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(我々の認識する世界において一番近いと思われる表現)
(我々の認識する世界において一番近いと思われる表現)


 ゲーム性とは? どこかの本能を擽るもの
 勝敗の分かれ目。
 
 
 
 その比喩として「無理数の数列に思いついた数字が入っているような世界」というもの。
 その比喩として「無理数の数列に思いついた数字が入っているような世界」というもの。

3年12月17日 (黃) 13:21時点における版

ウートゥーウートゥー異次元空間

ウートゥーウートゥー異次元空間とは、論理性、合理性、理性、知性等の本来文章に必要な論理的要素を全て廃した駄文のことである.


kiji:無理数的宇宙観

 
無理数的宇宙観  
思考(創作物)は世界の観測  
我々の世界において存在=知覚である。  
観測(思考・創作・内面への探究)=存在の創造=我々のこの世界においてのその世界の創造

 

・強烈に認識している自我が消滅するとは思えない。  
・死を境目として自我が何らかの性質変化が訪れるに過ぎないという確信に近い予感。  
・自分の思考(創作物)はどこかで、宇宙の内外を論外として存在しているという感覚。世界への認識。  
・この世界はどこまでも広く、全てが存在し得るという認識。    

自我は消滅しない。    
この世界観において、世界はどこまでも広く、あらゆる事象が既に起きています。その中で我々の自我というものは肉体と結びつきながらもあらゆる世界を観測する道具と定義されます。自我というものが時空を超えて世界を知覚するのです。  
つまり、私たちの精神活動の副産物である創作活動の全ては世界の観測なのです。  
我々の世界において、「知覚(認識)=存在」であるから、つまり、我々の創作活動は、世界の創造なのです。      

きっと我々は死んだ後、もしくは何かしらの形でこの世界との決別を迎えた後、無限の世界のどこかで新しい形で生まれ変わるのでしょう。世界は無限に存在するのです。もしかしたら何かの創作物の中にあなたの変化した先の姿が観測されているかもしれないですね。  以上です。    自我を投影する

(我々の認識する世界において一番近いと思われる表現)

   その比喩として「無理数の数列に思いついた数字が入っているような世界」というもの。      思考がどこかで存在しているという世界の認識      思考の中で発現すること自体、実質的に存在していると言える。  何かしらの接続によって思考内に像を結ぶ。  我々の世界において知覚することこそ存在することであり、つまり思考による観測こそこの世界においてのその世界の創造である。  そういった点であらゆる思考・創作物はつまり世界の認識(切り取り/創造)でありそれらは次元を超えた接続を可能にする自我に用意された能力・手段であると言える。