利用者:Notorious/サンドボックス/消滅の悪魔
怪異との遭遇
電話がかかってきたのは、夜の散歩からの帰り道、次の角を曲がれば家が見えてくるというときだった。わたしのスマホが着信音を鳴らすことなんてめったにないから、驚いてちょっと飛び跳ねてしまった。誰にも見られてないといいんだけど。 スマホには「非通知」と表示されていた。心当たりはなかったけど、何か大切な連絡かもしれない。マスクを少しずらすと、わたしは通話ボタンをタップした。 「もしもし?」 しばらく、何も聞こえなかった。もう一度呼びかけてみるが、応答はない。いたずら電話かしら。諦めて通話を切ろうとしたとき、女の子のかぼそい声が聞こえてきた。 「……もしもし」 「あっ、えーと、どなたでしょうか?」 「……あたし、メリーさん。今、あなたの町にいるの」 それだけ言うと、電話はぷつりと切れた。なんだったのだろう。わたしは狐につままれたような気持ちになった。それにしても、メリーさんという名前を、どこかで聞いたことがあるような……。 わたしは首をかしげながらまた歩き始めた。辺りはすっかり暗く、ぽつりぽつりと光る街灯のもとで、家並みが黒々とうずくまっている。自販機がまぶしい交差点を右折し、小さなアパートを目指す。お母さんは仕事でいないから、わたしがこんな風に外を出歩いていても、誰も心配はしない。自由ではあるけど、少しさみしくも感じる。 その時、またもスマホが鳴りはじめた。今日はやけに電話が多いなと思いながら、電話に出る。 「もしもし?」 「もしもし、あたしメリーさん」 たちまちさっきの電話の記憶がよみがえった。先ほどと同じ、高くて幼い女の子の声。 「今、あなたの最寄り駅にいるの」 「ちょっ、あの、どなたで……」 あっけなく通話は切れ、ツーツーという音だけが残された。わたしは沈黙した画面を呆然と眺めることしかできなかった。この電話は一体なんなのか。何か嫌な予感がして、わたしは手のひらの汗をスカートで拭った。家へ向かう足が自然と速まる。 アパートの階段を駆け足で上る。一気に三階まで上がり、玄関の前に立った。こぼれてきた髪を払って、スカートのポケットに手を入れ、鍵を取り出す。 突然、着信音が鳴り響いた。ビクッとして、鍵を取り落としてしまった。薄暗いアパートの廊下で、ひとり立ちすくむ。スマホは依然鳴っていたが、わたしは無視することに決めた。なぜか、この電話には出ない方がいい気がしたのだ。ポケットの中でスマホは放置して、わたしはかがんで鍵を拾い上げた。 「もしもし、あたしメリーさん」 思わず悲鳴が漏れた。ポケットの中からあの声が聞こえてくる。どうして? 触ってないのに……。 「今、あなたの家の近くの大通りにいるの」 だんだん近づいてる? そう思ったときには、スマホは噓のように沈黙していた。その時、不意に思い出した。メリーさんという名前。わたしが小さかった頃、お母さんに買ってもらったフランス人形。その子の名前が、メリーさんだった。でも、しばらくしたら飽きて、捨ててしまったのだ。まさか電話の相手は……。 わたしは鍵を持つ手が震えていることに気づいた。なにか嫌な感じがして、はっと振り向いたが、夜の闇が広がっているだけだった。早く家に入ろう。わたしは鍵をさそうとしたが、指が震えてうまく入らない。焦りばかりが募っていく。 ようやく鍵が回り、わたしは勢いよくドアを開けた。真っ暗な室内に飛び込み、電気をつける。見慣れたわたしの家だ。ドアを閉めて鍵をかけチェーンもかけると、わたしはようやくほっとした。いつの間にか心臓がバクバクしている。わたしはマスクをはぎ取ってゴミ箱につっこむと、大きく息を吸った。そしてスマホを取り出すと、電源をオフにしてしまう。これで、変ないたずら電話もかかってこない。そう考えると、なんだか気分が軽くなった。さっきまで怯えていたのがバカみたいだ。さて、お風呂に入ってさっさと寝てしまおう── プルルルルル 一瞬で背筋が凍った。おそるおそるスマホに視線を向けると、「非通知」の三文字が何事もなかったかのように表示されている。 おかしい。ありえない。確かにさっき電源を切ったのに……。ふっと着信音が途絶え、女の子の声が流れはじめた。どこか歪んだような、奇妙な声が言う。 「もしもし、あたしメリーさん」 わたしは思わずスマホを放り投げた。リビングの壁にぶつかって固い音を立てたけど、それでも声は流れ続ける。 「今、あなたの家の前の角にいるの」 そしてプツリと電話は切れた。後には、呆然と立ちすくむわたしだけが残された。体に力が入らない。 何かが来る。もうすぐそこまで来ている。すぐにここまでやってきて……そしてどうなるのだ? いや、そんなことより、助けを呼ばないと。何か恐ろしいことが起こっているのは間違いないのだ。警察を呼ぼう。誰か大人に来てもらわないと。 でも、わたしの家には固定電話はない。わたしは立ち上がって、床に転がっているスマホを拾い上げた。気味が悪いが、仕方ない。わたしは急いで電話アプリを立ち上げ、110番を素早くタップした。数回呼び出し音が鳴り、通話がつながった。わたしはほっとして語りかけた。 「もしもし、警察ですか? 実は変な電話がかかってきてて……」 「もしもし、あたしメリーさん」 わたしは悲鳴を上げた。取り落としたスマホから、メリーさんの声が流れる。 「今、あなたの家の前にいるの」 通話が途絶え、わたしは床にへたりこんだ。涙が出てくる。体に力が入らない。何? なんなの? 何が起こってるの? ──あなたの家の前にいるの 見慣れた玄関が、おぞましいものに見えた。あの扉の後ろには、わたしに捨てられた人形がいて、今にもドアを開けて入ってくるんじゃ……。 確かめなきゃ。わたしはふと思った。玄関の外に、本当に誰かがいるのか。わたしはスマホを掴むと、ふらふらと立ち上がり、玄関に向かった。鍵は閉まっているし、チェーンもかかっている。大丈夫だ。自分にそう言い聞かせながら、ドアへゆっくりと近づいていく。 ついに、わたしは扉の前にたどりついた。心臓は音が聞こえるくらい激しく動いている。わたしは意を決して、そっとドアスコープが覗いた。 ドアの外には──何もいなかった。ただただ蛍光灯に照らされた廊下がのびているだけだった。 「なんだ、誰もいないじゃない」 わたしは大きく息を吐いた。体中の緊張がほぐれていく。 その時、声が聞こえた。 「あたし、メリーさん」 はっとスマホを見たが、画面は暗いままだ。……ってことは、この声は……。 「今、あなたの後ろにいるのおおおぉぉぉ!」 恐ろしい声が響きわたり、わたしは思わず振り向いてしまった。どす黒い空気をまとった人形と目が合った。わたしは震えながらへたり込んだ。心臓が鷲掴みにされたように跳ね回り、背中が冷たくなっていく。わたしは悲鳴を上げようとしたが、喉がかすれて声すら出ない。 人形がぐわっと口を開いた。するどい牙がむき出しになる。 「きゃああああああああ!」 ふと、人形の姿がかき消えた。わたしは口をパクパクさせたまま取り残された。さっきのおぞましい雰囲気が噓のように消え去っている。 そこで、わたしは自分がマスクを外していたことに気づいた。もしかして、メリーさんはびっくりして帰ってしまったのだろうか。 わたしは一気に脱力した。そして、人形から見ても私は醜いのかと、口裂け女であるわたしは少しがっかりした。