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で、さっきの北周の楊堅(文帝)が、当時の南朝だった陳を滅ぼし、久々に中国を統一して隋を建設しました。科挙を開始したり、均田制や祖調庸制、府兵制をやりました。二代目の煬帝は大運河を建設したりと頑張りましたが、高句麗の遠征に失敗したため反乱が起き、その中で李淵(高祖)という人が唐を打ち立てました。隋の都だった大興城を長安と改名してそのまま都にしたそうです。二代目の李世民(太宗)は、隋が二つに分裂させてた突厥の内東突厥を殺し、その次の高宗は西突厥を服属させたり新羅と共に百済と高句麗をぶち殺したりしました。唐の内政は、李世民の時に律令格式の整備から始まって、中書・門下・尚書の三省、行政の六部、監査役の御史台などがありました。征服地では、自治を認めつつ、都護府による羈縻政策を行ったらしいです。唐の都長安はめちゃくちゃ国際性が高まり、仏教や景教(ネストリウス派)、祆教(ゾロアスター教)、マニ教など宗教も様々で、ソグド人やムスリム商人も活躍したそうです。東アジアには、唐を中心とした東アジア文化圏が形成され、ソンツェン=ガンポの吐蕃やウイグル、南詔、高句麗の後釜渤海、朝鮮半島を支配し骨品制を基盤とした新羅、天平文化を開いた日本などが唐の影響を受けました。この時期には、李白や杜甫、白居易などの詩人の活躍もありました。
で、さっきの北周の楊堅(文帝)が、当時の南朝だった陳を滅ぼし、久々に中国を統一して隋を建設しました。科挙を開始したり、均田制や祖調庸制、府兵制をやりました。二代目の煬帝は大運河を建設したりと頑張りましたが、高句麗の遠征に失敗したため反乱が起き、その中で李淵(高祖)という人が唐を打ち立てました。隋の都だった大興城を長安と改名してそのまま都にしたそうです。二代目の李世民(太宗)は、隋が二つに分裂させてた突厥の内東突厥を殺し、その次の高宗は西突厥を服属させたり新羅と共に百済と高句麗をぶち殺したりしました。唐の内政は、李世民の時に律令格式の整備から始まって、中書・門下・尚書の三省、行政の六部、監査役の御史台などがありました。征服地では、自治を認めつつ、都護府による羈縻政策を行ったらしいです。唐の都長安はめちゃくちゃ国際性が高まり、仏教や景教(ネストリウス派)、祆教(ゾロアスター教)、マニ教など宗教も様々で、ソグド人やムスリム商人も活躍したそうです。東アジアには、唐を中心とした東アジア文化圏が形成され、ソンツェン=ガンポの吐蕃やウイグル、南詔、高句麗の後釜渤海、朝鮮半島を支配し骨品制を基盤とした新羅、天平文化を開いた日本などが唐の影響を受けました。この時期には、李白や杜甫、白居易などの詩人の活躍もありました。


貧富の差が馬鹿みたいに拡大していたので、均田制・租調庸制・府兵制はぶち壊れました。高宗の死後、その皇后だった則天武后がなんかいきなり皇帝となり、国号を周にしたり科挙官僚を推したりしたので、政治の中心は貴族から科挙官僚へ移りました。その後現れた玄宗は、律令制の再建を図って、府兵制をやめて募兵制を採用し、辺境の指揮官である節度使に大きい権限を与えました。しかしそのせいで反逆され、安史の乱が起きたりしました。これはウイグルの援軍のおかげで鎮圧できましたが、節度使は藩鎮となって勝手なことをしまくりました。さらに、最小の楊炎は租調庸制をやめて両税法を定め、頑張りました。しかし結局、塩の密売人である黄巣が黄巣の乱を起こし、ついでに節度使の朱全忠というやつが唐の帝位を盗んで開封を都に後梁を建てたので、唐は滅亡しました。ここからは五代十国の時代が始まり、節度使が次々に国を建てる中で、貴族は荘園を失って没落し、新興地主層がウハウハでした。
貧富の差が馬鹿みたいに拡大していったので、均田制・租調庸制・府兵制はぶち壊れました。高宗の死後、その皇后だった則天武后がなんかいきなり皇帝となり、国号を周にしたり科挙官僚を推したりしたので、政治の中心は貴族から科挙官僚へ移りました。その後現れた玄宗は、律令制の再建を図って、府兵制をやめて募兵制を採用し、辺境の指揮官である節度使に大きい権限を与えました。しかしそのせいで反逆され、安史の乱が起きたりしました。これはウイグルの援軍のおかげで鎮圧できましたが、節度使は藩鎮となって勝手なことをしまくりました。さらに、宰相の楊炎は租調庸制をやめて両税法を定め、頑張りました。しかし結局、塩の密売人である黄巣が黄巣の乱を起こし、ついでに節度使の朱全忠というやつが唐の帝位を盗んで開封を都に後梁を建てたので、唐は滅亡しました。ここからは五代十国の時代が始まり、節度使が次々に国を建てる中で、貴族は荘園を失って没落し、新興地主層がウハウハでした。
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