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僕と卵焼き 「卵焼きを作るということはつまり、性行為である」  そう説いたのはバルザックだったかゴダールだったか、はたまた太宰治であったかは知らない。しかし、時を超えて残る言葉というものは一定の真実性あるいは一つの技巧、——気の利いたジョーク——が含まれているもので、例に漏れずこの言葉も、なかなか味わい深いものがある。  「卵」と聞いてまず思い浮かぶのは鶏卵だろう。あの暖かな白に、黄金比のフォルム。我々のタンパク源筆頭として、非の打ち所がない造形をしている。その白さと整然さにどこか人工物のような正確性があるが、生命を感じる形でもある。実に不思議な表裏一体だ。またそこには完全性も含有していることを忘れてはいけない。卵ほど完結性に富んだ形をしたものが他にあるだろうか? 私は未だそんなものに出会ったことはない。但し、複数個の鶏卵を観察するとなると話は変わる。鶏卵は一つ一つの形や大きさは様々なのである。おまけに茶色い卵もある。そこには生命の個性、多様性がある。  鶏卵の良さはその造形の他にもたくさんある。例えばその一つがその殻である。鶏卵は殻の耐久力、その具合が、非常に丁度いいのだ。誰しも鶏卵くらい手に取ったことはあるだろう。仲良くパックに並べられた一ダースの卵たち。嫌に爽快感が伴うあのバリバリを剥ぎ取り、左角手前の鶏卵を手に取る。その硬さが、言い換えればその柔らかさが、とても丁度いいのである。力を入れれば握り潰す事も出来るだろう。だがしかし、料理に使う時に割ろうと思うと話が変わる。料理には殻を入れてはならない。よって必然的に卵を綺麗に割らなければならないが、それは手によってだけでは成し得ない。キッチンの硬い角を使わなければならないのだ。その絶妙さが人に      調理のためには殻を破らなければならず、そして取り去った殻を捨てなければならない卵を取り巻く、その一連の制約には、我々人間が看過してはいけない象徴性が包摂されている。


 我が家の朝食でウインナーと並んで不動のレギュラーとなってから実に久しい。     「卵」の中にはいつか生まれるひよこが、常にいるのである。