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頬に、固く冷たい感触。四肢にも、冷たさを感じる。胸に体重がかかっており、呼吸が少し苦しい。そう思うと、みるみるうちに息のしづらさが強く感じられるようになって、意識が覚醒した。 | 頬に、固く冷たい感触。四肢にも、冷たさを感じる。胸に体重がかかっており、呼吸が少し苦しい。そう思うと、みるみるうちに息のしづらさが強く感じられるようになって、意識が覚醒した。 | ||
<br> とにかく僕は床でうつ伏せになっているのだろう。交番の仮眠室のベッドから転がり落ちたのか、あるいは寮の床でつい寝落ちてしまったのか。しかし、開けた目に入ってきた景色は、それらの予想が現実と違っていることを雄弁に語っていた。塵一つ落ちていない、真っ白な床。交番でも寮の自室でもない、見覚えのない風景だ。 | <br> とにかく僕は床でうつ伏せになっているのだろう。交番の仮眠室のベッドから転がり落ちたのか、あるいは寮の床でつい寝落ちてしまったのか。しかし、開けた目に入ってきた景色は、それらの予想が現実と違っていることを雄弁に語っていた。塵一つ落ちていない、真っ白な床。交番でも寮の自室でもない、見覚えのない風景だ。 | ||
<br> | <br> 両手を床につけ、腕立て伏せの要領で身を起こした。伸ばしきっていた脚を畳み、その場に胡座をかく。視点が高くなったことで、周りがより見えるようになった。正面には、床と同じく白い壁がそり立っている。そして、壁には細い切れ目が入っている。それはまっすぐ上に走り、直角に曲がって床と平行になり、今度は真下へと伸び、壁を長方形に切り取っている。 | ||
<br> | <br> これは、ドアか。すぐには気づけなかったのは、理由があった。大きいのだ。ドアの上端は天井間際にあり、床から5メートルほどの高さにある。天井もそれほど高いのだ。それに、ノブがない。しかし、ドアの上端ギリギリに位置している何か。四角いし何か書かれているようだが、あれは……テンキー? | ||
「起きたか、佐藤」 | 「起きたか、佐藤」 | ||
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「佐藤、地下のパブに行ったことは覚えてるか?」 | 「佐藤、地下のパブに行ったことは覚えてるか?」 | ||
<br> そう言われて、急激に記憶が蘇ってきた。今の今まで忘れていたのが信じられないくらい、鮮明に。 | <br> そう言われて、急激に記憶が蘇ってきた。今の今まで忘れていたのが信じられないくらい、鮮明に。 | ||
<br> | <br> 人身売買の拠点となっているパブがある。そういう匿名の通報を受けて、権田と僕はそこへと急行した。昼の2時ごろだった。通報の信憑性には疑問が残っていたため、あくまで警邏の一環として行った。交番の所轄範囲にそのパブはあったため、通常のパトロールという建前が使えたのだ。 | ||
<br> しかし、地下に降りてパブに入った瞬間、僕たちは屈強な男たちに襲われた。警棒を抜く間もなく、目出し帽を被った男たちに、口に布を押しつけられた。どうやら薬が染みていたらしく、僕はすぐに意識を失ってしまった。おそらく権田も同じだろう。いくら逮捕術や柔道を心得た警察官といえど、多勢に不意打ちされたのでは、勝ち目はなかった。 | <br> しかし、地下に降りてパブに入った瞬間、僕たちは屈強な男たちに襲われた。警棒を抜く間もなく、目出し帽を被った男たちに、口に布を押しつけられた。どうやら薬が染みていたらしく、僕はすぐに意識を失ってしまった。おそらく権田も同じだろう。いくら逮捕術や柔道を心得た警察官といえど、多勢に不意打ちされたのでは、勝ち目はなかった。 | ||
<br>「ミイラ取りがミイラになってしまうとは……。もっと警戒しておくべきだった、くそっ」 | <br>「ミイラ取りがミイラになってしまうとは……。もっと警戒しておくべきだった、くそっ」 | ||
<br> だが、権田は僕みたいに責任逃れできないらしい。 | <br> だが、権田は僕みたいに責任逃れできないらしい。 | ||
<br> | <br>「パブの奴らが、僕らを攫ってここに連れてきたってことですかね」 | ||
<br>「それが妥当な解釈だろうな。ただし、連れてきただけじゃない。{{傍点|文章=閉じ込めた}}んだ」 | <br>「それが妥当な解釈だろうな。ただし、連れてきただけじゃない。{{傍点|文章=閉じ込めた}}んだ」 | ||
<br> 権田がここに座して待っている以上、薄々そうではないかと思っていた。しかし、明確に突きつけられると、やはり衝撃を受けた。まだ、心のどこかに、事態を楽観していた自分がいたのだろう。僕は誘拐監禁事件の被害者となったのだ。 | <br> 権田がここに座して待っている以上、薄々そうではないかと思っていた。しかし、明確に突きつけられると、やはり衝撃を受けた。まだ、心のどこかに、事態を楽観していた自分がいたのだろう。僕は誘拐監禁事件の被害者となったのだ。 | ||
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<br>「誰かいませんかあ!」 | <br>「誰かいませんかあ!」 | ||
<br> 何の返答も得られないまま5分ほど経ち、この試みはいたずらに喉を痛めただけだった。外を偶然通りがかった市民とはいかずとも、せめて犯人側からの説明だけでもあって欲しかった。自分たちが何のためにこんなところにいるのかわからないというのは、かなり不安にさせられる。 | <br> 何の返答も得られないまま5分ほど経ち、この試みはいたずらに喉を痛めただけだった。外を偶然通りがかった市民とはいかずとも、せめて犯人側からの説明だけでもあって欲しかった。自分たちが何のためにこんなところにいるのかわからないというのは、かなり不安にさせられる。 | ||
<br> | <br> とりあえず状況を把握しようということになった。権田はいち早く目覚めて少しこの部屋の探検もしたようだが、全貌を把握するには至っていないとのこと。ただし、外に通じていそうな箇所は、目の前の高いドアだけだったという。 | ||
<br> | <br> まずは自分たちのことから。着ている衣服は、下着とシャツとズボンくらい。靴下すら履いていなかった。持ち物もほとんどない。ズボンのポケットに入れていたハンカチはあったが、腕時計は消えていた。体にも不調や違和感はない。怪しい番号を彫られたり、知らぬ間に臓器を摘出されたりはしていないようだ。だが、服を脱いで隅々までチェックするわけにはいかないから、鼠径部にICチップを埋め込まれたりしている可能性は拭えない。後で見てみよう。とにかく、ほとんどの所持品や衣服が奪われていることがわかった。携帯や無線ももちろん無いから、外部と連絡を取る術はない。 | ||
<br> 次に、この部屋だ。広さは十畳くらいあるだろうか。床も壁も天井も真っ白で、清潔さを感じる。そして、異様に天井が高い。やはり5、6メートルはあるだろうか。もっとも、白一色だから目測が取りづらい。調度は、天井のライトと、権田が腰掛けていたベッドのみ。ベッドは飛び出た壁にマットレスを乗せただけのようで、枕も掛け布団も無い。ただし、そこそこ大きい。クイーンベッドくらいの広さはある。壁の一部であるから、権田がベッドを動かそうとしても、叶わなかった。マットレスを剥がそうともしたが、ベッドに固定されているらしく、これもできなかった。 | <br> 次に、この部屋だ。広さは十畳くらいあるだろうか。床も壁も天井も真っ白で、清潔さを感じる。そして、異様に天井が高い。やはり5、6メートルはあるだろうか。もっとも、白一色だから目測が取りづらい。調度は、天井のライトと、権田が腰掛けていたベッドのみ。ベッドは飛び出た壁にマットレスを乗せただけのようで、枕も掛け布団も無い。ただし、そこそこ大きい。クイーンベッドくらいの広さはある。壁の一部であるから、権田がベッドを動かそうとしても、叶わなかった。マットレスを剥がそうともしたが、ベッドに固定されているらしく、これもできなかった。 | ||
<br> | <br> 部屋の床の端には、幅10センチほどの排水溝が、四方の壁際に沿うようにして設置されていた。この部屋の床が、排水溝にぐるりと囲われている格好である。穴の開いた金属の蓋が嵌まっている、プールサイドなんかにあるタイプのもの。蓋を外せないか試してみたが、素手では到底できそうになかった。この部屋に水気はないのに、排水溝に何の必要性があるのだろう。 | ||
僕らはいよいよ、壁にあるドアに目を向けた。この部屋には、僕が起きてすぐ見つけたものとは別に、もう一つドアがある。こちらは高さも普通でレバーもついている。権田によれば、その奥にはまた別の部屋があったらしい。まず、僕らはそのドアの奥を調べることにした。謎のドアを後回しにしたのは、閉じ込められているという事実に向き合うのを、遅らせたかっただけかもしれなかったが。 | 僕らはいよいよ、壁にあるドアに目を向けた。この部屋には、僕が起きてすぐ見つけたものとは別に、もう一つドアがある。こちらは高さも普通でレバーもついている。権田によれば、その奥にはまた別の部屋があったらしい。まず、僕らはそのドアの奥を調べることにした。謎のドアを後回しにしたのは、閉じ込められているという事実に向き合うのを、遅らせたかっただけかもしれなかったが。 | ||
36行目: | 36行目: | ||
<br> ドアの向こうは、今までより天井がぐっと低くなっていた。とはいえ、2メートル半くらいだから、普通の高さなのだが。どうやら、廊下のようだった。僕が先頭を切り、その後を権田が続く。 | <br> ドアの向こうは、今までより天井がぐっと低くなっていた。とはいえ、2メートル半くらいだから、普通の高さなのだが。どうやら、廊下のようだった。僕が先頭を切り、その後を権田が続く。 | ||
<br> 細長い廊下の中途。左右に向かい合うようにしてドアがあり、突き当たりにもう一つドアがある。僕は廊下を進み、右にあるドアを押し開いた。 | <br> 細長い廊下の中途。左右に向かい合うようにしてドアがあり、突き当たりにもう一つドアがある。僕は廊下を進み、右にあるドアを押し開いた。 | ||
<br> | <br> そこは、トイレだった。入ると、人感センサーで勝手に電気がつく。和式便座が一つと、壁に据え付けられたステンレスの手洗い場。そして、便器の横に、もう一つ床に埋まった水槽がある。何に使うのだろう? トイレは概して清潔で、監禁場所にはそぐわないくらいだ。天井には換気口があったが、蓋を開けることはできなかった。 | ||
<br> | <br> トイレを出て、今度は向かいのドアを開ける。こっちは、脱衣所だった。とはいえ、これも備え付けの棚があるだけだ。真っ白なタオルが2枚、置かれてある。横にあるスライドドアを開けると、やはり風呂があった。シャワーと浴槽がある。シャンプーの類もあるらしい。寮の風呂より広い。本当に僕らは監禁されているんだろうかと、疑問に思ってしまう。 | ||
僕らは風呂を出て、廊下の突き当たりへと向かった。そこにあるドアを開く。その部屋は、広い倉庫だった。今までのどの部屋よりも広く、警察学校の教練場くらい広いんじゃないだろうか。そして、倉庫の中には所狭しと大量のものが積み上がっている。近寄って手にとってみると、それは瓶だった。ずしりと重い。権田が、一本の瓶の蓋を開けていた。匂いを嗅ぎ、それを口に運び、 | 僕らは風呂を出て、廊下の突き当たりへと向かった。そこにあるドアを開く。その部屋は、広い倉庫だった。今までのどの部屋よりも広く、警察学校の教練場くらい広いんじゃないだろうか。そして、倉庫の中には所狭しと大量のものが積み上がっている。近寄って手にとってみると、それは瓶だった。ずしりと重い。権田が、一本の瓶の蓋を開けていた。匂いを嗅ぎ、それを口に運び、 | ||
49行目: | 49行目: | ||
<br>「祖父の介護で、見たことがあるんです。ちょうどこんな感じでした。味も悪くはないですよ」 | <br>「祖父の介護で、見たことがあるんです。ちょうどこんな感じでした。味も悪くはないですよ」 | ||
<br> 空腹を覚えていたので、そのまま一本飲み干してしまう。権田も、おっかなびっくり口に運んでいた。 | <br> 空腹を覚えていたので、そのまま一本飲み干してしまう。権田も、おっかなびっくり口に運んでいた。 | ||
<br> | <br> 腹ごなしが済むと、倉庫内の調査に取りかかった。手分けして積み上がった瓶を精査していく。ほどなく、水と流動食の二種類の瓶があることがわかった。それらは微妙に形が異なっていて、区別がつくことがわかった。一方、どの瓶にもラベルの類は無い。僕は、瓶の山に分け入って、数着の着替えと三つの救急箱を見つけた。権田は、缶詰の一角と四本の缶切り、それから1ダースくらいのボディーソープなどのボトルを発見した。 | ||
<br> | <br> それは、捜索開始から30分ほど経ったときだった。僕は瓶の山の反対側へぐるりと回った。すると、何かが落ちているのが見えた。いや、置かれていたのかもしれない。ぽっかりと空いた床の一隅に、それは無造作に置かれていた。それを拾い上げ、僕は思わず叫んだ。 | ||
<br>「先輩、カードです! 番号が書かれてます!」 | <br>「先輩、カードです! 番号が書かれてます!」 | ||
<br> 権田は、瓶を倒しながらすっ飛んできた。僕の手の中にあるカードをまじまじと見つめる。その手の平サイズのカードはプラスチック製で、「3841」とだけ書いてあった。それ以外に、装飾も記述も無い。この番号は…… | <br> 権田は、瓶を倒しながらすっ飛んできた。僕の手の中にあるカードをまじまじと見つめる。その手の平サイズのカードはプラスチック製で、「3841」とだけ書いてあった。それ以外に、装飾も記述も無い。この番号は…… | ||
72行目: | 72行目: | ||
<br>「おう……」 | <br>「おう……」 | ||
僕は痛む肩を押さえて倉庫へと歩いた。さっき見つけた救急箱を一つ持ち、ついでに水の瓶も一本掴み、引き返す。倉庫を出て廊下を渡り、小部屋へと入ったときだった。ぐんと横に手が引っ張られ、耐えきれずにその場に倒れる。続いて、ゴンッという衝撃音。すぐに小部屋の向こうのドアが開き、権田が現れた。 | |||
<br>「大丈夫か、何があった⁈」 | <br>「大丈夫か、何があった⁈」 | ||
<br> 倒れた僕に駆け寄ってくる。しかし、僕は横の壁をぼんやりと見遣っていた。僕の視線を追って、権田がそれに気づいた。 | <br> 倒れた僕に駆け寄ってくる。しかし、僕は横の壁をぼんやりと見遣っていた。僕の視線を追って、権田がそれに気づいた。 | ||
85行目: | 85行目: | ||
<br> 仕方がないから、くっついたものはそのままにして、僕らは倉庫へと向かった。別の救急箱を開き、湿布を取り出して各々肩に貼る。 | <br> 仕方がないから、くっついたものはそのままにして、僕らは倉庫へと向かった。別の救急箱を開き、湿布を取り出して各々肩に貼る。 | ||
<br>「包帯に絆創膏、止血帯、薬も多い……。大抵の怪我や病気なら、対処できるな」 | <br>「包帯に絆創膏、止血帯、薬も多い……。大抵の怪我や病気なら、対処できるな」 | ||
<br> | <br> 水の瓶をらっぱ飲みしながら、権田が言った。この先輩は医者の家の出身で、医療知識がそれなりにある。これからどんな危険が待ち受けているかわからないから、大変心強い。 | ||
水を飲むと尿意を催したので、僕は一言断ってトイレに行った。小便を済ませると、水を流して手を洗う。水を流すと、傍らの謎の水槽の水も流れた。ともあれ、水道はちゃんと通っているようだ。そう安心した時、ふと気がついた。トイレットペーパーが無いのだ。そういえば、倉庫にも見当たらなかったはず。狭いトイレ内を探すと、先端にスポンジのついた鉄の棒を見つけた。僕の脳裏に、古代ローマを舞台とした映画の、トイレのシーンが思い浮かぶ。確か、海綿が先についた棒で汚れを拭き取っていたような……。まさか、これがトイレットペーパーの代わりなのか。横の水槽は、スポンジを洗うためのものということか。ちょっと不衛生だろう。便意を覚えるまでに、ここを脱出できればいいんだが。 | |||
<br> | <br> 僕はトイレを後にし、倉庫へ戻った。すると、倉庫の照明が先程より少し暗い気がした。その旨を権田に伝えると、 | ||
<br>「そうか? 一度ここを離れたから、わかるのかもしれないな」 | <br>「そうか? 一度ここを離れたから、わかるのかもしれないな」 | ||
<br> | <br>「外の日照サイクルに合わせて、光度をコントロールしているのかもしれないですね。もしそうなら、今は夕方ってことになります」 | ||
<br> | <br>「そういや、室温も季節にしちゃあ暖かい。これもコントロールされてるみたいだな」 | ||
<br> | <br>「ええ。全館空調ってやつでしょうか。どこかに空調ダクトがあるかもしれません」 | ||
<br> | <br>「どうせ、天井か壁の裏ってとこだろうな。脱出の足掛かりにはなりそうにない。しかし、ここはかなりの金がかかってるな」 | ||
<br>「この倉庫内の水と食料だけでも、かなりの量がありますからね」 | <br>「この倉庫内の水と食料だけでも、かなりの量がありますからね」 | ||
<br>「まあそれだけの金があるから、人攫いなんてできるんだろうがな。そうだ、汗をかいたから、先に風呂に入ってきてもいいか?」 | <br>「まあそれだけの金があるから、人攫いなんてできるんだろうがな。そうだ、汗をかいたから、先に風呂に入ってきてもいいか?」 | ||
<br>「あ、はい。まるでホテルみたいですね」 | <br>「あ、はい。まるでホテルみたいですね」 | ||
<br>「チェックアウトできないホテルなんてごめんだよ」 | <br>「チェックアウトできないホテルなんてごめんだよ」 | ||
<br> | <br> 苦笑した権田は、倉庫の隅から自分の着替えを取って、風呂へと向かった。僕は倉庫の床に寝そべり、物思いに沈んだ。 | ||
<br> | <br> 一体ここはどこなのか? 僕らを攫ったのは誰なのか? 目的は? いつか解放されるのか? | ||
しばらくして、権田が風呂から出てきた。濡れた髪をタオルで拭いている。 | |||
<br>「洗濯機は無いから、自分たちで洗濯しないといけないな」 | <br>「洗濯機は無いから、自分たちで洗濯しないといけないな」 | ||
<br>「風呂とかの水を使って洗えばいいですかね」 | <br>「風呂とかの水を使って洗えばいいですかね」 | ||
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<br>「その前にここから出られるといいですね」 | <br>「その前にここから出られるといいですね」 | ||
<br>「ははっ、そうだったな」 | <br>「ははっ、そうだったな」 | ||
<br> | <br> 僕は権田と入れ替わるようにして風呂に向かった。脱衣所で服を脱ぐと、権田の脱いだ服が棚にまとめて置かれていたから、その横に離して自分の服を置く。スライドドアを開いて風呂に入った。シャワーをひねると、さっきまで権田が使っていたからか、いきなり温水が出た。もう少し湯を熱くしようと、レバーをひねる。湯気の中で目を凝らすと、その目盛りはなんと70℃まであった。これじゃあ給湯器というより、ちょっとした湯沸かし器である。適温の湯を全身に浴びると、強ばった筋肉がほぐれていく。監禁されているというのに、こうして温かいシャワーを浴びていると、リラックスして安心すら覚えてくるのだから、呑気というか能天気というか。 | ||
<br> | <br> 風呂の中に、椅子や風呂桶は無かった。ボディソープやシャンプーを使おうとして気づいたが、ボトルが重い。これも鉄製だろうか。おそらく倉庫にあったものも同じなのだろう。中身は至って普通のようだ。小さな剃刀もあったので、それで髭を剃る。この剃刀も鉄製なのか、大きさの割に重量がある。髭の伸び方からして、地下のパブで攫われてから一日は経っていないようだ。僕たちは、攫われたその日のうちにここへ運ばれたということか。 | ||
<br> | <br> 欲を言えば湯舟につかりたかったが、今日はやめておこう。そう考えてから、ここに明日以降もいることを想定している自分に気づき、驚いた。ここが安全な場所とはまだ限らないのだ。気分を変えるために顔に湯をかけ、僕は風呂から出た。棚の隅のタオルを取って、体を拭く。倉庫から持ってきた着替えは、誰も袖を通していない新品らしく、心地良い肌触りだった。薄いTシャツとトレーニングパンツ。何となく外部から助けがくることはないと思っていたが、もし今助けが来たら、くつろいでいるようにしか見えないだろうな、と一人苦笑する。 | ||
廊下に出ると、風呂のドアが開いた音を聞きつけたのか、権田が小部屋から手招きしていた。小部屋を通り抜けるときは緊張したが、今度は何ともなく通過できた。着替えの服に鉄が織り込まれているようなことはないようだ。 | 廊下に出ると、風呂のドアが開いた音を聞きつけたのか、権田が小部屋から手招きしていた。小部屋を通り抜けるときは緊張したが、今度は何ともなく通過できた。着替えの服に鉄が織り込まれているようなことはないようだ。 | ||
126行目: | 126行目: | ||
<br> 権田は深く頷いた。 | <br> 権田は深く頷いた。 | ||
<br>「ドア以外のルート、たとえば壁や天井を破るというのも、あまり現実的な方法じゃないからな」 | <br>「ドア以外のルート、たとえば壁や天井を破るというのも、あまり現実的な方法じゃないからな」 | ||
<br> | <br>「換気口や排水溝はどうです?」 | ||
<br> | <br>「人が通るのはまず無理。他の何か、たとえばメッセージを書いた物を排水溝に流す、とかはどうだろう」 | ||
<br>「自分で提案しておいてなんですが、厳しいでしょうね。水道管に詰まらないサイズの物となると、だいぶ限られてきます。そもそもメッセージを書く筆記具なんて無いですし。服の切れ端とかの遺留品を流しても、見つかってここが特定される蓋然性はほぼゼロでしょう」 | <br>「自分で提案しておいてなんですが、厳しいでしょうね。水道管に詰まらないサイズの物となると、だいぶ限られてきます。そもそもメッセージを書く筆記具なんて無いですし。服の切れ端とかの遺留品を流しても、見つかってここが特定される蓋然性はほぼゼロでしょう」 | ||
<br>「なら、やはり脱出ルートはあのドアに限られるか」 | <br>「なら、やはり脱出ルートはあのドアに限られるか」 | ||
<br> | <br> 件のドアを見上げ、僕は歯噛みした。テンキーはある。打ち込む番号も知っている。ただ一つ、高さだけが足りない。 | ||
<br>「約5メートル……。肩車程度じゃ届かないのは実証済み」 | <br>「約5メートル……。肩車程度じゃ届かないのは実証済み」 | ||
<br>「人馬といったか、一人が一人を放り投げるってのはどうだ?」 | <br>「人馬といったか、一人が一人を放り投げるってのはどうだ?」 | ||
157行目: | 157行目: | ||
<br>「瓶や缶は鉄でも、{{傍点|文章=中身は違います}}。中身だけ取り出してここに持ってくれば、いくら流動食とは言っても、ある程度の体積は……」 | <br>「瓶や缶は鉄でも、{{傍点|文章=中身は違います}}。中身だけ取り出してここに持ってくれば、いくら流動食とは言っても、ある程度の体積は……」 | ||
<br> そこまで言って気づいた。 | <br> そこまで言って気づいた。 | ||
<br> | <br>「{{傍点|文章=排水溝}}……」 | ||
<br>「ああ。ドアの真下には排水溝がある。流動食を積み上げるのは、まず不可能だろうな」 | <br>「ああ。ドアの真下には排水溝がある。流動食を積み上げるのは、まず不可能だろうな」 | ||
<br> 暗い顔で権田は続ける。 | <br> 暗い顔で権田は続ける。 | ||
167行目: | 167行目: | ||
<br>「うーん、床から5メートルだから遠いんですよね。天井からはちょっとなんだから、天井から吊り下がるってのはどうです?」 | <br>「うーん、床から5メートルだから遠いんですよね。天井からはちょっとなんだから、天井から吊り下がるってのはどうです?」 | ||
<br>「うん、いい視点の変え方だな。だが……」 | <br>「うん、いい視点の変え方だな。だが……」 | ||
<br> | <br> 僕らは同時に天井を見上げた。目覚めたときより少し光量を落とした電灯は、天井に埋め込まれている。天井はつるりと滑らかで、何かが引っかかるような突起は全くない。 | ||
<br>「まだだ。小部屋のドアは外開き。あれを開けて登れば、鍵穴に届くかも……」 | <br>「まだだ。小部屋のドアは外開き。あれを開けて登れば、鍵穴に届くかも……」 | ||
<br> ベッドを飛び降りて、権田は小部屋のドアを開け、すぐに閉めてすごすごと戻ってきた。そもそも、小部屋はドアがある壁から離れた位置にある。テンキーには、距離も高さも全然足りない。どうやら、このアイデアも不発のようだ。 | <br> ベッドを飛び降りて、権田は小部屋のドアを開け、すぐに閉めてすごすごと戻ってきた。そもそも、小部屋はドアがある壁から離れた位置にある。テンキーには、距離も高さも全然足りない。どうやら、このアイデアも不発のようだ。 | ||
184行目: | 184行目: | ||
<br>「食料は、たぶん5年は持ちますよ。毎日トライすれば、いつか成功するかも」 | <br>「食料は、たぶん5年は持ちますよ。毎日トライすれば、いつか成功するかも」 | ||
<br>「何回間違えたら永久にロックされるみたいな設定が無いことを祈るか。他に妙案が思いつかなければ、試してみよう」 | <br>「何回間違えたら永久にロックされるみたいな設定が無いことを祈るか。他に妙案が思いつかなければ、試してみよう」 | ||
そろそろ脱出方法のアイデアが尽きてきた。顎に手を当てて考えていると、権田が呟いた。 | |||
<br>「なあ、小部屋の磁石は、電磁石なんだよな?」 | <br>「なあ、小部屋の磁石は、電磁石なんだよな?」 | ||
<br>「永久磁石では、あれだけの磁力は出せないと思います。電磁石と考えて良いと思いますよ」 | <br>「永久磁石では、あれだけの磁力は出せないと思います。電磁石と考えて良いと思いますよ」 | ||
191行目: | 192行目: | ||
<br>「その通りだ。そうすれば、踏み台が作れる。どうだ?」 | <br>「その通りだ。そうすれば、踏み台が作れる。どうだ?」 | ||
<br>「その発想はありませんでしたね……。ただ、電気をどうやって止めるんです? コンセントでもあれば、何かを差し込んでショートさせられるかもしれませんけど」 | <br>「その発想はありませんでしたね……。ただ、電気をどうやって止めるんです? コンセントでもあれば、何かを差し込んでショートさせられるかもしれませんけど」 | ||
<br> | <br>「コンセントは見当たらなかったな。だが、この手はどうだ? 小部屋に排水溝は無いから、{{傍点|文章=小部屋を水没させる}}んだ。すると、壁の裏とかにある配線が浸かって、{{傍点|文章=漏電して電気が遮断される}}かもしれない」 | ||
<br> 僕はしばらく考えて、口を開いた。 | <br> 僕はしばらく考えて、口を開いた。 | ||
<br>「先輩、その方法には致命的な欠陥があります」 | <br>「先輩、その方法には致命的な欠陥があります」 | ||
213行目: | 214行目: | ||
<br>「実は、3841って打ち込むテンキーは、実は他の場所にあるんじゃないですか? そうだ、倉庫はまだ探し切れてない。瓶を全部どかせば、床にドアがついてるかもしれませんよ」 | <br>「実は、3841って打ち込むテンキーは、実は他の場所にあるんじゃないですか? そうだ、倉庫はまだ探し切れてない。瓶を全部どかせば、床にドアがついてるかもしれませんよ」 | ||
<br>「……探す価値はあるな。明日、やってみよう」 | <br>「……探す価値はあるな。明日、やってみよう」 | ||
<br> | <br> こんなやけっぱちな放言にも権田はちゃんと答えてくれて、申し訳なくなった。いくら脱出の見込みがなくたって、理性的にならねば。幸い、食料はたっぷりある。少なくとも今はまだ、命の危険が差し迫っているわけではないのだから。 | ||
<br> ……なぜだ? ふと疑問が浮かぶ。 | <br> ……なぜだ? ふと疑問が浮かぶ。 | ||
「先輩、どうして僕たちを閉じ込めた奴らは、わざわざ大量の食料やら何やらを用意したんですかね?」 | 「先輩、どうして僕たちを閉じ込めた奴らは、わざわざ大量の食料やら何やらを用意したんですかね?」 | ||
<br>「やっぱりそれは疑問だよな。{{傍点|文章=なぜ閉じ込めたのか}} | <br>「やっぱりそれは疑問だよな。{{傍点|文章=なぜ閉じ込めたのか}}。この答えが得られれば、脱出のヒントになるかもしれない。よし、今度はこれについて考えてみよう」 | ||
<br> | <br> なぜ奴らは僕らを攫い、閉じ込めたのか。 | ||
<br>「普通は、身代金目的とかでしょうけど……」 | <br>「普通は、身代金目的とかでしょうけど……」 | ||
<br>「もしそうなら、こんな手厚い待遇しなくてもいいよな。椅子とかに縛り付けて、どっかに放り込んでりゃいいんだから」 | <br>「もしそうなら、こんな手厚い待遇しなくてもいいよな。椅子とかに縛り付けて、どっかに放り込んでりゃいいんだから」 | ||
<br> | <br>「人を攫う目的なら色々ありそうですけど、こんな建物に中途半端に閉じ込めておく理由がわかりませんね」 | ||
<br>「この建物だけでも、相当な手間と金がかかってる。ここは人を監禁するために建てられたってことでいいんだよな? 何か別の理由で建設されたものを監禁に転用したとは考えづらいよな」 | <br>「この建物だけでも、相当な手間と金がかかってる。ここは人を監禁するために建てられたってことでいいんだよな? 何か別の理由で建設されたものを監禁に転用したとは考えづらいよな」 | ||
<br>「そうですね。でも、ただ監禁するだけなら、内から開けられる鍵なんてつけなきゃいいんです。何か理由があってこんな構造をしているとは思うんですけど……」 | <br>「そうですね。でも、ただ監禁するだけなら、内から開けられる鍵なんてつけなきゃいいんです。何か理由があってこんな構造をしているとは思うんですけど……」 | ||
231行目: | 232行目: | ||
「これは、何か大掛かりな実験なんじゃないですか? 極限状態で人はどう振る舞うのか観察する、みたいな」 | 「これは、何か大掛かりな実験なんじゃないですか? 極限状態で人はどう振る舞うのか観察する、みたいな」 | ||
<br>「非合法な実験、か……」 | <br>「非合法な実験、か……」 | ||
<br> | <br>「何か、真っ当に被験者を募れないような実験だから、こうやって無理やり人を攫ってきてるんじゃ?」 | ||
<br>「もしそうなら、なかなか明るい想像はできないな……」 | <br>「もしそうなら、なかなか明るい想像はできないな……」 | ||
<br> | <br> 今からもっと非人道的な仕打ちが、被験者たる僕らに加えられるのかもしれない。 | ||
<br>「これが実験なら、この建物もその内容に即した構造をしているってことになるな」 | <br>「これが実験なら、この建物もその内容に即した構造をしているってことになるな」 | ||
<br>「どんな実験なんでしょうね?」 | <br>「どんな実験なんでしょうね?」 | ||
<br> | <br>「さあな。わからんが、これが実験なら、あってしかるべきものがある」 | ||
<br>「何です?」 | <br>「何です?」 | ||
<br>「カメラだよ。カメラでなくても、何らかの方法でこちらを観察してるはずだ」 | <br>「カメラだよ。カメラでなくても、何らかの方法でこちらを観察してるはずだ」 | ||
243行目: | 244行目: | ||
<br>「ああ。朝になったら探してみよう」 | <br>「ああ。朝になったら探してみよう」 | ||
天井のライトは随分暗くなり、権田の顔もよく見えないほどになった。暗くなると何も見えないから、必然的に寝るくらいしかできなくなる。僕は権田にベッドを譲り自分は床で寝ることを主張したが、権田の頑固な説得と恫喝、果ては先輩命令までもが発せられ、結局僕もベッドを使うことになった。マットレスの端ギリギリに横たわり、権田に背を向けて固く目を閉じる。 | |||
<br> 権田はもう寝入ったのか、ぐうぐうという寝息が聞こえてきた。僕は頭が冴えていて、全然眠れそうになかった。数々の疑問が渦巻いて、脳内をぐるぐると回っている。 | <br> 権田はもう寝入ったのか、ぐうぐうという寝息が聞こえてきた。僕は頭が冴えていて、全然眠れそうになかった。数々の疑問が渦巻いて、脳内をぐるぐると回っている。 | ||
<br> 僕らはなぜ閉じ込められているのか? 実験ならば、それはどんな実験なのか? この建築物の構造の意味は? | <br> 僕らはなぜ閉じ込められているのか? 実験ならば、それはどんな実験なのか? この建築物の構造の意味は? | ||
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<br>「佐藤、何をしていたんだ? 物音がしたから、様子を見にきたんだが」 | <br>「佐藤、何をしていたんだ? 物音がしたから、様子を見にきたんだが」 | ||
<br> 僕が答えられずにいると、権田は床の缶詰に目を向けた。中には、白い粉がいっぱいに入っている。 | <br> 僕が答えられずにいると、権田は床の缶詰に目を向けた。中には、白い粉がいっぱいに入っている。 | ||
<br>「この缶がどうかしたのか? これは……まさか<ruby>覚醒剤<rt>エス</rt></ruby> | <br>「この缶がどうかしたのか? これは……まさか<ruby>覚醒剤<rt>エス</rt></ruby>とかか?」 | ||
<br>「そんな物騒なものじゃないですよ。舐めてみてください」 | <br>「そんな物騒なものじゃないですよ。舐めてみてください」 | ||
<br> 権田は粉を少し指に取り、おそるおそる舐めた。 | <br> 権田は粉を少し指に取り、おそるおそる舐めた。 | ||
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<br>「ここから脱出する方法が、一つだけあるんです。奴らは、{{傍点|文章=僕らにその唯一の手段を取ってほしい}}んです」 | <br>「ここから脱出する方法が、一つだけあるんです。奴らは、{{傍点|文章=僕らにその唯一の手段を取ってほしい}}んです」 | ||
<br>「その、唯一の脱出方法ってのは、一体何なんだ?」 | <br>「その、唯一の脱出方法ってのは、一体何なんだ?」 | ||
<br> | <br> 権田の性急な問いを無視して、外堀を埋めていく。叶うなら、僕が説明する前に、権田に気づいてほしい。僕が言わんとしている、残酷な真実に。 | ||
<br>「さっき、なぜ奴らは僕らにしばらく生きていてほしいのか、と言いましたね? その答えは、脱出には時間がかかるからです。1年、いや3年、もっとかかるかもしれない。その間僕らを生かすために、生きられると判断させて僕らにその脱出方法を取らせるために、これだけの設備を用意したんです」 | <br>「さっき、なぜ奴らは僕らにしばらく生きていてほしいのか、と言いましたね? その答えは、脱出には時間がかかるからです。1年、いや3年、もっとかかるかもしれない。その間僕らを生かすために、生きられると判断させて僕らにその脱出方法を取らせるために、これだけの設備を用意したんです」 | ||
<br>「その方法ってのは、何なんだ……?」 | <br>「その方法ってのは、何なんだ……?」 | ||
<br>「取るのは、踏み台戦法です。足りない1メートルを、稼ぐ方法があるんです」 | <br>「取るのは、踏み台戦法です。足りない1メートルを、稼ぐ方法があるんです」 | ||
<br> | <br>「しかし、ここにあるものでは、どれも高さが足りないという結論に至ったじゃないか」 | ||
<br>「その通りです。ここにあるものでは、1メートルに届かない。だから、{{傍点|文章=ここに無いものを使う}}んです」 | <br>「その通りです。ここにあるものでは、1メートルに届かない。だから、{{傍点|文章=ここに無いものを使う}}んです」 | ||
<br>「外から何かを調達する方法があるのか?」 | <br>「外から何かを調達する方法があるのか?」 | ||
<br>「そうじゃありません。{{傍点|文章=今はここに無いけど}}、{{傍点|文章=後でここに現れるものを使う}}んです」 | <br>「そうじゃありません。{{傍点|文章=今はここに無いけど}}、{{傍点|文章=後でここに現れるものを使う}}んです」 | ||
<br>「どういうことだ?」 | <br>「どういうことだ?」 | ||
<br> | <br>「まだわかりませんか⁈」 | ||
<br> きっと権田を睨むと、本気で戸惑っている顔が薄闇の中に浮かんでいた。思わず顔を伏せた。 | <br> きっと権田を睨むと、本気で戸惑っている顔が薄闇の中に浮かんでいた。思わず顔を伏せた。 | ||
<br>「……ごめんなさい。先輩にあたってもどうにもならないのに」 | <br>「……ごめんなさい。先輩にあたってもどうにもならないのに」 | ||
<br> 暗くてよかった。今の、今からの自分の顔を、権田に見せられる勇気は、僕にはない。 | <br> 暗くてよかった。今の、今からの自分の顔を、権田に見せられる勇気は、僕にはない。 | ||
<br>「僕ら二人の体だけでは、テンキーには届きません」 | <br>「僕ら二人の体だけでは、テンキーには届きません」 | ||
<br> | <br>「そうだな」 | ||
<br>「でも、{{傍点|文章=三人いれば届く}}。{{傍点|文章=三人目さえいれば脱出できる}}んです」 | <br>「でも、{{傍点|文章=三人いれば届く}}。{{傍点|文章=三人目さえいれば脱出できる}}んです」 | ||
<br>「……ちょっと待て」 | <br>「……ちょっと待て」 | ||
<br>「そして、三人目を用意するのは、僕らにとって不可能なことではない」 | <br>「そして、三人目を用意するのは、僕らにとって不可能なことではない」 | ||
<br>「不可能だろう⁉︎」 | <br>「不可能だろう⁉︎」 | ||
<br>「なぜです? 食料も衛生環境も、時間もある。あの缶の中身は、{{傍点|文章=粉ミルク}} | <br>「なぜです? 食料も衛生環境も、時間もある。あの缶の中身は、{{傍点|文章=粉ミルク}}ですよ、先輩。おあつらえ向きに、風呂では70℃の湯さえ用意できる」 | ||
<br>「まさか……まさか……」 | <br>「まさか……まさか……」 | ||
<br> 権田は驚愕に目を見開いて叫んだ。 | <br> 権田は驚愕に目を見開いて叫んだ。 | ||
「{{傍点|文章= | 「{{傍点|文章=わたしが子供を産むことが}}、{{傍点|文章=脱出方法だと言いたいのか}}⁈」 | ||
<br>「赤ん坊が数年育てば、身長は1メートルに達するでしょう。そして、ここには{{傍点|文章=成人男女が一組いる}}んです。これが、脱出方法ですよ」 | <br>「赤ん坊が数年育てば、身長は1メートルに達するでしょう。そして、ここには{{傍点|文章=成人男女が一組いる}}んです。これが、脱出方法ですよ」 | ||
<br>「でも、でも……色々ないだろう、その、病院とか……」 | <br>「でも、でも……色々ないだろう、その、病院とか……」 | ||
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<br>「これでわかったでしょう? ここは、{{傍点|文章=セックスしないと出られない部屋}}なんですよ」 | <br>「これでわかったでしょう? ここは、{{傍点|文章=セックスしないと出られない部屋}}なんですよ」 | ||
<br>「セッ……そんな……」 | <br>「セッ……そんな……」 | ||
<br> | <br> 権田の整った顔が赤く染まったのが、闇の中でも見えた。思わず僕は権田の両肩を掴んで、マットレスに押し倒す。ボブカットの黒髪がふわりとシーツに広がり、ぱっちりした両眼が驚きに揺れる。いくら鍛え上げているとはいえ女の細腕では、同じく警察官の僕を押し退けることはできない。僕は、権田の腰にまたがった。マットレスが軋み、薄着の下の乳房が魅力的に揺れる。 | ||
<br>「これが、脱出する唯一の方法なんです。……先輩、いいですか?」 | <br>「これが、脱出する唯一の方法なんです。……先輩、いいですか?」 | ||
<br> ほのかな灯りの下、権田の目の奥が、小さく揺れた。 | <br> ほのかな灯りの下、権田の目の奥が、小さく揺れた。 |
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