利用者:キュアラプラプ/サンドボックス/戊

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黄河中流域では彩文土器の仰韶文化があって、下流域には黒陶の竜山文化がありました。そしてその後邑が合体して王朝国家が出来ました。殷王朝の遺跡殷墟からは甲骨文字が出てきました。周王朝は封建制をやって、後の東アジアにデカい影響を与えました。その周王朝は、都を鎬京から洛邑に移したので、いろんな奴に馬鹿にされて各地で勝手に戦うようになりました。これが春秋時代です。覇者が尊皇攘夷してギャーギャーしていると、大国である晋が韓・魏・趙に三分裂し、いよいよ秩序がパーになって戦国時代が始まりました。戦国の七雄が周ガン無視で殴り合いました。この辺で鉄器とか青銅貨幣とかが出てきて、いろいろ便利になりました。あと諸子百家が持論を展開しまくり、儒家の孔子とか孟子とか荀子とかは仁とか礼とかを説きました。墨子は無差別の愛を叫びました。「誰でも良かった」などと供述しており……

好きになるだけなら合法――ピノキオピー『よいこのくすり』より

老子ら道家は無為自然を訴えました。法家もなんか、現実的なことを言ったらしいです。

戦国の七雄の一国だった秦は、法家の商鞅の改革でクソ強くなって中国を統一しました。始皇帝は郡県制で統治体制を整えて、貨幣とかもろもろを統一し、気に入らん本とか人とかをブチ殺し、万里の長城を作り、そして死にました。やりたい放題し過ぎたので、陳勝・呉広の乱が発生し、秦は滅びました。そしたら今度は項羽と劉邦(高宗)がバトルし、劉邦が勝って漢をつくりました。郡県制と封建制を合体させた郡国制で国を治めたりしていると、冒頓単于率いる匈奴にボコボコにされて屈服しました。内では呉楚七国の乱とかも起きました。そこで即位した武帝は、匈奴を追い払ったり、衛氏朝鮮をぶっ殺して楽浪郡を置いたり、南越をぶっ殺したり、匈奴ぶち殺し仲間のお誘いを大月氏にもってくために張騫を信じて送り出してそのまま寝取られたりしました。あと地方長官の推薦で官吏を選ぶ郷挙里選を定めたり、経済のために均輸とか平準とか塩・鉄・酒の専売とかをしました。あと董仲舒が何かやって儒学が官学になりました。

なんやかんやで懐古厨の王莽というやつに国を乗っ取られ、漢は新っていう国になりましたが、秒で赤眉の乱が発生し、劉秀(光武帝)のもとで漢に戻りました。それで班超という班長の強化形態みたいな奴が西域都護になって、甘英って人をローマに派遣したりしました。一方のローマのアントンくんからも使者が来たっぽいです。日本に例の金印をあげたりもしました。一方、宦官が暴れすぎて国内は大変でした。党錮の禁で学者がぶち殺されまくり、ブチギレた太平道の輩が黄巾の乱を引き起こしたので、漢は完全に滅亡しました。紀伝体で書かれた司馬遷の『史記』とか班固の『漢書』とか、儒学の訓詁学とか、蔡倫の紙改良とか、いろいろあったらしいです。

漢が死んだので、魏・呉・蜀にまたもや三分裂して三国志が始まりました。魏には九品中正っていう門閥貴族生みまくりの金銭第一主義人材派遣システムや、土地を農民に与えて耕させる屯田制がありました。そっから出てきた司馬炎って人が晋をつくって三国を統一するものの、八王の乱が発生し、その時にやってきた異民族集団五胡が永嘉の乱など大暴れしたので、中国の北の方はまたしても五胡十六国というぐちゃぐちゃ状態に陥りました。しかし司馬睿って人はがんばって南の方に逃げて、健康っていう健康そうなとこを都にして東晋を復活させました。北では鮮卑っていう騎馬民族の拓跋氏が建てた北魏が、太武帝って人の時にようやく北の方を統一しました。孝文帝って人の時には貴族が土地を占領するのをやめさせるために均田制をやったり、洛陽に遷都したり、漢化政策をしたりしましたが、これのせいで六鎮の乱が発生し、北魏は分裂して死にました。鮮卑が中国に行ったあと、内陸アジアでは柔然っていう人たちがはしゃいでたんですが、いつしか突厥って人たちに場所を奪われました。その突厥と協力することで、分裂した北魏の西の方である北周が北の方を再統一しました。東の方では府兵制っていう農民を徴兵する制度があったらしいです。南に位置してきた六朝とよばれる国々はずっと平和でした。この時代の名を、魏晋南北朝時代と呼びます。乗るなエース、戻れ!

清談が流行ったり、仏図澄や鳩摩羅什が布教しに来たり、法顕がインドに行ったり、グプタ様式のうんこセックス寺院雲崗石窟寺院や中国様式の竜門石窟寺院ができたり、寇謙之が道教の教団をつくったり、顧愷之がお絵描きをしたりと、いろいろありました。アジアの他のところでは、高句麗が中国の東北から朝鮮半島北部に進出したり、朝鮮半島南部の西東にそれぞれ百済・新羅が現れたり、親魏倭王された邪馬台国があった日本ではヤマト政権による統一が起きて倭国として朝貢するようになったりしたらしいです。

で、さっきの北周の楊堅(文帝)が、当時の南朝だった陳を滅ぼし、久々に中国を統一して隋を建設しました。科挙を開始したり、均田制や祖調庸制、府兵制をやりました。二代目の煬帝は大運河を建設したりと頑張りましたが、高句麗の遠征に失敗したため反乱が起き、その中で李淵(高祖)という人が唐を打ち立てました。隋の都だった大興城を長安と改名してそのまま都にしたそうです。二代目の李世民(太宗)は、隋が二つに分裂させてた突厥の内東突厥を殺し、その次の高宗は西突厥を服属させたり新羅と共に百済と高句麗をぶち殺したりしました。唐の内政は、李世民の時に律令格式の整備から始まって、中書・門下・尚書の三省、行政の六部、監査役の御史台などがありました。征服地では、自治を認めつつ、都護府による羈縻政策を行ったらしいです。唐の都長安はめちゃくちゃ国際性が高まり、仏教や景教(ネストリウス派)、祆教(ゾロアスター教)、マニ教など宗教も様々で、ソグド人やムスリム商人も活躍したそうです。東アジアには、唐を中心とした東アジア文化圏が形成され、ソンツェン=ガンポの吐蕃やウイグル、南詔、高句麗の後釜渤海、朝鮮半島を支配し骨品制を基盤とした新羅、天平文化を開いた日本などが唐の影響を受けました。この時期には、李白や杜甫、白居易などの詩人の活躍もありました。

貧富の差が馬鹿みたいに拡大していったので、均田制・租調庸制・府兵制はぶち壊れました。高宗の死後、その皇后だった則天武后がなんかいきなり皇帝となり、国号を周にしたり科挙官僚を推したりしたので、政治の中心は貴族から科挙官僚へ移りました。その後現れた玄宗は、律令制の再建を図って、府兵制をやめて募兵制を採用し、辺境の指揮官である節度使に大きい権限を与えました。しかしそのせいで反逆され、安史の乱が起きたりしました。これはウイグルの援軍のおかげで鎮圧できましたが、節度使は藩鎮となって勝手なことをしまくりました。さらに、宰相の楊炎は租調庸制をやめて両税法を定め、頑張りました。しかし結局、塩の密売人である黄巣が黄巣の乱を起こし、ついでに節度使の朱全忠というやつが唐の帝位を盗んで開封を都に後梁を建てたので、唐は滅亡しました。ここからは五代十国の時代が始まり、節度使が次々に国を建てる中で、貴族は荘園を失って没落し、新興地主層がウハウハでした。