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58話の物語をあなたと

傑作小説

非自己叙述的

「非自己叙述的」という言葉から生まれる概念を、満遍なく説明した作。二部構成!

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第一節 「物語(一人の老人による語り)」

君「非自己叙述的(heterological)」という言葉を知っているか? 知らないとな? 仕方のないやつめ、教えてやろう。
非自己叙述的とは、「ある言葉の意味がその言葉自体と矛盾していること」だ。たとえば"long"という言葉は「長い」を意味するが、この言葉の綴りはわずか4文字と、長くない
したがって"long"という言葉は非自己叙述的だといえる。また"misspelled(綴りの誤った)"という言葉は正しく綴られている。つまりこの言葉も非自己叙述的だ。
君この話は飽きたか。面白くないか。けどもしばし待て。ここからだ、面白くなるのは。さあ君、この問題について考えようじゃないか。

   ・「非自己叙述的」という言葉は非自己叙述的であるか?

これを解くにあたって、重要なことがある。「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」ということだ。
おっと、当たり前だといって笑っちゃいけないぞ君。これはほんとうに大切なことだ。何せ……粛清されました
本題に戻ろう。ではまず、「『非自己叙述的』は非自己叙述的である」と仮定して話を進めようか。「非自己叙述的」は非自己叙述的である。
すなわち「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っている。よって「非自己叙述的」は非自己叙述的でない
むむ? いま、「非自己叙述的」は非自己叙述的だ、として話を進めたはずだ。しかしそこから、それを否定する結論が得られた。なぜだろうか? うーん。
あるいは、最初の仮定が間違っていた、と考える方が自然であろう。
今度は他の可能性にかけるのだ――ところで先ほど、「すべての言葉は非自己叙述的であるか非自己叙述的でないかのどちらかである。」と述べた。
となると他の可能性とは、「『非自己叙述的』は非自己叙述的でない」ということじゃあないか!
では、そう仮定するとどうなるのだろうか? 「非自己叙述的」は非自己叙述的でない。つまり「非自己叙述的」はその言葉自体と矛盾した意味を持っていない。
ゆえに、「非自己叙述的」は非自己叙述的である
またもや仮定と矛盾する結論を導いてしまった。やあ君、どうしてこうなったのだ? 僕たちはすべての可能性を検討しきったのに、そのどれにおいても矛盾が生まれるだなんて……。
はっ! 君君、これ、パラドックスじゃないか!



第二節 「物語(二人の若者の会話)」
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相田為之助という詩人

詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。……

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 詩人相田為之助は世田谷に邸宅を構えていた。その広さに由来して、自ら相田三百帖邸とよんだ。ウォールナット張りの床が気品を感じさせるいかにもモダンな家宅であるが、平屋特有の、どこか日本的な情緒をも備えていた。

 ふとインターフォンが鳴った。書斎の机に情けなく突っ伏していた相田は、気だるそうに立ち上がって、玄関をめざした。その重厚さをたしかめるように部屋の扉を開け、その長大さを味わうように廊下を歩いていった。廊下の右手がわには、開け放たれたガラス戸から相田の設計したたいそうな庭園がみえている。そこに植わる、ちょうど満開である梅の、その芳香をかみしめながら相田はさらに歩いていった。

 相田は玄関に着いた。書斎からの長い道のりのなかで、自分の家に訪ねてきた人物が誰であるかについて、相田はおおよその見当をつけていた。それゆえにこそ相田は、いかにも鬱屈した態度でドアノブへ手を伸ばしたのだった。

 相田がノブを回して扉を開けはじめると、扉は言った。

「開けるな」

 相田は言われたとおりそれを閉めた。


    2


 編集者川北さくらは世田谷の出版社に勤めていた。もと事務局経理部で会計作業に当たっていたが、会社主催の飲み会でいまの上長に気に入られたのをきっかけとして編集室に異動し、晴れて編集者となったのであった。

 配属からもう六年めになる川北は多くの人気作家の担当を継続して任されるようになっていた。責任の重さに由来するプレッシャーに悩まされることも多いが、友人などに彼らのことを話すと羨ましがってサインなんかをせびってくるのが川北には誇らしかった。

 相田為之助も川北の担当する人気作家のひとりであった。その相田についてこのごろ川北は絶えず悩まされていた。相田はどうもスランプらしかった。最近まで相田は一年おきに詩集を出していた。毎年詩集を出すということは一年のはじめから終わりまでそれなりに試作にはげむことを要求するものであって、そのためにはむろん常人にははかり知れぬ労力が要るにちがいないが、とにもかくにも、かつての相田にはそれができていた。しかしながら、現在の相田が詩作らしいことをしているようすはない。事実、『死せるドリス・デイ』という題で最後に詩集を出して以来――それはもう一年と九か月前のことであるが――、こちらには新しい草稿の一枚も送られてこないのである。そのような事情から、ついに川北は相田為之助がスランプであることを悟らねばならなかったのだった。

 多くの場合、詩人の仕事というのは気ままに詩作をして発表するにとどまるものではない。彼らはしばしば、顧客から依頼を受注して、頼まれたとおりの作品を提供することによって対価を得ている。相田為之助もよくそのような仕事を受けていた。

 いま相田は作詞の案件を抱えている。地元徳島に新しい高校ができるというので、校歌の作詞を出版社経由で頼まれたのだった。たいへん金払いのよい私立高校で、曲のほうも質がよくてモダンなものをそれなりの作曲家に作らせたようだ。その曲に詞を当てるのが相田の仕事である。先方と合意した納品期限が過ぎてからそろそろ一か月が経つ。ところが相田は、いまだ何をもなしえていないらしかった。川北はやきもきしていた。


    3


 ある朝、相田邸の固定電話が鳴った。書斎の机で突っ伏して寝ていた相田はその音を聞いて飛び起きた。なんだ電話か、ああ、どうせあいつだろうなどと億劫そうにつぶやきながら、寝違えた首まわりをていねいにほぐし、ゆっくりと<傍点>のび</傍点>をしたあとで、壁かけ式のスタンドから子機を取った。

「もしもし相田……」

 そう言いかけたところで、かぶせるように子機が言った。

「取るな」

 相田は話すのをやめて、言われたとおりそれを戻した。


    4


 締め切りはとっくに過ぎているから、進捗をうかがう電話が当然のように川北のところへかかってくる。作品を仕上げないのは相田が悪いのに、当然のように川北が謝罪する。「こうして何度も申しあげておりますがね、私どもは相田先生の歌詞を楽しみにしているんですよ」という先方の悲哀に満ちた声を聞いて胸が痛くなった川北が、耐えかねた面持ちで受話器を置いて、それから相田に連絡をやったとしても、返事が来ることはなかった。締め切り日の前後から相田とは連絡がつかなくなっていたのである。やがて川北のなかにふつふつと怒りが湧いてきた。自分の詩が書けないのは知ったことではないけれども、よそに仕事をもらっておきながらなんの音沙汰もないというのは、どうかしているのではないかしら。川北は不満だった。連絡をつけるために、川北は翌日相田の家を訪ねることにした。


 明くる朝、川北は慌ただしいようすで出社してきた。出勤時刻の記録と室員への挨拶を済ませ、連絡板に「相田先生宅訪問/帰社予定」と走り書きを残すとすぐにオフィスを飛び出し、玄関口の目と鼻の先にある路側帯でタクシーを拾った。一秒も無駄にすまいと言わんばかりの俊敏さでもって車内に飛び入りながら、運転手に相田の家の住所を告げた。

 無事に着座してタクシーが走りだすと、ようやく川北は呼吸を落ち着かせることを考えはじめた。背もたれに身を預けながら、はやる気持ちを落ち着かせることを考えはじめた。まもなくすると川北は静かに相田のことを考えていた。相田はなぜスランプにはまったのかと考えた。それにしても、スランプならスランプなりに報告をよこしてくれればよいのに、なぜ一切の音沙汰がないのかと考えた。そして相田がスランプに甘えて仕事を放棄しているかもしれないことを考えた。それどころか案件の存在を忘れて、自らの詩集のための詩を書きはじめているかもしれないことを考えた。それどころか詩人としての自らの使命をも失念して、懈怠を働いているかもしれないことを考えた。それどころか懈怠に懈怠を重ねたために、生の動機を失って自殺を企図しているかもしれないことを考えた。いいや、相田はじつはもっぱら外部との関係を絶つことでいままでのどの瞬間よりも真剣に詩作に向きあいつづけているのかもしれない、それでもスランプから抜け出せないので絶望しかけているかもしれない、とも考えた。それから、絶望のあまりやはり相田が自殺を図るかもしれないことを考えた。川北は身ぶるいした。


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 詩人相田為之助は自らの頭の疲れていることを知っていた。相田にとって、「頭の疲れている」というのは、「心の疲れている」とか、「魂の疲れている」とかいうのとは本質的に区別されるような状態を指していた。相田の心はいまなお素朴で実直であって、しかし何をも考えられなかった。

 相田の行く先ざきで物がしゃべっていた。それらは相田が自らにとって理想的な行動をとるのをやめさせるようなことをしゃべった。これがために相田は自らの理想に接近することをつねに妨げられていた。この事態がいっそう相田の頭を疲れさせた。

 扉も子機も、ベッドもワイナリーも何かをしゃべった。けれども書斎の机といすだけは何もしゃべらなかった。ゆえに相田は、ほとんど、そこでいすに座って机に向かうしかなかった。それは常にそうであった。それは相田の都合を無視して四六時中成立する事実であった。


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 郊外の並木道を抜けて、編集者の乗るタクシーはやがて詩人の邸宅に至った。編集者川北さくらはその邸宅をひと目見て、めまいを起こしかけた。それはただただ広大だった。広大な平屋を囲う塀はどこまでも長く続いて終わりが見えなかった。これがかの「三百帖邸」か、と川北は妙に納得した。

 邸宅の正門と思しきところでは、毛筆で堂々「相田」と打ち出した表札が門扉の脇に掲げてあった。その下には「メディア取材お断り」と張り紙がしてあった。しかしインターフォンがなかった。そのことは相田が訪問者をまるで歓迎していないことを暗示しているようにも感じられた。川北はいっそ帰ろうかとも思ったが、しばし思慮をしたのち、積もりに積もった自らの憤りを思い出して、意を決して門扉に手を当てた。門扉は施錠されていなかったので、押して開けることができた。

 門扉を開けると案外目の前に玄関扉があった。玄関扉にはインターフォンが備えつけてあった。川北はためらいなくそれを押した。インターフォンの鳴る音はわからなかった。

 扉の前で川北は相田にぶつける文句をこさえていた。「作詞の進捗はいまどうなっているのですか」とか、「ご連絡を頂けないので先方は泣いておられますよ」とか、「仲介をさせられる私の身にもなっていただけませんか」とかいった、相田のじつにいちじるしい不手際と、それによってほうぼうに生じている大迷惑とをしかと認知させる必要に堪えうる言葉をいちいち選んでいった。

 文句のレパートリーも尽きてきたころ、がちゃりという音がした。扉がゆっくり開きはじめて相田の顔が川北の視界に映った。相田と目が合って、川北は用意しておいたせりふを慌てて放とうとした。しかしながら、扉は開きかけのままそれ以上開くこともなくやがて閉じてしまった。

 川北には何が何だかまったくわからなかった。フラストレーションのさなか、川北は本来相田邸に滞在するはずだった時間を埋めようと、歩いてオフィスをめざした。


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 あるとき、相田は書斎の棚に麻縄を見つけた。机に突っ伏していた姿勢から起き上がって首を回したときの、その視線の先にあったので、それを発見したのはまったくの偶然であった。しかしある種の約束されたできごとであるようにも思われた。ゆえに相田は観念した。相田はそれを取り上げて自らの首に巻き付け、思いっきり引っ張った。


    8


 会社に戻った川北は、編集作業がひと段落するたびに相田のことを気に病んだ。あのとき扉のすきまからちらと見えた相田の顔は異常に老けているようだった。相田はきちがいと化したにちがいない。川北にとってそれはもはや疑いようのない事実であった。

 川北は居ても立ってもいられず、相田邸へ電話をかけた。いまの相田が取るとは思わなかったが、とにかくかけた。何度めかの発信音のあと、驚くべきことに、応答が返ってきた。

「もしもし相田……」

 挨拶の途中のような発話が聞こえて、しかしながら、すぐに電話は切れてしまった。川北は落涙をこらえながら、わけがわからないわ、とつぶやいた。

 手紙でも出そうかしら。手紙なら読んでくれるんじゃないかしら。川北は熱心な編集者だった。


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 詩人特有の精神力から、首を絞めつけられているにもかかわらず手の力をゆるめないということが相田にはできた。相田は死ぬまで自らの首を絞めて、それから死んだ。麻縄は言った。

「戻せ」

 麻縄を棚に戻す者はいなかった。

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しわくちゃ
キュアラプラプ

6.真ん中の折りすじに合わせるように点線のところで折りすじをつけて元にもどします。
(折り紙・鶴 - Kids Web Japan より引用)

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 前の人の焼香が終わり、一歩進み出た。目線の先には、ずらりと一列に並ぶ何十枚もの遺影がある。俺が弔いにきた友人の遺影は、右から五番目にあったから、そこを向いて一礼して、香を炉の中に落とした。こういう「集団葬」は、ほんの数年前から普及しはじめた。高齢化に伴って葬儀件数が増加する一方で、社会関係の希薄化というやつなのか、参列者は年々減少し、葬儀の規模は以前と比べてずいぶん縮小していたらしい。葬儀社は、儲からない割には時間と場所を食う大量の仕事によって、パンク寸前の状況に陥っていた。これを解決するために始めたのが、この格安プランの「集団葬」というわけだ。これなら施設を改修する必要もなく、効率的に死者を弔える。これからは社会全体がこういう風になっていくのか、と俺は思った。

 特に遺族ともつき合いはないし、俺はそのまま帰ることにした。葬儀場を出て、蒸し暑い車のエンジンをかける。今時珍しい車載のテレビを点けると、認知症予防効果があるらしいサプリメントの通販番組が流れていた。最近の番組は、どれもこんな風でつまらない。腕時計を見ると、祥子の診察の時間が迫っていた。病院はそこまで遠くないが、祥子を連れ出すのは一苦労だ。俺は車を走らせて、駐車場を後にした。

 俺は死んだ友人のことを思い出していた。彼は新卒で入社した職場での同期だった。大親友というわけではなかったが、そこから転職した後も長い間つき合いがあった。俺とは違ってしっかり者で、要領のいい男だった。しかし、いつからか、俺の方から連絡しても返事が返ってこなくなった。還暦を迎えて数年ほど経った頃だったと思う。そこで関係はあっけなく途切れた。数年経って、ようやく彼の電話番号から着信があったのは、つい先日のことだ。彼は老衰で死んだ、と聞かされた。どうやら、彼のスマートフォンに残されていた友人の連絡先の中から、遺族が俺を見つけてくれたらしい。

 彼は認知症だったそうだ。最期は家族のことも分からなかったというから、俺のことなんて当然忘れていたのだろう。遺影に写っていた、俺の知る彼は、もうとっくに居なくなっていたのだろうか。俺は恐ろしくなった。最近は、祥子も俺のことが分からなくなりつつあるのだ。

 車をアパートの脇に停めた。この頃は祥子だけでなく俺も足腰を悪くしはじめているから、部屋を一階に借りたのは幸運だった。鍵を開けて家に入ると、祥子はリビングで折り紙をしているようだった。

「ただいま、祥子。じゃあ、さっき言った通り、病院に行こうか」

「あなたねえ、この前、病院は行ったばかりでしょ! 今日はもう疲れたから嫌よ!」

 祥子は俺を睨んでそれだけ言うと、再び折り鶴を作りはじめた。

 妻の祥子は、中度の認知症だ。この折り紙も、二年前に認知症と診断された時に、指先を動かすことで認知症の進行を抑えられるというかかりつけ医のアドバイスで始めたもので、彼女はすっかりこれを気に入ったらしく、今では家中に折り鶴が飾られている。しかし、認知症の進行は着実に進んでいて、最近は一人でトイレに行くことも難しくなってきた。

「すまんすまん。でも、お医者さんが今回はすぐ終わるって言ってたから、さっと行って済ませてこよう。今日行かないと、きっと心配されてしまうぞ」

 買い物や何か他の用事で俺が外出しないといけない時、今までは近くに住む娘夫婦に様子を見てもらっていたが、この前ついに祥子は自分の娘のことが分からなくなってしまった。俺以外の人が家に入ってくるとひどく取り乱してしまうのが大変で、ひどい時には物を投げつけたり、爪で引っかいたりもするから、最近は娘夫婦も介護に消極的になっている。本人も含めて家族で相談して、半年前には介護施設へ入居申請を出したが、どこも定員がいっぱいで、祥子はいわゆる「待機高齢者」の列に並んでいる状態だ。このまま祥子が俺のことさえ忘れてしまったら、俺はどうしたらいいのだろう。

「はいはい、分かりましたよ。そこまで言うなら」

 数十分の説得の末、祥子は不貞腐れたように、ゆっくりと立ち上がった。テーブルに置かれている制作途中の折り鶴は、二年前と比べて形が歪んでいるのが嫌でも意識される出来栄えだった。


*        *        *


「治験薬?」

「ええ、そうです。治験といっても、安全性や効果はほぼ完全に認められていて、半年後には新薬として正式に承認されることになっていますから、そこはご心配なく」

 かかりつけの病院で、普段通りに問診や検査をした後、担当の先生は俺だけを部屋に呼んで、治験薬の提案をしてきた。

「認知症の患者さんが混乱してしまうのを避けるために、祥子さんにはちょっと退席してもらいましたが、気を悪くしないでください。後で旦那さんからこの提案のことを話してもらって、それで祥子さんが嫌と言うならもちろんそれで結構ですが、一旦はこちらで詳しい説明をしないといけませんから」

「はあ……。それで、一体どんな薬なんですか?」

「簡単に言うと、ある種の精神安定剤のようなものです。認知症の患者さんが全国で増えていく中で、認知症を原因とする患者さんの妄想や暴言、暴力などによる介護にかかる負担が問題になっています。これらの症状をこのお薬で和らげることで、介護をする人はもちろん、介護を受ける人も負担を減らすことができます」

 手渡された資料には、さまざまな介護現場からの好評の声が書かれていた。「利用者様が進んで介助を受け入れてくださるようになりました」「父が昔のようにすっかり温厚になりました」「これからの家族生活に希望が持てるようになりました」……。

「祥子さんは、娘さんなどに攻撃的になってしまうことがあると仰っていましたが、この薬を服用すれば、そういったことも収まる可能性が高いです。そうしたら家族での介護も上手くいくようになるでしょうし、ぜひ検討してみてください」

 普段処方されている薬に加えて、この治験薬の錠剤を一か月分貰って、俺と祥子は家に帰った。本当にこの薬で言われた通りのことが起こるのだろうか。浮足立つ気持ちを抑えて、俺は祥子にこのことを話した。貰ったパンフレットを見て、祥子は泣いていた。

「ごめんなさいねえ、いつも、迷惑だよねえ」

 しまった、と思った。確かに、祥子にしてみれば、この提案はまるで彼女を責めるもののように感じられるだろう。介護のために来た娘夫婦のことが分からなくとも、自分の感情や行動が制御できていないという自覚はあるのかもしれない。しかし、それは決して彼女のせいではない。これはあくまで、認知症患者の症状の一つなのだ。

 祥子は優しい人だった。遅くに産まれた一人娘を溺愛し、ただの一度も手を上げたことはなかった。娘夫婦が結婚を報告しに来た時、彼女は本当にうれしそうに娘の手を取った。時の流れはあまりにも残酷だ。俺は祥子のしわくちゃの手を固く握りしめて、祥子が悪いわけじゃない、と繰り返しなだめた。気づけば俺も涙声になっていた。

 二人で話し合って、薬はやはり飲むことにした。俺や娘夫婦が悲しむことで最も悲しむのは、祥子自身なのだ。俺は最初、少しだけ、祥子をあたかも押さえつけるようなつもりでいた部分があったかもしれない。そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そして、それと同じくらい、これからも皆で頑張ろう、と思った。どんなに辛いことがあっても、家族で乗り越えていこう。そう思った。


*        *        *


 それから徐々に、祥子は大人しくなっていった。暴力行為がなくなったことに娘は安心したようで、再び介護のために家を訪れてくれるようになったし、去年産まれたばかりの孫も連れて家族で来てくれることも増えた。「あの薬があって本当に良かった」と、娘は言った。

 ただ、俺には一つ気になることがあった。祥子がほとんど言葉を喋らなくなったのだ。実際、認知症の末期には、会話がほとんどできなくなるというのは知っていたが、それにしては祥子はあまりにも急だった。薬を服用しはじめてからたった数日で、ほとんど幼児のような言葉しか喋れないようになったのだ。それに、本当に認知症の末期ならあるはずの、無気力や無表情といった症状は見られない。祥子は今まで通りに折り紙を楽しみ、笑顔で孫と遊んでさえいる。

 リビングのテーブルに座っている俺の視線の先には、今日も来てくれた娘夫婦と孫が、祥子と遊んでいるのが見えた。祥子は目を細め、孫の頭を撫でている。症状の出方には個人差もあるそうだし、治験薬の副作用を疑うのは、やはり考えすぎだろうか。孫は立ち上がって、祥子の周りを歩きはじめたが、少しバランスを崩してよろけ、壁にもたれかかった。その時、壁にセロテープで留められた、祥子の作った黄色い折り鶴が、ぐしゃぐしゃに潰れてしまったのが見えた。すると祥子は、目を丸くして悲鳴をあげ、激しく泣き叫びはじめてしまった。

 おかしい、と思った。あの治験薬を服用しはじめてから、今まではなかった症状が、明らかに、急激に増えている。本当に認知症の進行時期が偶然重なっただけなのか? 固まっている俺をよそに、娘夫婦は慌てて祥子をなだめようとしたが、今度は孫の方まで泣きはじめてしまった。「仲直り」という言葉が聞こえた。さながら二人の幼児の喧嘩を収めるように、娘夫婦は孫と祥子をあやしはじめた。祥子の背中を撫でているのが見えた。

「やめろ!」

 なぜだろう、頭が真っ白になって、気づくと口から言葉が出ていた。

「祥子は子供じゃないんだぞ! 謝れ!」

 娘夫婦は呆然として俺を見ていた。その表情の奥には、ある種の納得と、覚悟を感じさせるようなものがあった。心臓の音が一つ、大きく跳ねた。呼吸が荒くなる。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて……」

「もういい。帰ってくれ」

 そう言うと、すごすごとリビングを出ていく娘夫婦を尻目に、俺は震える手であの治験薬について調べはじめた。辿り着いたのは、この治験薬の承認に反対する団体のホームページだった。俺は夢中でサイトを読み漁る。どうやら、あの治験薬が作用する仕組みは、医者が言っていた通り精神安定剤と同様のもので、脳の感情に関する部位の働きを抑制するところにあるらしい。ただ、その抑制の程度は、ほとんど破壊とさえいえる代物であるという。

 そのサイトは、この治験薬の残忍さを、「ロボトミー」という手術になぞらえて批判していた。この手術は、精神障害への治療法として二十世紀に確立され、世界各地で急速に広まったものらしい。ただし、その手術の内容は、脳のうち感情や人格を司る部分の神経を切除してしまうというものだった。これを受けた患者の人格は変化し、感覚は薄らいだという。「どうしてこんな手術が生まれたのか?」このサイトは読者に投げかける。いわくロボトミーは、考案者がその功績でノーベル賞を受賞し、最も盛んに手術が行われていた時期でさえ、人道的観点からの批判が多くあったという。しかし、この手術が表舞台を去ったのは、これに代わる副作用の少ない薬品が発展してからのことだった。

 「看護が楽になること」――このサイトは、こう結論づけた。ロボトミーが生まれた時代、精神病院は患者で溢れかえっていた。中には暴力的で手に負えない患者も多くいただろう。実際、ロボトミーの先取りとなったある手術は、患者の攻撃性の緩和を目的にしていたという。ロボトミーは、患者から感情と知性を奪うことで、「楽な患者」を実現させていたのだ。俺はここでようやく、このサイトが何を言おうとしているのかを理解しはじめた。さらに読み進めると、話はやはりあの治験薬に戻る。これは新しいロボトミーに他ならない、という記述が、目に飛び込んでくる。

 単に外科手術で人格を破壊するのではない。あの治験薬が引き起こすのは、ここ数年の医学的技術の躍進によって可能になった、脳機能の狙ったところを精密に破壊することによる、人格の操作なのだという。この薬は服用するごとに認知症患者の本来の人格を消していき、介護者にとって最も理想的とされる人格に作り変えてしまうのだ。このサイトの考察によれば、それは「幼児の人格」だという。拙い言葉を喋り、いつも笑顔で、愛くるしい。そんな「楽な患者」を、精神病院の医師たちではなく、今度は日本の何千万もの介護者たちが求めているのだ。俺は絶句した。

 このサイトに書かれていることが正しいのかは分からない。しかし、俺は、一刻も早く祥子の担当医と話がしたいと思った。スマートフォンをテーブルの上に置く。いつの間にか長い時間が経っていたようだが、祥子はまだしくしく泣いていた。気づくと俺は車の運転席にいて、病院に向かっていた。


*        *        *


 病院の駐車場に車を停めた。フロントドアを開けて外に出ようとすると、ズボンの裾に足がもつれて、尻もちをついてしまった。俺は、自分が寝間着のままでアパートを出てきてしまったことに気づいた。近くに車を停めていた若い男がこっちをちらりと見たから、急いで目をそらした。あの男は俺のことを馬鹿にしているように見えた。あの男だけではない。駐車場にいる全ての人が、俺の方を迷惑そうに見ている気がした。ここにいては駄目だ。帰りたい、と思った。俺の身に、何かおかしなことが起きている。

 そうだ、祥子を家に置いてきてしまった。俺は、家を出る時のことを思い出した。祥子は潰れた折り鶴の前で、一人で泣いていた。悲しいだろう。辛いだろう。俺の目から、思わず涙がこぼれ落ちた。俺は彼女のそばにいてやらないといけない。早く帰ろう、そう思った時には、俺は自分の家を探して歩いていた。

 俺はどうして娘夫婦を追い出したのだろうか。手足はまるで金縛りにあっているように鈍い。それを必死に動かしながら、俺は考えた。そうだ、あのまま、あんな風に接していたら、祥子が祥子でなくなってしまうような気がしたのだ。俺の知っている祥子は、自分の娘を殴るような人ではなかった。しかし、なおさら、子供のような笑い声で、子供のように無邪気に遊ぶ人ではなかった。それなのに、その状態がまるで便利なものだと言わんばかりに、祥子を扱う娘夫婦が許せなかったのだ。

 帰り道はまるで迷路のようだった。何回道を曲がっても、パステルカラーと灰色の、ゆったりとした住宅街の景色は一向に変わらない。俺はただ、祥子に謝りたかった。あの治験薬は、すぐにでも全国に広がるだろう。大量の認知症患者の対応に追われて介護施設はパンクし、あぶれた患者に各家庭は不和を抱え、介護殺人は殺人事件のうち最も主要な割合を占めている、こんな現状では、あの薬を使ってしまうのが、社会にとっては遥かにましだからだ。だが、それは必ずしも、祥子自身のためにはならないのだ。涙が止まらない。肩が激しく震える。唾が喉に詰まって、息が苦しい。

 きっと、社会は老いすぎた。いつの間にか、老いを受けいれ、尊重する余裕を、社会は失ってしまったのだ。膝に手を置いて立ち止まる。深いしわの刻まれた俺の手の甲に、感情の制御を失った涙が落ちてくる。ふと、人生は折り紙のようなものだ、と思う。しわの数だけ折り目が増える。折り目の数だけ形が出来る。たとえぐちゃぐちゃに潰されてしまっても、細く張り巡らされた折り目を見たら、その形が思い出せる。しかし、今や、折り目を愛する物好きは疎まれるばかりだ。

 大きく息を吸い、天を仰ぐと、すぐ近くに真っ黒な煙が上がっているのが見えた。俺は血の気が引くのを感じた。ほとんど最後の力を振り絞り、重い体を動かして、その方向に近づくにつれて、俺はその煙が祥子のいるアパートから立ち上がっているのを確信した。周りには逃げ出してきた他の住人が集まり、慌てて騒いでいる。近づいてくる俺の姿を見つけたらしい一人が、話しかけてきた。

「ああ、旦那さん、大変、祥子さんが……ちょ、ちょっと! 危ないですよ!」

 呼び止める声を無視して部屋のドアを開けた。その瞬間、体が痛いほどの熱気に包まれ、額から汗が噴き出した。祥子はリビングの真ん中で、目を閉じて倒れていた。部屋は、灰色のかすれた煙と、オレンジ色ののぼせるような光で満たされている。声にならない叫びが、喉からしみ出してくる。俺はゾンビのように廊下を渡り、膝を曲げて、祥子の目の前に倒れ込んだ。壁の全面から火の粉が舞い落ち、ばちばちと音を立てる。

 彼女の右手には、コードの抜けたアイロンが握られていた。そして、すぐ近くには、黒焦げになったぼろぼろの物体があった。それは、間違いなく、あの潰れた折り鶴だった。

「あ、ああ、あ」

 俺は祥子のひんやりとした左手を両手で握りしめて、祈るように額に当てた。肺は痙攣したように、熱い空気を受けて咳き込む。視界の端から真っ暗になっていく。

 祥子はきっと、潰れてしまった折り鶴を作り直そうとしたのだろう。そして、彼女はアイロンがけのことを思い出したのだ。ぐちゃぐちゃになった折り紙のしわを取り、元のようにまっさらにしてから、やり直そうと思ったのだ。視界が散乱し、あらゆるものがぼやけて、重なりあう。俺があの時、怒りに任せて娘夫婦を追い出していなければ。俺があの時、祥子を置いて出ていかなければ。祥子の話に耳を傾けて、二人で折り鶴を作り直していたら。再び涙が止まらなくなった。

 家に帰りたい、と思った。祥子の介護のために、認知症の症状はよく調べていたが、それを自分に結び付けるのは難しかった。しかし、今、俺にも認知症の症状が出はじめていたことを、ようやく悟った。強い「帰宅願望」がある。外出時の服装がおかしい。自宅に歩いて帰れない。怒鳴る。すぐに泣いてしまう。娘の名前も、孫の名前も、思い出せない。

 薄れゆく意識の中、サイレンの音を聞いた。玄関から入ってくる人の気配がした。「もう大丈夫ですからね」と、二人がかりで俺を担ぎ上げた。俺はこれから、どうしたらいいのだろう。娘のことも、孫のことも、祥子の名前も、祥子のことも思い出せなくなったら、俺はどうしたらいいのだろう。葬儀場で、あなたの遺影を見つけられなかったら、どうしたらいいのだろう。

 その時俺は、あの薬を飲むのだろうか。

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蝶を食べる
Notorious

僕は蝶を食べているところを彼女に見られてしまう。

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 彼女と目が合った。校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女は、微かに顔を引き攣らせ、僕の口からはみ出した翅を見ている。何か声をかけようかとも思ったけれど、いま口を開くと蝶が飛んでいってしまうから、仕方なく蝶の体を奥歯で丁寧に噛み潰す。細くて小さな命がぷちりと断たれる感触がする。次に翅を右手で口の中に押し込み、咀嚼する。まるで新聞紙を食べているようで、口の中が急速に乾いていく。何度も何度も噛んで、小さくしてから少しずつ呑み込んでいく。その間もずっと、彼女は僕の口の中の蝶をじっと見ている。展翅板にピンで留められた昆虫に似たところを僕は感じる。頬の内側に貼りついた翅の切れ端を苦労して舌でこそげ取って呑み下し、口元についた鱗粉を左手で拭い取って、ようやく話せるようになる。少し迷って、安直な問いを口にする。

「こんなところで何してるの?」

 彼女ははじめて視線を僕の口元から目へと移した。

「今の、何」

「白帯揚羽」

 黒の翅に白い帯のような模様が映える、美しい揚羽蝶だ。この校舎裏の藪で見かける蝶の中では最も大きい部類に入る。そんなことは聞いていないと言いたげな目で見られる。

「食べたの?」

 彼女は固い声を崩さない。少し上目遣いに、鋭く僕を見ている。非難するような、警戒するような、戸惑うような目。

「うん」

「冗談でしょ」 

「いや、本物の蝶。生きてる蝶」

 懐疑の視線をいっそう強め、

「なんで?」

 そう問われて僕は少し困ってしまう。理由がわからないのではない。だが言葉にするのが難しい。とりわけ、他の人が呑み込めるような言葉にするのが。結局、当たり障りのないことを言ってしまう。

「なんかいいんだよね」

 彼女は眉間に皺を寄せ、

「意味わかんない」

 と吐き捨てると身を翻してしまう。彼女が校舎の陰へと姿を消すのを見送ると、僕は虫取り網を外からは見えない藪の中へと戻し、鞄を拾い上げて校舎裏から離れる。いつも、蝶を食べた後は理科室外の水道で口をゆすいでから帰る。口内が鱗粉まみれで、このままいられたものではないのだ。


 彼女は友達とは言い切れないが、かといって全く親交がなかったわけではない。クラスで顔を合わせるし、グループ活動なんかで一緒になれば話もする。けれど、それだけだ。僕は彼女が吹奏楽部でサックスを吹いていることを知っている。二つ年上の姉と仲が良いことも、喫茶店でブラックコーヒーを頼んで友人を驚かせたことがあるのも、自分の目つきの悪さを気にしていることも知っている。つまるところ、僕は彼女のことを何も知らない。それは向こうも同じのはずだ。だが、今の彼女は、僕が他の誰にも知られていない側面の一つを知っている。

 翌日の朝には教室中の人が知っているものかと思っていたが、予想に反して、気味悪げな視線に囲まれることもなく自分の席にたどり着いた。いや、一つ。彼女は教室の反対側から横目で睨んできた。どの面下げて来たんだとでも言いたげで、彼女の目つきはきついなと僕は改めて思う。けれど彼女はすぐに目線を外し、女子たちの会話に戻っていく。僕はやや意外に思いながら鞄を下ろすと、後ろの席の友人と昨夜地上波放送された映画の話を始める。

 放課後、空を舞う蝶たちを虫取り網を片手に見ていると、藪をざわめかせる風の音に交じって、草を踏みしめる足音が聞こえた。校舎の角を見ていると、彼女の姿が現れた。出し抜けに目が合って彼女はぱっと視線を逸らしたが、やがて意を決してこちらにずかずかと歩いてくる。非難するような、必要以上に攻撃的な目でしっかと僕の目を睨んできて、その勢いに僕はいささか面食らう。目を逸らしたら負けだと言わんばかりだ。僕の横に仁王立ちした彼女に、とりあえず昨日と同じ質問をする。

「こんなところで何してるの?」

「あんたこそ」

『あんた』と呼ばれるのは初めてだ。格下げ、いやお近づきの印かもしれない。

「僕は虫取り」

「……取って食うの?」

 ぞんざいな口調の中に、ほのかな怖れが感じられて僕は軽く驚く。怖がせるのは本意ではない。

「かもね」

 彼女は押し黙る。僕は三度目の問いを発する。

「何しに来たの?」

「誰かさんが今日もいたらどうしようかと思って、見に来たの」

 いて悪うござんしたね。

「じゃあ昨日は?」

 彼女は一瞬言葉に詰まった。

「たまたま。昨日は部活がなかったから、一人で帰ったんだけど、バスの時間までに結構あったし……。そういえばこっちの校舎の裏って見たことないなあって思って……ほんとよ?」

 歯切れの悪さに僕は不審に思う。

「怪しい。人のいないところで何かしたかったんじゃないの?」

「違うってば!」

 彼女は噛みつくと、目を逸らしてばつが悪そうに言う。

「だって、見たことないところに行ってみようだなんて、子供みたいじゃない……」

 しょげた彼女に僕は意外の念に打たれたが、それ以上にその姿が一番子供っぽくて、思わず笑ってしまう。

「何よ」

 むくれた顔で睨んでくる。それもおかしくて笑ってしまい、彼女はさらにむくれる。

「謝んなさいよ」

 なんで?

 ひとしきり笑ったら、校舎裏の様子を知りに来た彼女に教えてあげる。

「ここは雑草が生え放題で高い藪になってるよ。校舎と裏山の法面に挟まれた狭いスペースだけど、日当たりはいいみたいだね」

「見ればわかるわ」

 悪うござんした。

 今まで通りの『知り合い同士』の雰囲気が流れ始めていた。けれど、彼女はふっと真面目な顔つきになり、藪を見やる。

「ねえ、あんた、昨日……蝶を、その、食べてたじゃない」

 僕は手に持っていた虫取り網を離す。彼女は意を決したようにこっちを向く。

「なんでそんなこと――」

 僕は彼女の顔の横に素早く両手を伸ばし、思い切り手の平を打ち合わせた。風船が割れたような音が鳴る。

 手を開くと手の平には潰れた蚊がついている。

「ここ蚊が多いんだよね」

 それを払い落としてから、ようやく彼女が身を縮めていることに気づく。その表情にはっきりとした怯えを感じて、僕は慌てた。

「ごめん、驚かせるつもりはなくて、その」

 とりあえず両手を伸ばしたが置くところもなくて、彼女の肩の上の中空でおたおたと動かしてしまう。彼女は首を振って顔を上げた。

「そうだ」

 僕は逃げるように鞄の中をまさぐる。

「これ、虫除け。使って」

 差し出したスプレー缶を、彼女は少ししてから受け取って、細い腕に吹きかけ始めた。

 所在なくなった僕は、とりあえず藪の上の蝶を眺めてみたり、虫取り網を拾って玩んだりする。けれど沈黙に耐えられなくなって、彼女の質問の答えを探す。

「蝶を食べる理由だけど――」

 彼女に向き直ったら、虫除けスプレーをスカートの中の脚にかけているところだったので、慌てて姿勢を戻す。

「それで?」

「うん、えっと……蝶って暴れないんだよね」

「え」

「本当は暴れてるんだろうけど、僕の方がずっと力が強いから、実質的に抵抗しないと言えるというか。それに、鳴いたりもしない」

 そこで彼女を見ると、嫌悪感も露にこちらを見ている。そっちが聞いてきたくせに。

「まあ、そういうところが、なんというか、好きなの」

「どういうことよ」

 思い切り眉をひそめている。どう見ても納得していない。

「抵抗しないからいいだなんて、そんなわけないじゃない。そんなの、そもそも暴力を振るうことが前提になってるでしょ。その理由を聞かせなさいって言ってるの」

 目つきも言葉も苛烈だ。そしてぐうの音も出ない。

「虫を殺すのが楽しいんでしょ」

「違うよ。楽しんでるんじゃない。それに、蝶以外は食べてない」

「じゃあどうして」

 僕は考え込んでしまう。自分の中で働いているこのメカニズムは、しかし言葉にしようとすると見たこともない何かに変質してしまう。頭の中の言葉が入ったおもちゃ箱をひっくり返して、手の中にあるこれと似たものを目を凝らして探す。

「儀式というか……験担ぎ?」

「真面目に答えて」

「大真面目だよ。ほんとだって」

 ますます怪訝な顔つきの彼女を押しとどめて、言葉を探す。

「ここに入学するときの試験で、シャーペンじゃなくて鉛筆を使ったの。塾の先生から貰った、普通のHBの鉛筆。それを使って合格したから、その後の定期テストでも験を担いで鉛筆で解いてるんだ。芯が折れたら困るから、予備を何本も用意して」

 彼女の目尻がどんどん吊り上がっていくから、早口で結論を急ぐ。

「けど、普段は使わないものだから、あるテストのとき筆箱に鉛筆を入れてくるのを忘れちゃったんだよ。仕方ないしシャーペンで解けばいいんだけど、なまじ今までずっと続けてた習慣だから、今更やめたら何か悪いことがありそうな気がしてしょうがない。どうしようもないから、朝のショートホームルームが始まる前にコンビニまで走って鉛筆を買ったの。それを机に置いたときの安心感は今でも覚えてる」

 一度大きく息を継ぐ。

「蝶を食べるのはこのときに似てる。『やるべきだ』と透明な力が僕を動かしている感じがする。何かいいことがあるでもないとわかってはいるんだけど、だからといってやめる気にはならないというか」

 彼女は口元に手をやって、わずかに僕を見上げる。

「それって、絶対早く寝た方がいいのにショート動画を見る手が止まらない、みたいな?」

 僕は首を傾げる。

「あんまりピンとこない」

「なんでわかんないのよ」

「寝る前は携帯見ないようにしてるから」

 どうしてそんな目で見てくるの。

 僕は咳払いをして藪に一歩近づく。今日は大きな蝶はあまり飛んでいない。

「とにかく、そういうわけ」

 低いところを飛んでいた紋白蝶をめがけ、網を振る。蝶は不規則な動きでひらりと避けるが、二度三度と網を切り返すと、プラスチックの輪に捉えられた。くるりと網を返して逃げられないようにしたら、網を手繰り寄せ、動けなくなった蝶の羽をそっと摘まむ。翅の小さな黒の斑点が指に隠れて見えなくなる。

「ねえ」

 彼女は僕の指の間の、親指の爪ほどに小さな蝶を見ている。

「食べるの?」

「うん」

「どうして?」

「さっき言ったじゃん」

「あんなの納得できないわよ。……ねえ、もしかしたら、あんたも本当の理由に気づいてないんじゃない?」

 その言葉に僕は虚をつかれる。彼女は探るような目で僕の瞳を覗き通している。たとえそうだとしても、と僕は気を取り直す。

「そうだとしても、僕が蝶を食べることに変わりはない」

 そして僕は蝶を口に運ぶ。

「あっ」

 彼女が声を上げるのと同時に、僕は蝶の体を前歯で噛み潰す。小さな蝶だから、口の中で飛び回られても困る。そうしたら、小さな翅の全てを口に含み、奥歯で丁寧に噛み締める。昨日の揚羽蝶と違い、数回顎を動かしたら口腔内で小さな塊になる。喉仏を上下させてこれを一息に呑み下したら、唇についた白い鱗粉を親指で拭った。

 昨日と同じように、彼女は僕の口元をじっと見つめていた。けれど、その目には昨日と違うものが映っているような気がした。衝撃と厭悪の中に、ほんの少し別の何かが交じっているような……これは、感嘆?

 まじまじと見ていると、ぱっと目が合い、顔を背けられた。左手はセーラー服の裾を固く握っている。

 気にかかったけど、でも今日の用事は済ませた。

「じゃ、僕は帰るよ」

 虫取り網を片付けて鞄を持つと、僕は彼女を置いて校舎裏を離れた。彼女は何も言わなかった。

 僕はそのまま学校から出ることにした。口をゆすいでいるときに彼女に追いつかれたら、もう一回別れの挨拶をしないといけなくなる。食べたのが小さな蝶でよかった。


「半日ぶりね」

 振り返ると彼女がいた。この校舎裏で蝶を食べる習慣ができて一ヶ月ほど経つが、朝にここへ来るのは初めてだった。放課後よりも透明な光に溢れていて、彼女の姿も昨日よりずっとはっきり見えるようだった。額には汗粒が浮かんでいた。

「これ、取りに来たんでしょ」

 彼女は鞄のジッパーを開けると、虫除けスプレーを取り出した。昨日の僕の忘れ物だ。

「うん。ここに置いてあるかもと思って。でも持ち帰ってくれてたんだね。ありがとう」

 差し出した右手にいきなり冷たいスプレーを掛けられて、僕は思わず声を上げて手を引っ込めた。

「ふふっ。サプライズ」

 笑みを浮かべた彼女が自身の腕にスプレーし始めるのを見て、僕はようやく悪戯に引っかかったことに気づく。

 朝の光に元気を増した藪を見ながら、手持ち無沙汰なので彼女に話しかける。

「どうして僕がここにいるのがわかったの?」

「校門をくぐった辺りで前を歩くあんたを見つけたの。正面玄関の前でいきなり人の流れから外れてどこかに向かうんだもん。校舎裏に行くんだなってすぐわかったわよ。だからついてきたの」

「いつもは登校してくるの早いのに、今日は随分遅かったんだね」

「今朝は普段より一本遅いバスに乗ったの。そしたら道は混んでるし信号はことごとく赤になるし、挙げ句の果てにはおばさんが降りるときに長々と両替し始めるの。あんなにあった信号待ちの間にやっておきなさいよって話」

 彼女はご立腹のようだ。

「あんたはいつも通り遅刻ギリギリね」

 そうだ、そろそろ朝のショートホームルームが始まってしまう。

「もう遅いわよ」

 呆れた声とともに時鐘が鳴った。いつも聞いているより音が遠い。

「どうせ遅刻なんだから、ゆっくりしていきましょうよ。ほら、手を出して。そうじゃなくて、両腕をまっすぐ伸ばしなさい。スプレーしてあげる」

 虫除けを返してくれるのだと思ったら違った。伸ばした僕の腕に彼女はスプレーを満遍なく吹きつける。自分の腕の産毛がにわかに気になりだして、いたたまれない。

「長ズボンだし足はいいわね。じゃ、首にかけるわよ」

 つかつかと歩み寄った彼女は僕の首にスプレーを向け、否応なく僕は顎を上に向ける。単調な噴射音とともにスプレーが首にあたり、その冷たさに僕は体をこわばらせる。首元への噴霧を終えると、彼女は訝しげな顔をした。

「何よその顔」

「いや、どういう風の吹き回しかなあと思って」

 出し抜けにスプレーが顔に向けられ、

「シュッ」

 目をつぶった顔にスプレーは飛んでこなかった。

「サプライズ。あんた案外ちょろいのね」

 そう言って彼女はスプレー缶を投げてよこした。いやはや、なんとも敵わない。

「ねえ、僕が言うのもなんだけど、戻らなくていいの?」

「今更急いでもね。それに、遅刻してきたやつがまだその辺を歩いてるかもしれないでしょ。わたしとあんたが仲良く校舎裏から出てくるのを目撃されたりしたら、どんな噂が流れるかわからないわ」

「ふうん。じゃあショートホームルームが終わるまで待つの?」

「甘いわね。一時間目の前の休み時間になると、また人目が多くなるわ。みんなが確実に教室にいる隙に、ここを出るべき。狙うは一時間目の真っ只中よ」

 この人、地理の授業をサボるつもりだ。

 まあ、僕もやぶさかでないけど。校舎の壁に背を預け、地べたに座る。視点が低くなったから、藪の草丈がより高く見える。彼女もハンカチを敷いて、横に腰を下ろした。

 しばし、並んで蝶を眺める。朝の光を浴びて自在に舞い踊る蝶は、いつも以上に可憐で愛おしく思える。

「そういえば、僕が蝶を食べること、誰かに話さなかったの?」

 彼女は前を向いたまま頷いた。

「次の日にはクラスどころか、学校の全員が知っていて、『怪奇! 蝶食い男』ってネットニュースになってると思ってたのに」

「わたしを誰だと思ってんのよ」

「学校のネットワークを牛耳ってる裏番」

「面白くない冗談言わないの」

 面白くなかったですか……。

 彼女はため息をついて恨みがましく言った。

「わたしの気も知らないで……。突然友達が蝶々を食べているところを見せられてみなさいよ。この二日間、わたしが怪奇蝶男のためにどれだけ気を揉んだことか」

「その呼び名じゃあ、僕に蝶の翅が生えてるみたいだよ」

「黙ってて」

 ごめんなさい。

「先生とかに相談するべきなのか、本人と話すべきなのか。他の人に言っていいのか、わたしの心の内に留めておくべきなのか。そもそもやめさせるべきことなのか……」

「やめさせないっていう選択肢もあったの?」

「あんたのやってることはおかしいわ。どう考えたってそう。でも、おかしいことがやめないといけないこととは限らないじゃない。他者危害の原則なんて考えもあるけど、じゃあその他者の中に蝶は入っているのか。あんたのプライバシーもあるけど、それより社会の利益が勝るのか……。そんなことが頭の中を、ぐるぐるぐるぐる回り続けて、苦しかった、まったく」

「ごめんなさい……」

 彼女の真面目さが垣間見え、僕はひたすら申し訳なく思う。

「じゃあ、どうして黙っててくれたの?」

「それは……」

 彼女は一瞬口ごもって、それから吐き捨てる。

「わたしが優しいからよ」

 僕は口を開きかけて、やっぱり閉じる。藪を渡る透き通った風を見る。遠くでチャイムが鳴る。僕らは並んで座っている。


 しばらくの沈黙のあと、僕は腰を上げて、藪の中の虫取り網を取りに行く。せっかくだし、今日の分は朝に済ませてしまおう。

「蝶を食べる理由、聞かせなさいよ。わたしは全然納得してないわ」

 網の柄についた草を払い落とし、蝶にあたりをつける。一月前に比べてずいぶん蝶の姿も減った。もう蝶がいなくなる季節が近いのかもしれない。そのときになったら、僕はどうするのだろうか。

「やめられないの?」

「うーん、一度やめようとした。けど、そしたら蝶を食べてない自分がどうにも気になって、ざわざわするんだ」

 低いところを紋黄蝶が飛んでいる。僕はそいつに狙いを絞る。

「それって、絶対ほっといたほうがいいのに、指のささくれが気になって引っこ抜いちゃうみたいな?」

「そうそう! 布団に入ってから一旦トイレに行きたいような気がしたら、気になって結局トイレに行くまで寝られないみたいな」

「ああ……」

 あれ、あんまり喩えが上手くなかったかな。

 手首のスナップを利かせて網を振るうと、蝶はあっさりと囚われた。虫取りの腕も上がったようだ。

「蝶を食べるのは楽しいの?」

 網に手を入れながら、僕は首を傾げる。楽しいのとは違う気がする。逃げようと羽ばたく翅を、親指と人差し指でそっと閉じる。

「じゃあ、嬉しいの?」

 それも違う。なんかいいとしか僕には言いようがない。右手を網から引き出し、蝶を口元に持っていく。

「それとも……」

 一時間目の始まりの鐘が鳴る。開けた口を閉じようとしたそのとき、彼女が言った。

「おいしいの?」

 僕はその声音に驚き、彼女の顔を見てさらに驚いた。

 その目は、それは……。

 本来は授業中の時間に、ここで二人話している。この状況がもたらすどこか背徳的な高揚感が、僕にこんなことを言わせたのかもしれない。

「食べてみる?」

 彼女は硬直した。その視線は吸い寄せられたように、僕の手の中の蝶に釘づけになっていて、僕が歩み寄っても彼女は首を振らず、ただ蝶に見入るだけだった。

 僕は彼女の正面に膝をついた。そこで初めて彼女は僕の方を向いた。その揺れる瞳を覗き込んで、僕は「冗談だよ」と言う機を逸して、代わりに「口開けて」と言って、そうしたら彼女が控えめに唇を開いたから、僕は今更ながらに後戻りのできないことを悟った。

 僕は左手を彼女の頭の後ろに添えて、右手の蝶を彼女の口に挿し込んだ。彼女の頭が微かに震えた。

「噛んで」

 目を細めて曲線的な顎を上向かせ、その顎がゆっくりと閉じ、蝶が彼女の生贄となる音が聞こえた。彼女の肩がぴくりと跳ねた。

「もう一度噛んで。そう。翅全部を口に入れて。そうしたら、奥歯でよく噛んで。翅の形がなくなるまで」

 彼女は僕の言葉に従順で、そのさまに、危うく声が震えそうだった。僕は自分の不見識を、蝶を食べる本当の理由を、そして彼女の言葉の意味を、まざまざと感じ取ってしまった。

 よくよく蝶を噛む小さな顎の動きは愛しくて、黄色の鱗粉がついたつややかな唇は蠱惑的で、虚ろに細めた焦点の合っていない目は煽情的で、彼女が蝶を食べる姿は可憐で、艶めかしくて、どこまでも美しかった。

 知らなかった。僕はきっとこの姿を見たかったのだ。そして彼女の目にはこれに類するものがきっと映っていて、だから彼女は首を振らなかったのだ。

 彼女は白く滑らかな喉をそっと上下させて、蝶を嚥下し、小さく震えた息をついた。唇には蝶の鱗粉がついていた。その姿は、まさに蝶のようで。

 僕は彼女の唇に自分の唇を押しつけた。彼女は小さく声を洩らした。僕の柔らかいところに、さらに柔らかい彼女の唇があたっていて、ついていた鱗粉を舌で舐め取る。彼女の肩が跳ねる。口が開く。彼女の首は仰け反り、上を向く。左手で彼女の頭を押さえる。舌は彼女の口内に入り、前歯についた触角を、奥歯に詰まった翅の欠片を、頬と舌についた鱗粉を、拭い取る。唇を離すと、唾液の糸が引いて、やがて切れて、彼女の唇の端から垂れた。僕は彼女の口の中にあった蝶の痕跡を飲み下した。彼女の髪は乱れて、肩は細かく震えて、体からは力が抜けていて、目はぼうっと僕を見ていて、僕はどきりとした。

 彼女は我に返ったように口元を拭いて、僕は慌てて左手を離した。目の前で向かい合って地べたにへたり込んで、僕らは互いに顔を赤くしあって、目を逸らしあっていた。どこかで鳥が鳴くのが聞こえた。

「あっ、あの……ごめん……」

 彼女は例の上目遣いで射るように僕を見た。

「謝んないでよ……」

 そう言って彼女はまた俯き、その掠れた声に僕はまた耳まで赤くなってしまう。

 どうしてこんなことになってしまったのか、今からどうしたらいいのか、僕は何もわからなくて途方に暮れるけれど、一つだけ確かなことは、彼女のそのきつい目つきは、それはそれでいいなと、僕はそう思う。

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屠殺場の羊

屠殺場の羊は、暖かかった。

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 晴天うるわしかったかの日、私は眠っていたところを起こされた。私の眠りを羊にたとえるならば、それが屠殺されたといったぐあいだった。

「起きなさい」

 さていま鉤括弧で括ったこのせりふを放って私を起こした男は、学校という被差別部落に身を置く、教師という穢多者だった。この、しきりに数学を教えたがる穢多者が卑しくも私の羊を屠殺したものと事態は解された。

 いったいこれは屠殺場の稼働時間、つまりは、授業中だった。はたして授業というのは被差別部落でも行われているのだろうかと私は疑問に思ったが、きっと、たんに、学校が存在する被差別部落では行われているが、学校が存在しない被差別部落では行われず、そこに暮らす子どもたちが隣接諸地域に出向いて授業を受けているのみなのだろうという結論に至ったところで、

「まったく」

と穢多者は吐き捨てて、クリイン・ゾオンよろしく教壇へと戻っていったのだった。このとき彼は、ダアテイ・ゾオン戻りの身ながら、その全身どころか、その手を清めることさえしなかった。それが彼をいっそう穢れさせた。

 まもなく、屠殺場の稼働の終了を告げる時鐘が鳴った。穢多者はもはや屠殺者ではなくなり、私は安心して新たな羊の飼育をはじめた。

 やがて、私のいっときの安心とは裏腹に、羊はわなわなと震えだした。その震えは、自身の生命に危険のせまっているのを彼の動物的本能が捉えたことを示していた。このような本能は、どこまでも本来的であるがゆえに、自然界のオペレイシヨンに狂わぬ予定を与える。ほどなくして、いったい、屠殺場の朝が告げられた。屠殺者がふたたび現れたのである。それは昨日と別の、つまり一限めとは違って、禿げていて米英のことばを教えるのが得意な屠殺者だった。

 羊は――道にあらざるこの屠殺者を前に、羊は、死への恐怖におののいた。羊もまた死へ向かう存在なのだった。私はこのうるわしき死への存在を無碍にしたくはなかった。彼をひとつの重んぜらるべき格を備えた存在とみなして、彼の母親となって擁護してあげたかった。このために私は、この髪のない穢多者が、私と私の羊に向かって、悪魔も震えるような声で

「おい」

と言い放ったときも、その羊を必死に抱きかかえていたのである。

 彼は――羊は、貪欲な人間が食べるために生まれたのでなかった、内なる道理に従って、ただ生をまっとうするはずであった。この無垢な羊は、やんごとなき種族の捕食には向いていない。誰も彼を真の意味でおいしく食することなどできないのである。いつだって、そのことを悟りきれぬ盲目な鈍感者が、羊を食べようとするのだった。

 また時鐘が鳴って、この私に安心が訪れた。それはなお見かけの安心にすぎなかった。そして羊の本能はその欺瞞を捉えていて、それを態度で訴えた。ああ、そのとおりだ、この被差別部落にキンコンと響いたことが、どうして羊の生命のゆくえを左右しようか。

 それから何度も何度も、くりかえし時鐘が鳴った。その偶数回めが来るたび私は心の底から安心した。その安心があくまでも見かけの安心にすぎないことはしかし、もはや私の悟るところとなっていた。私は苦しかった。いかに私が安心すとも、羊の震えは収まらなかったから。

 あるとき羊が私に幻を見せた。それは羊が幼いときのようすを映した。幼い羊は牧童をちらと見て、阿呆な彼が物欲しそうにただ空を見上げてぽかあんとしているのを認めるや否や、まきばの柵を飛びこえて、山を降りていった。

 幼い羊は里に着いた。そこでは人々がつまらなそうに歌を歌っていた――歌を歌いながら、鍬を土に叩きつけていたのだった。恐怖したそれは帰ろうとした。それの帰るところとは、あの阿呆な牧童のいるあのまきばにほかならなかった。

 しかし、幼い羊は気づいた。自分は、まきばへ帰る道を知らない、と。それは意を失った。それは、ひょっとすると、ひもじさを感ずるよりも前に頓死してしまうかもしれなかった。

 幻はそこまでで、そこからはまことであった。震える羊を私はいっそう強く胸に抱えて、耐えていた。

 彼はしかし、何度めとも知れぬ時鐘のあと、天命を悟ったように震えるのをやめ、ふっと力を抜いた。私は拍子抜けしたが、彼はそのまま、私の胸のなかで息を引きとった。

 息を引きとった羊の、その皮はなぜか暖かそうに見え、その肉はおいしそうに見えた。かつて厳かさの種を固持してその芽を発せさせつつあった彼が、それを種ごと失って、にもかかわらず、果実をなしたのだった。

 羊の果実はじつにうまそうだった。私はこれにかぶりついた。私の鍬は肥大してやまなかった。羊のそのかさばった毛は私の肥大した鍬を受け入れた。私の昂揚は鍬を伝って羊の毛の各々を湿らせた。

 窓越しの星明かりに反射して煌々たる、この湿った羊の毛は、私の鍬をさらに増大させ、この鍬をもってするならば、いかなる荒廃田畑をも蘇らせることができるのではないかと疑わせた。この鍬をもってするならば、あらゆる種類の外敵を返り討ちにすることができるのではないか。この鍬をひとたび溶かせば、それだけで巨大な仏像が作れるのではないか。もっとも、そのようなことはすまいが。

 もう、二度と時鐘は鳴らなかった。

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わたしの水面みなも
Notorious

作中の引用は「モーパッサン短篇選」(高山鉄男編訳・岩波文庫)によりました。

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拝啓

 春もたけなわ、先生はいかがお過ごしでしょうか。お変わりなくお元気であることを願っております。わたしはといいますと、大学の前の道に並んで植わっている花水木の花が散りはじめて、地に落ちた濃いピンクの花びらをできるだけ踏まないように自転車を走らせています。

 いえ、あれは花びらではありませんでした。花水木の花びらに見えるものは特殊な葉で、花は真ん中の緑の部分だけなんだと教えてくれたのは、先生でしたね。あれは学校の外でしたから、いつかの金曜日の放課後、吟行の途中だったんでしょう。大学の俳句サークルで、高校の詩歌部では顧問の先生に連れられて毎週吟行と称して学校の周りを散歩していたと言うと、いつも驚かれます。運動部ならともかく、文芸系の部活を力を入れて指導してくれる先生はあまりいないんですって。いい先生だねと言われて、わたしは誇らしくて天狗のように鼻を上向けたりするんですよ? さて、花水木が咲いていたんですから、二年前か三年前か、とにかく今くらいの季節の吟行の途中、先生が頭上で咲いている花水木の花に指先で触れて、中央の小さな緑こそ本物の花なんだよと仰いました。それは白の花水木でした。そのあと真紀ちゃんがわたしの耳に口を寄せて、さも大切な秘密を共有するかのように、グリーンピースが乗ったシュウマイみたいだねってこそっと囁いたんです。わたしは笑ってしまいました。それ以来、わたしは白の花水木を見るたびにシュウマイと真紀ちゃんの声を思い出すんです。わたしの住む街はそちらより南ですから、ちょうど今頃、あの木には白い花が満開になっているんでしょうか。見かけたら教えてください。

 もう一つ思い出話を書かせてください。詩歌部員でない高校の友達との話で先生のことが話題にのぼると、友達は先生を「国語の先生」と語ります。わたしは先生のことをまず「詩歌部顧問」と認識しているので、わたしはちょっと意外に感じるんです。わたしだって二年生のときは先生に国語を教わっていたんですから、先生が国語教師という感じがしないのは、単にわたしが不真面目な生徒だったということでしょう。近くの席の梢ちゃんや広香ちゃんと喋ってばかりでしたもんね。先生、その節はごめんなさい。さて、そんな問題児のわたしですが、先生の授業で強く印象に残っているものがあります。それはモーパッサンの短編小説が取り上げられた授業でした。セーヌ川の漁師が川の恐ろしさを語る話です(題名を忘れちゃったので、今ちょっと調べたら「水の上」でした。仏文学科の学生にあるまじき姿ですね)。護岸されて街中をゆるゆると流れるものくらいしか見たことがなかったからでしょう。わたしはその頃、川は清浄で美しくて涼やかなものだというイメージしかなかったものですから、川が陰険で無気味で恐ろしいものだと語るその話は、ちょっと大袈裟ですが、ショッキングでした。そうして、最後になって川は「金糸銀糸に織りなされて火のように燃えつつ流れる」んです。その凄絶で恐怖さえ覚えるほどに美しい、モーパッサンの書く夜のセーヌ川の姿が頭に焼きついて、わたしは一時期川を見るたびに夜になるとそれが見せるかもしれない恐ろしい風景を想像したものです。この授業を受けた頃は作者なんて特に意識していませんでしたが、今わたしがこうしてフランス文学を専攻しているのは、何かの縁なんでしょうね。

 前置きばかり長くなってしまいました。突然こうして先生に手紙を書いたのは、今年の夏にフランスへ留学することになったからです。といっても短期のものですから、研修期間も含めて一か月ちょっとの気軽なものです。それでも先生にご報告したくて、こうして筆を執った次第です。わたしが参加するのはパリの大学との交換留学プログラムで、同じ大学の五名と一緒に参加します。短い簡単なフランス語研修のあと、現地の大学で交流したり講義を受けたりします。わたしは生きたフランス語に触れるとともに、国文学としての仏文学や自国の歴史としてのフランス史を学びたいと思っています。

 この大学に入学したときは、自分が二年と少ししたら海外留学するだなんて、欠片ほども思っていませんでした。それどころか、三か月前の自分もそうです。四月の初めにゼミの教授からこのプログラムを薦められ、しかも単位が出ると聞いて、昨年度に古フランス語の単位を取り損ねたばかりのわたしは、ほいほいと飛びついたんです。我ながら向こう見ずですが、今までもこんな風にその場任せでやることを決めてきた気がします。仏文学ゼミに入ったのはその頃たまたまダフト・パンクに入れ込んでいたからだし、文学部を選んだのは文系で法律や経済よりは文学の方が親しみがあるかなあなんて軽い気持ちからだし、文学に多少親しんだ文系になったのは高一で入部した詩歌部で楽しく俳句を作ったり遊んだりできたからです。つまり、わたしがこの度フランスに留学する(しかも初の海外旅行です!)ことになったのは、先生のおかげでもあるんです。先生の教え子の一人が、先生に教わったゆえに数年経ったあと海を飛び越えていく。そんなこともあるのだと知ってほしくて、この手紙をしたためています。ダフト・パンクには手紙を書きませんよ。もう解散してしまいましたから。

 プログラムにはフランスの学生との交流会もあって、そこでわたしたちは日本の文化を現地の学生たちに紹介します。わたしは俳句を教えるつもりです。ひょっとしたら、フランス生まれの大俳人が生まれるかもしれません。中国の蝶の羽ばたきがアメリカで嵐を起こすと言いますが、日本で先生が教えた一人の生徒がフランスに渡るわけです。嵐はさすがに荷が重いですが、そよ風くらいは起こせるんじゃないでしょうか。

 なんだか威勢のいいことを書いてしまいました。文章を書いているとどうも調子づいてしまっていけません。わたしは異国の地でムーブメントを巻き起こすぞと奮い立つほど野心的ではありません。でも、やりたいことがないわけではありません。ずっと素朴なことなんですが、わたしにとっては大切なことです。自分の感性を大事にしなさいと仰ってくれたのも先生でした。

 先日、美術館に行ってモネの絵を見てきました。モネのファンというわけではなく、わたしでも聞いたことのある有名な画家だからという浅薄な理由からです。不勉強がばれてしまいますが、そんなわけでモネの素性も画風も知らないまま展示を見ました。知っている作品は「睡蓮」くらいですから、てっきり睡蓮を好んで描いたのかな(わたしでも「睡蓮」が連作であることは知っていました)と思っていましたが、美術館に行って知ったのは、モネが描きたかったのは睡蓮というよりむしろそれが浮いている水面だということでした。展示された数々の絵の多くでモネは、浮かぶ睡蓮の花や畔の草木を映して波立つ水面の、光を複雑に屈折させ反射している姿を、さまざまな色の絵の具を使って表現しようとしていました。その色使いは一見雑然としているようにも思え、到底水面を描いているようには見えないのですが、一歩引いてキャンバス全体を視野に収めると、鬱蒼とした森の中で花に彩られ静かに息づく池が眼前に現れるのです。正直、わたしは圧倒されてしまいました。

 ですが、わたしの心に最も色鮮やかに焼きついているのは、睡蓮の絵ではなく、セーヌ川の絵です。「ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出」というほとんど正方形の大きな絵なのですが、広くゆったりと流れるセーヌ川の畔に視点があって、朝の輝くような予感を感じさせる薄明るい空と、両岸で葉を茂らせて濃い影を落とす木々、そしてそれらを映す水面の鏡像が描かれています。モネのタッチの特徴なのでしょう、全体的に淡い筆使いで点描画に似た雰囲気を感じます。それがまるで川にかかる朝靄のようで、色合いも相まって幻想的な風景画になっています。そして、わたしが一番驚いたのがその色使いです。もしわたしが水面の色は何色かと問われたら、わたしは水色と答えるでしょうし、その絵を描けと言われたら水色の絵の具をべたべたと塗りつけるでしょう。でもモネのこの絵の水面は、水色がほとんどなく、あるのは緑と深緑、赤紫と青紫、そして橙と少しの白です。川面には似つかわしくないような無秩序な色彩が、離れてキャンバスの全てを目に入れた途端、朝の清らかな光を奥から浴びた、森の間を流れる大河に変貌するのです。わたしに絵心がないだけかもしれませんが、川面がこんなに色とりどりだなんて、思ってもみませんでした。

 画家なんですから当たり前なのでしょうが、モネにはわたしの気づかない幾多の色が見えていたのでしょう。その目で川面が散らす光をありのままに捉えて、それをキャンバスの上で忠実に再現したのでしょう。それはモーパッサンも同じです。わたしには見えない夜のセーヌ川の恐ろしさを彼は感じ取り、わたしには及びもつかぬ川の様子を物語を通して描き出したわけです。

 わたしはセーヌ川の水面を見てみたいです。モーパッサンには「水の上」のように、モネには「ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出」のように見えた水面が、わたしの目にはどう映るのでしょうか。モーパッサンにもモネにも見えない、わたしにだけ見える景色があるはずです。パリに行ったら、セーヌ川をこの目で見て、それを確かめたいとわたしは思っています。それができたら、何がどんな風に見えたかを書いて、また手紙を送りますね。できれば、川辺の郵便局から、セーヌ川が描かれた絵葉書を。

 書きはじめる前に思っていたよりも長くなってしまいました。わたしは元気にしています。先生もお体に気をつけてお過ごしください。お返事待っています。

敬具 

ⒸWikiWiki文庫

雨に濡れる
Notorious

僕は彼女が雨に濡れているところを見てしまう。

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 春は過ぎた。生活の新鮮味が薄れ、汗ばむような日も増え、そして蝶は校舎裏の藪から姿を消した。それでも僕と彼女は校舎裏で会っていた。

 放課後のくすんだ光が藪を照らしている。春にはいくつかの白く小さな花があったけど、今はもう見えなくて、代わりに細長い葉が元気を得て真っ直ぐ上に背を伸ばしている。僕らはコンクリートの校舎に背を預け、僕が家から持ってきた薄黄色のレジャーシートを地面に敷いて座っている。シートは小さいから、靴を履いたままの足はシートの外の地面にはみ出させていた。右後ろの彼方で陽が沈みかけていて、校舎の影が僕らの足先を掠めて斜めに駆けている。

 僕はおもむろに立ち上がって、彼女と向かい合うように膝をつく。体育座りをした彼女は、立ち向かうように僕の目を見据えるけれど、やがて観念したように一度まばたきをすると、そっと顎を上向けて、唇を薄く開いた。

 その従順さに、僕の心はきまって波立つ。彼女という人間のすべてを掌中に収めたかのような全能感と、彼女をそっと抱き締めて、そのほっそりと伸びた首を手折ってしまいたいような歪んだ愛しさが、抑え難く僕の奥底から湧き上がってきて、僕はそれを怖れて右手に持ったビスケットを彼女の口に挿し込む。

 彼女のつややかな唇が閉じて、控えめな前歯がさくりとビスケットを齧り取る。もう少しビスケットを押し込むと、もう一口齧り取られる。僕は彼女が咀嚼するより少しだけ速くビスケットを彼女の口内に送る。それに押されて、彼女の首はだんだん上を向く。そしてほとんど真上を向いた頃、僕の右手の親指が彼女の唇に触れて、ビスケットがすべて口の中に収まる。僕の右手は彼女の頬に添えられたままだから、彼女は上を向いたまま、少し苦しそうに小さな顎を動かす。そして、ビスケットが唾液と混ざったペーストになった頃、彼女はその瑞々しい茎のような首を波打たせて、それを嚥下した。そうして、彼女はわずかに潤んだ目で僕を見上げ、二分の抵抗と八分の受容を感じさせる仕草で、そっと目を閉じる。

 僕は彼女の頭の後ろに左手を当てる。不用意な身じろぎをすればこの世界が脆くも壊れてしまいそうで、僕は慎重に顔を近づけ、蝶が花にとまるように唇を合わせた。彼女の唇の柔さが、自分の唇に感じられ、思わず体が震える。目を閉じると、彼女の唇のあまりに密な感触と、左手に触れる彼女の髪のなめらかさと、右手から伝わる彼女の肩の持つ熱しか、この世界に存在しなくなる。彼女の唇をそっと舌で撫でると、小さな反発の感触とともにビスケットの粉が口に入り、それを僕は呑み込む。今度はもう少し強く、彼女の唇の間に舌を押し当てる。彼女の口の番人は、最後に一度おののくと、その内側に広がる空間を僕に明け渡した。僕はさらに深く彼女の中に押し入る。彼女の頭が仰け反り、彼女が震える息を吸うのを感じる。その堂々と屹立する白い歯を、侵入者に怯えて逃げ回る熱い舌を、弾力ある頬の内の粘膜を、残らず絡め取って蹂躙し、彼女の口の中にあるビスケットの残骸を奪い取る。彼女の不安定な吐息が聞こえる。彼女の肩の震えが一層激しくなったとき、僕は唇を離して、彼女の口にあったビスケットの残り屑を吞み下した。二人の唇の間に架かっていた唾液の細い糸が切れ、片方の端が彼女の下唇から垂れると、彼女はぼんやりと目を開け、顔を上向けたまま、中空に向けてか細い声を「はあぁ」と洩らした。全てを奪われ、そしてそれを受け入れたような表情で、頭を僕の左手に凭せかけている彼女の姿に、心臓が膨れ上がるような感覚を覚える。左手に乗った丸っこい頭の重量を感じながら、無性に何か、抱き竦めたいような、砕いてしまいたいような、そんな衝動が僕の心の裏から現れて、僕はその考えの怖ろしさにそっと手を離す。

 風のない校舎裏の藪は、僕らに無関心なまま突っ立っている。日の当たらない校舎の壁が、火照った腕に快い。まもなく彼女は口をぐいと拭って、赤くなった耳たぶを隠すように僕に背を向け、自分の鞄を探る。僕はテストを返却される小学生のように、不安と期待が入り混じった昂揚を感じる。鞄から出てきた彼女の手には個包装のチョコレートが握られていた。先週まではクッキーだったから、新たな挑戦だ。彼女の色白な指がぱちりと袋を破り、中からドミノくらいの大きさのチョコレートを恭しく取り出す。それを上下から摘まんでいる人差し指と親指の氷細工のようなすらりとした居住まいに、僕の目は奪われる。そして彼女はチョコを持った右手を僕に向けて突き出す。僕はいつも躊躇しておそるおそる彼女を窺う。彼女の方もわかってるでしょと言いたげに僕を睨んで言う。

「口、開けなさい」

 そうして僕は観念して唇を開き、すぐにチョコレートが突っ込まれ、慌ててそれを齧り取る。ぱきりと小気味いい音がして、カカオのどろりとした苦みが舌に乗る。僕はチョコを咀嚼し、呑み込む。間髪を入れずチョコがもう一歩挿し込まれ、僕はまた前歯でそれを齧り取る。それを何度か繰り返して、ついにチョコは小さな一欠片となった。彼女は人差し指でそれをひょいと僕の口に放り込む。彼女の指先が僕の唇に軽く触れて、もう慣れた苦味が口の中に広がる。僕が最後のチョコレートを噛み砕いて呑み込むと、膝を立てた彼女は僕を見下ろすようにして、両手で僕の顔をがしりと挟んだ。僕は怯えにも似た衝動に従って、反射的に目をつむる。

 僕の唇に彼女の唇が押し当てられる。その柔らかさと熱をこれ以上なく直に感じる。彼女の唇は巧みに動いて僕の唇を開かせて、すぐさまその隙間に彼女の舌が入ってくる。彼女のあたたかな舌は僕の唇を舐め取ると、僕の防御をあっさりと突破して口内に入った。彼女の舌が僕の舌に触れた瞬間、僕は強烈な甘さを感じる。チョコレートの苦みに満ちた僕の口に比べて、彼女は甘くて、あたたくて、そうして僕の中のチョコレートの残滓を探すのだけれど。

 押しつけられた彼女の唇の柔さに、呼吸をすることも忘れながら、これは大変だと僕は思う。チョコレートは僕の口の中で融けているから、唾液と一体となって口内に広がっていて、その全てを彼女は獰猛に奪いに来る。彼女のあたたかな両手に挟まれて顔を動かせないから、されるがままになるしかない。彼女の甘く柔く熱っぽい唇と舌が蠢いて、僕の唇を貪り、歯をなぞって、舌を絡め取り、頬を舐め回し、唾液を吸い取って、僕の口の中のチョコレートを残らず奪ってゆく。気の遠くなるほど長く感じた時間のあと、二つの濡れた唇が離れる煽情的な音がして、彼女の顔が離れる気配がした。顔に添えられていた彼女の手が離されると、力の抜けていた僕の上半身はへたりと崩れ落ちそうになって、慌てて地面に手をつく。荒い息を隠せないままやっとのことで目を開けると、彼女は形のよい顎をわずかに上向かせて僕を見下ろしていて、この上なく旨い料理を前にしたときのようなぞくぞくするような感嘆と衝動をその眼に宿らせながら、彼女はちろりと唇を舐めて、僕は顔が上気していくのを感じながら、急いで口を拭った。


 そのあと、僕らはいつも我に返ったように姿勢を正して、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと後悔に似た気まずさを感じながら、小さなレジャーシートの上で隙間を空けて肩を並べる。身を縮こまらせて膝を抱え、沈黙を埋め合わせるように藪を眺める。

 少し前までは、この校舎裏の藪の上では色とりどりの蝶が競い合うように舞い踊っていた。でも、彼女は蝶を食べることを、結局一度しか承諾しなかった。やはり命を奪うことには抵抗があったらしい。代わりに彼女が始めたのが、蝶の代用品としてお菓子を使うことだった。僕らは示し合わせたように、蝶のように小ぶりで薄いお菓子を相手に食べさせてその姿を見つめ、お菓子にはない蝶の鮮やかさや華麗さ、命を噛み締める背徳感などを埋め合わせるために口づけをした。最初は蝶の代用品なんてすぐ飽きてしまうのではないかと生意気な危惧を抱いていたけど、今なら愚かな杞憂だったとわかる。彼女に慣れるには、僕はうぶすぎる。

 藪を照らす光がわずかに金色を帯びてくると、僕らはいつもぽつりぽつりと話をした。時には学校行事のことを、時には休日の過ごし方を。僕の方から尋ねることも、彼女の方から質問してくることもあった。他愛のない話ばかりだけど、それらを通じて彼女のことを少しずつ知っていけることが嬉しくて、僕はこの時間も好きだった。

 僕は隣の彼女に聞いてみる。

「吹奏楽部は週末も練習があるの?」

 火曜日を除いた平日は、吹奏楽部の活動があることは知っていた。だから彼女が校舎裏に来るのは火曜日だけで、週に一度ここで会ってはこんなことをしている。

 彼女はスカートごと自分の太腿を抱えながら、ぶっきらぼうに言った。

「日曜は休みよ」

 吹部は意外とハードな部活だというのも、彼女と話すようになって知ったことだ。彼女はぽつりと付け加える。

「大会も近いのにね」

 そして彼女はそれ以上にストイックだ。

「熱心だね」

 怠け者の僕は恐れ入るしかない。軽い気持ちで尋ねてみる。

「どうしてそんなに打ち込めるの?」

 そして左の彼女に視線を向けて、僕はどきりとした。彼女は自分の履いているローファーに視線を落として、諦めたような優しい口調で呟いた。

「そうよね」

 その目に僕は動転する。僕は単に理由を聞きたかっただけだけれど、彼女の耳には責めているように聞こえたのかもしれない。

 けれど、僕が弁解する前に、彼女は僕に顔を向け、打って変わって明るい声で僕に言う。

「ねえ、映画の話をしてよ。先週もテレビで何かやったんでしょ?」

 僕は心残りを感じながらも、前の土曜に放送された古い西部劇の話を始める。ストーリーと俳優、バックで流れる音楽、印象に残った白黒の画。彼女はしばしば相槌を打って、愉快そうに聞いていた。けれども僕は彼女の振る舞いに、どこか達観したような、無関係な他人の幸福を羨むような姿勢を感じ取る。

「どうして映画が好きなの?」

 彼女が何気なく尋ねた。僕は少し考え込んで、散らかった引き出しを整理するように言葉をまとめる。

「普段、何かの拍子に、前に観た映画のワンシーンを思い出すことがあるんだよね。祭りの夜に赤い提灯が軒先で揺れているのを見たとき、川の向かいで青空をバックに人が飼い犬に引っ張られて走っていたとき、夏に体育の授業が終わって運動場の蛇口で水道水を頭からかぶったとき……。その光景と似たシーンだったり、あるいは全然違う場面だったりもするんだけど、脳内のプロジェクターでぱっと投影されたみたいに、映画の一場面を思い出すの」

 そのときの感覚を思い起こしながら言葉を探す。

「そうするとさ、僕らの現実も映画と同じように、劇的というか、輝いているというか……とにかくこう、世界が特別なものに感じるんだよ。それが好きなんだよね」

 長く喋りすぎたなと思いながら横を見ると、彼女はぽかんと僕の顔を見ていた。

「どうしたの?」

「あんたがそんなにいきいきとした顔してるとこ、初めて見た」

 どんな表情をしていたんだろうか。自分の頬をぺたぺたと触ってみる。何だか気恥ずかしい。

 校舎の影は僕らの足のずっと先まで降りていた。肌寒い気がして、ぎゅっと膝を抱える。日が当たらなくなると、まだまだ夏は遠いなと感じる。

 僕らはまたぽつりぽつりと言葉を交わしはじめる。テレビドラマじゃ駄目なの? 駄目とは言わないけど、画像のこだわりは映画が勝ると思うんだ。ふうん、どんな映画を観ることが多い? うーん、本当にばらばらだね、いろんな場面を観たいから。じゃあ好きなジャンルとかはないんだ。うん、でもハッピーエンドが好きだな、気分がよくなるから。

「わたしと逆ね」

 彼女が呟いて、僕は思わず横を見る。彼女はまっすぐ前を向いていて、白のラインが入った濃紺のセーラーカラーに長い髪がふんわりと乗っている。

「バッドエンドが好きなの?」

 彼女は曖昧な返事をして、金色の光を投げかけられた藪にぼんやりと視線を向けながら言った。

「エンドロールが終わったとき、ああ、わたしはこんな世界に生きてなくてよかったって思えるから」

 そうして彼女は手をついて立ち上がり、鞄を取った。授業が終わってしばらく経ち、でも部活が終わるには早く、ちょうどエアポケットになっている時間だから、校舎の外に人通りはほとんどない。だけど、半ば慣習的に彼女が帰ってしばらくしてから僕がここを離れるようにしている。

 じゃあね、と声をかけると、彼女はこくりと頷いて、校舎の向こうへと姿を消した。

 残された僕はぼんやりと藪を眺める。日に日に勢いを増す緑が無秩序に葉を青空に向けて突き上げていて、その上では虫が何匹か翅をきらめかせている。蝶のような美しさや優雅さはないけれど、無骨な生命力には溢れている。

 僕は彼女が去ったあと、いつもしばらく藪を前にぼんやり考え事をして、太陽が山の稜線に接した頃、埃を払ったレジャーシートを畳んでビニール袋の中にしまい、帰途に就く。

 いつもは膝を伸ばしながら、彼女のそのきつい目で見下ろされるのも悪くないな、なんて考えるのだけれど、今日はバッドエンドが好きと語った彼女の顔がどうも気になる。知らなかった彼女の一面を垣間見ることができて、普段なら喜ぶところだけれど、彼女の諦めたような目が心をざわつかせた。

 考えても事態が好転することはないような気がして、僕は立ち上がる。レジャーシートを畳んでビニール袋に入れて、校舎に立てかけておく。いちいち持参するのも面倒なので、ここに置きっぱなしだ。この校舎の外壁には、各階の天井に相当する高さにコンクリートの庇が張り出していて、それはこの校舎裏も例外ではない。これが雨よけになるから、濡れる心配もないのだ。ここしばらくは降っていないけど、もう梅雨が近いと天気予報も言っている。僕は鞄を拾い上げると校舎裏から立ち去った。校舎の角を回る直前、一度振り返ってみると、レジャーシートを入れた袋は校舎の落とす黒々とした影に包まれて、見えなくなっていた。


 校舎裏はしんしんと降る雨に包まれていて、灰色の雨音が静寂よりもなお静かに藪を覆い隠す中、校舎の角を回ってすぐに立ち竦んだ彼女と目が合った。僕は座ったままぽかんと口を開けていることしかできない。意表を突かれたのは、一つには降り続く雨で足音が聞こえなかったからだけど、何よりも大きいのは、彼女がびっしょりと雨に濡れていたからだ。

「なんでいるのよ」

 目元に張りついた前髪をよけもせず、絞り出すように彼女が言って、僕はようやくただならぬ事態であることに気がついた。

 僕は弾かれたように立ち上がって、いたずらにおたおたと腕を動かしてしまう。

「ほら、屋根の下に入って。うん、とりあえず拭きなよ。これ、まだ使ってないから。鞄はそこに置いて。風邪ひいちゃうよ」

 肩を引き寄せて庇の下に導き、ハンカチを差し出すと、彼女は幼い子供のような素直さでそれを受け取り、目の辺りから顔を拭いはじめた。続いて彼女は水を吸って一層暗い紺になったセーラー服の肩にハンカチを当てたが、一枚ではたかが知れている。タオルを持っていれば、と僕は後悔した。彼女の濡れた髪は何本か頬に張りつき、背中では伸ばした髪の先がセーラー服の襟に力なくほつれて横たわり、胸の赤いリボンはいかにも重そうに垂れ下がって、セーラー服と同じく紺を濃くしたスカートは彼女の色白な脚に纏わりついて、庇の下の乾いた地面には彼女のローファーの形に水の足跡ができていた。

 昨日の夜から薄曇りが続いていたけれど、昼からついに雨が降りはじめた。まだ梅雨入りは報じられていないけれど、徐々に濃い茶色へと変わっていく運動場を教室の窓から見下ろしながら、きっとこの雨はしばらく続くだろうなと何となく思った。本格的な梅雨にはまだ早いのか、今日の雨はあまり激しくなく、小さな雨粒たちがしずしずと地上へ降り立っていたけど、それでも傘も差さずに一分も外にいれば、服はぐっしょりと水を吸ってしまうだろう。

「どうしたの、部活は?」

「なくなったの」

「傘は? 持ってないの?」

「忘れちゃった」

「だからって……」

 彼女は雨が絶え間なく降ってくる空を見上げながら、無表情に言った。

「雨に濡れたい気分だったの」

 そうして僕に視線を向けると、微笑を浮かべた。

「ほら、わたしって気まぐれじゃない。あんたとここで最初に会ったときも、思えばきっかけは思いつきだった……」

 僕は言葉が出なかった。彼女のぐしゃぐしゃに濡れた髪と微笑みを見て、ようやく彼女が初めに言ったことを思い出す。

「邪魔だったかな。僕は帰った方がいいね」

 彼女は校舎裏に誰もいないと思っていた。あれこれと世話を焼くより先に、こうするべきだった。

 でも、案に相違して彼女は首を振った。

「ううん、邪魔って言いたかったわけじゃないの。驚いただけ。変な言い方しちゃってごめんなさい」

 今度は僕が首を振る番だ。

「でも、本当にどうしてここに? 今日は水曜日よね、昨日会ったんだし……」

 彼女はそこで言葉を切って、怯えの混じった上目遣いを僕に向ける。

「まさか、毎日いるの?」

「毎日じゃないよ」

 彼女の目つきに目を奪われながら、僕は答える。

「学校がある日だけ」

 彼女は呆れたように溜め息をついた。まだもの問いたげだったけど、僕が先手をとってレジャーシートに腰を下ろした。

「まあ座ろうよ。立ちっぱなしもなんだし」

 レジャーシートを見下ろして、彼女は渋った。

「でも、わたしの服、濡れてるから」

「大丈夫だよ。ビニールだし。ほっとけば乾くでしょ」

 彼女は眉をひそめた。

「あんた、雨が降っても洗濯物を取り込まないタイプ?」

 洗濯は母に任せきりのタイプです、とは言えないから、僕は白を切る。

「これは僕のレジャーシートで、そして僕は濡れたって気にしない」

「わたしが気にするのよ」

「僕は気にしない」

「それは聞いたわ」

「僕は気にしないよ」

 彼女は何か言おうと口を開いて、でも何も出てこなくて、諦めたように唇を結ぶ。そうしてシートに置いてあった僕の鞄と彼女の鞄を僕の方にぐいと押しやって、反対側の端にぽすりと腰を下ろした。拗ねた子供のように、ぎゅっと足を抱えてできるだけ小さな面積に収まろうとしている。

「あんた、いつもここに来てるの?」

「放課後、暇だったらね」

 部活も習い事もしていないから、ほとんど毎日というわけだ。

「何をするの? 蝶を探すの?」

 雨に打たれている藪を見る彼女の表情は、陰になっていてよく見えない。

「ううん。ただ藪を眺めるだけ。ぼうっと考え事なんかしたりして、夕方になったら帰るの」

 君がいないのに、蝶を捕まえたって何にもならないよ。そう言う勇気は僕にはなかった。さらさらと雨音が響いている。

「じゃあ、さっきはどんなことを考えてたの」

 彼女がぽつりと言った。

 僕は悩んでしまう。彼女は問うたことすら忘れたかのように、前を向いたまま黙っている。しばしの沈黙の後、僕は迷った末に口を開いた。

「早く火曜日にならないかなって、考えてた」

 同じくらいの沈黙の後、彼女は頬を自分の膝にそっと預けて言った。

「馬鹿ね」

 その声は雨音に溶けてすぐに消えていったけど、不思議とこの小さな校舎裏の軒先にずっと残っているように感じられた。僕も小さく「そうだね」と返して、その言葉もコーヒーに入れた砂糖のように溶けて見えなくなる。残った沈黙を、降りしきる雨が柔らかく埋めている。

 僕は彼女に気づかれないように、僕の鞄の横に無造作に寄せられた彼女の鞄にそっと手を伸ばす。乾いた合成繊維の、冷淡だけど優しい感触が指先に伝わってくる。

 漠然と、このままじゃいけないと思う。僕は躊躇するけれど、でもこのままじゃいけない。たとえ蛮勇であろうと、いい結果を生むこともあると、僕は自分に言い聞かせる。それは、いま僕と彼女が並んでこの校舎裏にいる、まさにその理由じゃないかと僕は思う。


 僕はあえて勢いよく立ち上がった。彼女がびくりとこちらを見るけれど、構わずに前へ手を伸ばす。

 庇の上に落ちた雨水が大きな滴となって軒からリズミカルに垂れている。手の平でそれを受けてみると、冷たい雫はぱちりと弾けて、無数の小さな粒となって僕の手に広がった。ぱちり、ぱちり。耳を澄ますと、軒の各所から落ちる水滴たちがそれぞれのリズムを刻んでいるのが聞こえる。横に並んだ数多の雨垂れが形づくる、軒から下りた水滴のカーテンの、その奥へと手を伸ばす。肘の辺りに軒から垂れる大きな雫が当たり、そこより先はさらさらとした雨に包まれた。外の世界に降りしきる雨は、想像よりもあたたくて柔らかかった。

 そして僕は意を決し、右足を水のカーテンの外へ出す。スニーカーがみるみるうちに雨粒を吸い込んでいく。そのまま僕はカーテンをくぐった。途端、頭に、肩に、全身に雨が優しく降り注ぐ。

「何してるの」

 呆然としている彼女が言った。僕は上を向く。薄い灰色の空から、白糸のような滴が次々と落ちてきて、一つが僕の鼻に当たった。僕は思わず両腕を広げた。髪がどんどん濡れて押し下げられていき、シャツに一つずつ小さな雨の染みができていくのがわかる。僕の広げた腕ごと、雨は世界を包んでいる。いい気分だ。心からそう思った。

 僕は驚いた顔をしている彼女に笑いかけて、雨音に負けないように言う。

「雨に濡れたい気分になったんだ!」

 彼女は目を大きく開いて、次いで笑うように、あるいは泣き出すように、表情をくしゃりと歪めた。

「ほんと馬鹿」

 そう言う間に僕の全身は雨で濡れきっていた。睫毛に水が溜まるのは少し鬱陶しいけれど、服が重くなって肌に張りつくのは冷たくて心地よかった。僕の足の下で、雨露に潤った丈の低い草がぎゅっぎゅっと音を立てる。

 雨に濡れるだなんて、いつぶりだろう。小学校の高学年だったとき、強いにわか雨の中を走って下校したことを思い出した。ランドセルを頭の上に持って、はしゃいだ声を上げながら何人かの友達と競い合うように通学路を走った。水溜まりに足を突っ込んで上がった飛沫と、みんなと僕の笑い声が目を閉じれば蘇ってきそうだ。空から落ちてくる雨を自分の体で受け止める。簡単なことなのに、長いことやり方を忘れていたみたいだ。

 僕は声に出して笑った。天を仰いでくるくると回ってみる。天然のシャワーは僕をひんやりと覆って、世界の他のすべてから隠した。僕は回るのをやめると、彼女の方を向いた。体育座りで呆れたように僕を見ている彼女に、僕は精一杯笑いかけた。

「雨に濡れるのも、たまにはいいね。僕、今とっても楽しいよ」

 彼女は乾きはじめた前髪をよけて、曖昧に微笑んだ。

「それはよかった。でも、風邪ひかないでよ?」

「うん。ねえ、ありがとう。君がいなきゃ……今日ここに来てくれなきゃ、こんなに楽しい気分にはならなかった」

 彼女の表情に戸惑いの色がわずかに浮かんだ。僕は続ける。

「でも、僕は君にも楽しんでほしい。だからさ」

 僕は膝を曲げて前屈みになり、手の平を雨垂れのカーテンの向こうに差し出した。

「一緒に雨に濡れようよ」

 彼女は差し向けられた手を呆気にとられて見つめていたが、信じられないという顔で僕を見た。

「あんた、本気で言ってるの?」

「もちろん」

「あのね……そもそもわたしを屋根の下に引っ張り込んだのは誰よ」

「そのときとは気が変わったんだ」

「だからって……」

 僕は差し出した右手を引っ込めない。彼女は言葉を探していたけれど、僕はかぶせるように言った。

「お願い。少しだけでいいから」

 彼女は微笑む僕を見て、言葉を呑み込み、視線を彷徨わせた。ここ最近、彼女と会う内に、彼女のことを少しは知った。その中の一つ、彼女は意外と押しに弱い。

 僕は彼女の左腕をとった。彼女が「ちょっと」と声を上げるけど、僕は左手で彼女の左手を握る。彼女の強張った手は、僕の濡れた手よりも冷たくて、小さかった。

「さあ」

 声をかけると、彼女は唇を結んで、迷うように目を閉じ、やがてそっと僕の手を握り返した。

 左腕をぐっと引き寄せて、彼女を立ち上がらせる。雨に打たれながら後ろへ一歩ずつ下がると、彼女は一歩ずつ前に出る。彼女の左手が水の柔らかいカーテンをくぐり、続いて腕が、肩がこちら側にくる。彼女は意を決したように目をつむって、ぴょんと一歩を踏み出し、全身が雨の境界を越えて、僕らは雨に包まれた。

 静かに落ちてくる小さな雨粒たちが、一度は乾きはじめた彼女の体に再び滲み込んでいく。彼女は目に水が入らないようにちょっと俯いて、上目遣いで僕を睨んだ。

「冷たい」

「そうだね。でも」

 僕は天を仰いで雨を顔に受けた。

「いい冷たさだ」

 彼女は肩を竦めて、左手で僕の左手を掴んだまま、右手を上に向けた。その手の平に小さな雫が一つまた一つと散っていく。彼女のセーラー服は肩口から水を吸っていき、いかにも重そうに彼女の華奢な体躯に凭れかかっていた。紺のスカートは明度を落としてほとんど黒のように見え、ローファーだけは滑らかな表面で水滴を弾いている。

 僕のシャツとズボンも濡れて肌にくっつき、スニーカーの中の靴下は取り返しのつかないくらいびしょ濡れだ。雑草が這っている地面にできた小さな水溜まりに、僕は片足を踏み入れ、ぱしゃりと水が跳ねた。雨音に負けないよう、いつもより少しだけ大きな声を出す。

「雨の日に靴がぐしょぐしょになるのは嫌だけど、完全に濡れちゃうと逆にもっと濡れたくなるかも。吹っ切れちゃって」

 頬に張りついた髪を右手でよけながら彼女は言う。

「ローファーじゃそうはいかないわよ。人工とはいえ革を濡らすのは抵抗があるわ」

「でも、もう手遅れだね」

 彼女はむっと頬を膨らませ、左足で僕の足元の水溜まりを踏んづけた。跳ねた水が僕の右足にかかって、思わず声を上げて後退りしてしまう。彼女と繋いだままの左手がぴんと伸びた。

 驚いて彼女を見ると、彼女は雨に打たれながらふふんと笑って首をわずかに傾けてみせた。僕も知らずに笑みがこぼれる。

「やってくれたね」

 お返しだ。今度は僕が彼女の足に近い水溜まりを踏んで、彼女がきゃっと飛び退く。僕らは互いに水を跳ね上げ合って、声を上げては逃げ回った。左手を握り合っているから、二人の腕の長さ分しか離れられなくて、水をよけるためには横方向の移動が多くなる。僕らは互いの中間地点を中心に、時計と反対向きにくるくると回って、止まない雨に濡れながら水をかけ合った。

 やがて、僕らは同時に同じ水溜まりに足を突っ込んで、一際大きな水飛沫が上がり、二人の靴が同じ水をかぶった。僕らはあっと言って顔を見合わせた。僕と目が合うと、彼女はふっと表情を綻ばせて、笑い声を上げた。僕もつられて笑い出す。雨が絶えず体を濡らす中、僕らは笑っていて、繋いだ左手から彼女の動きが伝わってきていた。

 もう雨の冷たさは気にならなくなっていた。一しきり笑うと、僕は彼女の手を握ったまま、さっきよりゆっくりと回りはじめた。彼女も反対側へと動いて、僕らは握った左手を中心に円を描く。一歩を踏み出すたびに足元で水音が立つ。

 左手を引き寄せると、彼女との距離が縮まって、回るスピードも上がる。彼女の首筋を流れる水滴を見分けられるようになったとき、左手を彼女の頭の上に持ち上げると、彼女は左足を軸にして雨の中くるりと一回転してみせた。右足の爪先を地面にとんと当てて彼女は止まり、長い髪が半拍遅れて回り終え、先から水滴が一つ飛んだ。優雅に左手を下ろした彼女は、ベテランの踊り子のようににこりと微笑んだ。

「まるでフィギュアスケートね」

「氷じゃなくて水ばかりだけど」

「きっとこっちの方が暖かいわ。ほら、あんたも回りなさい」

 そう言うと彼女は左手を伸ばして僕の頭上で回すけど、僕の方が少しだけ背が高いから、左手が伸びきらないまま僕は不格好に一回転した。

「もう、全然優雅じゃないわ。もうちょっと背を低くしなさい」

 そんな無茶な。

「ほら、もう一回」

 彼女は背伸びをして僕の左手を持ち上げて、僕は精一杯滑らかにその場でターンした。けれどそのとき、左手をまっすぐ空に伸ばしたものだから、彼女は腕を引かれてバランスを崩し、一歩前によろめいて、僕が回り終えたとき、彼女の顔が鼻と鼻がぶつかりそうなほど近くにあった。

 僕らはぴたりと黙って互いの目を見つめ合った。彼女の切れ長な目は僕の目を見上げていて、僕の目線はそれに吸い込まれて逸らすことができない。彼女の目が持つ強い引力を感じながら、僕はいつか観た映画の一場面を思い出す。ドレスと燕尾服で着飾った男女が、シャンデリアの黄金色の光に満ちたフロアで、手を握り合って顔を突き合わせているのだ。何時間にも思えるほどの長い時間、僕らは見つめ合っていて、やがて一滴の雫が僕の頬を伝って顎から落ちると、僕は彼女の手を握ったまま左手をゆっくりと下ろした。顔の横まで下ろしたら、右手で彼女の左手に触れ、彼女の白い指の間に自分の指を滑り込ませた。彼女の息がわずかに揺れる。そのまま指を絡ませ、彼女の左手をしっかりと握った。そうして僕は肘が肩と同じ高さになるくらいまで、彼女の左手ごと右手を再び上げると、左手を彼女の背に回し、そっと彼女に触れた。彼女の体が小さく震える。雨に濡れたセーラー服は彼女の背中の凹凸を僕の指先にそのまま伝えてくる。彼女は握られて掲げられた自分の左手と、背に添えられた僕の左手を見て、最後に僕の顔を見た。水と戸惑いを纏った彼女の顔に、僕は悟られないように息を呑む。

「これって……」

 僕は軽く頷いて、照れくささを覆い隠そうと明るく笑ってみせた。

「踊りませんか、お嬢さん?」

 彼女はわずかに目を瞠って、やがてふっと視線を落とした。

「手を握ってから言うことじゃないでしょ」

 そして、僕は彼女の手が背中に触れるのを感じた。張りついたシャツは、彼女の指の繊細さを透かして伝えてくる。あたたかい雨が世界を包んでいる。

「社交ダンスなんてわかんないわよ」

「大丈夫、僕もだから」

 この姿勢だってうろ覚えだ。もう、と彼女が僕を睨む。僕は映画の舞踏会のシーンを思い出す。正装の紳士と淑女がゆっくりと体を揺らしていたっけ。僕らは学校の制服の、それもずぶ濡れのやつで、髪型も崩れきって、雑草が生えた雨中のダンスフロアに立っているけれど、こっちの方が僕らには似合っている気がする。

「きっと、二人の向かい合った足を同時に動かすんだ」

「スロー・スロー・クイック・クイックだっけ?」

「何がスローで何がクイックなんだろう」

「さあ?」

 僕らは顔を見合わせると、どちらからともなく笑った。そうして、僕は右足を前に出し、同時に彼女が左足を後ろに下げた。水の跳ねる小さな音は、校舎裏の雨音に埋もれて消える。今度は彼女の右足が下がり、僕の左足がそれを追う。右、左、右、左。互いの足を踏まないよう慎重に歩を運ぶと、二歩大きく踏み出してくるりと位置を入れ替えた。今度は彼女が前に出て、僕が後ろに下がる。そうしてまた一歩二歩。片手は柔らかく密に握り合って、もう片方の手は背中に回し合って、彼女の体は身じろぎすれば触れてしまいそうなくらい近くにあるけれど、決して触れない。雨粒は絶えず体に降りかかって、洗われているようだった。二人の間のわずかな隙間が壊れてしまわないに、僕らは踊った。

 濡れた前髪が目元にかかって、首を振ってそれを払う。ふと気づくと、彼女は真剣な目を地面に注いで足を運んでいた。その顔つきに、目に宿る光に僕は引き寄せられて、下を見るのを忘れていたから、僕はうっかり彼女の靴を踏んでしまった。

「あっ、ごめん」

「もう」

 慌てて足をどけたけど、彼女は怒った顔をして、水溜まりをぱしゃんと踏んづけた。靴と靴下はこれ以上濡れることはできないくらいびしょ濡れで、ぐしょぐしょの靴の中で足が浮いているような感じがするけど、反射的に足を引いて水飛沫をよけようとしてしまう。

 すると彼女の足がついてきて、今度は反対の足がこっちに迫るから、僕は急いで足を下げて身を引く。さっきよりずっと速く、右、左、右、左。彼女に追われるようにしてステップを踏むと、そう広くない校舎裏の端まで来てしまった。

 そうしたら、今度は逆向きに進みはじめる。僕の足が彼女の足を追いかけて、早歩きくらいのペースで進む。反対側の端に近づいた頃、後ろに下がっていた彼女の踵が草に引っかかって、わっという声と共に彼女の体のバランスが後ろに傾いた。

 考えるより早く、僕は左手で彼女の背中を支えて、握った彼女の左手を右手で引っ張った。僕らの握り合った手が高々と掲げられ、彼女は背中を弓なりに反らせ、大きく一歩踏み出した僕は彼女の体に沿わせるように上体を前に傾けた姿勢で、僕らは静止した。

 仰け反った彼女の顔はほとんど真上を向いて、それに覆いかぶさるようにして僕の顔があって、握りこぶしくらいの間を空けて僕らは目を合わせていた。彼女の黒い瞳には軽い驚きが浮かんでいて、僕の頭が上にあるから彼女の顔には雨が当たらず、濡れた頬がつややかに光っていた。

 僕と彼女は向かい合ったままゆっくりと体勢を戻し、雨が再び二人の間に降りはじめた。僕らは少し呼吸を速くしてただ雨に打たれていたけれど、やがて彼女が笑みを浮かべて言った。

「今の、ダンスっぽかったわね」

 彼女と同じ表情になれることを嬉しく思いながら、僕も微笑む。

「うん。とっても」

 僕ら、いいペアになれるかもね。そう心の中で付け足す。雨が肌を心地よくくすぐっている。

 僕らはまたゆっくりと踊りはじめた。柔らかく足を交互に踏み出して、四歩行くとまた四歩かけてターンした。反対向きになってまた足を運ぶ。僕らは雨の中、しずしずとステップを踏んだ。片手を頭の横で握り合って、もう一方の手は互いの濡れた背にそっと当てがって、体は透明な板を挟んだように近づけるけど触れ合わず、二人だけの校舎裏で揺れ、回り、舞った。

 彼女の髪は雨に潰れてほつれ、何房かが額や頬に張りついていて、服は洗濯機から出したばかりかのように水を吸ってずしりと重く、目に水が入らないように頻繁にまばたきをしないといけなかったけど、彼女は楽しげな笑みを穏やかに浮かべていて、僕も似たようなものだった。細かい雨が僕と世界を打ち続け、繋いだ右手と背中に添えた左手から彼女の身体の動きが伝わってきて、それに同調して足を動かすことが、僕をとても落ち着かせた。

 雨は僕らを囲う優しい檻だった。他の世界と隔絶されて、世界は僕と彼女と雨しかなかった。雨は楽団でもあり、一緒に踊る仲間でもあった。雨が藪の草に当たって奏でる、きめ細かい白砂糖の袋を傾けるような音や、地面の水溜まりに無数の雨粒が飛び込んで遠近さまざまな箇所で鳴る鈴のような音色、それらに合わせて僕らは踊った。そして、雨もまた踊っていた。藪の高く伸ばした葉の上で、地面を覆った短い草の上で、彼女の指に挟まれた僕の右手の指の上で、彼女のすっと滑らかに伸びた鼻梁の上で、ぽつりと落ちては弾けて舞った。雨雲が空に広がって、それが散らした弱くも柔らかい光に校舎裏は満ちていて、止まない雨がもたらす微かな息苦しさすら快かった。

 ステップに慣れて、足元だけでなく互いの顔を見やる余裕もできてきた。時計回りにゆっくりとターンしながら、彼女は僕の顔を見て言った。

「ねえ」

 僕は睫毛に溜まった水をまばたきして払い、彼女と目を合わせた。すると彼女は視線を下げ、僕の肩越しに向こうを見るような目つきをした。僕は黙って彼女の言葉を待つ。右、左、右、左。なおもステップを踏んで体を運びながら、彼女は口を開いた。

「今、わたし、いい気分だわ。どうしてかわからないけど、こうしているのが楽しいの」

 彼女は僕をそっと見上げて尋ねた。

「楽しい?」

 僕はゆっくりと、でも大きく頷いた。

「ずっとこうしていたいくらい」

 彼女はふふっと笑って、その瞬間、僕の世界から雨が去って、彼女一人が残った。片手を合わせて、背に腕を回し合って、自然に足を動かして時々くるりと回る。彼女は悪戯っぽい上目遣いで言った。

「わたしたち、きっと趣味が似てるのね。いい友達になれそう」

 友達か、と僕は薄く笑って目をつぶる。でも、十分だ。雨のほのかな温もりを感じながら、湖を揺蕩う小舟のように、僕は彼女と踊った。

 そのとき、僕の左足がむぎゅっと踏まれて、僕と彼女は同時に声を上げた。慣れが仇となって二人とも足元を見ていなかったから、彼女が僕の足を踏んづけて、濡れた地面も手伝って、僕は見事にバランスを崩して後ろに倒れてしまい、繋いだ手にぐんと引っ張られて彼女もバランスを崩した。僕は背中から地面に倒れて水を跳ね上げて、続いて前のめりになった彼女がきゃっと叫んで僕の上に倒れ込んできた。

 僕は水溜まりだらけの地面に横たわり、体の後ろ半分で冷たい水に浸かる感覚を感じながら、右手を顔の横に投げ出していて、その右手には彼女の左手が重ねられて地面に押さえつけられていて、彼女は右手を僕の顔の左について、両膝を地面につき、踊っているときよりなお小さな隙間を挟んで彼女は僕に覆いかぶさっていた。僕の体に彼女のセーラー服がほとんど接しそうになり、僕の文字通り目と鼻の先に彼女の顔があって、彼女が一身に雨を引き受けているから僕は一瞬雨が止んだのかと錯覚した。でも、耳が地面に近づいたからか世界に響く雨音はよりくっきりと聞こえるようになり、彼女の耳元から頬を伝って鼻先へと水滴が伝うのが見えた。

 ふっと彼女が破顔して、あははと笑い出した。何が可笑しいのかわからないけれど、あんまり楽しそうに笑うものだから、僕の頬もつられて緩んでしまう。

 笑いの発作の間を縫って、彼女は切れ切れに言った。

「わたしより濡れてるじゃない」

 本当にそうだ。僕も耐え切れずに笑い出す。これじゃどっちが先に濡れはじめたんだかわからない。

 一しきり笑うと、彼女はゆっくりと頭を下ろしていった。彼女の頭が僕の頭の横まで来ると、僕の顔に再び雨が降り出した。僕の耳元で彼女がそっと囁く。

「わたし、今、とってもいい気分。……ありがと」

 お安い御用だよ。

 雨が目に入ってしまうから、僕は目を閉じる。あのとき水のカーテンをくぐってよかったと、僕は心の底から思う。

 校舎裏に降る雨が、柔らかく、あたたかく、僕らを包んで降っている。


 彼女は僕の折り畳み傘を天に向かって開いた。それを左手に、鞄を右手に持って、そして僕は彼女の左について、僕らは雨の中へと踏み出す。

 彼女が傘を忘れたと言うから、僕の小さな折り畳み傘に二人が入って、ひとまず彼女がバスに乗るまで一緒に行くことになった。最近は晴れ続きだったからこの傘を使うのは久しぶりで、心なしか傘も雨に打たれて嬉しがっているように見える。放課後になってしばらく経つけど、部活が終わるにはまだ早いようで、校舎裏から出ても人影はなかった。雨が降っているからかもしれない。

 傘を差すのも馬鹿らしく思えるくらい僕らは既にずぶ濡れだったけど、鞄の中の教科書なんかが濡れると困るし、校舎裏ならともかく人目がありそうな場所で雨ざらしになるのはさすがに気がひける。

 服に当たって濡れてしまわないように、鞄を体の前で窮屈そうに持って右隣を歩いている彼女に、僕は歩調を合わせながら声をかける。

「ねえ、やっぱり傘は僕が持つよ」

 悪いから自分で持つと頑強に主張した彼女に押し切られ、傘は彼女が差していた。歩きながら彼女は首を振る。

「入れてもらってるんだもの。持つくらいさせて。それとも何か理由があるの?」

「僕の方が背が高いよ」

「そんなに変わらないでしょ」

 彼女は背伸びして僕と目線を並べてみせる。そんな彼女の子供っぽさに僕は思わず笑ってしまう。

 彼女は不満げな顔をしてみせるけど、ふと真面目な表情に戻った。

「わたしの気がおさまらないから、せめてお礼をさせてちょうだい」

 いいのに、と言ったきり、僕は言うべきことを見つけられない。押しに弱いのは僕もなのかもしれない。

 二人で入るには小さい傘だから、左肩や足には雨粒が当たってしまう。でももう十分すぎるほど濡れているから、特に気にならない。むしろ雨の当たらないところの方が、服の冷たさが際立って気になるくらいだった。ズボンに雨が当たる感触を感じながら、水溜まりを踏んで歩いていく。右を歩む彼女の顔をそっと窺う。初めて握る傘をぎこちなく頭上に掲げている彼女は、真剣な目つきで歩を進めていて、その涼しげな睫毛に水滴が一つ乗っているのが見えた。雨が折り畳み傘に打ちつけて、軽やかなリズムを奏でている。僕の視線に気づいて、彼女がこっちを見た。僕はなんでもないよと笑いかけて、彼女は不思議そうに微笑を返した。僕らは右に曲がって校門へと歩いていく。

 校門へと向かう途中、校舎の西棟へ差しかかったとき、雨音に紛れて上の方から楽器の音色が聞こえてきた。彼女の持つ傘が震えて、雫がいくつか飛び散った。この学校にはマーチングバンド部もオーケストラ部もなくて、軽音楽部は管楽器を使わないだろうから、これを奏でているのは吹奏楽部だ。通しで練習しているのか、僕の知らない曲が窓の内側から洩れ聞こえてくる。いろんな楽器の音色を聞き分けることなんて僕にはできないけれど、アルトサックスの音がいつもより一つ少ないことは確かだろう。

 僕は素知らぬ顔で歩き続けるけれど、彼女は顔を俯けて、まるで糾弾の声を聞くように演奏の音色を浴びている。その姿があまりに痛々しかったから、僕はたまらずに声をかける。

「僕は部活に入ったことないからさ、わからないけど……たまには休んだっていいんじゃない?」

 できるだけいつも通りの、なんにも気にしてないよって声を出そうとしたけど、逆に作為的に響いてしまった気がする。彼女は俯いたまま、鞄を持つ手に力を込めて、傘に跳ねる雨音にかき消されそうな細い声で言った。

「ごめん」

 僕は首を振る。

「謝ることないよ。それに……本音を言うとさ、君が部活を休んでくれて、嬉しいんだよね」

 顔を上げて彼女が僕を見る。睫毛に乗っていた雫が一つ、ぽたりと落ちて頬を流れていくのが見えた。

「勝手だけどさ、今日、楽しかったから。君が校舎裏に来てくれて。だから、ありがとう」

 彼女はまた下を向いて、黙って首を振った。

 折り畳み傘が、雨の降る世界と僕らを区切っている。

 僕らは肩を並べて、雨によって金属の冷ややかさを増した門を通って学校の外に出た。雨が濃い黒のアスファルトに跳ねている。歩道は二人が横に並ぶと幅を埋めてしまうけれど、幸い進行方向に歩行者の姿は見えなかった。折り畳み傘の薄い生地が雨粒にノックされる感触が絶えず彼女の左手に伝わってきていることだろう。道路側を歩く彼女は黙って足元に目を落としている。

 そのとき、ざあっという音が後ろから聞こえ、一台の車が僕らの脇を追い越していった。彼女はびくりと顔を上げる。タイヤが路面の水を踏む音がみるみるうちに遠ざかっていく。車道を挟んで反対側の歩道を水色の傘を差した小学生が歩いていることに、不意に気づいた。ここは校舎裏と違って人がいるのだと今更実感して、女子と相合傘している僕は急に人目が気になりはじめて、彼女も同じだったのだろう、視線から隠れるように折り畳み傘をちょっと下げた。

 ほどなく彼女がバスに乗る停留所が見えてきた。幸いバスを待つ他の人はいないようだった。屋根もベンチもない簡素なバス停だから、時刻表が貼りつけられた標識の前で、僕は車道の方を、彼女は足元をぼんやりと見ながら、一つ傘の下で並んで立つ。静まり返った住宅街を雨がゆったりと覆っている。

 彼女が何番のバスに乗るかは知らないけれど、家のある大まかな地域は聞いたことがあったから、路線図を見れば見当がつく。この番号のバスに乗るのと聞くと、彼女は曖昧に頷いた。時刻表によると、三十分おきに来るらしい。濡れた服の重みを感じながら、僕は小さな声で彼女に尋ねる。

「雨に濡れててもバスに乗っていいのかな?」

「座らなければいいんじゃないかしら。あんまり混んでないだろうし、後ろの方で立っていればバレないわよ」

 彼女も低めた声で答えた。そう、と僕は頷いて視線を戻す。肌に張りつく服の冷たさが身に沁みてきた。

 何台かの乗用車が目の前を通り過ぎていく。傘の下、僕のすぐ右に彼女の存在を強く感じる。

 あのね、と彼女が言って、その沈黙の破り方があまりにも自然だったから、僕はうんと相槌を打ってからようやく彼女が話し出したことに気づいた。

「ショートホームルームが終わった後、授業でわからなかったところを聞きに職員室に行ったから、吹部に行くのがちょっと遅れたの。だから、音楽室に着いたときには中に人が集まってて、もちろん楽器を鳴らすときには閉めるんだけど、湿気は特に木管楽器には大敵だから、ドアが半分開けられてたの。それで、中にいる人たちの話が、外まで聞こえてきた」

 淡々と話す彼女に、僕は何も言えなかった。

「わたし、熱心すぎたのね。わたし、吹奏楽が好き。みんなで演奏するのが好き。中学校で一回、地区大会で金賞をとったことがあるの。金賞のくせに五校も受賞するんだけどね。それでも、みんなで一生懸命練習して、本番に今までで一番いい演奏ができて、五校の枠に入ることができて、やったねってみんなで笑い合うのが、とても楽しかった。それをこの高校でもやりたかったの。この学校のみんなで頑張って、大会で外部の人に認められるくらい頑張って、そうしてみんなとやったねって言い合いたかったの。でも、そうじゃない人もいるわよね」

 足元を見つめる彼女の顔はあまり見えないけれど、それでも彼女が力なく笑ったことはわかった。

「なんか熱心すぎるよねって、言ってたの。ついていけないって、一人で夢見てるって、偉くもないのに張り切ってるって。先生に気に入られたいんじゃないのとか、夏の大会の後に決まる新部長のポストを狙ってるんじゃないのとか。同級生はともかく、後輩にもそう言われたのは、ちょっと傷ついちゃったな」

 彼女は疲れた苦笑いのような表情を浮かべた。僕は鞄をきつく握り締めた。

「わたしが悪いのよ。周りを見ずに、勝手に理想を他人に押しつけてた。わたしの自業自得なんだけど、ちょっと、音楽室に入っていくのが嫌になっちゃって、飛び出してきちゃったの。でも行くところもなくて、ふらふら校舎裏に来たら、あんたがいたってわけ」

 そう言うと彼女は顔を上げて、僕の目を見た。僕は心がぎゅっと縮んで痙攣するような痛みを感じて、息を吞む。

「噓ついてごめん」

 冷たい雨が彼女の持つ傘を叩いていた。静かに目を伏せた彼女に、僕の息は震えた。

 彼女が傘を忘れたというのは、噓だと思う。雨に濡れたい気分だったから濡れただなんて、もっと怪しい。僕は彼女のことを最近週に一度校舎裏で会うようになってようやく少しずつ知るようになった。その程度の仲だけれど、それでも、今日校舎裏に来たときの彼女の言葉は隠したいものがあるように聞こえた。

 もし気まぐれで雨に濡れたというのが噓ならば、彼女は雨に濡れる必要があったということになる。きっと彼女は雨に濡れなくちゃいけなかった。その理由は、傘を忘れたからなどではない。校舎には建物をぐるりと囲う庇があるのだから、正面玄関を出てその下を歩いていけば、濡れずに校舎裏に着ける。実際、僕もそうして傘を差さずにそこまで来たのだ。それに、彼女の鞄は濡れていなかった。鞄には教科書やノート、ひょっとしたら楽譜なんかも入っているかもしれない。濡れてはいけないものは鞄に入れて、庇の下で濡れないように持っていたのだろう。ということは、彼女は故意に自分の体だけを庇の下から出して雨に打たれたことになる。そして何より、校舎裏に来たときの彼女は、表情や声色が堪えるようで、あるいは押し隠すようで、どうにも辛そうだったのだ。

 その原因は彼女の告白で明らかになった。彼女が話さないということは、彼女が話したくないということだ。だからこれまで僕は事情を尋ねることは控えてきた。でも、今ばかりは彼女に問い質したかった。両肩を掴んで、目線の高さを合わせて、瞳を正面から覗き込んで、言いたかった。嫌になったんだと君は言ったね。それは噓じゃないと思う。でも、それだけなの? 部員の口さがない言葉を聞いて、君が受けたショックは本当にそれだけだったの?

 校舎を飛び出した後わざと雨に濡れた君は、泣いていたんじゃないの? 流した涙を人に見られたくなくて、また目元を拭くだけでは足りない事情が――例えば化粧品の類いが流れてしまったとか、あるいは単に目の赤さが隠せなかったとかいう理由が――あって、君はそれを上書きして覆い隠してしまうために、雨に濡れないといけなかったんじゃないの?

 でも今、彼女は雨に濡れた以外は何もなかったかのように振る舞っていて、だからこそ僕の中には言いたいことが苦しいほどに膨れ上がって、僕はようやく言葉を絞り出す。

「噓ついたっていいよ」

 ゆるりと首を上げて、彼女は不思議そうに僕を見た。

「言いたくないことは言わなくたっていいよ。それに、僕だって噓ついたよ。君が校舎裏に来て、それまで何を考えてたのって聞いたね」

 そのときは早く火曜日が来ないかなって考えると答えたけど。

「あのとき本当は、来週チョコレートを持ってこようか、どうしようかって、考えてた」

 彼女はぽかんとした後、臆病な男が魔が差して万引きするところを目撃した恐喝屋のような、意地悪な笑みをゆっくりと浮かべた。

「それで、持ってくるの?」

 僕は耳の先が赤くなるのを感じながら顔を背けた。

「考え中」

 傘からはみ出た左肩に当たる雨がやけに冷たい。彼女は堪えかねたように短く笑い声を上げた。僕は下を向くしかない。

「馬鹿ね」

 彼女は心底可笑しそうに言った。彼女が笑うのと一緒に傘が細かく揺れて、金属の骨の先からまるで真珠をばらまくみたいに水滴が散った。それがだんだんと収まり、傘がまた従容と雨を受け止めるようになった頃、彼女が静かに「あのね」と口を開いた。

「そういうことがあったから、わたし、そんなにいい気分じゃなかったの。でも校舎裏に来て、雨に濡れたら、なんだか楽しくって。わたし、いま結構いい気分」

 彼女は横目で僕をちらりと見上げて、小さな蠟燭の灯りのように、ほのかであたたかい笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 その声は僕の胸の辺りにあった蟠りを柔らかく融かして、僕は小さく頷き返すとそっと目を閉じて、鞄を少しだけ強く抱えた。雨音が僕らを包んでいて、やっぱりその音は優しいなと僕は思う。

 遠くの方から、一際大きなエンジンの唸りが聞こえてきた。ちょっと身を屈めると、大きなタイヤで水を跳ね上げながらこちらへと走ってくるバスが見えた。車体の前面に掲げられた番号を確かめる。彼女の乗るバスだ。

「来たみたいだね」

 僕が言う。彼女は速度を緩めていくバスをゆるりと見やる。バスは僕らの前に無造作に止まると、ブザーを鳴らして機械式の扉をぷしゅうと開けた。降りてくる人はいない。車内にほとんど人影はない。

 彼女から傘を受け取ろうと手を伸ばして、僕は言葉を呑み込んだ。彼女は目の前のバスを黙殺するように歩道の縁石をじっと見つめていて、僕に傘を返す素振りはない。

 呆気にとられている僕をよそに、バスはさっきと同じ音を立てて扉を閉じると、エンジン音をぞんざいに響かせて無関心に去っていった。

「違うバスだった?」

 彼女は小さく頷いた。ほつれた髪がうなじに張りついているのが見えた。

「だから……」

 彼女は下を向いたまま、雨音にかき消されてしまいそうなか細い声で言った。

「もうしばらく、ここで待たないと」

 どきりとした。何も言えずに固まっていると、彼女が顔を上げて、僕を申し訳なさそうに見上げた。

「駄目?」

 僕はその上目遣いに心臓を直接打たれたような気分を覚えながら、本心であると伝わるように精一杯微笑んで首を振る。そうして右手を持ち上げる。

「ただし、傘を僕に持たせてくれたらね」

 折り畳み傘の細い柄をそっと握る。そのとき、指が彼女の左手に触れた。あたたかかった。

「冷たい」

 一方の彼女は驚いたようにそう言う。彼女は左手を傘から離し、少しの間空中に浮かせていたけど、やがて傘を差している僕の右手にそっと触れた。体温を確かめるように指先でなぞって、優しく包み込むように僕の右手を握った。彼女の指はあたたかくて、手の平や指は僕のより小さいけれど、楽器を持つからかしっかりしていて安心感があった。

「冷たいわ」

 彼女はもう一度言って、また前を向いた。

「あったかいよ」

 そう答えて僕も前を向く。バス停の前の道路と、家々の屋根と、僕らの入る傘に雨が降って、そのさらさらとした感触が僕の右手に伝わり、きっと彼女の左手にも伝わっている。優しい雨音が僕らを中心とした世界を包み込んでいて、それはきっと彼女の耳にも届いている。

 雨に濡れた僕らは、それでも二人きりで傘を差して、手を触れ合わせながら立っている。

「あったかい」

 僕は繰り返す。

「よかった」

 冷たい路面に踊る雨粒を見ながら彼女がそう囁いて、左手の指で僕の右手を撫でた。

 そのあたたかみを感じながら、これがずっとあってほしいと僕は願って、それは難しいかもしれないけれど、せめて彼女がバスに乗っている間くらいは彼女の指があたたかくあってほしいと、僕はそう思う。

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