併合するため、幾連印戦争にギニア連合王国側で参戦。これによって南亜インド州はナントカスタンからの領土の防衛を余儀なくされ、大インド帝国陸軍の強みであった人海戦術がし辛くなった。 | ||
南アジア戦線では、'''ナントカスタン騎兵師団'''の圧倒的な素早さと強さによって大インド帝国軍は悉く敗走・後退を続け、ナントカスタンの参戦からたった2週間程度でパキスタン地方を失った。二つの戦線において反撃され、さらに海軍、そして陸軍の強みを奪われてしまった大インド帝国は、これから徐々に追い詰められていくことになる。 | |||
[[ファイル:幾連印戦争3.png|代替文= | {|class="wikitable" style="background-color:white;" | ||
|style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争3.png|代替文=|フレームなし]] | |||
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{| class="wikitable" | {| class="wikitable" | ||
|'''ギニア連合王国'''、<br>'''ナントカスタン中亜同盟''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''ギニア連合王国'''、<br>'''ナントカスタン中亜同盟''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
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|'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
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====戦争後期==== | ====戦争後期==== | ||
=====アフリカ戦線===== | =====アフリカ戦線===== | ||
戦争後期のアフリカ戦線では、ギニア連合王国がコナクリ・ギニア州、ビサウ・ギニア州、そしてエクエイター・ギニア州から同時に進軍したことで、大インド帝国軍は'''多正面作戦'''を余儀なくされた。これまで劣勢に立たされてきたギニア連合王国軍の優勢は、ついに確実なものとなったのである。 | |||
西暦1027年には、ギニア連合王国軍は中央インド州の挟撃を開始した。このとき既に大インド帝国の首都の陥落は確実だと思われていたが、同帝国は'''カレーパワー'''によって二年以上も粘り強く戦った。結果として、最終的には大インド帝国は降伏したものの、帝都の'''ニアメ'''が陥落することはなかった。 | |||
=====東南アジア・オセアニア戦線===== | =====東南アジア・オセアニア戦線===== | ||
戦争後期の東南アジア・オセアニア戦線では、ギニア連合王国軍は快進撃を続け、ニューギニア島全土を掌握した。 | 戦争後期の東南アジア・オセアニア戦線では、ギニア連合王国軍は快進撃を続け、ニューギニア島全土を掌握した。 | ||
しかしギニア連合王国軍の進軍は止まらず、瞬く間にマルク諸島、スラ諸島、スラウェシ島、ボルネオ島、ジャワ島、などと進軍と攻略を繰り返し、最終的には中核都市である'''ジャカルタ'''を失って、西暦1028年に東インド州は降伏した。 | |||
=====南アジア戦線===== | =====南アジア戦線===== | ||
ナントカスタン騎兵師団の進撃はとどまることを知らず、<u>ヒマラヤ山脈すら踏破</u>した。これに衝撃を受けた大インド帝国軍は、"'''インドの最大の宝石'''" | ナントカスタン騎兵師団の進撃はとどまることを知らず、<u>ヒマラヤ山脈すら踏破</u>した。これに衝撃を受けた大インド帝国軍は、"'''インドの最大の宝石'''"とも呼ばれた南亜インド州を防衛するため、「'''カレー・ビースト'''」などと称えられていた<u>大インド帝国陸軍最強の5つの機甲師団のうち1つ</u>を応援に向かわせた。しかしナントカスタン騎兵師団には全く歯が立たず、瞬く間もなく撃滅された。 | ||
その2日後の西暦1029年、中核都市である'''ニューデリー'''を失って中央インド州は降伏した。 | その2日後の西暦1029年、中核都市である'''ニューデリー'''を失って中央インド州は降伏した。 | ||
[[ファイル:幾連印戦争4.png|代替文= | {|class="wikitable" style="background-color:white;" | ||
|style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争4.png|代替文=|フレームなし]] | |||
|style="border:1px solid white;"| | |||
{| class="wikitable" | {| class="wikitable" | ||
|'''ギニア連合王国'''、<br>'''ナントカスタン中亜同盟''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''ギニア連合王国'''、<br>'''ナントカスタン中亜同盟''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
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|'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''大インド帝国 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
|} | |} | ||
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====終戦==== | ====終戦==== | ||
首都のニアメこそ陥落しなかったものの、<u>東インド州、西インド州、南亜インド州を失った</u> | 首都のニアメこそ陥落しなかったものの、<u>東インド州、西インド州、南亜インド州を失った</u>大インド帝国にもはや戦争継続能力は存在せず、西暦1029年、大インド帝国の無条件降伏という形で幾連印戦争は終結した。 | ||
'''コナクリ講和会議'''の結果、東インド諸島では、ニューギニア島の全土がパプアニュー・ギニア州に併合された。また、その他の東インド地域には<u>ギニア連合王国の傀儡国家</u>である「'''ギニドネシア'''」が建設され、西インド州はそれぞれが国家として独立した。さらに、南アジアでは、パキスタン地方はナントカスタン中亜同盟に併合され、他の地方ではまとめて<u>ナントカスタン中亜同盟の傀儡国家</u>である「'''ヒンドゥスタン'''」が建設された。これによって<u>大インド帝国は解体</u>され、中央インド地方はもとの「'''インド'''」に戻った。 | |||
[[ファイル:幾連印戦争5.png|代替文= | {|class="wikitable" style="background-color:white;" | ||
|style="border:1px solid white;"|[[ファイル:幾連印戦争5.png|代替文=|フレームなし]] | |||
|style="border:1px solid white;"| | |||
{| class="wikitable" | {| class="wikitable" | ||
|'''ギニア連合王国の勢力圏 ''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''ギニア連合王国の勢力圏 ''':<span style="background-color:#0099ff ; color:#0099ff ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
171行目: | 121行目: | ||
|'''インドの勢力圏 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | |'''インドの勢力圏 ''':<span style="background-color:#ff0000 ; color:#ff0000 ; border-top:1px solid #000000 ; border-bottom:1px solid #000000 ; border-left:1px solid #000000 ; border-right:1px solid #000000">....</span> | ||
|} | |} | ||
|} | |||
===共和制への移行=== | ===共和制への移行=== | ||
西暦1030年、110年間も続いた「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」が'''最終回'''を迎え、キュアギニギニは姿を消した。 | 西暦1030年、110年間も続いた「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」が'''最終回'''を迎え、キュアギニギニは姿を消した。 | ||
193行目: | 140行目: | ||
'''ギニア連合共和国軍'''として、共和国陸軍、共和国海軍の二つが編成されている。まだ実戦経験はないものの、ギニア連合王国軍時代のノウハウを受け継いでいるため、国際的にもかなり評価されている。 | '''ギニア連合共和国軍'''として、共和国陸軍、共和国海軍の二つが編成されている。まだ実戦経験はないものの、ギニア連合王国軍時代のノウハウを受け継いでいるため、国際的にもかなり評価されている。 | ||
なお、空軍が存在していないのは、先述した「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」において、キュアギニギニが「<u>飛行機はうるさいから嫌い</u> | なお、空軍が存在していないのは、先述した「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」において、キュアギニギニが「<u>飛行機はうるさいから嫌い</u>」と発言したことがあるからである。同じ理由により、飛行機でギニア連合を訪れる観光客は共和国陸軍によって敵軍と見做され、イージスシステムによって容赦なく撃墜される。 | ||
===行政区分=== | ===行政区分=== | ||
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====第二次産業==== | ====第二次産業==== | ||
鉱業では、コナクリ・ギニア州は無類のボーキサイトの生産量を誇り、ビサウ・ギニア州やパプアニュー・ギニア州では石油や天然ガスの生産もなされている。特に、パプアニュー・ギニア州では金や銅も生産され、コナクリ・ギニア州ではダイヤモンドも生産される。国内には鉄鉱石の鉱床も存在するが、開発は停滞している。 | |||
工業は、主にパプアニュー・ギニア州において盛んであり、民需工場、軍需工場共にそれなりの数がある。しかし、品質は決して良いとは言えないものである。 | |||
====第三次産業==== | ====第三次産業==== | ||
ギニア連合全国において、キュアギニギニのファンがアニメーターに変貌することが非常に多く、世界有数のアニメ大国でもある。 | ギニア連合全国において、キュアギニギニのファンがアニメーターに変貌することが非常に多く、世界有数のアニメ大国でもある。 | ||
その一方、金融業や運輸業などはあまり発展していない。 | |||
==国民== | ==国民== | ||
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===アニメ作品=== | ===アニメ作品=== | ||
先述した通り、ギニア連合共和国にはアニメーターが多く、そうでない人もアニメ作品を好んで鑑賞しているため、国内でのアニメ作品の人気は凄まじいものである。国内では、特に「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」の続編や劇場版などが有志によって作られている。 | |||
===世界遺産=== | ===世界遺産=== | ||
「'''ティンクル☆ギュニキュア''' | 「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」にはギニア連合共和国がモデルになった回が多く存在する。このため、「'''ティンクル☆ギュニキュア'''」における「'''聖地'''」のような形で、複数の場所がユネスコの世界遺産リストに登録されている。 | ||
===祝祭日=== | ===祝祭日=== | ||
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==問題点== | ==問題点== | ||
この国の問題点として、キュアギニギニを崇拝する洗脳が行われていることが挙げられる。そもそも前述した憲法の時点で、異常なキュアギニギニ崇拝が行われていることは容易に察することができる。 | |||
中でも国内の教育機関における洗脳教育は問題視されており、特にキュアギニギニを崇拝しない者に対する惨い折檻として知られる「'''ギニギニ'''」には多くの国から抗議の声が上がっている。また、パプア自治区においては、'''パプパプ派'''への弾圧が行われているとされており、パプアニュー・ギニア州の比較的高い工業力は、その人々の強制労働によるものだとも言われている。 | |||
しかし、ギニア連合共和国はこれらの問題を否定しており、「<u>キュアギニギニを侮辱するものには如何なる武力行使も厭わない</u>」との声明を出している。なお、'''キュアギニギニ'''の詳細については次節にて説明する。 | |||
==キュアギニギニ== | ==キュアギニギニ== |
3年1月18日 (来) 15:50時点における最新版
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ギニア連合共和国 | |
スペイン語:Républica Unida de Guinea フランス語:République Uni de Guinée ポルトガル語:Républica Unida da Guiné 英語:United Republic of Guinea | |
国の標語:Conakri-Bisáu-Ecuatorial-Nueva | |
国歌:Cuatro grandes Guineas | |
公用語 | スペイン語 / フランス語 / ポルトガル語 / 英語 |
首都 | コナクリ |
最大の都市 | コナクリ |
政府 | |
元首等 | キュアギニギニ |
首相等 | ギーニアス |
面積 | |
総計 | 772,873km² |
水面積率 | 極僅か |
人口 | |
総計 | 21,994,898 |
人口密度 | 28.5人/km² |
GDP(自国通貨表示) | |
合計 | 1兆247億ギニー |
一人当たり | 89,221ギニー |
GDP(MER) | |
合計 | 1兆1,254億ギニー |
一人当たり | 55,344ギニー |
GDP(PPP) | |
合計 | 972,274億ギニー |
一人当たり | 48,774ギニー |
建国 | 西暦920年 |
通貨 | ギニー(GCG) |
時間帯 | UTC(0) ~ +10 |
ISO 3361-1 | GC / GNC |
ccTLD | .gc |
国際電話番号 | 920 |
概要[編集 | ソースを編集]
ギニア連合共和国(〃れんごうきょうわこく、西:Républica Unida de Guinea、仏:République Uni de Guinée、葡:Républica Unida da Guiné、英:United Republic of Guinea、管:義二亜例武五宇尾宇個苦)通称ギニア連合は、アフリコセアニアに位置し、西アフリカ、東オセアニアからなる連邦共和制国家。首都はコナクリ。
国名[編集 | ソースを編集]
通常、日本語での表記はギニア連合、又は単にギニア。この名前の由来は、「ティンクル☆ギュニキュア(アニメ作品)」に登場するキャラクター、「キュアギニギニ」である。
日本語における漢字表記では幾内亜連(略表記:幾連)とされる。
歴史[編集 | ソースを編集]
ギニア連合王国の成立[編集 | ソースを編集]
西暦920年、先述した「ティンクル☆ギュニキュア」のキャラクター、「キュアギニギニ」の熱狂的なファンが団結し、キュアギニギニを王とする形でギニア連合王国を建国した。
その後、キュアギニギニの的確な行政と指導[1]によってギニア連合王国は急成長を果たし、瞬く間に世界有数の経済大国となった。
しかし同時に、隣国の有無ジェリアとは宗教的な軋轢[2]があり、互いにしばしば敵対することになる。また、これによって有無ジェリアの友好国であったインドとも敵対してしまう。
大インド帝国の成立と幾連印戦争[編集 | ソースを編集]
西暦1018年ごろ、インドは東インド地方及びその諸島、西インド諸島、南亜インド地方を併合し、大インド帝国となった。ただでさえ緊張関係が続いていたギニア連合王国とインドであったが、大インド帝国の成立によって、東南アジア・オセアニアにおいて両国間での国境の接触が生じてしまい、両国はさらなる緊張状態に陥った。
西暦1022年、大インド帝国はギニア連合王国のパプアニュー・ギニア州におけるパプア自治区に、キュアギニギニ信者が少ない[3]ことを理由として、同地方の大インド帝国への割譲を4回に渡って要求。
しかしギニア連合王国はこの全てを黙殺した[4]ため、ついにギニア連合王国と大インド帝国との間で幾連印戦争(ギニア連合=大インド戦争)が開始した。
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戦争初期[編集 | ソースを編集]
アフリカ戦線[編集 | ソースを編集]
戦争初期のアフリカ戦線では、大インド帝国の本土である中央インド州が、ギニア連合王国の本土であるコナクリ・ギニア州、そしてビサウ・ギニア州に向けて侵攻を開始。
ギニア連合はエクエイター・ギニア州を中央インド州に進軍させ、敵軍の背後をつく形で攻撃を仕掛けた。この作戦は初頭こそ成功していたものの、西インド州を出発した大インド帝国海軍が大西洋を横断して西アフリカ戦線に到着。そのうえビサウ・ギニア州での強襲揚陸を成功させたことで、陸からの攻撃に対する防衛に手いっぱいだったコナクリ・ギニア州、そしてビサウ・ギニア州の戦況は急激に悪化し、ギニア連合は攻勢を中断し、しばらくの間は防御に専念することになる。
東南アジア・オセアニア戦線[編集 | ソースを編集]
戦争初期の東南アジア・オセアニア戦線では、戦争が開始して僅か6時間後、ギニア連合王国のパプアニュー・ギニア州、そのパプア自治区が、東インド州から進軍してきた大インド帝国によって占領されてしまい、戦況は絶望的な状況に陥っていた。
また、南亜インド州の圧倒的な人的資源による人海戦術によって戦線はほとんど崩壊し、さらにパプアニュー・ギニア州でのギニア連合王国軍の徴兵は限界に達したことで、もはやパプアニュー・ギニア州での組織的防衛、とりわけ陸軍は目立って機能していなかった。
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戦争中期[編集 | ソースを編集]
アフリカ戦線[編集 | ソースを編集]
戦争中期のアフリカ戦線では、東南アジア・オセアニア戦線でのパプア・ニューギニア州の劣勢によって士気を上げた大インド帝国軍の攻撃はさらに激しくなり、さらに東南アジア・オセアニア戦線の大インド帝国軍がアフリカ戦線に引き抜かれたことで、ギニア連合王国軍のアフリカ戦線はますます苦しい状態になっていった。
この戦況を打破するために、エクエイター・ギニア州は隙をついて有無ジェリア近辺に進軍。[5]大インド帝国軍は全軍を西に向けていたためエクエイター・ギニア州からのギニア連合王国軍の進撃に反応できず、ギニア連合王国軍は中規模ながら大インド帝国軍の包囲殲滅に成功した。これによって大インド帝国軍の戦力は分散され、この隙をついてビサウ・ギニア州は大インド帝国海軍による橋頭堡を破壊、こうしてギニア連合王国軍と大インド帝国軍の勢力は再び均衡した。
東南アジア・オセアニア戦線[編集 | ソースを編集]
戦争中期の東南アジア・オセアニア戦線では、ついにニューギニア島全土が大インド帝国軍によって掌握され、もはやパプアニュー・ギニア州はビスマーク諸島のみであった。しかしギニア連合王国海軍は、一縷の望みとして西インド州への逆侵攻を計画し、それを実行。なんとか太平洋を横断した同海軍は、この計画を成功させた。西インド州はこの急襲に対応できず、西暦1026年、瞬く間に中核都市であるハバナを失って降伏した。
大インド帝国海軍の本拠地であった西インド州を失ったことで、同海軍は大幅に弱体化した。このため大インド帝国軍は、南亜インド州の人的資源をさらにアフリカ戦線に割かなくてはならなくなり、東南アジア・オセアニア戦線が手薄になった結果、戦線は再び構築され直され、翌年にはギニア連合王国軍はパプア自治区も含めたパプアニュー・ギニア州の全土の奪還に成功する。
ナントカスタン中亜同盟の参戦と南アジア戦線[編集 | ソースを編集]
西暦1026年、中央アジアの国々によって構成されるナントカスタン中亜同盟が、大インド帝国軍の南亜インド州から、パキスタン地方を併合するため、幾連印戦争にギニア連合王国側で参戦。これによって南亜インド州はナントカスタンからの領土の防衛を余儀なくされ、大インド帝国陸軍の強みであった人海戦術がし辛くなった。
南アジア戦線では、ナントカスタン騎兵師団の圧倒的な素早さと強さによって大インド帝国軍は悉く敗走・後退を続け、ナントカスタンの参戦からたった2週間程度でパキスタン地方を失った。二つの戦線において反撃され、さらに海軍、そして陸軍の強みを奪われてしまった大インド帝国は、これから徐々に追い詰められていくことになる。
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戦争後期[編集 | ソースを編集]
アフリカ戦線[編集 | ソースを編集]
戦争後期のアフリカ戦線では、ギニア連合王国がコナクリ・ギニア州、ビサウ・ギニア州、そしてエクエイター・ギニア州から同時に進軍したことで、大インド帝国軍は多正面作戦を余儀なくされた。これまで劣勢に立たされてきたギニア連合王国軍の優勢は、ついに確実なものとなったのである。
西暦1027年には、ギニア連合王国軍は中央インド州の挟撃を開始した。このとき既に大インド帝国の首都の陥落は確実だと思われていたが、同帝国はカレーパワーによって二年以上も粘り強く戦った。結果として、最終的には大インド帝国は降伏したものの、帝都のニアメが陥落することはなかった。
東南アジア・オセアニア戦線[編集 | ソースを編集]
戦争後期の東南アジア・オセアニア戦線では、ギニア連合王国軍は快進撃を続け、ニューギニア島全土を掌握した。
しかしギニア連合王国軍の進軍は止まらず、瞬く間にマルク諸島、スラ諸島、スラウェシ島、ボルネオ島、ジャワ島、などと進軍と攻略を繰り返し、最終的には中核都市であるジャカルタを失って、西暦1028年に東インド州は降伏した。
南アジア戦線[編集 | ソースを編集]
ナントカスタン騎兵師団の進撃はとどまることを知らず、ヒマラヤ山脈すら踏破した。これに衝撃を受けた大インド帝国軍は、"インドの最大の宝石"とも呼ばれた南亜インド州を防衛するため、「カレー・ビースト」などと称えられていた大インド帝国陸軍最強の5つの機甲師団のうち1つを応援に向かわせた。しかしナントカスタン騎兵師団には全く歯が立たず、瞬く間もなく撃滅された。
その2日後の西暦1029年、中核都市であるニューデリーを失って中央インド州は降伏した。
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終戦[編集 | ソースを編集]
首都のニアメこそ陥落しなかったものの、東インド州、西インド州、南亜インド州を失った大インド帝国にもはや戦争継続能力は存在せず、西暦1029年、大インド帝国の無条件降伏という形で幾連印戦争は終結した。
コナクリ講和会議の結果、東インド諸島では、ニューギニア島の全土がパプアニュー・ギニア州に併合された。また、その他の東インド地域にはギニア連合王国の傀儡国家である「ギニドネシア」が建設され、西インド州はそれぞれが国家として独立した。さらに、南アジアでは、パキスタン地方はナントカスタン中亜同盟に併合され、他の地方ではまとめてナントカスタン中亜同盟の傀儡国家である「ヒンドゥスタン」が建設された。これによって大インド帝国は解体され、中央インド地方はもとの「インド」に戻った。
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共和制への移行[編集 | ソースを編集]
西暦1030年、110年間も続いた「ティンクル☆ギュニキュア」が最終回を迎え、キュアギニギニは姿を消した。
これによってギニア連合王国は君主政から共和政へと政変を起こし、キュアギニギニを名誉元首として迎えたギニア連合共和国となった。
政治[編集 | ソースを編集]
政治形態[編集 | ソースを編集]
ギニア連合共和国は連邦共和制の国であり、5年に一度の選挙によって選ばれる、最もキュアギニギニのファンである者が首相となる。
また、国家機関はキュアギニギニのファンのみで構成されているため、彼らの制定した憲法によってキュアギニギニを愛さない者は反国民と見做され、正式な裁判を経てギニア湾に沈められる。
国際関係[編集 | ソースを編集]
過去に交戦したインドとの関係はとても悪く、有無ジェリアとの関係も先述の通りかなり悪い。しかし、この二国以外のアフリカの国とはかなり関係がよく、国際的な地位も高い。
軍隊[編集 | ソースを編集]
ギニア連合共和国軍として、共和国陸軍、共和国海軍の二つが編成されている。まだ実戦経験はないものの、ギニア連合王国軍時代のノウハウを受け継いでいるため、国際的にもかなり評価されている。
なお、空軍が存在していないのは、先述した「ティンクル☆ギュニキュア」において、キュアギニギニが「飛行機はうるさいから嫌い」と発言したことがあるからである。同じ理由により、飛行機でギニア連合を訪れる観光客は共和国陸軍によって敵軍と見做され、イージスシステムによって容赦なく撃墜される。
行政区分[編集 | ソースを編集]
ギニア連合共和国には4つの州が存在している。州はさらに36の県に分かれている。
- コナクリ・ギニア州
- ボケ県
- コナクリ県
- ファラナ県
- カンカン県
- キンディア県
- ラベ県
- マムー県
- ンゼレコレ県
- ビサウ・ギニア州
- ガブ県
- バファタ県
- カシェウ県
- ビオンボ県
- オイオ県
- キナラ県
- トンバリ県
- ボラマ県
- ビサウ県
- エクエイター・ギニア州
- リオ・ムニ県
- 島嶼県
- パプアニュー・ギニア州
- シンブ県
- 東部山岳県
- エンガ県
- 南部山岳県
- 西部山岳県
- ヘラ県
- ジワカ県
- 東ニューブリテン県
- マヌス県
- ニューアイルランド県
- ブーゲンビル県
- 西ニューブリテン県
- 東セピック県
- マダン県
- モロベ県
- サンダウン県
- 中央県
- 湾岸県
- ミルン湾県
- オロ県
- 西部県
- 首都県
地理[編集 | ソースを編集]
チリ共和国(チリきょうわこく、スペイン語: República de Chile)、通称チリは、南アメリカ大陸南西部に位置する共和制国家である。
国土はアンデス山脈西側で南北に細長く、東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーと隣接する。
西は南太平洋、南はフエゴ島を挟んでドレーク海峡に面している。首都はサンティアゴ。
この節の加筆が望まれています。
経済[編集 | ソースを編集]
ギニア連合共和国は、先述した通り、王国時代のキュアギニギニによる指導によって世界でも有数の経済大国であり、当時の全盛期には劣るものの、現在でも良い経済を持っている。
基本情報[編集 | ソースを編集]
- GDP:1兆247億ギニー
- 一人あたりのGDP:55,344ギニー
- GDP成長率:86%
- 労働人口:9,921,672人
- 失業率:0.002%
- 輸出額:34,164,305,165ギニー
- 輸入額:31,546,764,130ギニー
産業[編集 | ソースを編集]
ギニア連合共和国は、経済力と天然資源の生産力を両立させている数少ない国家であり、食料自給率も129%ほどある。
第一次産業[編集 | ソースを編集]
ギニア連合の第一次産業は農業が主流であり、主にコナクリ・ギニア州、ビサウ・ギニア州、そしてエクエイター・ギニア州でのカカオ豆やアブラヤシ、主食のイネなどの栽培がなされている。
林業においては、主にエクエイター・ギニア州で行われているが、コナクリ・ギニア州でも近年は開発が始まっている。また、領海のほとんどが熱帯に位置しているため、水産業は盛んではない。
第二次産業[編集 | ソースを編集]
鉱業では、コナクリ・ギニア州は無類のボーキサイトの生産量を誇り、ビサウ・ギニア州やパプアニュー・ギニア州では石油や天然ガスの生産もなされている。特に、パプアニュー・ギニア州では金や銅も生産され、コナクリ・ギニア州ではダイヤモンドも生産される。国内には鉄鉱石の鉱床も存在するが、開発は停滞している。
工業は、主にパプアニュー・ギニア州において盛んであり、民需工場、軍需工場共にそれなりの数がある。しかし、品質は決して良いとは言えないものである。
第三次産業[編集 | ソースを編集]
ギニア連合全国において、キュアギニギニのファンがアニメーターに変貌することが非常に多く、世界有数のアニメ大国でもある。
その一方、金融業や運輸業などはあまり発展していない。
国民[編集 | ソースを編集]
民族[編集 | ソースを編集]
国民の実に100%が純系のキュアギニギニファンである。これは、ギニア連合国民には、ギニア連合王国を建設したファンたちの血が流れているからである。
言語[編集 | ソースを編集]
住民はノリでスペイン語やフランス語、ポルトガル語や英語をしゃべっているが、誰も「スペイン」や「フランス」などは何なのか知らない。実を言うと、この記事の執筆者[誰?]も知らない。
また、パプアニュー・ギニア州では、トク・ピシンやヒリモツ語が話される場合もある。
宗教[編集 | ソースを編集]
国民の実に100%がキュアギニギニを神と信じている。なぜならキュアギニギニは神と形容する他ないキャラクターだからである。
教育[編集 | ソースを編集]
ギニア連合王国民は6歳から16歳までの10年間が義務教育機関となる。学校では、「ティンクル☆ギュニキュア」を見たり、「ティンクル☆ギュニキュア」を見たりして過ごす。
また、世界的にもかなり特殊な教科である「ギニギニ[6]」が行われていることも知られている。
文化[編集 | ソースを編集]
アニメ作品[編集 | ソースを編集]
先述した通り、ギニア連合共和国にはアニメーターが多く、そうでない人もアニメ作品を好んで鑑賞しているため、国内でのアニメ作品の人気は凄まじいものである。国内では、特に「ティンクル☆ギュニキュア」の続編や劇場版などが有志によって作られている。
世界遺産[編集 | ソースを編集]
「ティンクル☆ギュニキュア」にはギニア連合共和国がモデルになった回が多く存在する。このため、「ティンクル☆ギュニキュア」における「聖地」のような形で、複数の場所がユネスコの世界遺産リストに登録されている。
祝祭日[編集 | ソースを編集]
ギニア連合共和国ではあらゆる日がキュアギニギニにまつわる祝祭日となっており、月ごとにその内容は異なる。
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月のあらゆる日 | ギニギニと新年を祝う日 | Guinea Guinea y el día de celebración del Año Nuevo | 国民が総出でキュアギニギニと新年を祝う日 |
2月のあらゆる日 | ギニギニと雪遊びする日 | Guinea Guinea y un día para jugar en la nieve | 国民が総出でキュアギニギニと雪遊びをする日 |
3月のあらゆる日 | ギニギニの進級を祝う日 | Día para celebrar la promoción de Guinea Guinea | 国民が総出でキュアギニギニの進級を祝う日 |
4月のあらゆる日 | ギニギニと桜を見る日 | Guinea Guinea y el día para ver los cerezos en flor | 国民が総出でキュアギニギニと桜を見る日 |
5月のあらゆる日 | とにかくギニギニな日 | De todos modos, Guinea Día de Guinea | 5月のイベント…えーっと…うん、とにかくギニギニな日。 |
6月のあらゆる日 | ギニギニと梅雨を過ごす日 | Guinea Guinea y el día para pasar la temporada de lluvias | 国民が総出でキュアギニギニと梅雨を過ごす日 |
7月のあらゆる日 | ギニギニと七夕を迎える日 | Guinea Guinea y el día de Tanabata | 国民が総出でキュアギニギニと七夕を迎える日 |
8月のあらゆる日 | ギニギニとお盆をする日 | Guinea Guinea y el día de Obon | 国民が総出でキュアギニギニとお盆をする日 |
9月のあらゆる日 | ギニギニと月見をする日 | Guinea Guinea y el día para ver la luna | 国民が総出でキュアギニギニと月見をする日 |
10月のあらゆる日 | ギニギニ・ハロウィーン | Guinea Guinea de Halloween | 国民が総出でキュアギニギニの仮装をして町を練り歩く日 |
11月のあらゆる日 | ティンクル☆ギュニキュアの秋 | Tinkle ☆ Gunicure Otoño | 「ティンクル☆ギュニキュア」を四六時中見続ける日 |
12月のあらゆる日 | ギニギニ・クリスマス | Guinea Guinea de Navidad | 国民が総出でキュアギニギニとクリスマスを祝う日 |
スポーツ[編集 | ソースを編集]
キュアギニギニスポーツ[編集 | ソースを編集]
キュアギニギニに関するスポーツとして、キュアギニギニ早描き対決、キュアギニギニ声真似対決、キュアギニギニ知識対決などの数多くが挙げられる。
なお、オリンピックにけるキュアギニギニスポーツ部門では、表彰者の全員がギニア連合共和国民となっている。[7]
問題点[編集 | ソースを編集]
この国の問題点として、キュアギニギニを崇拝する洗脳が行われていることが挙げられる。そもそも前述した憲法の時点で、異常なキュアギニギニ崇拝が行われていることは容易に察することができる。
中でも国内の教育機関における洗脳教育は問題視されており、特にキュアギニギニを崇拝しない者に対する惨い折檻として知られる「ギニギニ」には多くの国から抗議の声が上がっている。また、パプア自治区においては、パプパプ派への弾圧が行われているとされており、パプアニュー・ギニア州の比較的高い工業力は、その人々の強制労働によるものだとも言われている。
しかし、ギニア連合共和国はこれらの問題を否定しており、「キュアギニギニを侮辱するものには如何なる武力行使も厭わない」との声明を出している。なお、キュアギニギニの詳細については次節にて説明する。
キュアギニギニ[編集 | ソースを編集]
公表するべきではない内容が記入されていたので、この節の内容について大幅な削除を行ったよ。
無益な詮索はしないほうが身のためだよ。気を付けてね。--伊藤しえる (トーク) 2019年6月27日 (木) 12:54 (JST)
洗脳能力[編集 | ソースを編集]
この節は削除されました。
共識的未確存在の変更能力[編集 | ソースを編集]
この節は削除されました。
キュアラプラプとの類似点[編集 | ソースを編集]
この節は削除されました。
脚注[編集 | ソースを編集]
- ↑ 具体的にどのようなことをしたのかは明らかになっていないが、少なくともギニギニビームを放ったことは確認されている。
- ↑ ギニア連合王国はキュアギニギニを信仰していたが、有無ジェリアはジェリアを信仰していた。
- ↑ 現在でも、パプア自治区には「ティンクル☆ギュニキュア」の中でもキュアパプパプ推しが多い傾向にある。
- ↑ なお、大インド帝国の要求に反応しなかったのは、先述した「ティンクル☆ギュニキュア」において、キュアギニギニが「積極的に話す人は嫌い」と発言したことがあるからである。
- ↑ なおこのとき、戦火の影響で有ジェリア地方には有事が起こった。しかしながら、無ジェリア地方は無事だった。
- ↑ 「ティンクル☆ギュニキュア」を見たり、「ティンクル☆ギュニキュア」を見たりする能力を育むための教科である。
- ↑ なお、この競技に参加するのも全員がギニア連合共和国民である。
ギャラリー[編集 | ソースを編集]