Sisters:WikiWiki麻薬草子/海辺のカフカを読んで

 
 海辺のカフカを読み終え受講室から出ると、そこには彼がいた。彼はリュックサックを背負って、駐車場に座り込んでいた。
「話をしよう」  
 彼は言った。  
 僕は黙って横に座る。彼は空を見上げた。辺りは日が暮れる前の、闇が染み出してくるような、この時間特有の気配がしていた。何者かがゆっくりと、しかし確実に光を束ねて、明日へと運んでいくのだ。  
 僕は彼に向けて言葉を放つ。
「僕は君に話したいことがある。多分一方的に話すことになるけど、聞いてもらっていいかい?」  
 彼は親の機嫌を伺う雛鳥のような、痛々しい笑顔で答えた。
「もちろん。君の好きなようにすればいい」  
 彼はいつもそういう笑い方をする。痛々しく笑うのだ。その痛々しさがどこから来るか、僕は知らない。時々考えてみることがある。僕が彼の笑顔に痛々しさを見るのは、僕が彼に痛々しい負い目があるからなのではないか、と。でもその度に僕は思う。彼の笑顔にあるその痛々しさは、彼に生まれつき備え付けられていた物なのかもしれない、と。もともと僕は彼にその負い目を感じる前から彼と過ごしてきた。しかしその時が訪れるより前の彼の笑顔を、僕はどうしても思い出せないのだ。僕はこの問答を幾度となく繰り返してきたのだが、答えに辿り着くような気配は全くない。むしろより混乱していくように感じる。僕は彼の笑顔を見るたびにそういうことを考えてしまう。  
 僕は最初のひと言を話し始めようと、息を吸った。しかしそれは緩やかに空を切った彼の手によって止められてしまう。
「悪い。少し散歩に行かないか」  
 彼は僕に向き直って言った。
「散歩しながら君の話を聞きたいんだ」

 
 ❇︎ ✴︎ ✳︎

 
 僕らは道なりに歩いていた。辺りには冷たい風が吹いていた。僕はひとつひとつの言葉を確かめるように話し始めた。
「君は芥川龍之介の作品を読んだことがあるかい?」  
 返事はない。僕は彼との会話にまともな返事は求めてないし、彼も返事することを望まない。
「彼は天才だと思うんだ。彼の文章はまるでがちがちに固まった銀の時計の檻のようだ。もちろん、いい意味でね。全てが計算し尽くされたロジックでできている。でも多分それは彼自身が計算した物ではないんだ。彼は彼が生きている世界を隅から隅まで捉えて、それを端から端まで文章にしただけなんだ。その世界の澱を、自由を、含みを、必要な分だけ絶妙に取捨選択して、選んだ全てで造る。もちろん作家は基本的にそうだ。彼が他と一線を画して天才たる所以はこの時の“捉える”という工程にあると思う」  
 彼は難しい顔をして黙々と前へ進んでいく。僕は話題を変える。
「まあ、そんなことはいいんだ」  
 僕はまるで芥川龍之介の素晴らしさはこの世界とは全くの無関係なところにあって、ここでは誰からも必要とされていない物であるかのようにそう言った。
 「僕はさっきまで本を読んでいてね。村上春樹の作品さ」
「ちょっと待ってくれ。ジャンパーを着たい」  
 彼の一言が僕の戯言を遮る。彼がそう言うと、少し風が吹いてきた。
「このリュック、少し持っていてくれないか」
「もちろんいいよ」  
 彼は大きいリュックサックと手に持っていた小さい鞄を僕に手渡し、ジャンパーを着た。僕は受け取ったリュックサックを背負い、小さな鞄を右手に持つ。どちらも大きさの割にとても軽いものだった。
「ありがとう」  
 ジャンパーを着終えた彼は僕から荷物を受け取ろうとする。僕は気が変わって、出された彼の手を抑えた。
「いや、僕に持たせてくれよ。僕は今まで何も持っていなくて違和感があったんだ」
「それならお願いするよ」  
 彼はまた痛々しい笑みで答えた。僕はなんだか居心地が悪くなって言う。
「ひとは不自由な方が生きやすいんだ。本の中でもちょうど同じような話をしていたよ。僕らはある一定の制約の上じゃないとうまく生きられない。ある意味、ここでは君の不自由さという財産を僕が奪ってしまったんだ」  
 彼は前を向いてこう聞く。
「それは――君の自由意志で?」
「そう。」  
 僕も前を向く。
「――もちろん、僕の自由意志で」  
 暫く歩くと公園が見えてきた。小さい割に立派な遊具のある公園だ。辺りはもうすっかり薄暗くなっていて、ひとはいなかった。
「そう、」  
 僕は公園の入り口の方で彼に向き直った。
「さっき読んだ本の中に図書館が出てくるんだ。高松の、海の近くにある図書館でね。素晴らしいところなんだ。そこには僕がいて大島さんがいて佐伯さんがいたんだ」  
 僕は彼に微笑みかけた。暗くて彼の表情はよく読み取れない。彼の顔の周りだけより暗く影があって、まるでそこだけ塗り潰されているかのように見えなかった。
「大島さんっていうのは難しいけれど素敵なお兄さんなんだ。僕を気にかけてくれる。そして佐伯さんは端正で美しい女性で、その図書館の館長なんだ。僕はその瀬戸内の、時の狭間のような世界で過ごしたんだ」  
 僕はくるりと彼に背を向けて遠くを見た。すっかり暗くなった空の少しだけ赤みが残った西の空を眺めた。何かがはまるような金属音がして、風が一層強くなった。
「今までで1番至福の読書体験だった。この本を読んで、僕は願い事が2つ増えたよ。それはなんだと思う?」  
 背後の彼から答えはない。彼はぜんまいの切れたブリキのおもちゃのように気配を消してそこにいた。いや、もしかしたらそこに彼はいなかったのかもしれない。人は、背後を確認する術を持ち合わせていない。  
 闇はだんだんと濃くなっている。風は勢いを増す。僕の耳にはその風の音だけが聞こえる。
「ひとつは“図書館を建てたい”。僕は読み終えた時に、そう願ってしまっていたんだ。僕は自分の図書館が欲しい。うん、そうだ。僕は図書館をつくりたい。そこまで大きくなくていい。ただそれは明治の頃の西洋風の建物みたいにレンガで造られて、ひとつの趣があるんだ。そこには地下室があって、誰かの思い出がそこで眠る。壁には美しい森の絵が飾られて誰かがその絵に吸い込まれていく。館内は正しく考えられたルールに基づいて整理されて、正しい本が正しい場所にある。そして館長の部屋では、僕が万年筆で文章を書いているんだ。そこにある窓からは昼下がりの、もしくは早朝の、あるいは夕暮れの、四季折々の庭が見えるんだ。僕はそこで何かに向き合う。ただ黙々と向き合い続けるんだ。」  
 僕は夢を見るような心地で目を閉じた。僕は今僕の図書館にいる。そしてその裏には綺麗な海岸がある。僕はそこへ行き、ずっと向こうのほうに水平線を認めながら波の音に耳を澄ます。誰かの記憶は地下室で眠る。絵に吸い込まれたひとは、時間があまり関係の無い場所で暮らす。書架は整理されている。海岸には僕がいる。そこは非常にメタフォリカルな物事に溢れている。
「そう――そしてその図書館はメタファーなんだ。誰にとってもね。実は本の中の図書館は、僕と大島さんにとっても、佐伯さんにとってもメタファーではないんだ。その世界は全て他の意味、意味上の概念に取って代わることができるから、図書館は彼らの中で実態を持って互いを繋ぐ、パイプのような物になっているんだ。それは心臓と脳を繋ぐ血管のように無くてはならないものだ。でも――」  
 僕は言葉をきった。ここまで喋るのに息を忘れていた。相変わらず背後の彼と思わしきものは動かない。彼の気配は全くと言って良いほど感じられない。そこには、僕だけがいる。息を整えて僕は続ける。
「僕らの生きる世界は良くも悪くもメタフォリカルではないもので溢れている。そう。僕らの世界には無くてはならないパイプが多すぎるんだ。だから僕はそこに僕だけのメタファーを創りたい。誰にとってもメタフォリカルな僕だけの図書館だ。」  
 僕はだんだんと振り向くのが恐ろしくなっていた。その恐怖と彼は殆ど関係がない。僕は話を終えるのを恐怖していたのだ。できることならこのままずっと話を続けていたかった。僕は、話すたびに僕自身が出来上がっていく感覚にすっかり陶酔していた。もといた世界に戻りたくなかった。
「ふたつめ、これはもっとシンプルだ。“愛する人が欲しい”。僕は本気で愛せる人が欲しい。これに関して僕はこれといった注文はない。ただ本気で愛したいと思える、そんな人が欲しくなったよ。」  
 どうやら時間のようだ。目を開けると、辺りは何も無い真っ暗闇で、冷たい風がどうしようもないくらいに吹き荒れていた。そして僕はゆっくりと彼へと振り向く。まるで僕自身が鍵になったかの様に身体を180度回転させる。その間に僕の世界と僕があるべき世界が交わり、色彩が生まれ、生き、刹那に消えていった。耳元で重い扉が閉まるような重い音がした。彼は、まるでずっとそこにいたかのように立っていた。
「僕の話は以上さ。これから僕はもっと強くある努力をしなくちゃいけないな」
「そうだね」  
 彼はまた痛々しく笑う。風はもう止んだ。  
 彼は言った。
「もうすっかり暗くなってしまった。戻ろう」  
 僕が持っていたはずのリュックが、いつの間にか彼の背中にある。
「散歩はいいな」  
 僕は言った。

 
 ❇︎ ✴︎ ✳︎


「なあ、好きな曲を流してもいいかな」  
 帰り道、彼は突然言った。彼はいつもそうだ。いつだって彼は僕の想定の外側にいる。
「いいよ。もちろん」  
 僕は答える。彼は右のポケットからスマートフォンを取り出し、操作し始めた。彼はどんな歌を流すだろうか。少し興味が沸いてきた。
「君はどんな音楽を聴くんだい?」  
 彼は画面から目を離さずに答える。
「最近は……マイケルジャクソンを聞くんだ」  
 僕は右隣に歩く彼の表情を見る。
「確か……こうしたら流れるはずなんだけど……」
 彼は操作に手間取っているようだ。
「いい趣味だ」  
 僕は言った。これは心の底からの言葉だった。
「僕もマイケルジャクソンは好きさ。と言ってもマニアを自称できるほどは聞いてる訳ではないけれど。1人の時に、家で良く聞くんだ。日曜の夕暮れにリビングで、最初はビートルズを流す。『Ticket to Ride』を聞いて『Strawberry Fields Forever』を聞いて、それから『Nolwegian Wood』を聞く。そのあと僕はモンキーズの『Daydream Believer』聞いて、最後にマイケルジャクソンの『Black or White』聞くんだ。ここまでがルーティン。そのあとは自由に気が向いた曲を流す。インエクセスとかガンズ・アンド・ローゼズとかね」
「素晴らしいじゃないか。特に、日曜日の夕暮れってところがいいね」  
 彼はスマートフォンから目を離さずに興味が無さげ返事をする。僕は続けた。
「そう―――素晴らしいんだ。とってもね。実は、この曲の並びは随分珍妙なんだ。本来ならこんなふうにごちゃ混ぜに聞いたりしない。それは、僕はこの歌たちに、小説の中で出会ったからなんだ。どれも美しい小説だった。目を閉じてレコード聞いているとその小説の世界を思い出して、少し近づけたような気分になるんだ。その間だけ、僕はどこへでも行ける」  
 あっ、彼が声を上げた。
「これで流れる」  
 アコースティックギターの気怠いメロディが辺りを満たした。それは酷く弛緩していて、午後の暖かな日向を思わせる素敵なメロディだった。『Man In The Mirror』。良い曲だ。でも彼が流したのは誰かがカバーしたものだった。本物より少し低くて安定した印象を受けるその声は、流れ出ては闇に溶けていく。


『僕は一生に一度の
変化を起こすんだ。
すごく素敵な事さ
違いを生むのは
物事を正すのは


お気に入りのコートの襟を立てたところで
僕の心にはすき間風が吹く。
見なよ。路上には満足に食べられない子供達がいる。
それが見えない僕は何だ? 
助けを求める彼らに気付かないフリをして


容赦ない夏の日差し、割れたビンの先。
そして一人の魂。
風に吹かれてもつれ合う。
そうさ、行き場なんてどこにもない。
だから君に知ってほしいんだ


僕は鏡の中の男と向き合う事から始めるよ。
「変わる覚悟はあるか?」と問いかけるんだ。
こんな明確なメッセージ、他にないよね。


世界を良くしたいなら
 自分と向き合い、まずは自分を変えるんだ』


「ねえ、この歌、きっと誰か他の人のカバーだよ。声が違うし、そもそもこの曲はアコギの曲じゃない」
「えっ?」  
 彼は大袈裟に驚いてスマートフォンを開く。そしてアーティストを確認し、また痛々しく笑ってこちらをみた。
「本当だ」  
 彼は声をあげて笑った。ずっと本人のものだと思っていたのだろうか。  
 僕も急におかしくなって、笑ってしまう。僕が感じている彼の痛々しさと、彼が感じているその純粋な感情は、どれだけかけ離れたものなのだろう。  
 10月の風が僕らの間を吹いている。それは身体と服の間に入り込んで、僕らの熱をしっかりと抜き去っていくような冷たい風だ。


『僕は変わるんだ
本当に素敵な事だよ。
さぁ、起き上がるんだ。
そう、まずは君自身と向き合うんだ!
僕は今日変わるよ!
君は、まだ君は立ち上がっていない。同志よ!』

 
 15歳の僕はあと2ヶ月しか生きられない。そうだ。15歳の僕にはあと2ヶ月しか残されていないんだ。15歳の僕はもうすぐ死ぬ。  
 それまでに――それまでに強くなろう。彼の痛々しさも背負って歩いていけるくらいに。  
 世界中の人の痛みも飲み込めるくらいに。
「世界でいちばんタフな15歳の少年になるんだ」  
 冬の始まりの夜空には、僕らの笑い声と、その歌だけが響いていた。


『そうさ、僕はその鏡の中の男になるんだ。
君は、君は起き上がるんだ。
さぁ、さぁ、立ち上がれ、立ち上がれ、
立ち上がって、起き上がるんだ、
今こそ、変化を起こそう!』