Sisters:WikiWikiリファレンス/アフリカたる地域Ⅱ

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 情報の氾濫するこの現代社会の中で、「アフリカ」を知らない人は早々いないでしょう。しかしながら、巨視的に世界を紐解く上で、「アフリカ」をどのような地域区分として論じていくべきかについては、そう単純ではない問題が横たわっています。一口に「アフリカ」と言えども、一般にその「アフリカ」として直ちに想起される領域・アフリカ大陸には、大きな差異を示す二つの異なる地域が存在しているからです。

 まずアフリカ大陸について、これは北に地中海、東にインド洋と紅海、西に大西洋を抱える巨大な陸塊です。西アジアの一部としてなされたヨーロッパとの相対や、マダガスカルやエチオピアに代表されるアジア方面との接触、そしてヨーロッパ・アメリカ・アフリカにまたがる19世紀の三角貿易、このような海外とのかかわりは、概して莫大に広がる海を経由するものでした。いっぽう陸路では、対照的にほとんど小径のようなシナイ半島を通じて、中東とのかかわりを強く持ちました。

 アフリカ大陸の海路と陸路、この二つの共通点としてあげられるのは、15世紀にはじまる大航海時代までそのほとんどはアフリカ北部におけるものだったという事実です。ヨーロッパを中心とした「旧世界」の地図において、「アフリカ」がその北半分しか描かれていないという事実が如実に表すように、地理的条件によって長らく北部アフリカに留まっていた外からの直接の接触は、南部アフリカを「未開の地」としました。広大なサハラ砂漠、あるいは緯度という障壁によって、アフリカ大陸はその南北の社会にそれぞれ異なる歴史を歩ませたのです。

 北部アフリカは、世界最大の砂漠・サハラ砂漠をも有する広大な砂漠地帯です。中世のムスリムによる征服以降は、イスラームが共通文化として広く浸透しており、伴ってアラビア文字がよく使われるなど、全体として中東からの影響が非常に強くなっていて、広範な統一文化が無くほとんどが無文字社会でもあった南部アフリカとは一線を画しています。このため、北部アフリカは西アジアを中心とする強大なイスラム帝国の西端という性格が強く、権力構造としては大規模な王政といった集権構造が多くみられました。先に述べたように、海路・陸路を通して海外諸地域との交流が多かったため、経済活動も活発でした。

 いっぽう南部アフリカは、極度の乾燥地帯である北部と対照的に、特にギニア湾からコンゴ盆地にかけて熱帯雨林やサバンナが広がるいわば大陸中の緑の地帯であり、いくつもの河川の合流にして歴史的に人流と物流を支えてきた巨大な水系・ニジェール川が湾曲しながら流れています。しかし、歴史的には農耕と牧畜の有機的な結びつきはほとんど発生せず、農業は長きにわたって原始的な略奪農法を主流としてきました。また、二グロイド系人種が主な居住者であることに由来して「黒人アフリカ」と呼ばれることも多く、近代では「ネグリチュード」と呼ばれる黒人の連帯的精神運動の中心にもなりました。

 このように、「アフリカ」における南北二つの地域は、歴史的に対照的ともいえる性格を持っているのです。では、ここで次のような主張をしてみましょう――「アフリカ」というヨーロッパ人の恣意的な区分でアフリカ北部と南部とを世界における一つの連なった地域として扱うことは、同じ「アジア」だからといってその最西端・トルコと最東端・日本とを一つの連なった地域とみなすようなものであり、間違っている。果たしてこれは正しいのでしょうか?

 僕なら「いいえ」と答えます。サハラ縦断交易という古来からの結びつきはもとより、近代において大陸そのものを列強諸国に分割され、資源や労働力の搾取から市場としての役割までをも一様に背負わされた過去を持ち、現代では民族分布を無視した単なる「領域の国家」として独立して、今なお植民地支配から尾を引いた数々の問題を抱えるこれら二つの「均された」地域は、現代社会についてのマクロなアプローチにおいて、分離しがたい「アフリカ」という一つの連なった地域だといえるでしょう。

 現にその「アフリカ」では、アフリカ大陸に存在する国家による地域統合体として発足した「アフリカ連合」が各国の紛争・内乱や貧困などの諸問題の解決のために活動しており、統一国家「アフリカ合衆国」の将来的な形成さえ視野に入れた発展的議論に臨んでいます。

 ヨーロッパ人によって恣意的に画定された地域区分で、そのヨーロッパ人への対抗のための連帯が育まれたというのは、ちょうど日露戦争に触発されて青年トルコ革命が成されたように、近代世界で普遍的な事象でした。これに由来し、そして今日に至るまで保たれてきた精神的協同こそ、「アフリカ」を一つの地域として捉えるアプローチに密かながらも特徴的な対象なのです。