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 その刑務所は、安全な社会を守るといういたって平凡な理念のもとに造られた。更生がまったく期待されないような超凶悪犯罪者たちを収監し、死ぬまで閉じ込めておくのだ。
 その刑務所は、安全な社会を守るといういたって平凡な理念のもとに造られた。更生がまったく期待されないような超凶悪犯罪者たちを収監し、死ぬまで閉じ込めておくのだ。


 囚人達の行動は、起床の仕方から歯ブラシの角度まで完全に監視・統制されており、脱獄はおろか自殺さえ不可能。徹底的に罪人を封じ込め続けるこの刑務所から生きて出る方法は、どこにもなかった――そう、「善人-1グランプリ」の優勝トロフィーを除いては。
 囚人達の行動は、起床の仕方から歯ブラシの角度まで完全に監視・統制されており、脱獄はおろか自殺さえ不可能。徹底的に罪人を封じ込め続けるこの刑務所から生きて出る方法を、わたしは未だ知らない――そう、「善人-1グランプリ」の優勝トロフィーを除いては。


 古代ギリシア、プラトンの言った「哲人政治」の思想を継ぐこの国家において、「善」は最も重視される概念として君臨してきた。その善性によって選出される歴代の王たち――かの『国家』の「哲人王」にあやかって「善人王」とも呼ばれる――が、強固な独裁政治を通じて、ついに制度として打ち立てるに至ったのが、この「善人-1グランプリ」なのである。
 古代ギリシア、プラトンの言った「哲人政治」の思想を継ぐこの国家において、「善」は最も重視される概念として君臨してきた。その善性によって選出される歴代の王たち――かの『国家』の「哲人王」にあやかって「善人王」とも呼ばれる――が、強固な独裁政治を通じて、ついに制度として打ち立てるに至ったのが、この「善人-1グランプリ」なのである。
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「さあ四人目だ。法廷では遺族に対して一発ギャグを披露した、千年に一度の最悪極悪サイコパス、囚人番号357番です!」
「さあ四人目だ。法廷では遺族に対して一発ギャグを披露した、千年に一度の最悪極悪サイコパス、囚人番号357番です!」


「22歳の夏、彼は家族全員を惨殺したのち、街に躍り出て数々の通り魔的犯行に及び、即座に我が国の最高刑・無期懲役を言い渡されました。法廷でも侮辱の限りを尽くしていた彼ですが、署内ではまるで人が違ったようになっているとのことです。もしかすると、今大会のダークホースになるかもしれませんね」
「27歳の夏、彼は家族全員を惨殺したのち、街に躍り出て数々の通り魔的犯行に及び、即座に我が国の最高刑・無期懲役を言い渡されました。法廷でも侮辱の限りを尽くしていた彼ですが、署内ではまるで人が違ったようになっているとのことです。もしかすると、今大会のダークホースになるかもしれませんね」


「ではいよいよ……おっとここで、ようやく映像が入ってきました。ステージ1の舞台はどうやら『地下鉄』に設定されているようです。四人は駅のホームにいます。さてこの中から、果たして来年度の善人王となる者は現れるのでしょうか!? ……今、ゴングが鳴り、戦いの火蓋が切られましたーっ!」
「ではいよいよ……おっとここで、ようやく映像が入ってきました。ステージ1の舞台はどうやら『地下鉄』に設定されているようです。四人は駅のホームにいます。さてこの中から、果たして来年度の善人王となる者は現れるのでしょうか!? ……今、ゴングが鳴り、戦いの火蓋が切られましたーっ!」
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 この刑務所に入ってから、ようやく「善」というものの素晴らしさを理解したというのに。
 この刑務所に入ってから、ようやく「善」というものの素晴らしさを理解したというのに。


 ……自分で言うのもなんだが、僕は天才だった。だから、幼稚園を卒業するときに大学の試験を受けて、そのまま飛び級で最高学府に入学したんだ。その結果、誰にも「道徳」をきちんと教わらないまま、大人になってしまった。「愛」だの「正義」だのを賛美するような寓話的な絵本もアニメも、一度だって見なかった。見ようという発想自体なかった。テレビに犯罪者が映るたびに、馬鹿だなあと思った。だって、犯罪はバレなければ犯罪にならないのだから。
 ……自分で言うのもなんだが、僕は天才だった。だから、幼稚園を卒業する時に大学の試験を受けて、そのまま飛び級で最高学府に入学したんだ。その結果、誰にも「道徳」をきちんと教わらないまま、大人になってしまった。「愛」だの「正義」だのを賛美するような寓話的な絵本もアニメも、一度だって見なかった。見ようという発想自体なかった。テレビに犯罪者が映るたびに、馬鹿だなあと思った。だって、犯罪はバレなければ犯罪にならないのだから。


 でも、バレてしまった。無期懲役刑で、この刑務所に入れられることになった。悲しかったし、悔しかった。もう研究なんてできたもんじゃない。だから、半分やけくそみたいな感じで、置いてあった絵本を読んでみたんだ。多分、バカにしてやろうっていう魂胆で。
 でも、バレてしまった。無期懲役刑で、この刑務所に入れられることになった。悲しかったし、悔しかった。もう研究なんてできたもんじゃない。だから、半分やけくそみたいな感じで、置いてあった絵本を読んでみたんだ。多分、バカにしてやろうっていう魂胆で。
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 ……「ペットの虐待死は良くない」とか言ってる奴らに比べたら、「家畜の屠殺は良くない」と言ってる奴はめっぽう少ないだろう。つまり、結局「善」の運用される範囲なんて恣意的なものじゃないか。その動物が「かわいい」かそうでないか、その死が人間に無益か有益かで、動物の死を「かわいそう」かそうでないか判断しているだけだ。
 ……「ペットの虐待死は良くない」とか言ってる奴らに比べたら、「家畜の屠殺は良くない」と言ってる奴はめっぽう少ないだろう。つまり、結局「善」の運用される範囲なんて恣意的なものじゃないか。その動物が「かわいい」かそうでないか、その死が人間に無益か有益かで、動物の死を「かわいそう」かそうでないか判断しているだけだ。


 俺は数多くの犯罪を取りまとめてきた。俺の事業は数えきれないほどの人間を死なせただだろうし、苦しませただろうし、不幸にさせただろう。だがこの「稼ぎ」は、全て俺と俺の家族のためだった。ここにどんな違いがある? 牛や豚の命を奪って食う他の奴らと、どんな違いがあるというんだ?
 俺は数多くの犯罪を取りまとめてきた。俺の事業は数えきれないほどの人間を死なせただだろうし、苦しませただろうし、不幸にさせただろう。だがこの「稼ぎ」は、すべて俺と俺の家族のためだった。ここにどんな違いがある? 牛や豚の命を奪って食う他の奴らと、どんな違いがあるというんだ?


 俺も家族も他人も猫も犬も豚も牛も鶏も、みんな生きてるし、殺されるときは苦痛を感じるだろう。もちろん、生活のために動物の中に「殺して良い」ラインを引かなければいけないことは否定しない。しかし、なぜそれを人間の中に持ち込んではいけないんだ? 「他人がいないと生きていけない」なんて当然だ。「食料になる動物がいないと生きていけない」と全く同じように当然だ。
 俺も家族も他人も猫も犬も豚も牛も鶏も、みんな生きてるし、殺される時は苦痛を感じるだろう。もちろん、生活のために動物の中に「殺して良い」ラインを引かなければいけないことは否定しない。しかし、なぜそれを人間の中に持ち込んではいけないんだ? 「他人がいないと生きていけない」なんて当然だ。「食料になる動物がいないと生きていけない」とまったく同じように当然だ。


 結局、数の論理じゃないか。もはやかつての人種差別は完全な「悪」だし、ヴィーガニズムはまさしく「善」になろうとしている。数世紀後には「植物愛護」「細菌愛護」「ウイルス愛護」が始まるだろうな。
 結局、数の論理じゃないか。もはやかつての人種差別は完全な「悪」だし、ヴィーガニズムはまさしく「善」になろうとしている。数世紀後には「植物愛護」「細菌愛護」「ウイルス愛護」が始まるだろうな。
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「いや、まだロールプレイは終わっていないようですよ、若松アナ。あれを見てください」
「いや、まだロールプレイは終わっていないようですよ、若松アナ。あれを見てください」


「……!? な、なんと、三駅目のホームの向かい側に、どう見ても自殺しようとしている感じの人が! これはどうしたものでしょうか……おっと、囚人番号357番、車両から降り、猛ダッシュで反対側のホームへ移動しています……あ、間もなく車両が来るというそのとき、357番、自殺志願者を保護することに成功しました――っ!」
「……!? な、なんと、三駅目のホームの向かい側に、どう見ても自殺しようとしている感じの人が! これはどうしたものでしょうか……おっと、囚人番号357番、車両から降り、猛ダッシュで反対側のホームへ移動しています……あ、間もなく車両が来るというその時、357番、自殺志願者を保護することに成功しました――っ!」


「これはどっちでしょうか。審判の判定は……セーフです。『いのちだいじに』ボーナスを獲得です」
「これはどっちでしょうか。審判の判定は……セーフです。『いのちだいじに』ボーナスを獲得です」
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 私にとって、自殺を止めるっていうのは……あいつらの常識で言えば、ちょうど「妊婦を殴る」くらいかしら。「自殺は迷惑」っていうのは、「出産は迷惑」に置き換えられるのでしょうね。言ってて全然「ひどさ」がピンとこないけど。「取り返しがつかない」っていうのも、そりゃあそれが目的ですからね、としか言いようがない。全然理解できないわ。
 私にとって、自殺を止めるっていうのは……あいつらの常識で言えば、ちょうど「妊婦を殴る」くらいかしら。「自殺は迷惑」っていうのは、「出産は迷惑」に置き換えられるのでしょうね。言ってて全然「ひどさ」がピンとこないけど。「取り返しがつかない」っていうのも、そりゃあそれが目的ですからね、としか言いようがない。全然理解できないわ。


 ……もしかしたらあいつらは私を、あるいはアーギリ教を、狂気の沙汰だと思ってるのかもしれない。ただ、私の故郷では全く逆。狂人はあいつらよ。結局「善」なんて、その辺で一番支持者が多いっていう特徴があるだけのただの一価値観に過ぎないじゃない。私はあまりにも違う文化圏で育ったから分からないけれど、もしかしたらこの国にも、私とはまた別の理由で「自殺しようとしている人を止めるのはおかしい」って思ってる人がいるかもしれない。
 ……もしかしたらあいつらは私を、あるいはアーギリ教を、狂気の沙汰だと思ってるのかもしれない。ただ、私の故郷ではまったく逆。狂人はあいつらよ。結局「善」なんて、その辺で一番支持者が多いっていう特徴があるだけのただの一価値観に過ぎないじゃない。私はあまりにも違う文化圏で育ったから分からないけれど、もしかしたらこの国にも、私とはまた別の理由で「自殺しようとしている人を止めるのはおかしい」って思ってる人がいるかもしれない。


 周りの人によって「善」が変わるなら、あいつらが尊ぶ「善」の正当性はどこにあるのかしら? やっぱりあいつら、全然理解できないわ。
 周りの人によって「善」が変わるなら、あいつらが尊ぶ「善」の正当性はどこにあるのかしら? やっぱりあいつら、全然理解できないわ。


 そういえば、逮捕されるときの私の「無抵抗です」のハンドサインも、何やら侮辱と捉えられたみたいだし。常識がまるっきり違う人を相手にしたら、価値観なんて脆いものね。
 そういえば、逮捕される時の私の「無抵抗です」のハンドサインも、何やら侮辱と捉えられたみたいだし。常識がまるっきり違う人を相手にしたら、価値観なんて脆いものね。


{{転換}}
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「きょ、『凶悪犯罪者チェスバトル』!?」
「きょ、『凶悪犯罪者チェスバトル』!?」


「このゲームは、ルールとしてはいたってシンプルな普通のチェス。しかし特徴的なのは、各16個、計32個のチェスの駒が、全て刑務所内から連れてこられた凶悪犯罪者で代用されていることでしょう」
「このゲームは、ルールとしてはいたってシンプルな普通のチェス。しかし特徴的なのは、各16個、計32個のチェスの駒が、すべて刑務所内から連れてこられた凶悪犯罪者で代用されていることでしょう」


「なるほど……善人王たるもの、ただ軟弱で優しいだけの人物ではなく、悪人を指導・指揮して従わせることのできる『強い善人』でなければならないんですねえ。ただ、流石に身一つでこの数の悪人を従わせるというのは難しい気がしますが……」
「なるほど……善人王たるもの、ただ軟弱で優しいだけの人物ではなく、悪人を指導・指揮して従わせることのできる『強い善人』でなければならないんですねえ。ただ、流石に身一つでこの数の悪人を従わせるというのは難しい気がしますが……」
175行目: 175行目:
 私は悪人を殺すためだけに善人王になった。
 私は悪人を殺すためだけに善人王になった。


 六年前、職場の予選で勝ち、地区大会にも、本大会にも勝ち、初めて善人王になったあのとき、私は死刑制度の復活論を唱えた。しかし私は、この行為を咎める法の記述によって、善人王の地位はそのまま、手続き的に特権を簒奪されたのだ。調べてみると、この国には隠された絶対のルールが存在していた――「殺人は善ではありえない」。
 六年前、職場の予選で勝ち、地区大会にも、本大会にも勝ち、初めて善人王になったあの時、私は死刑制度の復活論を唱えた。しかし私は、この行為を咎める法の記述によって、善人王の地位はそのまま、手続き的に特権を簒奪されたのだ。調べてみると、この国には隠された絶対のルールが存在していた――「殺人は善ではありえない」。


 数世紀前までは、この国にも死刑制度が残っていた。しかし、近年になって廃止されてしまった。いわく諸外国の圧力に屈したらしい。私はこれが許せなかった。悪人を殺すためだけに、この国の独裁者たる「善人王」にこぎつけたのに、この仕打ちだ。……しかし私はある計画を思いついた。無限に犯罪者を殺し続けられる計画だ。
 数世紀前までは、この国にも死刑制度が残っていた。しかし、近年になって廃止されてしまった。いわく諸外国の圧力に屈したらしい。私はこれが許せなかった。悪人を殺すためだけに、この国の独裁者たる「善人王」にこぎつけたのに、この仕打ちだ。……しかし私はある計画を思いついた。無限に犯罪者を殺し続けられる計画だ。
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「こ、これは……!? この予選大会、いったい何が起きているのでしょうか、次から次へと、信じられないことです。今上善人王が、囚人番号357番に『トロッコ問題』を出題――っ!」
「こ、これは……!? この予選大会、いったい何が起きているのでしょうか、次から次へと、信じられないことです。今上善人王が、囚人番号357番に『トロッコ問題』を出題――っ!」


「『トロッコ問題』……数世紀前、当時の善人王が刺客にこれを出題されたときに言った、『これってどっち選んでも悪人みたいにされちゃうじゃんね。結局こういう問題出してくる奴が一番悪い奴なんじゃない?』という言葉を根拠に、明確に法的に出題を禁じられた問題ですが……今上善人王は、囚人番号357番を道連れにしようとしているのでしょうか? 確かに、これが出題された以上、どっちを答えたにしろ嫌な感じになってしまうので、審判の判定によっては地区大会への出場資格を降り消されてしまう可能性があります」
「『トロッコ問題』……数世紀前、当時の善人王が刺客にこれを出題された時に言った、『これってどっち選んでも悪人みたいにされちゃうじゃんね。結局こういう問題出してくる奴が一番悪い奴なんじゃない?』という言葉を根拠に、明確に法的に出題を禁じられた問題ですが……今上善人王は、囚人番号357番を道連れにしようとしているのでしょうか? 確かに、これが出題された以上、どっちを答えたにしろ嫌な感じになってしまうので、審判の判定によっては地区大会への出場資格を降り消されてしまう可能性があります」


「いや、しかし、それなら答えないとか、その当時の善人王みたいにしてはっきり解答するのを上手く回避すればいいのではないでしょうか」
「いや、しかし、それなら答えないとか、その当時の善人王みたいにしてはっきり解答するのを上手く回避すればいいのではないでしょうか」


「それがですよ、彼は今上善人王なんです。獄中に居て独裁権こそ失われているものの、『善人王』の地位は持続しています。これは一年おきの『善人-1』でしか移動しないものですからね。つまり、まだ彼は立場的には『善人王』なのです。そんな彼の質問から逃げるようなことは、『悪』とみなされる可能性が高い。実際、善人王をシカトしたりするのは悪であるという判例は枚挙にいとまがありません」
「それがですよ、彼は今上善人王なんです。獄中に居て独裁権こそ失われているものの、囚人番号で呼ばれることすらない。『善人王』の地位が未だ持続しているのです。これは一年おきの『善人-1』でしか移動しないものですからね。つまり、まだ彼は立場的には『善人王』なのです。そんな彼の質問から逃げるようなことは、『悪』とみなされる可能性が高い。実際、善人王をシカトしたりするのは悪であるという判例は枚挙にいとまがありません」


「では、囚人番号357番は……『詰み』ですか?」
「では、囚人番号357番は……『詰み』ですか?」


「ええ、奇しくも、チェックメイトといえるでしょう」
「ええ、奇しくも……『チェックメイト』といえるでしょう」
 
「おっと、今、『最悪サイコパス』囚人番号357番が、口を開こうとしています!」
 
「いったい彼は、何を語るのでしょうか」


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 レバーを引けば、五人は助けられるが一人殺すことになる。レバーを引かなければ、五人を見殺しにしたことになる。
 あるいは、例えば「臓器くじ」などというのもある。健康な人間の中からランダムに選んだ一人から、その健康な臓器をすべて摘出し、それぞれ必要としている患者に渡す。共通点は、多数の命を救うために少数の命を殺すことになるというところだろう。しかし、例えば一人の方は子供で、五人の方は後期高齢者だったとしたら? 一人の方は有名アーティストで、五人の方は前科のある人たちだったなら? 一人の方はあなたの家族で、五人の方はわたしの家族だったなら?
 まあしかし、わたしの家族を五人、トロッコの線路の上に並べようとも不可能だ。彼らは全員、既にわたしが殺してしまっている。彼らは本当に酷かった。物心ついた時にはわたしは庭の小屋に監禁されていて、二日に一度残飯のようなものがもらえた。父と母は毎日私を殴った。しかし弟と二人の妹はいたって普通に学校に行って、友達と遊んで、勉強していた。なぜ私だけがあんなふうに扱われていたのかは分からない。
 わたしはしぶとく生きた。ある日、父がナイフでわたしを刺そうとした時、わたしは初めて父に反逆し、ナイフを奪って全身をめった刺しにした。あのとき何故あんなことができたのかは分からない。しかし気分が良かったのは確かだった。ナイフで自分の髪を切って、そのまま母をめった刺しにした。まったく同じ要領で、弟と二人の妹もめった刺しにした。
 家から出て、まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、通行人をめった刺しにした。まったく同じ要領で、警察をめった刺しにしようとしたら、拳銃で撃たれて、気づいたら小屋よりも快適な知らない場所で寝ていた。
 そこは刑務所というところだった。わたしはここで、ちょうど「囚人番号249番」――「暗記」の彼と同じように、「善」とは素晴らしいものだということに気づいた。「善」について、いろいろ考えた。いい気もちだった。しかし考えれば考えるほど、「善」は色褪せていった。「善」とは何か、分からなくなった。「善」なんて無いのかもしれない、そう思った。
 なんせ、全員を幸せにするような理想的な「善」は、存在しえないらしいのだ。トロッコ問題なんて最たる例だ。あの一分の隙も無くモデル化された命の選択に関われば最後、もうそれは「善」ではなくなってしまう。理想的で完全な「善」は、フィクションの世界の「めでたしめでたし」にしか存在しないのだ。そこまで考えて、気づいた。ならばその「フィクション」を作ればいい。
 こういうわけで、私は小説を書き始めた。どうやって書けばいいのかよく知らなかったが、とりあえず最初に物語に登場する要素を説明した。その後、実況中継風の二人の人物の会話を通じて、数人の犯罪者を登場させた。展開に併せて、彼らの内面を描写した。私は死刑になるらしいから。そういう私が恐ろしく思う考えも書いた。後で使うからだ。そして今、私を投影した人物に、私を代弁してもらっているのだ。
 さて、いよいよ、理想的で完全な「善」を行うことができる。それは、誰にでも等しく受け入れられる、とても善く、素晴らしく、現実にはあり得ないような何かだ。今、わたしは、それを行った。すると、今まで出てきたすべての登場人物が喜んだ。彼らは更生し、善人になったのだ。「今上善人王」さえ、発言を撤回してくれた。「死刑制度は廃止すべきだ」「あなたはもう更生して、善人になった」と言っている。
 そこでわたしは、この小説のタイトルを変更することにした。元々は「善人しか出てこない刑務所」だったのを、今、「善人しか出てこない話」にした。なぜなら、登場人物は今や完全に更生し、善人としか言いようがない存在になっているからだ。わたしだってそうだ。ここにいるわたしは、現実にはあり得ないような何かによって、もはや善人としか言いようがない存在になっている。
 わたしも早くそこへ行きたい。
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