利用者:キュアラプラプ/サンドボックス/丁

 ああ、最悪だ!

 息を切らし、肩を弾ませ、今にも吐きそうな風体をした伊野晃は、自分の学習机の棚を隈なく見るまでもなく、そこに国語の教科書があるわけがないということを思い出した。昨日は国語の教科書を持って帰っていなかったのだ。先ほどまでの焦燥感が反転し、伊野はふつふつと怒りを抱き始めた。15分ほど前、彼は自分の鞄に国語の教科書が入っていないことに気づいた。彼の国語の授業を受け持つ教師は、何かにつけて校庭を走らせる熱血教師の類だったから、忘れ物なんかしたら無論校庭を走らされるのは目に見えている。彼は焦り、走って家に忘れ物を取りに帰ったのだ。そしてその忘れ物が忘れ物なんかじゃなかったものだから、彼は自分の愚かさに呆れていたのだ。

 伊野は自室に立てかけられている時計を確認する。7時32分。朝のSHRが始まる7時40分までに残された時間は、あと8分しかない。伊野は再び鞄を背負い、迷わず走り始めた。SHRに遅刻するわけにはいかない。あの熱血教師は、彼の担任でもあったからだ。彼はもう校庭を3周分は走ったような気分だったが、ここで過去のことを嘆いてもしょうがない。彼はドアを開け、風のように走り出した。

 できる限りの大股で、彼は通学路を疾走する。彼の体力は下の中といったところで、いつもは1分も全力で走ればすぐにバテてしまうような有様だったが、しかし、このときは不思議なくらい走れた。ランナーズハイというやつだろうか、体は軽く、今なら校庭を10周でも走れてしまうような気がした。それが嫌だからこんなに一生懸命走っているのだが。

 校門が見えた。腕時計を見ると、7時36分。しかし、学校にたどり着くまでには、横断歩道を一つ通り抜けなければならない。その信号機は今、彼を嘲るように赤く光っていた。信号だけじゃない。救急車もすぐ近くに止まっていて、真っ赤なランプを光らせていた。何か事故でもあったのだろうか。不吉だ。時計の秒針がどんどん動いていく。残り3分。

 このとき、伊野は後ろから同級生の成瀬真紀が走ってきていることに気づいた。伊野は成瀬と特に関わりがあったわけではないが、彼女が遅刻の常習犯で、よく校庭を走らされているのは知っていた。まさかここでお目に掛かれるとは。そう思った矢先、彼女は一瞬驚いたような顔をして伊野の方向を見つめた後、突如として左折し、車道の方に飛び出した。クラクションを鳴らされながらも、彼女はその勢いのまま反対側の歩道を爆走している。

 ようやく信号が青になった。残り2分。伊野は唖然とする間もなく駆け出した。いったいどうして成瀬は、わざわざ反対側の歩道に横断したのだろうか。信号を待ちたくなかった? しかし、校門はこっち側の歩道の先にある。一度車道を左に横断したなら、戻って来るのに余計に時間がかかるはずだから、それは考えづらい。……あるいは、伊野の傍に近寄るのがそんなに嫌だったのか? なんだか悲しい気もちになりつつも、彼は全速力で校門をくぐり抜け、教室に向かった。残り1分。伊野のHR教室は一階にある。ちょっとした階段を上り、靴を乱雑に靴箱に押し込んで、廊下を走る。残り30秒。すぐそこだ。そして彼は、ついにHR教室に到着した。しかし彼の目に映るのは、誰一人いない、電気の消された教室で、彼は思い出した――

 ああ、もう、本当に最悪だ!

 伊野はここにきて、昨日担任が言っていたことを思い出した。いわく、明日は特別講師による講演があるので、朝のSHRは無し。代わりに、7時50分には体育館に来ていなさい、と。残り20秒。体育館は校舎と廊下でつながっているから、まだ希望はある。とにかく走るしかない! 彼は上履きの踵を鳴らし、渾身の力で走り始めた。体育館に繋がる廊下を全身全霊で駆ける。前方に、成瀬が見えた。どうやら彼女のロスタイムの方が、彼のロスタイムより短かったらしい。残り5秒、時計の秒針を見ている暇もない! 体育館のドアは全開になっている。時鐘の一音目が鳴り――

 滑り込んだ。チャイムはまだ鳴り終わっていない。セーフだ。体育館の中は外の寒空より幾分か明るい。学年主任の教諭が、整列を促していた。気づけば成瀬はすでにクラスの列に入っていたが、やはりその息は弾んでいて、苦しそうだ。というより、言い過ぎかもしれないが――顔面蒼白に近い。遅刻常習犯の成瀬が、遅刻しそうになったくらいでこんなにブルーになるだろうか。体調でも悪いのか? そう思いながらも、伊野は何食わぬ顔をして列に入っていった。内心では担任に指摘されないかと肝を冷やしていたが、担任はどうやらクラスの列にはいないらしい。辺りを見回すと、体育館の隅の方で、電話をしている担任を見つけた。何やら深刻そうな表情をしている。校庭マラソンの刑について、教育委員会か何かにクレームが入ったのだろうか?

「ごっつあんです!」

 体育館に鳴り響いた声に引き寄せられ、伊野は壇上の特別講師を見た。それは、力士であった。グレーのスーツ越しにも分かるほどの巨体に、筋肉と脂肪が詰め込まれているのを感じさせられる。本当にちょんまげなんだな、と伊野は思った。その力士の言う事には、彼は「井方海坊太」の四股名を持ち。まだまだ現役だが、相撲の素晴らしさを学生諸氏に知ってもらいたいがために、稽古の合間に学校を巡って講演を開いているという。力士は、一時間もの間、何の起伏も無い、ただ相撲を賞賛し続けるだけの講演を行った。相撲の歴史の話が終わるころには、伊野以外の生徒たちはみんな眠ってしまっていた。

 ――おかしい。伊野は思った。自分以外の、文字通り全員が眠っているなんて状況、そうそうあっていいはずがない。彼は辺りを見回し、さらに、いつも体育館の端の方で座っている教師たちまでもが、眠っていることに気づいた。冷や汗が流れた、気がした。

「相撲は、古事記の時代からある営みだ。だから、競技として国民に愛される傍ら、未だ神事としての性格を残しているんでどすこい」

 これは……自分に向かってしゃべっているのか? 伊野はこの訳の分からない状況に動揺を隠せない。

「だから分かる……だから視える……おそらくここでこの井方海だけが視えているんでしょうな、オー、どすこい」

 伊野は勇気をもって、力士に反応してみようとしたが、声が出なかった。声が出ない。喉が、まったく動いていないのだ。冷や汗が流れる。しかし、やはりそれも気のせいだ。

「生きとし生ける者、この井方海の眠りのまじないにかからぬ者は無い。そして、今、この体育館にたった一人、この井方海の前にて意識を開いているそこの少年よ、オー、悲しいな、悲しい。サッドスコイ……お前は、すでに、死んでいるんでどすこい」

 ――思い出した。弾けるような痛みを伴って、伊野は、今朝、自分が交通事故で死んだことを思い出した。7時27分ごろのことだった。校門の目の前まで来て、自分が国語の教科書を忘れたと勘違いし、踵を返して走り始めた後だ。彼は校門に続く道にあるあの横断歩道ではねられ、即死した。

 あまりにも、あまりにも突然だったのだ。彼は遅刻しそうになって走っているだけだった。ちょっとした日常の中で、自分が死んでしまうなんて、いったい誰が考えているだろう。少なくとも彼は、それゆえに、自分の死を認識できていなかった。彼の意識は、彼の死体を離れ、自宅に帰り、そしてまた、その軽すぎる体で走り出して、横断歩道に戻って来た。彼は、辛うじて伊野晃だと分かる死体が救急隊員に囲まれているところを認識することができなかった。彼が代わりに見たのは、その光景を見ていた成瀬真紀の不可解な横断だけだ。