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吸巨化事件1号

吸巨化事件1号
場所 日本 沖縄県
日付 2028年8月13日〜14日
概要 1人の吸巨化能力者による無差別攻撃。

吸巨化事件1号とは、2028年8月13日〜14日にかけて沖縄県で起こった、世界初の吸巨化事件である。1人の吸巨化能力者が無差別攻撃を断続的に行い、多くの死者が出た。

この事件によって吸巨化能力者の存在が明るみに出た。この事件から数日後、吸巨化能力者による人類への攻撃が開始され、惨劇戦争が始まった。

吸巨化事件1号は、惨劇戦争の嚆矢となった事変であり、そのため惨闢と呼ばれることもある。

8月13日19時57分、神代晃平

小さい頃から、物を引き寄せられた。代々、神代家の男はこの力を持っていたらしい。

掌にぐっと力をこめると、物が見えない糸に引っ張られるように、すっ飛んでくる。

祖父は、机の上の皿をゴトゴトと引きずってくるくらいの力しか出せなかったが、俺は部屋の反対側の花瓶をひゅんと飛ばしてきてキャッチするくらいはできた。どうやら、代を重ねるごとに力は強まっているらしい。

生まれてから30年間、ずっとこの力は秘密にしてきた。しかし、この力──彼らが言うには「グラビティ」──を持つ者を探そうと思えば、案外あっさり見つかるものらしい。彼らは俺をグラビティ持ちと見抜いて、連絡してきた。そして今、俺は妻と1歳の息子を連れて、約束された場所──ここ沖縄──に来ている。

「葵、どうしたの?」
妻の椿が、ぐずる葵を抱いてあやしている。俺たちが何をしにここへ来たのか判っているから、葵はこんなに不機嫌なのだろうか。

午後8時。俺たちはホテルを探して那覇市街を歩き回っていた。数時間前に那覇空港に降り立ち、明朝の約束に向けて一泊だけすれば良かった。しかし、盆休みの国内有数の観光地、ホテルはどこも満杯で、もう2時間ほど歩きっぱなしだ。荷物は少ないとはいえ、流石に堪える。日も沈み、いよいよ本格的に暗くなってきた。

「椿、あそこに行ってみよう」
 ゆいレールの線路がある大通りから一本外れた小道に、民宿の看板が立っていた。俺は引き戸を開け、戸をくぐった。葵を抱いた椿も続く。中の狭いロビーには、先客の外国人グループがいた。タトゥーを入れた東洋人が3名。黙礼して、無人の受付のベルを鳴らす。椿は歩き疲れたのか、外国人たちが座るソファーの端に腰を下ろした。中から人が来る様子はまだ無い。

先客が屯しているし、やはり部屋は埋まっているのだろうか。東洋人たちは知らない言語で何事か喋っている。後ろで、ソファーから人が立ち上がる気配がした。俺が業を煮やして再度ベルを鳴らしたとき、背中に誰かがぶつかった。振り返ると、1人の外国人が出口へ歩いているところだった。引き戸を開けている。別の宿泊所を探すのだろうか。

その時、ふと嫌な予感がした。尻ポケットに手をやる。無い。入れていた財布が、無い。

──掏摸か!

外国人は、戸を閉めて出ていったところだった。取り返さねば。
「掏られた。葵を頼む」
 素早く伝えると、ポカンとしている椿を残し、走り出した。

ガラガラと戸を開け、薄闇に包まれた外へ走り出す。右に、外国人はいた。振り返っているそいつと目が合う。途端、そいつは走り出した。路駐された車の横を駆け、俺も急いで後を追う。掏摸の右手には、財布が。距離は、10mほど。辺りに掏摸以外の人影は無い。

いけるか。

俺は足を止め、右腕をまっすぐ突き出した。掏摸の右手に向けた掌に、力を込める。

──来い!

掏摸の右腕が、ぐんと後ろに引かれる。掏摸は驚いて振り返った。誰も手を引いていないことに、驚愕を隠せないでいる。だが、財布は手を離れていない。掏摸は引力を振り払い、後ろの俺を恐怖の目で見ながら、また走り出した。

もっと強く。俺は動かないまま、一層強く力を込めた。ただし、目標を少し遠くして。思い切り、引き寄せる。

ヒュッ。

掏摸が風切り音に前を向いた瞬間、飛んできたプランターが頭に直撃した。掏摸は昏倒し、今度は手から離れた財布が飛んでいく。俺はそれをパシリと掴み、ほっと息をついた。

どうにか、取り返すことができた。掏摸も、死んではいるまい。だが、暴れてしまったから、この民宿には泊まれないだろう。また別の場所を探さねば。重い気持ちになりながら、引き返そうとしたその時だった。

女の悲鳴が響き、同時に派手な音を立てて民宿の戸が開き、外国人が2人、飛び出てきた。そのうち1人の腕の中には、大声で泣いている赤ん坊。まさかあれは、葵?

彼らは道に駐まっている車に乗り込み、急発進してこっちに向かってくる。呆然としていた俺は、慌てて横に飛び退いた。車はギャリギャリと音を立て、倒れた掏摸を避けつつ通りへと走り去った。

「晃平さん! あ、葵が!」
 椿が出てきて、悲痛な叫びを上げる。葵は、攫われてしまった。掏摸に人攫いなんて、あの東洋人たち、堅気ではないと思っていたが……。しかし、そんなことはどうでもいい。

怒りが、満ちてきた。葵を取り返さないと……!

「は、早く警察に通報しないと……!」
「駄目だ、それじゃ間に合わない。椿、ここから離れろ」
「え?」
「葵を助ける」
「どうやって⁈」
「『だいだらぼっち』になる」

代々伝わる伝説に、「先祖が巨人だいだらぼっちになった」というものがある。桁外れの力を持っていた先祖が、大量の物を引き寄せて全身に纏い、巨人の体を形作ったという。椿は、神代家の能力を知っている。意図は伝わったようだ。

椿は、青ざめた顔で頷いた。今の俺の力の強さなら、おそらくできる。
「近くの、奥武山公園で待ち合わせよう」
「わかったわ」
俺は車が去った方向へと走り出した。椿は、反対方向へと走っていく。

椿を巻き込まぬよう、距離を取ってから力を発動しないと。だが葵を見失いかねないから、早くしなければ。大通りに駆け出た。煌びやかな明かりに包まれ、多くの人や車が行き交っている。

力について、一つ経験則がある。人の目が多く、注目を集めていればいるほど、力は強くなるのだ。今まで、これほどの衆目の中で力を使ったことなど無い。もしかしたら、だいだらぼっちになることすら叶うかもしれない。

車線の位置からして、葵を連れ去った車は、国道330号線を北に走っているはずだ。巨人の歩幅になれば、追いつける。

ゴウッといってモノレールが頭上を通過していく。俺は両腕を真横に伸ばし、目を瞑り、掌に全神経を集中させた。

椿は、もう逃げただろうか。俺は、周りのすべてを思いっきり引き寄せた。

8月13日20時23分、瑞慶覧雅登

ゴト、コトト。高校2年生の雅登を乗せたモノレールが、軌道を走っていく。雅登は、吊り革を掴んで単語帳を見ていた。学校から塾に行った帰り、そろそろ降りるべき安里駅に着く。到着メロディーが流れ初め、雅登は単語帳をリュックにしまった。

車両が減速していく。雅登は扉の前に移動した。時間が遅いこともあって、乗客は多くはない。モノレールは、キィッと音を立てて安里駅に停車した。軽快な電子音とともに、ドアがプシューと開く。雅登は右足をホームに下ろした──その時だった。

左足が、床ごとズルッと横に動いた。
「うおっ」
小さく叫んで、慌ててホームに飛び出た。ちょっとふらついてたたらを踏む。見ると、モノレールがずるずると動き出していた。扉を開けたまま出発するとは何事だ、危ないじゃないか。──と、体がバランスを失い、雅登は左にバタリと倒れた。

え? 何があった? 引き倒されたのか? いや、引っ張られた?

その時、ようやく遠くから聞こえてくる異音に気がついた。メキメキ、ギギギ。乗ってきたモノレールは、速度を上げつつあった。そして、雅登の体も、ズルズルと引きずられていく。何にも、触れられていないのに。

 何だ? 何が起こっている?

謎の引力は、ますます強くなっていく。雅登は勢いよくホームの床を滑り、端のガラス壁にぶつかった。ホームにいた数人の客は、階段や自販機にしがみついている。下の通りでは、どちらの車線の車も、一方向に走っていく。激しく横転しながら転がっていくものもある。その先を見ようとした時、悲鳴が聞こえた。モノレールが、ここから100mほど先のカーブで止まっていた。そして、カーブの外側に向かって大きく傾いている。

直後、遂に車両が限界を迎えた。黒い破片が散り、2両編成のモノレールが、線路の外へと転げ落ちた。──いや、落ちていない。車両は破片もろとも、真横の何かに猛スピードで激突した。破片が、散ることなく何かの表面にへばりつく。まるで、そこが地面であるかのように。地球の引力など存在していないように。

雅登は、やっと引力の中心である何かに目を向けた。巨人、だった。夜闇をバックに、黒々と聳え立つ巨人。それに、次々と物がぶつかっていく。ガラス、看板、車……あらゆるものが、全方位から巨人に落ちていく

すぐ近くで叫び声が聞こえたかと思うと、階段の壁に掴まっていたサラリーマンが、雅登の横に落ちてきた。ガラスに激突し、ヒビが入る。雅登自身も、痛いほどガラスに押しつけられていた。これは、重力だ。もはや、下は地球の中心を意味しない。この薄いガラスの壁が破れれば、100m先の巨人に落ちて死ぬ。

重力に逆らい首を上に向けると、ホームの反対側の端にある自販機の基部に掴まったOLが、宙吊りになっていた。体は床と平行に伸び、足先がまっすぐこっちを向いている。ヒビの入ったガラスが、たっぷり位置エネルギーを持った人一人の落下に耐えられるとは到底思えない。

しかし、希望はありそうだ。OLは恐怖に顔を歪めてはいるが、握力はあるらしい。まだ、彼女の落下には間がある。その前に、重力の方向の変化に対応し、安全な場所に移動すれば……。

その瞬間、駅がガクンと揺れた。ガラスが撓み、弾け飛んだ。雅登の体が再度落ちる。咄嗟に金属の枠を掴み、次の瞬間、肩に衝撃が走った。歯を食いしばり、細い枠を握りしめる。サラリーマンは、枠を掴めなかった。一瞬で、彼の姿が小さく見えなくなった。

時間がゆっくり感じられた。思考が駆け巡った。モノレールの駅は、耐震設計とはいえ、継続する強烈な真横向きの力に耐えられるわけがない。どこかの柱が折れでもしたのだろう。さっきの揺れはそれだ。そして……。雅登はとてつもなく重い首を持ち上げた。あのOLが、この衝撃に耐えられるわけがない。

思った通り、OLはこっちへ落ちてきていた。雅登には、それがひどくゆっくりに見えた。この細い鉄枠と自分の握力も、彼女の落下に耐えられるとは思えない。

死ぬんだな。雅登は、そう感じた。次の瞬間、ひどい痛みが神経を駆けた。


──ぐりんと視界が回転し、体が軽くなった。両掌に焼けるような痛みが走り、思わず手を開こうとしたが、すんでのところで踏みとどまった。背中が壁にぶつかる感触が、リュックごしに伝わってくる。

 何が、起こった?

目線の先に、巨人が見えた。三半規管や全身の感覚器官をフル動員し、ようやく気づいた。

巨人の重力が消えている

さっきまであったビリビリと引かれる感覚が、消え失せている。そして、体はいつも通り、地表へとぶら下がっている。未だ、自分は危険な状態にあるのだ。掴んでいるのは、細い鉄枠。正面には、闇の中の巨人。10mほど真下には、派手に車が転がっている道路。雅登は、駅の外壁にぶら下がっていた。

「大丈夫⁈」

OLが、上から手を伸ばしてくれた。彼女が駅の外へ落ちる前に、巨人の重力が消えた。だから、ぎりぎりホームにとどまれたのだろう。OLは、雅登の脇に手を差し込み、体を引き上げた。なんとかホームに上がり、雅登は荒い息を整えようとした。

ガラスの破片が付いた鉄枠に全体重をかけ、更にひねりまで加えたから、両の掌はズタズタになって血塗れだった。しかし、それ以外に目立った外傷はない。命が助かったことに比べれば、こんな怪我くらいなんでもない。

「お姉さん先に逃げてるからね、ぼくも早く逃げるのよ?」

そういうと、OLは階段を駆け降りていった。そうだ、まだ助かったとは限らない。雅登は後ろを振り返った。血の気が引いた。

巨人が動いた

見間違いか? いや、確かに、動いている。この時、雅登は初めて巨人の細部を観察した。巨人は長い腕と太い胴、同じくらい太い脚があり、人の頭に当たる部分はない。まるで首を斬られたようだ。車やビルから飛んできたであろう事務用品、看板、タンク……。大量のものがモザイク画のように集まり、20mほどの巨体を形作っている。連結部分が引きちぎれたモノレールの車両2つが両腕の骨となり、それをさらにたくさんのものが覆っている。脚は、主に潰れた車からなる塊だ。ガソリンに火がついたのか、ちらちらと炎が覗いている。胴には電線が巻きつき、青い火花が散っていた。

さながら、鬼神。