利用者:キュアラプラプ/サンドボックス/乙

ひといき

 その洞窟の中には、もちろん何の灯りもなかったから、奥に進めば進むほど暗くなっていく。そして、ある角を右に曲がったとき、外の光はついにほんの一片さえ届かなくなる。この蛍は、それが好きだった。蛍ならば誰しもが持つ、夜を独占したいという欲求が、この蛍にも当然あった。光のドレスでおめかしをして、空のすべてをレッドカーペットにする、彼らにとって唯一かつ最高の芸術は、しかしさまざまな妨害にあってきた。一日おきにすべての地平を席巻し、まさしく圧倒的な明るさでもって、彼らの同じ光としてのプライドを踏みつけにする太陽の光は言うまでもなく、あるときには普遍的な絶対美を象徴する無欠の真円を、またあるときには今にもぽっきり折れてしまいそうなくらい華奢で繊細な弧を描く月の光は、その目まぐるしく豊かな表情で蛍たちをこけにしてきたし、負けず嫌いの蛍たちが群れという生物の特権を駆使して光のダイナミクスを演出しようとしたときも、遥か遠くにめざとく浮かんでいる星々が、すかさず星座を作って空の全てを覆い隠してしまった。こうして自信を失った蛍たちのドレスは、ほつれたところから引き裂かれ、生ごみのようにぼとぼと落ちる。レッドカーペットは太った毛虫のようなおぞましい姿に変貌し、のたうち回って彼らの芸術を拒否してしまうのだ。

 しかし、太陽も、月も、星々も、あるいは他の蛍たちでさえ、この洞窟には気づいていなかった。最高の舞台にほかならない貸し切りの闇を、夜でも昼でもお構いなしに、この蛍はほとばしる感情の言う通りに駆け回り、光の軌道となってするどい岩の壁面を照らしていた。洞窟は海岸沿いにあって、しみ出してくる海水の薄い膜に一面が覆われていたから、蛍はそこに反射してきらめく自分の光の分身と共演することができた。こういうわけで、蛍は今も洞窟の中を火花のように激しく舞っている。しかし蛍は、ひとついつもと違うことがあることに気づく。洞窟のさらに奥の方から、何やら子供の泣き声のような音が聞こえるのだ。わめき声は洞窟の中を水平にせりあがり、入口の方に向かっていった。蛍は、人間の言葉についてよく知らない。しかし、たまに見る彼らの会話する様子から、人間はひとつひとつが個性的な、まるで鳥や虫が種族ごとに誇っている唯一無二の歌声をひと口に切り分けたような音をたくさん持っていて、さらにそれをやたらめったら、やけを起こしたかのように並べ立てるだけで、不思議と言いたいことを言えるのだというふうに理解していた。蛍もたまにパートナーを求めて鳴くことがあったが、それは人間の言葉とはまったく異なるものだった。それに、蛍にとって大切なのはむろんしっぽの光の方であり、鳴くことは二の次だったから、わざわざ呼吸をちょっと忘れてまで喉から声を出して言葉をしゃべる人間のことは、やはりよく分からなかった。

 波の音に混じって洞窟を満たす声の中、こうして蛍がひとり考えごとをしていたところ、入口の方からまた別の子供の声がしはじめた。その声は、奥から響いてくる泣き声に反応しているようで、まるで砂利を撫でつけるように、張り詰めた感じのする言葉だった。その子供は洞窟の奥をめざして一心不乱に進んでいるようで、前も後ろも分からないこの暗闇も、やすりのようなざらざらの岩のじゅうたんも、まったく気にしていないようだった。洞窟の壁になんども体を打ちつけながら、同じように洞窟の壁になんども体を打ちつけて響く奥からの泣き声を見えない灯台にするように、ただ、進んでいた。そうして蛍とすれ違ったとき、蛍は自分の光を媒体にしてその子供の姿を見た。毛皮の服を着た、赤い髪の子供だった。奥にいる子供が叫んでいるあの声は、きっとこの赤毛の子供をそこに呼びよせるためのものなのだろうと、蛍は思った。


*        *        *


 赤髪の子供には、もはや自分がどこかに向かって進んでいるという感覚はなかった。ただ手足を振り回し、するどい岩が複雑に張り巡らされている空間を辛うじてくぐりぬけている。それほどの暗さだった。その疲労と狭窄的な熱中とで、すでに末端の神経は麻痺しており、さらにここには血中の赤を人の目に映し出す光さえなかったから、体のあちこちにできている切り傷は、光が差してはじめて見えてくるだろうその醜い見た目に反して、しかし痛みを感じさせることはなかった。その子供は、奥から聞こえる声の方向に向かって、一連の動作をただ繰り返すだけだった。声は洞窟の内部で何重にも絡まっていたから、実際のところその発信源を特定することはできなかったが、とにかくその子供は洞窟の奥に向かって体を這いずらせ続けた。幸いにも、この洞窟は一本道だった。子供は正しい道を進んだ。蛍とすれ違ったとき、その細々とした光で、子供は初めて洞窟の奥の景色をとらえた。それは洞窟といっても、地中にくり抜かれた円柱様の領域のような生易しいものではなく、まさしく炎症を起こした生物の消化管のように、暴力的に密なものであった。それも、押し寄せる波がその硬い材質を磨き上げ、その境界を世界にむき出しにぴんと張ってしまった、廃材置き場にあるような包丁と砂鉄のげてものだった。

 自分の存在を見失わないように、大きな息に意味を乗せ、大きな声を出し続ける。赤毛の子供は、奥で泣きわめく声をあげているのが、しばらく前に森で出会ったあの黒髪の子供であることを、まさにその声をもって、理解していた。赤毛の子供のいる村落は、古くから排外主義的なルールを掲げていたから、見たことのない人に出会うなどという事象は、物心がついてから初めてのことだった。黒髪の子供は、うずたかくもつれた重い緑の網目と、土と枝とのステージの上で、わけのわからぬ言葉で歌っていた。


○黒髪 呼びよせる描写

→赤毛 助けに行くぞ・出会い →黒髪 来るなっつったじゃん・やっぱ来てほしかったかも・ひといき →蛍 正午洞窟脱出・声は魔法ですか?